ここに、こうして、小難しいことを書いてみても、それに対して「やーい、ばーか」と思っている自分もあって、まぁそんなもんかなという気もする。金環食には金柑でも食うかな。
20年くらい前に、先駆植物について何か書いたことがあって、内容もそれなりに覚えているのだけれども、今となってはなんだかちょっとバカらしく思う。
雨風がしのげて、ひもじくもない。それだけのことに満足してはいけないのだというが、それ以上何を望む、という気もする。
納豆がうまい。腐っているのに、うまいし体にいい。文明だな、と思う。電波時計よりもゼンマイ時計の方が何倍も値が張ったりして、まぁそうだよね。おやすみ。
20年くらい前に、先駆植物について何か書いたことがあって、内容もそれなりに覚えているのだけれども、今となってはなんだかちょっとバカらしく思う。
雨風がしのげて、ひもじくもない。それだけのことに満足してはいけないのだというが、それ以上何を望む、という気もする。
納豆がうまい。腐っているのに、うまいし体にいい。文明だな、と思う。電波時計よりもゼンマイ時計の方が何倍も値が張ったりして、まぁそうだよね。おやすみ。
今日は動的再構成(JIT)と静的構成(AOT)の優劣とか、学校における情報教育とか、いろいろ考えていたが、まだまとまらない。上代日本語についても考えていて、こちらもまとまらないのだが、資料も何もないので、適当に妄想を書き連ねていこう。
ある神社に立ち寄った時に、由来のようなものが書かれた看板があって、そこに何柱かの神の名前が書かれていた。そのうち半分くらいの名前に「はや」という言葉が含まれていて、それらの神々に共通するのが、海に関わる神ということだった。それで、そうか、「ハヤト」というのは「海人」のことなのだな、と思った。となると、それと対立する「ヤマト」のほうも、自然と「山人」ということになり、納得がいく。
ただ、「はや」が上代日本語で海の意味だったという、はっきりとした証拠が出てこない。ヤマトが山人となる証拠となると、さらに少ない。確かに状況証拠的には、海幸彦が山幸彦に従い守るようになるという神話があって、それが薩摩隼人や大隅隼人が大和朝廷の防衛や踊り手を担うようになったという史実に対応するのだけれど、万葉集の中ではすでに「うみ」という言葉が主流だし、万葉集の中でもすでに雅語として扱われている「わたつみ」というのが、「ワタ(海)ツ(の)ミ(主)」という意味らしく、この「わた」が上代(以前の)日本語で海にあたる言葉とされている。
また、奄美の言葉では「はえ」というと南という意味らしい。これは南風という言葉の読みに影響が残っている。奄美や琉球の島言葉には本来母音が3種類しかなく、今でも「い」と「え」、「う」と「お」の区別は曖昧らしい。隼人には「ハイト」という読み方もあるらしく、もしかするとハヤトというのは、南の人、あるいは南洋の人というような意味合いだったのかもしれない。
ワタツミの「わた」の方だが、こちらには古い朝鮮語で海を指す「パタ」という語と、由来を共にするのではないかという説がある。あまり確かな文献資料が残っていないのではっきりしないが、仏教伝来の頃の山陰地方と朝鮮南東部にはかなり活発な行き来があって、実は秦に滅ぼされた呉の人々が海に逃げ、対馬海流の右岸に漂着した一派が出雲を立て、左岸に漂着した一派が任那を立てたので、これらの人たちは同祖だったという説もある。イヅモとかイヅミとかアヅミとかいう地名は、この漂流民たちの末裔が開いた里だという話もあって、なかなか興味深い。イツミやアツミといった姓もその系統だという。
上代からさらに遡ると、ハ行の音はファ行ともパ行とも言える音だったらしい。そうすると、「パタ」に対応する日本語は「わた」だけではなく、「はた」もあるような気がする。ヤマトの人々は海を渡ってきた渡来人に秦姓を与えたが、その読み方は「はた」だった。また、その一部が持ち込んだ信仰が八幡神で、その読みはヤハタだったりヤワタだったりする。
8母音説と朝鮮語母音の関係とか、5母音化と梵語の関係とか、いろいろと妄想は尽きないのだけれど、疲れたので今日はこの辺で。
