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練習曲を一番上手に弾けたら、それでピアニストになれるというわけではないのだということに、発表会に出ている少年少女はいつ気付くのだろう。ソリスト以外に、ピアノ教師という地味な職業があるということに、彼らはいつ価値を見いだすのだろう。 まぁなんでもいいんですけれども。 気分の波が激しく、起業してやるぜと息巻いてビジネス古書を買ってしまう瞬間と、首を吊ってやるぜと息巻いてネクタイを鞄に詰めてしまう瞬間が数十時間ごとに交換していて、これは一体なんという病名が付くのだろうと呆れた感じで自省している。 本屋には大量の本が並んでいて、手に取ってみるとどれもそれなりに面白そうだ。ネットには大量のブログが並んでいて、眺めてみるとどれもそれなりに面白そうだ。売れるか売れないか、アクセスされるかされないかは、内容の良し悪しと必ずしもリンクしない何かによって左右されていて、なんだかもったいない感じがする。 生産性はあらゆる分野で向上しており、人間はその動物的な生産能力の数万倍の物資や情報を発信しており、その生産性を更に向上させることのできる優秀な人間以外は必要がなくなってきている。もはや人間は消費者としての能力、つまり消費性の向上を求められる有様となっている。職業人として大統領のように働き、生活人として王のように消費しなければならなくなっている。機械に頼って生産性の向上を続けてきたのだから、もうぼちぼち消費する機械でも発明したら売れるんじゃないだろうかという気がしてくる。 ぼくたちが書く、それなりに面白いんだけど人間に売って商売になるほどのものでもない駄文を、ネット上の膨大なプロセッサたちがせっせと評価してくれて、ひとつひとつは少額だけどものすごい勢いで買い取ってくれて、ぼくたちにカネを落としてくれる。そういう機械たちを相手に平凡な人間は商売をしてカネをかせぎ、近所のスーパーで機械が作った食品を買う。そういう社会にしようぜ。 機械さんたちは働き者なんだから、それくらいぼくたちに利益を還元してくれたっていいじゃないか。あんたたち優秀だから、日本語の駄文を英語だのポルトガル語だのシンハラ語だのに翻訳して転売してくれたっていいんだぜ。それで、0.1セントでも0.1センターボでも10パイサでもいいから口座に入れてくれよ。 今の日本社会に足りないのは、労働者より消費者だ。だったら作っちゃおうよ、自動消費者を。ぼくたちの生産意欲を慰めてくれる、消費効率の高い自動消費機械を。たとえば、サンシャイン牧場に日銀砲を打ち込んで、あそこで実収入が得られるようにするんだ。そうすりゃ少しは消費が回復するってもんだろう。ケインズ?ケチャップ?なにそれ、知らないなぁ。 Tags:妄想
育児支援施設で子供と遊んでいると、書棚にそういうふうに読めるタイトルの本があった。若者向けらしいが、立ち読みしてみるとルビが少なく、おそらく彼らには非常に読みにくい書物になっているだろう。内容はどんなものなのか知らない。 EUにトルコ共和国が加盟したいと手を上げたとき、もしそれが実現した場合ヨーロッパとはなんなのだ、というアイデンティティに関わるゆらぎがヨーロッパ人たちの心に去来したというけれども、本当なんだろうか。黄禍という言葉があって、この禍いたる黄色い者たちとは、実は漢人ではなくトルコやモンゴルといった騎馬民族を指している。彼らは当の漢民族にも恐れられていて、天高く馬肥ゆる秋というと、栄養をつけた駿馬に乗った騎馬民たちがそろそろ農耕民である漢民族の収穫を狙って攻めこんでくるかもしれないという、面倒な気分を述べた言葉がその語源にあるらしい。 生物学的にコーカソイドというとイラン人やインドのハイカーストあたりまでを含むらしいのだけれども、いわゆる白人たちの中で一番黄禍をこうむったのはやはりスラブ系民族、特にルス(ロシア)人だろう。歴史の教科書で「タタールのくびき」という言葉を習ったが、このタタール人というのも、民族の切り分けが流動的で難しい、シベリアの草原からやってくる「黄色い」騎馬民族を指していたらしい。