安敦誌


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by antonin
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婦人画報創刊号

dマガジンという、スマホで雑誌の立ち読みのようなことができるサービスがある。飽きたら解約しようと思っていて、実際に飽き始めてはいるのだが、先日から各誌の創刊号抜粋が読めるイベントが始まっていて面白い。大体は1980年前後の時代に集中しているのだが、エコノミスト創刊が大正12年だったり、ダイヤモンド創刊が大正2年だったりして驚いている。この頃も第一次世界大戦の前後で国内の景気が良かった頃だと言われる。経済誌の論調はあまり今と変わりがなく、景気と損得の話でほとんどを占める。教育と経済は理論の最終的な帰結を見るのに数十年を要するので、どうも人間には扱いにくい学問なのだろう。

面白いのが婦人画報で、明治38年7月1日発行とある。日露戦争終結後の時期で、この時代もまた景気が良かったのだろう。わずかな抜粋のみの雑誌もある中で、婦人画報の創刊号はカラーの表紙から裏表紙に至るまでガッツリ採録されている。表紙はミュシャっぽい画風のイラストで、まず広告がいくつか並び、目次があり、続いて絵画や写真がずらっと並んでいる。写真は身分の高い子女が通う女学校の様子などが多い。他に海外事情やその時代の絵画などが載っている。「英国婦人の水浴新工夫」というページでは、「白き半裸体の婦人」たち(といっても今の感覚からすれば水着を着ているだけ)がプールで遊んでいるが、説明によると「人工を以て波を立たしむ」とあって、波の出るプールが当時からあったらしいことに驚いた。

続いて「読物」のページに入ると、創刊の辞に続いて大隈重信伯爵と成瀬仁蔵日本女子大学校長の言葉が寄せられていて、なかなか興味深いことが書かれている。大隈公は、西洋の婦人が宗教やファッションのために苦労しているのに比べて「日本婦人はむしろ大いに自由であったと言わなければならぬ」と言っているし、成瀬校長は「男女の体質脳力等を比較して女子に高等教育を施すことの可否を論ずる人もあるが実験上もはや陳腐の議論となって居るのである」と言っている。こちらもあんまり今と変わらんなぁ、というよりも、むしろ後退しているんじゃないかという気さえする。

「静寛院宮 御手記抜書」は、徳川家茂夫人が幕末に実家の京都朝廷宛に送った書状の写しなど、日誌に残った記述から抜粋されている。明治も後半に入った婦人画報の記事自体は旧仮名遣いではあるものの一応口語体であり、仮名も字体統一後のもので、現代では滅びつつある振り仮名も全ての漢字に一字残らず振られているので、読むのに困ることはない。ただ、静寛院宮の手記は江戸末期のものなので、基本的に候文になっていて、なかなか読むのに骨が折れる。明治に入ってまだ40年と経たない当時は、読者の方もそれほど苦労なく読めたのだろう。

原文は幕末のものだし、活字になって仮名も振られているので、毛筆の古文書などに比べれば断然読めるのだが、面白いことに「上申候(もうしあげそうろう)」じゃないかと思われる、3文字分の長さの筆書きに近い活字が使われている。それから、一切句読点がない。これも候文の特徴だろう。活字になった候文では「上申候」が巨大な句点にも見えて面白い。大隈公などの文章にはしっかりと句読点が打たれているが、それでも今なら句点を打って文を切るようなところでも読点で延々と続くような文章になっていて、逆に口語らしさがある。たとえば今書いているこの文章なども、口語からの距離という意味では、明治期よりも文語的になっているのかもしれない。

アルファベットでは2000年以上の昔にローマ人が端正なローマン体を石に刻んでいるから、筆記体からブロック体に主流が移ってもそれほど劇的な変化はなかったのだろうが、仮名というのは元の漢字と直接の関係は失われてしまったようなものなので、「活字体の仮名」というのは日本語に対してかなり大きな影響を与えたのだろう。まぁ、アルファベット圏でも「分かち書きによる単語の区切り」が、ある時代の発明ではあったと言うから、あんまり違いはないのかもしれない。

昭和の末期には正方形の活字を几帳面に並べた印刷物も多かったが、明治の頃はルビの関係などもあって、かなり字間は自由になっている。とはいっても日本語活字は基本的に正方形の断面を持っていたのだから、そこには植字工の職人芸があったのだろう。「御手記」のメインは全部統一字体の仮名なのだが、ルビの一部にはたまに旧字体が混ざり込んでいて、「ず」が今の「寸」に濁点ではなく「春」に濁点のものなどがあった。原文が昔のものなので、植字も校正もついついそれにつられてしまったのだろう。

それから、各ページには写真や図画が豊富に印刷されているのだが、その図がいちいち本文と関係ない。今のweb記事でも「写真は本文と関係ありません」というのがあるが、いわゆる「写真はイメージです」という、直接は関係ないが、全く関係なくもないというものが多い。けれども婦人画報の写真は、全くと言っていいほど関係がない。女子の体操というタイトルで「表情体操デルサート」というものが紹介されているのだが、そのような論説に混じって「露西亜の最年長者本年百十二歳」だとか「葡萄牙国の最年長者本年百十五歳」といった肖像が中央に大きく印刷されている。それ自体がかなりニュースバリューのある写真ではあるものの、本文には全く関係ない。読者に届けたい文章と写真が豊富にあって、でもページ数は限られていて、結果、そういうことになったのかもしれない。

古雑誌そのものは古書店や図書館などを漁ればまあ見られないこともなかったのだが、数万人が場所を限らず片手間に見られるというあたりはなかなか面白いことだと思う。素人が素手でベタベタとページを触って貴重な創刊号が劣化する恐れもない。ある種の展覧会になったようなものだろう。電子化された創刊号は、いずれ削除されるのか、あるいはまとめて有料で売られることになるのか、どうなるのだろう。

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# by antonin | 2017-07-07 01:36 | Trackback | Comments(0)

アキレスと亀

ADHD気質の双極Ⅱ型障害の私は、数年ぶりに軽躁期に入ったようだ。処方にSNRIを加えてSSRIを減らした作用かと思う。今は必要な処方だが、もう少ししたらセロトニン優位に変えてもらおう。

--

アキレス(アキレウス)と亀という有名なパラドックスがある。アキレスは、ホメロスの叙事詩に登場する、俊足で名高い英雄である。亀は、イソップの寓話に登場する、鈍足で名高い動物である。さて、アキレスの前方、いくらか距離の離れたところに亀がいて、アキレスから逃げる方向に亀が進んでいる。この亀を目指して、アキレスが俊足をうならし猛追する。ここで論理学者は考える。

アキレスは走り出して一定時間後、スタート時に亀がいた地点まで到達するだろう。しかしその時間で亀もアキレスほどではないが一定距離を進むことができるのだから、この時点ではまだ亀はアキレスの前方にいる。次いでアキレスはその亀の位置へ移動するが、そのときにはまた亀がいくらか前進している。以下同様に、この過程が無限に繰り返されることになる。この過程をどこまで続けてもアキレスは亀の位置に到達することができず、つまり俊足の英雄アキレスは鈍足の亀を抜き去ることができない。証明終わり。