ある神社に立ち寄った時に、由来のようなものが書かれた看板があって、そこに何柱かの神の名前が書かれていた。そのうち半分くらいの名前に「はや」という言葉が含まれていて、それらの神々に共通するのが、海に関わる神ということだった。それで、そうか、「ハヤト」というのは「海人」のことなのだな、と思った。となると、それと対立する「ヤマト」のほうも、自然と「山人」ということになり、納得がいく。
ただ、「はや」が上代日本語で海の意味だったという、はっきりとした証拠が出てこない。ヤマトが山人となる証拠となると、さらに少ない。確かに状況証拠的には、海幸彦が山幸彦に従い守るようになるという神話があって、それが薩摩隼人や大隅隼人が大和朝廷の防衛や踊り手を担うようになったという史実に対応するのだけれど、万葉集の中ではすでに「うみ」という言葉が主流だし、万葉集の中でもすでに雅語として扱われている「わたつみ」というのが、「ワタ(海)ツ(の)ミ(主)」という意味らしく、この「わた」が上代(以前の)日本語で海にあたる言葉とされている。
また、奄美の言葉では「はえ」というと南という意味らしい。これは南風という言葉の読みに影響が残っている。奄美や琉球の島言葉には本来母音が3種類しかなく、今でも「い」と「え」、「う」と「お」の区別は曖昧らしい。隼人には「ハイト」という読み方もあるらしく、もしかするとハヤトというのは、南の人、あるいは南洋の人というような意味合いだったのかもしれない。
ワタツミの「わた」の方だが、こちらには古い朝鮮語で海を指す「パタ」という語と、由来を共にするのではないかという説がある。あまり確かな文献資料が残っていないのではっきりしないが、仏教伝来の頃の山陰地方と朝鮮南東部にはかなり活発な行き来があって、実は秦に滅ぼされた呉の人々が海に逃げ、対馬海流の右岸に漂着した一派が出雲を立て、左岸に漂着した一派が任那を立てたので、これらの人たちは同祖だったという説もある。イヅモとかイヅミとかアヅミとかいう地名は、この漂流民たちの末裔が開いた里だという話もあって、なかなか興味深い。イツミやアツミといった姓もその系統だという。
上代からさらに遡ると、ハ行の音はファ行ともパ行とも言える音だったらしい。そうすると、「パタ」に対応する日本語は「わた」だけではなく、「はた」もあるような気がする。ヤマトの人々は海を渡ってきた渡来人に秦姓を与えたが、その読み方は「はた」だった。また、その一部が持ち込んだ信仰が八幡神で、その読みはヤハタだったりヤワタだったりする。
8母音説と朝鮮語母音の関係とか、5母音化と梵語の関係とか、いろいろと妄想は尽きないのだけれど、疲れたので今日はこの辺で。
藁を叩いて繊維を柔らかくし、それを手でなうとナワになる。ナワを太く作ったり、ナワをさらになったりして丈夫に作り、重い道具や家畜などをつなぎ止めるのに使えるようにすると、ツナになる。家畜の頭にツナをかけ、その一方の端を手に持つと、タヅナになる。また、端を木に縛り付けると、キヅナになる。
中国語にも同じような単語があって、ナワには縄の字が、ツナには綱の字が当てられた。タヅナは素直に手綱になったが、キヅナはそれ自体を指す単語が見つかり、絆の字が当てられた。
大人になると、多かれ少なかれ社会的な役割というものが増えてきて、精神的にも経済的にもそれによる見返りは多いが、それなりの窮屈さというものもある。同じ共同体の中で期待される役割は、案外に細かいことにまで及び、中にはひどく不合理に思えるものもある。困った者を助けるのは当然だが、中には自業自得ではないかと思うこともある。助けるにも限度を越えていると感じることもある。しかし、そういう面倒を避けて楽しくやった奴が、結局は孤独の中で死んでいった話をことあるごとに聞かされるし、年齢を重ねる中で、実際にそういう場面を目にする機会もなくはない。
そういう社会に暮らす人間は、何か目に見えないキヅナのようなもので社会につなぎ止められていて、なんだかんだで離れることができない。窮屈ではあるが、不思議な居心地の良さもある。良い意味では絆と呼ばれ、悪くはしがらみと呼ばれるが、結局同じものの別名でしかない。