「くびき」とは「軛」とも書くが、意味としては「頸木」で、征服者が被征服者を拘束、連行する際に首や手首を固定するために使った道具を指すという。 タタールにしてもトルコにしても、それはヨーロッパに最近接するアジアの象徴であり、アメリカはともかくヨーロッパから眺めれば、トルキスタンのあたりからやってきて小アジアに今も陣取るトルコ民族は、アジアとしての印象の方が遥かに強いのだろう。もちろんギリシア文明の母体になったアナトリア地方には今も遺伝的にはギリシア人の血を引く人々が多く住んでいるから、そういう人々を受け入れるのだという意識はあるかもしれないにしても、やはり真っ先にイメージするのはドイツ語圏の都市に暮らすトルコ系移民の姿だろう。 2000年ぶりにカナンの地を回復したユダヤ人もずいぶんと突飛なことをしたように思えるが、知識と知恵を何よりも重視するユダヤ人の文化では、自民族の歴史を学ばないということはありえない。となると、私たちが桃太郎の話を聞くのと同じような感覚で、祖先がペリシテ人と戦った話であるとかローマ人に神殿を破壊されたという話を学んでいる。歴史上の神話というのは、語り継がれる年月が長い分だけ、純化された物語になって人間の行動規範の基礎になったりする。そう考えると、20世紀のユダヤ人が約束の地を奪還した気分も想像できないことはないだけに、厄介な気分になる。 日本の「大東亜戦争」先史を学んだ人が急激に先鋭化して排他的になったりしているが、私たちが戦後の「統治」に抱く感情よりも更に純化された感情を伴う歴史を、祖国を喪失したり分断されたりした民族は当然持っているだろうし、四大文明のうち唯一現代まで直系がたどれる漢民族としては、その中華思想を穢した周辺諸民族について、やはり純化されやすい感情を伴った歴史認識を学んでいることだろう。 「分割し、征服せよ」という程度のことは、ラテン語でも漢語でも似たような戦略が述べられている古典がある。米ソ二極が米中二極に移り変わりつつある状況で、合衆国と仲良くするのも人民共和国と仲良くするのもよろしいが、どちらにしても大国が望まないのは、ASEANやイスラム圏が日韓台あたりを軸に独自のまとまりを作ってしまうようなことだろう。日韓や日朝が対立するのは、東西どちらの大国も喜ぶ展開だということくらいは気がついてもいいような気がする。 国家、民族でさえそういう具合なのだから、家族の歴史をある程度知っている人間は、ルサンチマンというような、論理を超えた水準で何かと判断をすることが多いだろう。一族にかけられた軛は、そう簡単に外れることはなく、末裔たちに繰り返して引き継がれていく。その中で風化していくものもあれば、再発見によってかえって単純化、先鋭化してしまうものもある。個人の精神の輪廻は信じないが、こういう親族への想いが継代して繰り返していくことを、あるいは輪廻と呼んでもいいような気がしている。 そういう想いが、純粋なものも恣意的なものも含めて、内発的なものも外来的なものも含めて、ブロードキャストされるものもネットワークされるものも含めて、この国土を舞台にして飛び交っているように見える。個人の薄弱な意志は無力に流されてしまうことも多いのだけれども、ときどき目眩のような気分を覚えるときがあって、そういう想いの渦巻模様に気付くことがある。 ノストラダムスと同じで、詩的に書いてしまうと多くのことが台無しになってしまうのだけれども、それでも守るべきものはあって、詩的にならざるを得ない場面というのもある。顕教と密教のすれすれのところに少しずつ触れながら、そういうものを感じつつある。 軛は天災に似て、忘れた頃にやってくる。来年あたり、大陸から日本に再び金印が送られてくるかもしれない。「友愛」の証しとして。 Tags:雑感