高校生時代、おそらく高1の頃だったと思うが、受験勉強のために池袋の河合塾に通っていた。そこにはチューターという役割の大学生がいて、授業前に幾つかのアナウンスと、ちょっとおもしろい小話を挟んでいた。ある日の小話のテーマは、アキレスと亀だった。この話にどう説明を付けるかという問いに対して、私はただ 9/9 という分数をひとつ書いて提出した。次回の授業で、そのチューターがこの謎めいた答えは面白いので説明が聞きたいと言ったのだが、私は恥ずかしがって名乗り出なかった。

言葉にするのは面倒だったが、その時思ったのはこういうことだった。1/9というのは有理数である。1/9を小数表記すると、0.1111...という循環小数で表せる。その9倍は各桁が9倍されて0.9999...という循環小数になる。ところが、1/9の9倍は9/9である。約分すると1である。通常は1=9/9=0.9999...とされるわけだが、この2つの等号を両方認めるとすると、アキレスと亀のパラドックスはパラドックスではなく、アキレスは亀に追いつくことができる。

ただしこの場合、1の小数表現である1.0000...という暗黙の循環小数表現と、0.9999...という明示的な循環小数表現では、小数点以下のどの桁の数字も一致しないにも関わらず、その表現する数値は一致するということを認めなければならない。1.0000...表記の桁数は自明に無限だとして、0.9999...という表記は有限個の9を並べてひとつずつ増やすという過程を無限回繰り返したものである。有限回の繰り返しだと両者は一致しないことが明らかなので、「いくら続けても同じだ」という考えのもとでは、小数点以下に9を無限に書いた循環小数は1と一致しないということになる。

なので、1=9/9か9/9=0.9999...のどちらかの等式が否定されることになる。これを否定できないとすると、「いくら続けても同じだ」というそもそもの論理が否定されることになる。たかだか有限回ならいくら9を並べても1には一致しないが、無限回繰り返せば1に等しくなるように、無限を特別扱いする必要がある。この特別扱いを認めるならアキレスと亀の話はパラドックスではないし、認めないようなら反証として正しい。要は定義と解釈の問題なのだろうと思ったが、うまく説明できず、9/9とだけ書いた。

ただ、古典的な数学では、有限回の過程と同じことを果てしなく繰り返せるという、数の性質が変わるような上限がないという状況が無限と呼ばれるだけだから、数としての無限というのは便宜的な状態であって、有限の数と論理的に区別されるものであってはならない。そういう意味では、1/9や1/3のように10進表現で循環小数が必要となる有理数は、そもそも小数表現不能であると見るのが正しいように思う。

アキレスと亀が物理学の問題であれば、「そうは言っても実測上、足の早い人が足の遅い亀を追い抜くことはしばしば観測される。したがって、無限小の距離を無限小の時間で通過できるようなアキレスと亀の問題の場合は、有限の時間で追い越すことが可能であるような数理体系を採用しよう」ということで簡単に結論が出せる。ただ、純粋数学でなら、もう少し議論の余地がある。別にアキレスが亀を追い抜くことができない数理体系になっても知ったこっちゃないのが現代数学なのだ。それ自体が無矛盾な系になるなら、それはそれで興味深い数理体系として数学的議論の対象となる。

物理学であれば観測現象を無理なく説明するという要請から1=9/9=0.9999...を認めることになるわけだが、数学的立場から、とりあえず9/9≠0.9999...を導入して、循環小数を有理数の表現として認めないことにしよう。9/10は1と異なる。99/100は1とは異なる。999/1000は1とは異なる。このように、分子を10倍して9を足し、分母を10倍して次の有理数を得る。細かい話は省略するが、数学的帰納法により、この過程を無限回繰り返しても1にはならない。1にいくらでも近づくことができるが、無限回の過程を繰り返したところで決して1にはならないのだ。証明を省いたのでナンだが、これが定理になる。

つまり、有理数には10進法で小数表現可能なものと小数表現不能なものがある。循環小数はあくまで近似表現である。1/10は10進法なら0.1だが、2進法では循環小数となり、上と同様の定理が成立し小数表現不能である。有理数は実数の部分集合であるから、実数にも小数表現不能であるものが存在する。そもそも、同じ考え方に立てば全ての無理数は小数表現不能になる。というのも、無限桁の自明でないn進小数は、分母がnを無限回掛け合わせた整数、分子も無限桁の整数であるような、ある有理数の別表現に過ぎない。だから、定義的にそれは無理数ではなく、無理数は小数表現できない。

カントールは「全ての実数を並べた列に自然数の番号を振る」という仮定が対角線論法により矛盾することで背理法により実数濃度が可算濃度より大きいことを示したが、上で述べた定理が成立する系ではそもそも全ての実数を小数表記可能とした仮定が偽であるから、対角線論法は無意味である。

実際、ZFC公理系では連続体濃度の考え方から導かれる連続体仮説が、真でも偽でもZFCの中にある定理に影響を与えない、「つまらない問題」であることが証明されている。カントール集合の考え方は面白かったが、連続体濃度の考え方はつまらないものだった。ただし、カントールによる連続体濃度の定義が不十分なだけであって、可算無限に達した状態を有限の状態と質的に区別するための何らかの定義が追加できれば、それは面白いものになるかもしれない。今はまだ連続体濃度はつまらない概念だが、それを面白い概念に転換するアイデアは、どこかに残されているのかもしれない。

さて、話をアキレスと亀に戻す。物理学の前提では、アキレスが亀を追い越せなくなるような数学では困るわけで、アキレスが難なく亀を追い越せるような細工を数学に対して施す必要がある。ひとつは、アキレスと亀の位置と時間を実数という連続量で表せるというニュートン力学で主流の前提を活かしながら、それでもアキレスが亀を追い越せるような細工を、自然界が持つべき物理法則を表す数学に対して施すことになる。

この場合、アキレスが亀に追いつくまでには最初に説明したように無限回のプロセスが発生するわけだが、その所要時間はどんどん短くなり、無限小に近づく。これにより、自然界は無限小時間のプロセスであれば無限回のプロセスを有限時間で終わらせることができるという性質が要請される。9/9=0.9999...みたいなものを数学に認めさせることになる。またこの性質により、亀に追いついたアキレスは、次に無限小時間のプロセスを無限回繰り返すことにより、「アキレスと亀の位置は等しい」という状態から「アキレスと亀の位置は等しくない」という状態へ脱出できるようになり、亀を抜き去ることができる。

解析学で頭を悩まされた、極限値というやつの正体がこれである。物理学においては、無限数列の和と、その先にある、本来は別のものであるはずの極限値が、無意識にすり替えられる。これは論理的に考えるとおかしなことなので、若い頭は悩まされることになるのであった。ここで哲学的な疑問を感じず当たり前と思えるような素直な思考の持ち主は古典物理学に親しむことができ、そういう人は逆に小学校で教える掛け算の順序に規則を設けたりされると理解できず激怒する。