戦争や災害などで社会が疲弊すると、人々がキヅナを引っ張り合い、半ば脅迫的な力を発揮する。キヅナに強く引きずられて転ぶ人もいれば、キヅナが弱くて千切れてしまう人もいる。そういう混乱のあとで、結局はこういう時のために人間はキヅナを結んでいたのだと気付く人の方がいくらか優勢で、縄をなうところからやり直す動きも、ちらほら出てくる。
私は基本的に極度の面倒くさがり屋なので、キヅナのほとんどは朽ちかけているが、それでも時々そのキヅナに引っ張られることがあって、引っ張られるままに引きずられて行くと、なんとなく面白い場面に出会わすことがある。今はそこになんの深刻さもないのだが、間もなくそんなことも言っていられなくなる年代に突入するだろう。
自分の姓が彫りつけられた墓が、自宅から700kmくらい離れた土地にいくつもあって、そのうちのいくつかはいずれは自分が引き受けることになっている。
しがない町道場を開いていたという田舎侍の家に生まれ、医者だったために無医村に呼ばれた曾祖父には二男一女があった。できの悪い長男は歯医者になり、優秀な次男は大戦で戦死した。そして長女だけが医者になり、結婚して家を出た。歯医者だった長男も二男一女をもうけたが、誰も医学の道には進まなかった。その長男と長女はともに結婚に失敗して子供を残さず、次男は東京に出て美容師になり、再婚で一男一女をもうけた。結果、歯医者のじいさんの家系の墓を受け継ぐのは、じいさんが死んでから東京で生まれた孫だけになった。東京生まれの長男も二男一女をもうけたが、この子たちが先祖伝来の土地とどういう絆を結ぶのかは、まだわかっていない。今では本家は無人になっている。
原始仏教では、そういうしがらみを捨て、家を捨て、家族を捨て、土地を捨て、同じ考えの友だけを持ち、あとはすべて放棄しろと説いた。その教えを守ったインドでは仏教が途絶え、それとは正反対に先祖を守る教えに化けた日本の仏教は今に残った。そういう日本仏教式の墓につながる、長くて細い絆が私のヘソのあたりには巻き付いている。結婚と同時に本家の番地が書かれた本籍は捨てたが、墓そのものを無縁にしてしまう決心はまだついていない。
私は子供の頃から浩宮様に似ていると言われていて、ムスメもときどきだが敬宮様に似ていると言われる。我が家には男子が2人いるので、なんなら一人くらい分けて差し上げたいくらいだが、あちらの大騒動には遥かに及ばないものの、庶民にも庶民なりの継承問題というものはある。
今日から40代に入り、なんとなくそんなことを考えていた。
中国語にも同じような単語があって、ナワには縄の字が、ツナには綱の字が当てられた。タヅナは素直に手綱になったが、キヅナはそれ自体を指す単語が見つかり、絆の字が当てられた。
大人になると、多かれ少なかれ社会的な役割というものが増えてきて、精神的にも経済的にもそれによる見返りは多いが、それなりの窮屈さというものもある。同じ共同体の中で期待される役割は、案外に細かいことにまで及び、中にはひどく不合理に思えるものもある。困った者を助けるのは当然だが、中には自業自得ではないかと思うこともある。助けるにも限度を越えていると感じることもある。しかし、そういう面倒を避けて楽しくやった奴が、結局は孤独の中で死んでいった話をことあるごとに聞かされるし、年齢を重ねる中で、実際にそういう場面を目にする機会もなくはない。
そういう社会に暮らす人間は、何か目に見えないキヅナのようなもので社会につなぎ止められていて、なんだかんだで離れることができない。窮屈ではあるが、不思議な居心地の良さもある。良い意味では絆と呼ばれ、悪くはしがらみと呼ばれるが、結局同じものの別名でしかない。
戦争や災害などで社会が疲弊すると、人々がキヅナを引っ張り合い、半ば脅迫的な力を発揮する。キヅナに強く引きずられて転ぶ人もいれば、キヅナが弱くて千切れてしまう人もいる。そういう混乱のあとで、結局はこういう時のために人間はキヅナを結んでいたのだと気付く人の方がいくらか優勢で、縄をなうところからやり直す動きも、ちらほら出てくる。
私は基本的に極度の面倒くさがり屋なので、キヅナのほとんどは朽ちかけているが、それでも時々そのキヅナに引っ張られることがあって、引っ張られるままに引きずられて行くと、なんとなく面白い場面に出会わすことがある。今はそこになんの深刻さもないのだが、間もなくそんなことも言っていられなくなる年代に突入するだろう。