安敦誌 : 愛しのクサンティッペ ここで、「ソクラテスの妻」を書いた佐藤愛子さんを「女流作家」と書いたが、佐藤さん自身がもっと味のある言葉を使っていた。図書館で借りてきた古びた本には掲題作の他に2編の短編が併載されていて、その中に、作中の三姉妹のひとりが語る「閨秀作家」という言葉があった。辞書を引いてみると、学問に秀でた女性を閨秀と呼ぶらしい。なるほど、そういう言葉もあったのか。 もう作家自身の性別が女性だからといって特別に女流作家などと呼ぶ時代ではなくなったが、昨年12月号の文藝春秋には「女性作家短編を読む」と題して小川洋子さんの作品が掲載されていた。文春の読者層というと企業経営者の多い60歳前後をターゲットとしているようだが、その世代ではまぁ「女流」が「女性」に一般化される程度の遠慮はあっても、やはりまだ昭和の文化を残しているようだ。 新宿の大手書店に並ぶ新刊本を見ても、女性作家は珍しいものではなく、むしろ多数派になってきている。小説やエッセイほど優勢ではないが、学術書もドキュメンタリーも書く。著者が女性であることを特筆するほどのことではなくなっている。目で見る絵画と耳で聞く音楽はあくまで別のものだが、かといってどちらが甲でどちらが乙ということはない。そういう具合に、文芸に限らず多くの職業領域に女性は進出し、そして世代によってその位置付けというか労働女性の色合いは微妙な勾配を描いている。 閨秀の「閨」の字は閨閥などという単語にも使われていて、女性やその集団を意味する文字なのだけれども、漢和辞典によると寝室(ねや)という原義を持つらしい。門構えを持つことから単に睡眠をとる部屋としての寝室ではなく、文字が誕生してしばらくの間それを独占していたような高貴な人々が屋敷に設えていた後宮のようなものを指していたらしい。そういうところから秀でて現れた女性を指す閨秀という言葉には、多分に「女だてらに」というような気配を感じる。 閨秀から女流、女流から女性になって、ついには特に言及されることもなく優れた女性が世に溢れ出て、優れていない男たちはオヨヨ、オヨヨと狼狽する。が、昔のほうが良かったとするのは恐らく誤りで、世の中は確実に良い方向に向かっているのだろう。というよりも、機械的な生産能力まで含めた社会全体の状況に対して、着実に適応していっていると言った方がいいかもしれない。善し悪しということではなく。 とはいいながら、文化が変化していく過程で三日月湖のような地形に封じ込められた男たち、あるいは女性たちは、変化に苦情を述べながらもそれなりに生き続けている。専業主婦の母に育てられて身の回りの世話のできない男たちであるとか、高給取りの父に育てられて倹約を知らない女たちであるとか、そういう「残党」が生息している世代がある。ただ近い将来絶滅するにしても当面は同類も少なくないわけで、まずまず楽しくやっていきましょうか。 Tags:雑感
先日、所用で出かけた新宿の書店で、平積みの本を一冊購入。 模範解答は、ない。ただ、どの家族も、潜在的か顕在的かは別として、問題は抱えている。そういうものを並べて見てみると、そこに通じている問題の根のようなものは見えてくる。根は見えるのだけれども、竹の根のように入り組んでいて、そう簡単に解決できそうにもない。 他に、面白そうな本が多数。経済的にも場所的にも諸問題あり、購入は差し控えた。メモを残しておこう。 写真集。内容は帯のあおりほど下品ではなく、まぁ見ようによっては下品ではあるけれども、大航海時代末期の博物学的な要項スケッチ集に似た面白さと美しさを併せ持った写真集。笑ってもいいけれども、それを言ってしまえば東京の街なども冷静になってみれば相当に笑える風景を含んでいると思う。 「日本仏教史」の末木さんの著作。複雑に入り組んだ大乗仏典のトピックを通じて、その複雑さについて伝えてくれるような内容に(立ち読みの範囲内では)読めた。ハードカバーなので体積的に自宅には置きにくい。図書館で借りて読むか、新品を買って印税を払い、読後に売るか。 内容は別として、あとがきに注目。「朝倉版『男たちへ』です」という旨のことが書かれている。元ネタはというと、塩野姐さんの書いた「男たちへ」。 この本は手許にあるのだが、「フツウでない男をフツウにするための」本というのはないものだろうか。フツウでないと、なにかと不便でいけない。遺伝子組み換えでもしない限りは無理なものなのかもしれない。このフツウでない遺伝子はどうやらムスメが一番色濃く受け継いでいて、先が心配される。 Tags:散財