現実世界を矛盾なく表せるようにするための細工としては、もう一つの方法がある。それは、量子力学的に、位置や時間に無限分割を認めず、それらが離散的な素量が有限個だけ積み上がった整数ないし有理数で表現されると考えるやり方だ。この場合、ある1単位時間の経過でアキレスが動くこともあれば亀が動くこともある。両者動くこともあれば、両者とも動かないこともある。

いかに神話に俊足名高い英雄アキレウスといえども、神ならぬ人間ゆえ光速に比べれば停止しているも同然の速度で走っているだろうから、単位時間にはせいぜい1単位距離を動くことがあるかどうかで、大半の瞬間は全く動かないということになるだろう。このモデルでのアキレスと亀の速さの違いは、1単位時間が経過する際に1単位距離を移動するという事象が発生する確率の大小で表現されることになる。

となれば、スタートから有限回の単位時間が経過したところで、アキレス(の体の中で一番前方にあるフェルミオン)は亀(の体の中で一番後方にあるフェルミオン)から1単位距離だけ後ろに位置することができる。次に、アキレス(の体の中で一番前方にあるフェルミオン)が1単位距離だけ進む事象が発生したとする。このとき、アキレスは亀に追いつき、またそれに要した時間は有限であり、またそこに含まれるプロセス(単位時間の経過回数)はたかだか有限回である。

同様に、アキレスが移動する確率は亀が移動する確率より高いので、十分大きい回数の単位時間が経過すると、アキレスの体全体が亀の体全体より前に移動する瞬間が訪れるだろう。そこまでに、十分に大きいとは言え、それでもたかだか有限回のプロセスしか必要としない。アキレスや亀の位置をその重心に置くとしたら、彼らの体を構成する粒子の位置の平均ということになるので距離素量より小さい刻みになるが、それにしても算術平均なら彼らの位置は有理数で表現できるだろう。

個人的には、ニュートン力学的に時間の無限分割での無矛盾を数学側に要請するやり方よりも、アキレスと亀のパラドックスを反証として認めて原子論的な立場から時間の無限分割を否定し、離散時間を物理の側に要請するほうが、考え方としては現代的で馴染みやすいように思う。運動量の正体がなんなのか、つまり粒子が単位時間あたりに位置移動する確率の内側にある「隠されたパラメータ」がなんなのかという謎は残るが、そこは4次元を超えるモデルなどの新しい数学の出番となるのだろう。

無理数というのは有理数と質的に違うものなのだが、たとえば円周率でもアークタンジェントのテイラー展開によって有理数列の和にできるので、無理数である円周率そのものは自然数と四則演算で求められないにしても、四則演算の繰り返しによっていくらでも円周率の真値に近づくことはできる。その無限に近づいた状態の値を、物理学者が考えるように円周率そのものとして認めてしまうような系では、有理数と無理数の区別は無意味なものになり、それはそれで面白い気がする。数学というのは窮屈な規則の集まりだが、反面、規則を定めるにあたっては至極自由なものなので、そこが面白い。

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# by antonin | 2017-05-02 15:44 | Trackback | Comments(0)

受想行識亦復如是

※ 読む人も少ないだろうから、人間の知能を五蘊に分解する考え方の説明は省く。

以前は、「いわゆる人工知能」の下層(「受」「想」のあたり)までをコネクショニズムで実現し、「行」については従来通りチューリングマシンが受け持ち、「識」は人間が専有するのが良いのではないかと思っていたが、最近はやはりコネクショニズムで五蘊の全域をカバーし、下層の一部に古典的なチューリングマシンを組み込むのが良いと思うようになってきた。

ヒントン先生は教師なし学習するネットワークを下位に組み込むことでバックプロパゲーションの限界(多層化が認識率向上に寄与しないという問題)を打破したけれども、そこで用いた、「より少ない内部情報で、より多くの入力情報を再現する」という基本戦略にはかなり汎用性があるのではないかという気がしている。

最近話題の「人工知能」が出来るようになったことというのは、「色」(センサー)から取得した生情報を単純にフィルタリングしてエッジ情報などの特徴要素を抽出する「受」(シグナルプロセッシング)と、そこから何が見えているかを判定する「想」(コグニション)までの部分で、特に「想」の部分が従来のディジタルプロセスが苦手としていた部分になる。

何があるかを認識できている状態(想)が外部から与えられた場合に、そこから次にどうすべきかを判断する「行」の部分を実行するのが、古典的なチューリングマシン上のプログラムだった。だが、FORTRANの昔から「自動プログラミング」の名のもとにいろいろの研究が行われてきたものの、チューリングマシンがプログラムを本当の意味で自動生成するには至っていない。

であれば、「いわゆる人工知能」に至るまでには、「行」のレベルもコネクショニズムによる自動学習をするしかないように思う。コネクショニズムによる行のレベルの実現に成功すれば、その延長上に「行」のコントロールを学習する「識」の実現も見えてくるし、場合によっては「識」のコントロールを学習する、超人的知能の実現も見えてくる。

自明な「色」のレベルや、さほど可能性の幅が広くない「受」のレベルでは、パーセプトロンやバックプロパゲーションの世代でも破綻しなかったくらいで特に大きな問題はないが、現在のディープラーニングが実現している「想」の水準の上に「行」の水準を乗せるには、ある程度新しい技術が必要になるだろう。そしてそれはおそらく、google翻訳が導入しているような「注意」の機能、つまり文脈を特定し保持する機能になるだろう。

上層(入出力から遠い層)は下層(入出力に近い層)から得られるパターンを認識し、統合的な「解釈」を得る。そして、その解釈パターンを文脈情報として下層にフィードバックすると、下層は一時的に解釈に沿う認識を優先させるようになる。入力が多義的にとらえられるような曖昧なものである場合、上層から与えられる文脈情報(解釈)によって認識率が上がるだろう。ただし、解釈が間違っていると「勘違い」の状態に陥る可能性が上がる。勘違いを避けるには、より広い周辺情報の認識が必要になる。

「この流れでは、この情報をこう解釈するのが当たり前」という感覚が人間の認識には付きものだが、上層が下層へ認識をフィードバックして情報の取捨選択を制御することで、カクテルパーティー効果のような認識率向上が望めるだろう。このことで人工知能はおそらく「より人間的」になるだろうが、また一方で、「より凡人的」になるだろう。

先日、ソフトウェアが将棋囲碁で名人をコテンパンにしたが、現在の将棋囲碁ソフトはおそらく、分厚い「想」と、薄っぺらい「行」があるだけで、「識」は全く無いはずだ。「想」というのは、とにかく対戦経験を積むうちに磨かれる、盤面状態に対する「直感」であり、統計的な「定石」の判断や、中盤での「大局観」もこの中に含まれる。眠る必要もなく疲れも知らないソフトウェアは、ソフトウェア同士の対戦も含め異常に多くの経験を積んでおり、「想」のレベルでの蓄積は超人的に分厚いはずだ。

一方の「行」はというと、「最終的に勝つ」という自明な目標に加え、「終盤は詰めに持ち込む」だとか、ごく基本的な理屈を除けば、現在のソフトウェアではあまり複雑な目標は持っていないはずだ。ルールを守るのに最低限必要なもの以外の目的を排除したほうが、人間で言うところの「無心」になることができ、「想」の水準での直感的な学習が研ぎ澄まされていくはずだ。