自分の姓が彫りつけられた墓が、自宅から700kmくらい離れた土地にいくつもあって、そのうちのいくつかはいずれは自分が引き受けることになっている。
しがない町道場を開いていたという田舎侍の家に生まれ、医者だったために無医村に呼ばれた曾祖父には二男一女があった。できの悪い長男は歯医者になり、優秀な次男は大戦で戦死した。そして長女だけが医者になり、結婚して家を出た。歯医者だった長男も二男一女をもうけたが、誰も医学の道には進まなかった。その長男と長女はともに結婚に失敗して子供を残さず、次男は東京に出て美容師になり、再婚で一男一女をもうけた。結果、歯医者のじいさんの家系の墓を受け継ぐのは、じいさんが死んでから東京で生まれた孫だけになった。東京生まれの長男も二男一女をもうけたが、この子たちが先祖伝来の土地とどういう絆を結ぶのかは、まだわかっていない。今では本家は無人になっている。
原始仏教では、そういうしがらみを捨て、家を捨て、家族を捨て、土地を捨て、同じ考えの友だけを持ち、あとはすべて放棄しろと説いた。その教えを守ったインドでは仏教が途絶え、それとは正反対に先祖を守る教えに化けた日本の仏教は今に残った。そういう日本仏教式の墓につながる、長くて細い絆が私のヘソのあたりには巻き付いている。結婚と同時に本家の番地が書かれた本籍は捨てたが、墓そのものを無縁にしてしまう決心はまだついていない。
私は子供の頃から浩宮様に似ていると言われていて、ムスメもときどきだが敬宮様に似ていると言われる。我が家には男子が2人いるので、なんなら一人くらい分けて差し上げたいくらいだが、あちらの大騒動には遥かに及ばないものの、庶民にも庶民なりの継承問題というものはある。
今日から40代に入り、なんとなくそんなことを考えていた。
Amazon.co.jpもMP3の販売を始めたりして、そろそろCDからの脱却を本格化しようと思うのだけれど、なかなか難しい。
クラシック音楽の場合、1曲が複数のトラックに分かれていたり、場合によっては複数のCDにまたがっていたりする。それぞれのトラックが、それなりに独立性の高い場合もあれば、連続した演奏を便宜上分割しただけのものもある。CDが開発された当時は、まだクラシック音楽もオーディオ世界の主流にいたので、CDの規格にはそのあたりの配慮がしっかりなされている。
けれども、オーディオファイルの規格を策定した、あるいは実装したとおぼしき西海岸の連中はポップスしか聴かなかったらしく、このあたりの配慮がごっそりと抜け落ちている。そのため、1トラック当たり1曲が当然の前提になっているし、メタデータはアーティストとかアルバムとかいう役立たずのものが前提になっている。
アーティスト(芸術家)というと、作曲者を指すのか、編曲者を指すのか、楽団を指すのか、指揮者を指すのか、独奏者を指すのか、そのあたりの重要な情報が全部欠落している。ボランティア的にメタデータを入力している世界中のユーザーの間でも、メタデータのフォーマットに統一したルールがないために混乱が生じている。
メタデータが正確でないだけならば、それを無視すればいいだけの話なのだが、困ったことに大抵のオーディオプレーヤーでは、オーディオファイルを収めたディレクトリ階層やファイル名称などよりも、アーティスト文字列やアルバム文字列などの不安定なデータの方を優先してしまうという、大変困った性質がある。
ディレクトリやファイル名ならPCから簡単に編集が可能だが、メタデータとなると、オーディオプレーヤーの貧弱な編集機能を使って単調な作業を繰り返し、しかも、アーティストだのアルバムだのといった抽象的な項目に何を書くべきかという、余計なことにも頭をひねる必要がある。
CDからリッピングしたデータにも一応何らかのメタデータが登録されるケースが多いが、あくまでCD単位ではなくトラック単位のデータなので、楽章ごとに曲名の言語が違っていたり(英独仏日チェコなど)、コンピレーションディスクのデータだと、引用元のディスクがアルバムとして登録されているため、1枚のCDから作成したデータが複数のアルバムに分解して登録されてしまうという不具合もよく起こる。