マッハ数というのは、流体の流速を流体中の音速で割った無次元数。 マッハ数 - Wikipedia つまり、マッハ数というのは固定的な速度値ではなくて、その場の流体の温度であるとか密度であるとか、そういう流体の条件によって変動する。逆に考えると、例えば大気よりもめちゃくちゃ音速が遅い流体があったりした場合、そこにパンチを繰り込むとスーパーソニック(超音速)パンチが打てるのか、なんてことを考えていた。 で、「音速 遅い」なんてあたりを検索していると、けっこう多数のページがヒットして驚く。なんだ、ということで調べてみると、とあるギャルゲーでそういうセリフが出てくるのだそうだ。詳細はわからないが、会話のレスポンスが遅いとか、そんなような意味らしい。 会話に音速があるとして、マッハ数は1を超えることができるのだろうか。友人の持っている音声読み上げソフトが電子的文書を読み上げるときの発話が、人間離れした滑舌の良さでもって結構な高速で読み上げていたのに驚いたことがある。まあ視覚的に文章を読むときの「流速」に比べると、そうおかしくない速度でもあった。 そういう技術を駆使して、喉と舌を使って発話するという生理的制約を解除し、中枢神経系のレスポンス能力の限界のみに依存した速度で会話を繰り返すという近未来SF的な状況において、機器の取扱について充分な経験を積んだ人間が一対一で会話するとき、果たしてどれくらいの会話速度が得られるのだろうか。 すでに、筆記具を用いた手書き文字よりキータイプによる入力の方が早い人は多いと思うし、かな漢字変換などは除外してキーボードからのローマ字入力速度だけで見ると音声会話の速度を超過しているような人もいくらかいるだろう。そういう場合、多少の打ち間違いは辞書が吸収して音声発話してやれば、発話の限界速度は相当高くなるに違いない。ジャズピアニストが即興演奏する指さばきなどを見ると、その点に疑いはない。 受話速度の方も訓練によって相当上げることができるだろう。読み上げ装置の音声はすでにその傾向を示しているし、英会話の聞取りやアマチュア無線の免許試験でモールス信号の受信練習をした経験から考えても、機械音声の聞取りに慣れない人と慣れた人、さらに特別に習熟した専門家との受話速度を考えると、その比はかなり大きなものになるような気がしてならない。スラングやQ符号のような符丁の使用を認めた場合には、その差はより拡大するに違いない。 様々な技術や訓練を経ると、最終的には通信路のS/N比で決まる通信容量という理論限界が見えてくる。意識レベルで思い浮かんだことが、思い浮かんだそのままの速度で他者と会話できるとする。理論限界に近い発話能力を持った話者が発した「言語」が、一般人レベルのまどろっこしい受話者に向けられたとき、そこで「超音速」現象が発生するだろう。 発話のマッハ数が1を超えると何が起こるかということについては、私たちはよく知っている。つまり、早口言葉の速度を上げていくと、ある時点で「舌が回らない」という現象が発生する。脳からの発話命令を咽頭口腔が処理しきれなくなり、「衝撃波」が発生して言葉が乱れる。 これが受話サイドになるとどういう感じなのだろう。耳という装置自体は相当能力が高いし、訓練によってあまり性能が上がるとも思えない。どちらかというと言語野の復号化回路のほうが律速になっているだろうから、「言語」が単なる「音」になってしまい、意味を聞き取れなくなる。 ただ、マッハ数が1前後の状態でどんな現象が起こるのか、ということには興味が引かれる。発話速度が「音速」付近になると、「言い間違い」とか「舌を噛む」ということになる。受話速度が亜音速の場合は、「聞き漏らし」とか「聞き違い」というようになるだろう。だが、大きく破綻していなければ、冗長性を持った自然言語で会話しているうちは、多少の誤解の危険性をはらみながらも、会話は続行できる。 機械発話の「声質が一定」で「滑舌が超いい」という特徴を持つ音声を、若い頃から繰り返し聴いて訓練した受話者がいるとする。