人間はというと、「今日はこの戦術で行こう」だとか「この手筋なら相手はこの戦術に持ち込もうとしているはずだ」という「行」のレベルの思考をいろいろとやっている。このことによって、「想」の水準の認識に文脈情報を与え、ある特定の文脈での認識率を高め、効率向上を図っている。しかし、それは「プロ棋士の常識」であっても、将棋のルールが与える全空間での認識率を高めるとは限らない。常識外の認識率を落としている代わりとして、常識内での認識率を上げることが可能になっている。

しかも人間の場合、「この局面でこう戦術変更したら、師匠の助言に逆らうことにはなりはしないか」というような、「行」の上にある「識」までが雑念として邪魔をしてくることもある。ソフトウェアには今のところ「識」はない。「ソフトウェアが名人を倒してしまって良いものだろうか」とか「こんな手は失礼には当たらないだろうか」という葛藤をするための機能は、おそらく実装されていないだろう。

こういう人工知能は、非人間的な厳しさで特訓され尽くした5歳児のようなもので、特定分野について天才的な能力を持つ一方で、普通の大人が持つバランスの取れた人格は未成熟、あるいは全く無いような状態になる。天才型の究極といった形になっている。上位の認識結果が文脈情報として下位の認識をコントロールするということが人間的に曖昧な情報を処理するための鍵となるが、一方で「上位の認識」が過去の学習対象に対して硬直的過ぎると、文脈情報が固定化されすぎ、下位の認識が単調になる。これが、発達した人工知能の「凡人化」の原因になる。

人工知能の凡人化を避けるには2つの方向性があり、ひとつは、ネットワークに割り当てるモデルニューロンを豊富にし、より幅広い解釈について学習させるという正攻法になる。もうひとつは、創造的な、しかし誤りに陥る危険を伴う方法で、複数のランダムな解釈パターンを下位層に送り、揺らぐ認識の中から最も良い解釈を探るという方法になる。前者は秀才的で、後者は天才的である。

上位層の解釈が下位層の認識を統合する作用であるとすると、創造的な認識というのは一種の脱統合ということになる。「行」がランダムホッピングして「想」の統合を解くのであれば、最終的に「アハ体験」みたいな創造的なアイデアが得られるかもしれないが、「想」がランダムホッピングして「受」の統合が解かれれば、幻聴や幻覚につながる可能性がある。

常識的な固定観念を緩める程度であれば天才的創造力を導出可能になるが、一方で、強烈な精神的ショックで自然な自明性を喪失するレベルになり、統合の乱れが「受」の階層にまで及ぶと、統合失調の様相を呈するのだろう。「想」と「受」の区別が恣意的なもので、実際のネットワーク上では連続的であることを考えると、「天才と気違いは紙一重」というのはそういうことなのではないか。

囲碁や将棋のソフトのような直感の塊のような段階を過ぎ、行や識の機能が実用的になり始める、「いわゆる人工知能」の初期段階では、まずは凡人的な、安定して常識的な認識が優先して求められるだろう。そういう常識的な人工知能が普及してくると、次には「コントロールされた狂気」であるところの統合緩和が行われ、人工知能が少しずつ創造的な発見や発明をできるようになってくるはずだ。

技術的課題を乗り越えて、そういう人工知能が現れるには、どう少なく見積もってもあと30年はかかると思うが、その時代に「人間にしかできないこと」とはなんなのだろう。疲れることと飽きることと、その周辺、といった具合になるのかもしれない。疲れることと飽きることが高度な学習にとって根源的なのであれば人工知能もこれを実装せざるを得ないが、実際はどうなのだろう。

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# by antonin | 2017-05-02 03:26 | Trackback | Comments(0)

仲介したことはあまりないが

んー。思索家ではあっても哲学者ではなさそうだ。ひとまずエンジニア向きでないのは自覚している。計画性ゼロ。まぁ、選択肢が自己評価なんで客観性はないが。

無料性格診断テスト、性格タイプ詳細説明、人間関係およびキャリアのアドバイス | 16Personalities

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# by antonin | 2017-04-29 03:36 | Trackback | Comments(0)

サンセット・セレナード

最近、また少しまとまった文章を読めるようにはなってきたが、書籍の通読などはまだ難しく、空き時間で書籍の中からブログサイズ程度の文章を読み切ると、そこで疲れてしまう。疲れると、ネットニュースなどを眺めている。

焦点:人手不足と鈍い賃上げの逆説 | ロイター

日銀の黒田東彦総裁は11日、参院財政金融委員会で「人手不足の割に賃金の上がり方がやや弱い」と指摘した。

そういえば、以前にそういう現象のことを書いた覚えがあった。

労働の市場化と雇用の市場化を : 安敦誌

つまり景気が良い時には、労働対価が高騰するのではなく、単に労働力の供給が減少する。

日付を見ると4年前の文章なので、今と社会状況はそう大きく変わっていない頃の話だ。予言というより、単なる定性的な現状分析でしかなかったが、実際に法制や社会通念の改革が行われない状況下では、頭で考えたのと近い現象が出るものだなぁ、とは思った。対応策として「労働の市場化と雇用の市場化」と言ってはいるが、年齢構成的に老いた日本社会では、そういった商慣習や法制の背景となっている思想の転換までが必要となるような構造変革は、もうできないだろう。いつの世も老人の頭は固いのだ。

2020年には、無策のまま医療や介護を破綻させ始めた東京がオリムピック・ゲームズを迎え入れる。8月開催だという。打ち水などは辺りを涼しくするものと単純に信じられているきらいがあるが、夕暮れ時に地表の顕熱を潜熱に転換するところに意味がある。地を撫でる宵の風がいくらか柔らかくなる。真昼に陽の当たるところで水を撒きすぎると、ミストサウナを作るようなもので、無駄に湿度が上がって汗による体温冷却効果が抑制される。真夏のヒートアイランドで、海外の貴重なアスリートを死なせてしまったりしないといいのだけれど。
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# by antonin | 2017-04-12 23:17 | Trackback | Comments(0)

水分子と日本人は似ている

油やフッ素化合物を塗った表面は水を弾くが、あれは実は、水分子どうしの分子間力が強すぎて、水分子が隣の分子と離れようとしないために起こっている。水分子の集まりである水滴の表面にいる水分子は、内側の水分子に強く引きつけられて、水分子が外に露出する表面をなるべく小さくしようとする力が働く。これを表面張力という。

その強すぎる表面張力によって、水滴のほうが油やフッ素化合物を界面の外に弾き出している。油やフッ素化合物は電気的な分極による分子間力が弱い。こういう物質は水に弾かれる。油が水を弾いているのではなくて、水のほうに油を弾き出す原動力がある。

一方、塩は水によく溶ける。「塩」は広く「エン」と読んでもいいが、ここでは「しお」と読んで、食塩を考える。水に溶けない塩(エン)もある。塩は個体であっても陽イオンと陰イオンを保っていて、NaClという分子になっているわけではない。Na+というイオンと、Cl-というイオンが、イオンのまま静電気のような力で互いに張り付いている。

ナトリウムイオンや塩化物イオンは、水分子の分極以上に電荷が強い。けれども、塩はプラスとマイナスに分解してしまう。水分子は、分子内にプラスとマイナスを持ち、分解しない。プロトンの貸し借りはするけれども。

塩から出たプラスイオンのまわりには、酸素を内側に向けた水分子が集まってきて、水素を外に向けた水和クラスターができる。水分子では電気陰性度の高い酸素原子の側にマイナスの電荷が偏っていて、逆に電子を酸素に奪われ気味の水素原子の側では、水素原子核であるプロトン(陽子)がやや透けて見えるようにプラスの電荷を帯びている。

マイナスイオンのまわりには、水素を向けた水分子が集まってきて、酸素を外に寄せたクラスターができる。ただし、水素は2個あるので、2個とも内側に向けられることもあれば、まわりの水分子が邪魔で、1個しかマイナスイオンの方に向けられないこともある。

強い電荷のまわりには、それがプラスだろうがマイナスだろうが、水分子の取り巻きができる。水分子はプラスもマイナスも持っているし、その割には身が小さいので、そういう事ができる。そういう取り巻きの力で、塩のイオンたちはバラバラにされてしまう。イオンのまわりに水分子たちが取り付いて、あたかも大きな一つのイオンのように振る舞うが、本来のイオンは中心にいる外来のイオンだけで、取り巻きの水分子たちはただそちらの方を向いているだけにしか過ぎない。

水分子同士の結合は強いので、一つの分子を引き剥がすのには強い力が必要だが、水分子は軽いので、一度引き剥がしてしまえば運び去るのにはそれほどエネルギーを使わない。液体の水の表面にいる水分子が空気中の分子の熱運動に叩かれたりすると、どんどん飛び出していき、しまいには全部水蒸気になってしまう。しかしある程度の水分子が集まると、同じ水分子同士で集まり、その分子どうしの結びつきは強い。

油はというと、その分子の重さのために空気に飛ばされにくいために集まって油滴になるが、水分子は極性による分子間の結合力、仲間うちの結び付きの強さによって水滴になる。油の仲間ではメタンが水分子より少し軽いくらいだが、これを液体にするには-161.5°Cまで冷やす必要がある。この水分子の結びつきの原動力である、電気的な極性を共有できない物質は、水分子どうしの結合力に馴染めないことによって、結果的に弾き出される。

油の分子というのは、必ずしも同じ形ではなくても、炭化水素骨格を持っているような、おおよそ似た構造の分子であれば、互いに溶け合える。原油とは、いろいろな重さの、いろいろな形の炭化水素系分子の混ざりもののことで、そこから蒸留によって精製したガソリンや灯油であっても、やはりある程度の範囲の沸点をもつ分子の混ざりものになっている。

イオンどうしの場合も、電荷のバランスと大きさで結晶構造が変わる程度で、プラスとマイナスならどのようなイオンとでも結びつく。水の場合、その特徴的な分子の形から、ある程度相手を選ぶところが違う。

均質な水分子同士の相性はいいが、隣り合う水分子同士の結合は水素結合という比較的強い結び付きになっていて、なおかつ2個の水素が104.5度という微妙な角度で付いているため、両隣の水分子との関係の維持は複雑なものになる。水素の付いていない側の酸素には、隣接する2分子の水分子から水素を1つずつ引き付けており、水分子は通常4個の隣接分子と結びついている。

この結びつきが強すぎて、適温で液体を作っているときはお隣さんをときどき入れ替えながら仲良くやっているが、温度を下げて乱れを排して組織を固定すると、結合が強すぎて逆に隣の分子との距離が広がる。だから氷は膨張して水に浮く。氷では水素と酸素の結び付きは固定され、分子は回転することもできない。

氷の表面にはまだ結合していない水素か酸素がむき出しになっていて、空気中に水分子がある場合、磁石の塊に別の磁石が付くようにして氷の表面に固定されていく。この過程が、霜や雪の結晶を作り出す。

液体の水では、お隣さんの水分子との間で、ときどき水素の貸し借りが行われる。水素と言っても原子核の周りを電子が取り巻いた原子の状態ではなく、もちろんH2の水素分子ではなく、分子全体の電子雲は保ったまま、水素原子核であるプロトンだけを貸し借りする。水素を借りた水分子はH3O+になり、貸した分子はOH-になる。借りた水素が貸主に返される場合もあるが、別の水分子に又貸しされたり、貸した方も別の水分子から水素を取り上げたりする。

液体の水の中では水素原子核(プロトン)は天下の回りものなので、水分子の間を適当に流通していく。水素結合と、そういう水素の貸し借りには、不可分の関係がある。こうしてプロトンをやり取りしているうちに、貸し手と借り手が離れ離れになって残ってしまったH3O+とOH-が、常温の水の場合だと水分子180万個に一組くらいの割合で常に存在する。

外から水素の貸し手(酸)がやってくると、H3O+が優勢になり、水は酸性になる。逆に水素の借り手(塩基)がやってくると、今度はOH-が優勢になって、水はアルカリ性になる。H3O+が減った時にだけ水素を貸し出し、H3O+が増えると水素の返済を受け入れるような貸し手(弱酸)がいる一方で、押し貸しをして、なかなか返済を受け入れないような貸し手(強酸)もいる。塩基にも同じような強弱の区別がある。


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# by antonin | 2016-06-04 01:49 | Trackback | Comments(0)

ほげ

池田信夫さんがどこかで、財政ファイナンスが許されるなら税収ゼロで全歳入を中央銀行の通貨発行で賄う政府もできることになるが、そんなフリーランチは無い、というようなことを書いていた。(検索したが出てこない)

純粋に理論的に言えば、政府が善政を敷いて、国内総生産が安定的成長をして、その成長した価値の分だけ通貨を発行させて、その発行させた通貨の全額を政府支出として市場に供給すれば、一応無税政府は成立する。税金みたいに国民に文句を言われないから、普通は財政規律が緩んで歳出が国内成長を大きく超えるまでに膨れて、悪性インフレになるだろうという経験則があって、そういうのは失敗すると言われている。

仮に禅僧のような厳しい役人と政治家ばかりで無限の財政統制が実現できるなら、正しい国家運営に対する正当な対価として、政府は新規発行通貨を所得として得ることができる。現実には上に書いたような国民からの圧力の不在だとか、中央銀行が発行した通貨を最初に供給してもらう既得権を持った銀行の抵抗などで、そんな神聖な政府は生まれないだろう。けれども、一応理屈としてはフリーランチではない財政ファイナンス制度もあり得ないではない。

今の日本だって、ゆうちょを含めた銀行各社がこれまでに買った国債の債権を放棄すれば財政危機は終わるし、それで間接的に貯金を失う高齢者の最低生活保証を確保できれば、経済は本格的な回復路線に乗る。理論的には。理想的には。空気抵抗や摩擦は無視しても良い。