その人が限界速度付近で受話し続けた場合、言語野よりもバックエンド側にある統合関係の部位の処理速度が律速になってくるかもしれない。そういう状況で受話速度が「音速」に達すると、意味の統合レベルで「処理落ち」が発生してくる。そういう場合、やはり一時的にしても「統合失調」的な、トランス状態のような精神状態に陥るのだろうか。 ネットなどで雑多な文字情報を意味統合の限界能力に近い速度で摂取するとき、摂取情報が一部崩れて統合された妄想状態が発生するなどということは、日常茶飯事とまでは言わないまでも、個人的には過去に繰り返し経験してきたことでもある。こういう現象が、前頭前野の処理が入力に負けて「衝撃波」を発生しているという事なのかもしれない。 普通の精神はこの衝撃波に負けて、それを壁として正常側にフォールダウンされるわけだが、中には特別強靭な思考力で「超音速」状態に深く突入する「統合失調」タイプの人や、あるいは大脳辺縁系を突破して延髄の方にまで衝撃波が到達し、身体症状を発生する「てんかん」タイプの人もあるのかもしれない。ニーチェなどはひょっとすると亜音速で巡航し続けていたのかもしれない。 音速の他に粘度というアナロジーを持ち込んで、レイノルズ数が関与してきて乱流が発生すると話題が錯綜する「ADHD」タイプであるとか、いろいろ論を重ねたいところではあるが、ネットで拾った比喩に乗っかってここまで変な論を進めてしまうのも恐らく「亜音速飛行」の一種であって、今日のところは「妄想」タグを打ってこの項を終わりとしたい。 Tags:妄想
寄席を訪れると言いつつ、まだ実行していない。ミニカーにランプを付けると言ってまだ付けていない。ライフゲームのプログラムを書くと言って、まだ書いていない。Vistaの再インストールをすると言って、まだしていない。最後のは必要が無くなったからなのだけれども。有言不実行、ダメ人間の面目躍如というかなんというか。 落語は聞いていないが、代わりに音楽を聴いている。チャイコフスキーの弦楽セレナードを適当に聴きながら掃除機をかけてみたりすると威勢が良くていい。一息つくと、ここらでまたドヴォルザークを聴いておきたくなる。 ドヴォルザークの音楽は、日本の演奏家はともかく聴衆には愛された作曲家で、有名な作品も多い。「ユーモレスク」というとオムニバスの名曲集などには頻繁に入る曲だけれど、実は「8つのユーモレスク」Op.101という作品の第7曲だというのを知ったのは、ずいぶんと前だった。ドヴォルザークの愛好家としては、残りの7曲が是非とも気になるところなのだけれども、その演奏というものになかなかお目にかかれない。第7番だけが絶品で、あとは駄作なんだろうかと怖い思いもあって、深追いはしていなかった。 最近ではネット上の情報も増えてきたことだし、そろそろ何か手に入るかもしれないと思い、久しぶりに検索してみた。すると、まず没後100年以上を経たアントニーン・ドヴォルザーク、その作品の演奏はともかく、楽曲自体は著作権が失効している。ということで、フリーの楽譜がネット上に公開されているということがわかった。そこに「8つのユーモレスク」の全曲スコアが登録されていた。 8 Humoresques, Op.101 (Dvořák, Antonín) - IMSLP/ペトルッチ楽譜ライブラリー: パブリックドメインの無料楽譜 しかし、ピアノ楽譜だけ提示されても、それがどんな曲なのか私にはさっぱりわからない。もう少し探してみると、ヤマハから楽譜データが販売されていて、そこでMIDI音源の試聴ができた。 8つのユーモレスク Op.101 (ドヴォルジャーク) - [ピアノレパートリーガイド] ここで第7曲以外の曲を試聴してみると、どの曲もいかにもアメリカ期のドヴォルザークらしい個性と魅力に溢れる曲ばかりで、なんでこれらの曲が埋れたままなのかと惜しい思いがする。試しにYouTubeを検索してみると、アンコール曲と思われる第1曲の演奏が見つかった。 プロの演奏を聴いてみると、確かに素晴らしい。 クラシック音楽の博物館レーベル、NAXOSに一応CDがあるらしいのだけれども、ディスクだと在庫はないらしい。 Amazon.co.jp: ドヴォルザーク:ユモレスク Op. 101/影絵 Op. 8: ヴェセルカ: クラシック(現在お取り扱いできません) ミュージック・ライブラリのほうには音源があるのだけれど、月額制なので躊躇する。ディスクをゆっくり探してみるか。