道州制とか、ベーシックインカムとか、非永住移民とか、みんな正しいんだけど、空気抵抗がね。摩擦がね。ダイラタンシーがね。まあしょうがねぇよな。私ら団塊ジュニアが75歳くらいの頃に日本経済は最悪の状態になって、その先は徐々に回復していくんだろうという話になっているが、途中で不連続点が出てくるかもしれない。ただ、日本の経済の件については、早めにドカンと処理するよりダラダラと処理する方が被害が少ないらしく、あんまり性急に経済政策とかしないほうがいいのだろう。

もうカエルはゆだってしまったので、あとはゆっくりコトコト煮込んで、21世紀後半の人においしく召し上がっていただくしかない。今さら冷ましてもカエルは生き返らない。南無。

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# by antonin | 2015-06-05 03:46 | Trackback | Comments(0)

フリーランチハンター

今日も、まとまっていないことを書く。ほとんど誰も見ていないとはいえ、まとまっていないことを表に書くのは不誠実だとは思うが、なんとなくリハビリ的に何か書いておきたいので書く。

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若いころ、私はネオダーウィニズムにはまっていた。自己組織化とかニューラルネットワークとかも好きで、数学的構造が環境に適応して勝手に高度な構造を生み出す仕組みに興味を持っていた。それに比べると、今は随分と平凡な仕事をしている。そんな話はどうでもいいのだけれども、「利己的な遺伝子」以降、ネオダーウィニズムはどういう方向に進んでいるのだろう。最近あまりこの方向を追っていなかったので、最新の状況がわからない。

というわけで最新の研究動向は知らないのだけれど、「利己的な遺伝子」の考え方に慣れてくると、そこに書かれていた遺伝子プールというものの役割がわかるようになる。多細胞の生物種にはだいたい3段階くらいの適応機構があって、まず一番短いスパンだと個体の環境適応がある。これにも食べたら太るというような最短スパンの適応と、成長過程で生育環境に適応するという、やや長いスパンがあるが、このあたりは1段階として考える。

それから、最長期スパンとしては、遺伝子コピーのエラーあたりに起因する突然変異と自然淘汰の累積による進化がある。遺伝子から生物個体が作られるという原理(セントラルドグマ)が提唱される前から、それこそダーウィンの時代から仮説として立てられていた古生物学を説明する原理としてはこのあたりの段階が考えられていた。

そして、その中間的な、数世代から数百世代での環境変化に対する適応がある。真核生物の遺伝子というのは染色体の中に遺伝子対があって、実際に表現型となって個体の機能に強く影響する優性遺伝子と、表現型とはならずにその世代では淘汰圧を受けずに遺伝する劣性遺伝子がある。赤血球凝固血液型のA型とB型のように、どちらも同じ程度に優性という組み合わせもある。

とにかく、最長期スパンのように、遺伝子そのものが新しく発生したり数が増えたりするのではなくて、同じ種の群の中でプールされる遺伝子の種類はほぼ変化しないような短期スパンでも、そこに含まれる遺伝子の比率というのは案外短期間で急激に増減することがある。表現型として表に出る優性遺伝子は、繁殖確率を通じて環境の短期的な変動の影響を比較的素早く反映する。

こういう変化では魚が犬になったりはしないけれども、ラマルクが考えたようにキリンの首の長さが統計的に長くなったり短くなったりという変化は起こりうる。ただし、そういうパラメータ調整のような変化では、やはり馬がキリンになるほど劇的な変化はできない。動脈の逆流を防ぐ弁だとか、そういうブレークスルーが突然変異によって起こらない限り、一定以上の変化はメリットよりデメリットが顕在化して阻害される場合が多い。ただ、有性生殖を行う生物種の場合、数十万年のスパンになるとそういう劇的な変化もかなりの確率で起こるものらしい。

ダーウィンが自分の目で観察したフィンチのくちばしの形状変化は、どちらかというとダーウィニズムによる進化というよりはパラメータ調整による短期スパンの適応段階による分岐のような気がするけれども、地理的要因で遺伝子プールがある程度絶縁されている以上、淘汰による進化の一種ではあったのだろう。

最近は遺伝的アルゴリズムやディープニューラルネットワーク、他にももっと古典的な機械学習理論が研究されているけれども、学習にもヒューリスティックな学習とメタヒューリスティックな学習というのがある。ヒューリスティック学習では、計算モデルは固定されていて、そのパラメータが環境からのフィードバックによる最適化を受けて精度を高めていく。

それに対してメタが付く方の学習は、基盤計算モデルと直接計算モデルの2層構造、あるはそれ以上の多層構造になっていて、基盤計算モデルが直接計算モデル自体をいじりながら学習が進む。ニューラルネットワークではニューロンモデルが直接計算モデルになっていて、学習を通じてシナプスの結合係数をいじって、実質的なネットワークモデルを変えていくことでパターン認識などの学習を行うヒューリスティック学習をする。

ここで、赤ん坊の脳味噌でニューロンが枝を伸ばしながらシナプスを新設していくように、ネットワークトポロジーそのものを組み替えていくような基盤計算モデルがあると、ニューラルネットワークはメタヒューリスティック学習をするようになる。このメタヒューリスティックができるようになると万能的な学習ができるようになるのだが、世の中に銀の弾丸は無いというか、効率まで考えに入れてしまうと、万能な学習モデルは無いという定理が存在する。

ノーフリーランチ定理 - Wikipedia

生物の適応でも個体適応は別として、短期の適応は遺伝子比率を動かすだけのヒューリスティックな学習であり、他方地質学的なスパンの「進化」となると、遺伝子プール内の遺伝子セットそのものが変わっていくメタヒューリスティック学習が行われていると考えることができる。ダーウィンが見た生物の微妙なばらつきの原因というのはたぶんヒューリスティックなものだけれども、そこから連想されたダーウィニズムというのはこのメタヒューリスティックな挙動を予想したものだった。

その後の放射年代測定技術や分子生物学の進歩で、ダーウィニズムはかなり強い傍証を得てネオダーウィニズムになっていくのだけれども、化石にならずに消えていった生物種のことなども推定すると、まだまだ分からないことが多い。これからわかってくることも多いのだろう。

人類が猿っぽい生き物から現代人のように進化するまでに、長く見積もっても300万年程度しかかかっていないらしい。そこにもメタヒューリスティックな進化がかなりあったとは思うけれども、大脳が大きくなるとか、背筋が伸びるとか、そういうあたりはひょっとするとヒューリスティックな変化が主要因なんじゃないかとも思う。

そういうヒューリスティックな、パラメータ調整程度の環境適応で充分に生きていけるほど安定した環境が続く場合、単純な生物からどんどん大型で複雑で長寿命の個体を持つ生物種が分岐してくる。ただし地球の歴史には隕石の衝突や火山の大噴火などによる壊滅的な環境変化が、長スパンで見た場合は定期的にあって、そういう急激な環境変化による大絶滅がおこると、貧しい残存環境では大型生物が選択的に絶滅してしまい、微小生物ほど生き残りやすい。そこで再び環境が安定して来ると、微小生物の多様化による大型生物への進化がやり直されることになる。