どうもいけませんな。 そんな私を尻目に株価がメキメキ上昇している。 メモリの消費量が2GBを超えっぱなし。たいしてアプリ起動してないのに。4GB積んどいてよかった。 ムスメが布団に足を突っ込んでくるのでこんな時間に目が覚めた。自分の布団で寝ろと。(愛) こんなオヤジに誰がした。俺がした。自己責任。 四十歳になると、自分の顔に責任を持たないといけないらしい。それは断る。断じて。 正月は銭洗弁天で初詣をしてきました。ゼニ洗ってきました。 福澤先生に顔を洗って出直してもらいました。最近働きが悪いですよ、先生。 「おん そらそば ていえい そわか」と百遍唱えてきました。変な目で見るなよと。 今日はモルモン教宣教師のお兄さん達になぜか呼び止められて、ちょっとお話してきました。 「ナイスガイですね」と言われました。握手されました。本当に虹彩が青かった。 うちは真言宗ですけど、仲良くやりましょう。 根暗大好きネクラフィリア。 Tags:雑談
私は団塊ジュニアの最上級生世代であるが、個人的には中年にどっぷりと浸かっている感覚でいるので、「中年未満」という気はしない。けれども、三十代もまだ前半の人たちであるとか、私と同年代、あるいは私より年上であっても、気分は中年未満という人は少なくないに違いない。 「友達以上、恋人未満」であれば、ロマンスの一番美味しいところであって素敵に違いないが、これが加齢現象ともなると、その一般性に対してもはや悲劇性に似た響きを持ってくるのではないかという気がしている。私はいわゆる団塊ジュニア世代に属する年齢であるからこのような表題を持ってきたが、「中年以上、老人未満」というところで似たような逡巡をしている世代も少なくないに違いない。そういう世代にはすでに「熟年」という語が公募によって設定されているのだが、あまりこの語を積極的に受け入れている人というのも少ないようだ。例外的に「熟女」という言葉はよく見掛けるのだが、さてそれが熟年を女性に限定したものかというと、そうでもないような気がしないでもない。 中年というのは、言い様によっては壮年とも言える。壮年というと現代では五十代あたりを指すことが多いが、本来的には人生の中で一番脂の乗り切った年代、ギリシア語でいうならacmeであるから、四十歳前後の年代を指すのが正しいのだろうと思われる。脳の活性においても青年にそうそう劣ることはなく、経験においても熟年にそうそう劣ることはないこの年代が、本来世界の中軸となって歴史を動かしていくべきなのに違いない。 であるが、長く安定の時代を続けていくと、若さゆえの機動力よりも経験に基づく老獪さの方が尊ばれる場面というのが多く、結果として壮年は老年の一歩手前にまで登りつめていく。そういう状況に現代もある。あるのだがしかし、そういう時代の終りがすでに霞の向こうに透けて見えていて、その先をどうするんだという決断の気配は、我々頼りない中年未満の世代に向けてずっしりと迫り来ている。 個人的な話になるが、私はこれまで単純に年齢を重ねてきて白髪なども増えており、正月に半年ぶりに会った義妹には白髪が目立つようになったと言われたが、それでも組織の最小単位を統括するリーダー業務に就いたことは一度たりとも無いままこの歳になってしまった。子供は三人も生まれたが、長の付く役職に就いたのはどれも学生時代のことばかりで、社会に出てからは万年ヒラの道を歩いてきた。 そういう我々が、いよいよ先代の残した課題に直面するこの先二十年、さてどうしたものか。もちろん、我らが同期には素晴らしい経歴を引っ下げ、リーダー役はおろか社長職さえ果たしたツワモノがゴロゴロとしているのだから、心配に及ぶには当たらないという気がしないでもない。