昔あった定向進化説というのはだいたいこういう原理だと思っている。進化そのものは大型化も小型化も起こりうる不定向なランダムウォークだが、地球環境の変化は小さい方から大きい方への拡散が目立ちやすくするような傾向を持っていたのだろう。そういう意味でいえば、昆虫自体は非常に長い歴史を持っていても、ハチやアリのような真社会性の生物というのは、案外に人類と同程度の歴史しか持っていないんじゃないかという気もする。

もちろん、ハチやアリのような形をした昆虫は昔からいたのだろうけれども、ハチやアリは個体数の割に繁殖能力を持った個体が少なく、世代交代は基本的に群単位で起こる。群の寿命は女王アリの寿命で規定されていて、結構長い。群からオスアリと女王仕様のメスアリがハネアリになって飛び立って別の群が独立する頻度は、それほど高いものではないらしい。

つまり、遺伝子の交換が起こる世代交代の単位でいうと、一匹の女王アリと少数のオスアリだけが意味のある個体で、働きアリはその従属要素ということになる。雑に言うと、遺伝子から見た場合一つのアリの巣が一つの個体というモデルで説明できる。働きアリは、生殖細胞に対する飛び道具的な体細胞みたいなものということになる。ドーキンスが批判していた群淘汰理論とは前提からして違う。

人類や真社会性のハチやアリ(の巣)というのは、「複雑で長寿命の大型個体を持つ生物」という意味で、似たような存在なのだろうと思う。こういうものが存在するということは、直近の大絶滅以降、比較的安定した地球環境が続いていたという証拠で、ヒトもアリも、その間に急激に進化した生物種なんじゃないかという気がしている。

そしてその進化は、突然変異が駆動するメタヒューリスティックな進化よりも、ヒューリスティックな遺伝子配合比率の調整による適応の度合いが高いのではないかという気もしている。セミなどの長寿命の昆虫も、ひょっとするとそういう部類なのかもしれない。鶴や亀などはどうなのだろうか。

まあ、最近あまり本も読んでいないのでこのあたりがどうなのか詳細は分からないが、あと10年くらいしたらゆっくりと本でも読んでみたいと思う。

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# by antonin | 2015-04-17 01:48 | Trackback | Comments(0)

アメリカのプロテスタント的な部分

塩野七生さんの「ローマ人の物語」は書店で平積みになっている第一巻の初版を買った覚えがあるのだが、引っ越しのどさくさか何かで無くしてしまった。それでそのまま読まずにほったらかしになっていたのだが、あるとき文庫になったのでそれから通読したのだけれど、あれを読んで、アメリカ合衆国という国が少しわかったような気がした。

アメリカ合衆国というのはフリーメーソンが建てた国で、個人的な理解では「修正ローマ帝国」なんだと考えている。実際の北米大陸にはフランス的な部分だとかスペイン的な部分だとか、もっと野卑なフロンティア精神だとかがいろいろと混ざっているけれども、地理的には東海岸にある国家の中枢には、フリーメーソン的な連邦政府の思想がある。共和党は寡頭制の頃を理想としている風があって、一方の民主党には初期帝政の、市民と護民官(ただし終身制ではない)というあたりを理想としている感じはある。けれども、どちらも基本的に軍事的強権で自由経済圏を守るというローマ帝国の理想を共有している気はする。

ローマ帝国は王政とか共和制とか帝政とか、政体で分けることもできるけれども、日本人から見ると、国教が多神教の時期と一神教の時期で印象が全く違う。大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓をしたりしているが、基本的に信教の自由は建前として堅持されている。このあたりは多神教ローマと一神教ローマの中間的なものになっている。アメリカ合衆国は、ただ一人で公選制で4年の有期職の大統領を頂点に持っていて、そこに元老院(上院)と衆院(下院)が付いている。このあたりも共和制ローマと帝政ローマの中間的な体制になっている。共和制ローマには任期1年の二人の執政官がいて、帝政ローマには終身制の一人の皇帝がいた。

皇帝という広域国家のトップが終身制だと、選んでみたら実は無能でしたというときに暗殺するしか退位させる方法がない、というのがローマを衰退させる一因だった。コンスタンティヌス帝はキリスト教の宗教的権威を使ってそのあたりをうまくコントロールしようとしたらしいが、逆に息子のコンスタンティウスの代から早くもキリスト教司教の勢力が皇帝権より強くなり始め、西ローマ帝国が滅ぶとキリスト教会のトップが教皇となって君臨するようになってしまった。

そうして長くカトリックが続くのだけれども、聖地巡礼や十字軍などを通じてヨーロッパとオリエントの接触は細々と続いていて、古代ギリシア文化の実質的後継者となっていたイスラム教だとか、キリストを生んだ時代の名残りを伝えるユダヤ教だとか、あるいは東ローマの正教だとか、カトリックの常識が通用しない文化に接する人達に出会う。一番代表的には聖堂騎士団だとか病院騎士団といった、戦時だけではなく平時も絶え間なく巡礼者保護の活動をしていた修道騎士団なんだろうが、建築や美術を学びに行っていた石工などもそのうちに入っていたのだろう。

そういう中で、巡礼者の路銀を預かってトラベラーズチェック的なものを発行するところから始まった金融業が聖堂騎士団の中に起こった。そこから発展した、カトリックの戒律では禁制だった有利子融資の技法だとか、薬学も含めた化学だとか、構造設計のための幾何学だとか、そういうあたりが、信仰と権力の真っただ中にいるカトリックの司祭たちには理解されずに発達し、ヨーロッパでは迫害されながら徐々に秘密結社になっていく。それからユグノー戦争だの30年戦争だのフランス革命だのを経験しながら、最終的に新大陸に合衆国が樹立する。

新大陸を得て、秘密結社だったフリーメーソンは開放的に発展していくのだけれども、石工みたいな技術者の自由思想とは別に、カトリックの禁制を犯してキリスト教の起源に迫るプロテスタントの活動というものの中には、ローマ皇帝に祖国を破壊され、その後も迫害を受け続けたユダヤ教徒の怨念のようなものが静かに横たわっているように感じる。アメリカ合衆国にも、フリーメーソン的な科学的発想と個人の自由を愛する傾向と並行して、プロテスタント的な、カトリックの博愛を強制する態度に反発してユダヤ教に接近する傾向が感じられる。

ユダヤ教には、単に古い時代の「アブラハムの宗教」を伝える人々とは別に、国家を持たない民族の悲哀と怨念のようなものが潜んでいる。ヨーロッパでのユダヤ教徒のイメージというと、医者か学者か金融業者というステレオタイプがあるが、学者は別として、医者と金融業者というのは、人が困った時に頼る職業というところが共通している。いつの世でも、どこの土地でも、よそ者の「異教徒」として生きていた時代、医学や金融資産など、どんなに差別されようが最終的に人間が頼らざるを得ない技能を有する人間だけが生き残ることができたという、ある種の淘汰圧がユダヤ人のステレオタイプ的な「憎たらしいがきわめて優秀な人々」という像を作り出したように見える。