だがしかし、そのリーダーたちの決断の手となり足となって実地に走るのは、結局頼りない我々中年世代なのであって、失われた二十年が即ち人生の基礎を築く時期だったという冷徹な若い世代の上に立って、果たして私たち、いや、私は何が出来るのだろうか。 芥川は毒をあおった。太宰は女と上水に入水した。バカヤロウ。死んで名の残る奴はいいが、ウチに残るのは厄介な遺伝子を受け継いでしまったムスメひとりとムスコふたりだけだ。私は未だ名も財も残していない。学は多少あるが、この時代のこの世界に必要とされる人間であるという気がしない。どうしたらいい。どうしたらいい。一体どうしたらいい。 今は酒が入っている。酔っている。果たしてタイピングは正常に行えているだろうか。校正は正常に行えているだろうか。噪状態よりは酩酊状態の方がまだ確度は高いのかもしれない。酒は未婚の時代に旅した高千穂の、地場の焼酎が近所で売っている。値段も手頃で愛飲しているが、最近はストレートで飲むことがあったりして、どうなのだろうと思わないでもない。それにしても旨い酒だ。 麦焼酎 長期貯蔵 くろうま 来年の正月も、まだ下らないことを言いつつムスコの誕生日を祝いたい。まだ生きていたい。まだ生きていたい。早春には近所の公園に植えられた河津桜の花が咲くだろう。河津の春は早い。あと、ほんの少しだ。 Tags:雑感
いやはや。タイトルはあんまり関係ありません。 -- 芸術というのはある程度まで、作り手と受け手、あるいは買い手と言ってもいいけれども、生産する側と消費する側の間に共通したルールが存在する必要がある。たいてい最初はありふれた日用品や娯楽の品質に関する緩いルールであったものが、偶然の積み重ねであったり変人の偏執であったり、そういうものが時間の経過とともに積もりに積もって、最終的には針をも通さないような複雑なアレやコレやの決め事になってしまったものが、高度な芸術になる。 そういう、高度な芸術に含まれる高度な「お約束」とは、客観的な視点、つまりそうした高度なルールを理解しない視点から見ると、一般に滑稽に映る。京劇のメイクアップと頭のてっぺんから出るような声であるとか、歌舞伎の見栄切りやそれに応えて役者の屋号を叫ぶ観衆であるとか、そういう慣習というものは、ほとんどが冷静になってみれば馬鹿らしいようなものばかりである。 しかしだからといって、そういう客観的に無意味な決まりごとに縛られた芸術が馬鹿げているのかというと、決してそういうことはない。そうした予定調和が高度に調和したとき、人の心には得も言われぬ昂揚感が起こる。この感情こそが芸術の正体なのであって、約束事というのはそのための道具立てに過ぎない。しかし高度な道具ほど完璧に扱うことは難しく、そこに人間は芸術を見る。 だから、芸術を扱う人々はふたつのことに気を付けなければならない。ひとつは、ある芸術がどんなに高度な美を表していると感じられても、その芸術が内包するルールを理解しない視点から見れば、それは極めて滑稽なものでしかなくなるということを忘れないこと。もうひとつは、周囲から冷ややかな評価を与えられていても、自らの感覚が美しいと訴えかける芸術には、必ずなんらかのルールに支配された本物の美が潜んでいるのだから、周囲の評価に過大に影響されないこと。 そんなことを、夜郎自大にならずに自己暗示するということは、果たして可能だろうか。芸術家や職人の煩悶のうちのいくらかは、このような問題によるものなのではないかという気もする。 Tags:雑感
そういう検索キーワードでここへたどり着いた人があった。おそらく、洋菓子メーカー「モロゾフ」の公式サイトが改竄されてトロイの木馬が仕掛けられていた件を探していたのだろうけれども、おそらくヒットしてしまったウチの記事はこれ。 安敦誌 : 勇者と甘味 最近はgoogle先生の検索精度が高止まりして、こういう誤爆の機会が減ってきたので、当方としては若干寂しい思いがあるが、まぁこれが正しい姿なのだろう。
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