もちろん、カトリックの禁制が不合理で、異教徒だからその禁制を無視して、死体を解剖したり利子を取って金を貸したりという合理的活動ができたのだから、そのことでユダヤ人が力を付けたという見方もできる。しかし、カトリックの禁制も、単に権力の都合による抑圧というものではなくて、経済は停滞するとしても、弱者を守るための慈愛の精神というのが根底にある。ステレオタイプ的ユダヤ人の活動というのは、そういう慈愛を踏みにじって私利を追っているようにも見える。そこに財力への羨望が重なって、カトリック教徒からユダヤ教徒への差別や偏見が助長されたのだろう。

そういう差別の中で生き抜くために、ユダヤ人側もなりふり構わず合理主義を押し通すようになる悪循環のようなものもあったのではないか。信仰としてはあくまで誠実だとしても、キリスト教徒から向けられる嫌悪の情に対して、切り返し的とは言え、悪意の応酬もあったのではないか。大日本帝国時代の朝鮮人でも、移民導入後のフランスにおけるマグレブ人でも、彼らが暴力的だとか悪意に満ちているだとか言うことは簡単だけれども、その遠因はやはり多数派の庶民が少数派の庶民へ無意識の差別をしていたというあたりにあるのだろう。

そういうわけで、一部のユダヤ人は歴史上の祖国を武力で破壊したローマ帝国の末裔であるキリスト教徒たちを憎んでいただろうし、そういう態度がヨーロッパのキリスト教がユダヤ人をより差別的に扱うという悪循環につながったのだろう。その頂点がナチズムからホロコーストに至る暴挙だったのだろうが、ドイツのキリスト教徒たちが嫉妬した資産階級のユダヤ人は相当部分が国外へ亡命し、一方でそういう資力もコネも持たないような社会的弱者のユダヤ人ばかりが、結局は殺害された。

最近の日本でみられる「嫌韓」も、何かそういった悪循環の一種にしか見えず、気分が悪い。そして、アメリカとフランスでは事情が違うにしても、イスラム教徒への偏見にもそういう悪循環が見えるし、キリスト教徒からイスラム教徒への悪意にも気分が悪くなる。ナチスドイツに迫害されたユダヤ人を多く受け入れて救ったアメリカ合衆国にしても、プロテスタントに潜むユダヤ的な憎しみの痕跡のようなものが共産圏の崩壊後に強く滲み出ているように見えて、やはり気分が悪い。

フリーメーソン的なあっけらかんとした個人自由主義は好きなのだけれども、「アメリカンドリーム」と呼ばれるような、天文学的な貧富の差を許す新自由主義というのは、ユダヤ的な、被差別の中で生まれた屈折した割り切りの痕跡のように見えて、あまり好きではない。ユダヤ人は別に嫌いなところは何もないけれども、かつて村上ファンド的に翻訳された「金を儲けて何が悪いんですか」という割り切った態度は、どうも好きになれない。儲かるのは美徳だけれども、儲けるのは悪徳だと感じる。この部分については、禁制の極端さは別として、ナイーヴなカトリックの心情のほうにむしろ好感を覚える。

また共産革命のような若者の暴動を誘発するまでこういう傾向が続くのか、ナチズムのような憎悪が渦巻くまでこういう傾向が続くのか、よくわからない。歴史に興味がある人たちはタックスヘイブンを規制しろだとか富裕税を上げろなどと言い始めているが、上げ潮派のような人達はまだまだ元気そうに見える。そういう人たちが必ずユダヤ人なのかというとそういうことはないのだが、その思想の根底には歴史上のユダヤ人たちの鬱屈があるようにも思う。

美術館が無料で開放されるとか、大学教育が無料で提供されるとか、そういう背景にはある程度ヨーロッパ人が血を見てきた過去の歴史があるのだけれども、そういう文化資本も市場に投げ出してしまう態度というのは、本来市場主義者であるはずの私にも理解しにくい。

ドイツにもトルコ移民などが入ってきていろいろの摩擦が起こっていたようなのだけれども、最近どうなっているのかという話をあまり聞かない。プライマリーバランスをプラスに振って負債を圧縮した原動力がどういう運動なのかというのも知らない。フランスの原子力偏重を横目で見ながら、フクシマを見て原発ゼロに舵を切ったらしいが、自然エネルギーを活用しながら電力輸出超過をどうやって維持しているのかという事情を知らない。

北欧の高福祉思想がほころびを見せている中で、やっぱり米国主義、ということではなく、枢軸国の悪夢を連合国に思い起こさせない程度に、今の日本が参考にすべきは再びドイツという気がしているのだが、どうもマスメディア経由ではドイツ関連の情報が取りにくい。日本語世界にドイツ語の情報が少ないのが、単に商業的需要の反映なのか、あるいは枢軸国の復権を嫌うユダヤ資本が支配しているというマスメディアの陰謀というオドロオドロしいものなのか、そのあたりはなんともわからないが、「修正ローマ帝国」の西部前線にある列島の住民として、東部前線にある地域の動向が少し気になる。

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# by antonin | 2015-04-08 02:23 | Trackback | Comments(0)

卯月惚け

ベイヤー法とは、1860年代にアメリカの鉱山技師エリック・ベイヤーが考案した橋梁技術(アンカリング技法)である。現在はコンクリートなどの人工成形物にアンカーを埋設する成形ベイヤー法が主流であるが、初期には強固な岩盤に穿孔しアンカーボルトを埋め込むタイプの岩盤ベイヤー法が多用された。

岩盤ベイヤー法は成形ベイヤー法に比べ資材の使用量が少なく、山間部での施工に有利な面はある一方で、硬い岩盤に深い穴を多数開ける必要から作業量が多く、先進国家で労働集約的な作業コストが資材コストを上回るようになる19世紀末頃から、次第に利用されなくなった。

この頃、欧米で使われなくなった岩盤掘削用機材が日本に輸入されるようになり、山間部での鉄道や大型鉄塔のステイワイヤー敷設など、国内でベイヤー法の普及が進んだ。機材の老朽化は進んでいたが、安価であり、また初期のシンプルな設計であったアーヴィング ドリルなどはメンテナンスも簡単で、当時の日本の工業技術でも保守が容易だったため、人件費の安い発展途上国であった日本には適した技法であった。

岩盤の露出する山間部に適した岩盤ベイヤー法であったが、機材メンテナンスの都合から都市部を離れた地域で作業が行われる時代にはすでに成形ベイヤー法が主流となっていたため、岩盤ベイヤー法が多用されたのは東京からの鉄道延伸が関東平野を取り囲む山岳部に達する地点であった。

代表的な工区は中央本線の八王子~上野原間(明治34年開業)であり、総計200ポイントを超えるベイヤーアンカーが作成されたと言われる。当時の作業者が過酷な掘削作業中に歌ったのが「がんばんべーやー節」であるとされ、今でも八王子近辺では親しまれている。もっとも、アメリカ民謡「線路の仕事」と同様に、その歌詞は当時の過酷な仕事内容を歌ったものから、楽しげな内容に変化しつつある。

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みたいなことを2月くらいからボチボチ考えていた。馬鹿だ。
今年度もよろしくお願いいたします。

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# by antonin | 2015-04-01 02:22 | Trackback | Comments(0)


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