アーティストの項目になるとさらに悲惨な状況で、あるフォルダには作曲者名が付けられていて、別のフォルダは指揮者やソリストの名前(あるいはその組み合わせ)になっている。しかもそれらが姓だけだったりフルネームだったり、英語だったり原語だったりして、分類整理しているというよりは、探しにくくなるようにばらまいているという印象がある。
Amazonからダウンロードしたファイルのアーティスト名は"Various Artist"というのが多いが、いっそのことクラシックは全部これで統一してくれたらいいのに、とさえ思う。どの曲も大抵「さまざまな芸術家」が関与しているので、無理に誰かを選び出すより、むしろこのほうが正しい。
このあたりの混乱はもう10年くらい続いていて、それでもかつてはディレクトリやファイル名を優先してくれるプレーヤーも多かったからまだ良かったのだが、ポップスのメタデータ普及率が向上したためか、クラシック関係の混乱は改善するどころか、ますます悪化する傾向にある。
メタデータとCSVを相互変換してくれるツールでもあれば、エディタや表計算ソフトを使って自力で修正しようという気もまだ起こるのだが、プレーヤーの貧弱な編集機能ではとても全て修正しきれるものではない。EXIFデータあたりにはそういうツールもあるらしいが、音楽データにもそういうものがないだろうか。
英語に特化したツールを日本語対応させる難しさというのは日本人はよく味わうが、便利な機能ほど、そこからこぼれ落ちたものにはかえって不便になるというトレードオフは、ある意味当然の帰結なのかもしれない。メタデータがzipped XMLになって、自由に定義できる未来が来るといいな、とは思うが、マイノリティのためにそういう変化が起こるのか、プロプライエタリな規格が主流な中では、なかなか難しいだろうな、と思う。
クラシック音楽の場合、1曲が複数のトラックに分かれていたり、場合によっては複数のCDにまたがっていたりする。それぞれのトラックが、それなりに独立性の高い場合もあれば、連続した演奏を便宜上分割しただけのものもある。CDが開発された当時は、まだクラシック音楽もオーディオ世界の主流にいたので、CDの規格にはそのあたりの配慮がしっかりなされている。
けれども、オーディオファイルの規格を策定した、あるいは実装したとおぼしき西海岸の連中はポップスしか聴かなかったらしく、このあたりの配慮がごっそりと抜け落ちている。そのため、1トラック当たり1曲が当然の前提になっているし、メタデータはアーティストとかアルバムとかいう役立たずのものが前提になっている。
アーティスト(芸術家)というと、作曲者を指すのか、編曲者を指すのか、楽団を指すのか、指揮者を指すのか、独奏者を指すのか、そのあたりの重要な情報が全部欠落している。ボランティア的にメタデータを入力している世界中のユーザーの間でも、メタデータのフォーマットに統一したルールがないために混乱が生じている。
メタデータが正確でないだけならば、それを無視すればいいだけの話なのだが、困ったことに大抵のオーディオプレーヤーでは、オーディオファイルを収めたディレクトリ階層やファイル名称などよりも、アーティスト文字列やアルバム文字列などの不安定なデータの方を優先してしまうという、大変困った性質がある。
ディレクトリやファイル名ならPCから簡単に編集が可能だが、メタデータとなると、オーディオプレーヤーの貧弱な編集機能を使って単調な作業を繰り返し、しかも、アーティストだのアルバムだのといった抽象的な項目に何を書くべきかという、余計なことにも頭をひねる必要がある。
CDからリッピングしたデータにも一応何らかのメタデータが登録されるケースが多いが、あくまでCD単位ではなくトラック単位のデータなので、楽章ごとに曲名の言語が違っていたり(英独仏日チェコなど)、コンピレーションディスクのデータだと、引用元のディスクがアルバムとして登録されているため、1枚のCDから作成したデータが複数のアルバムに分解して登録されてしまうという不具合もよく起こる。
アーティストの項目になるとさらに悲惨な状況で、あるフォルダには作曲者名が付けられていて、別のフォルダは指揮者やソリストの名前(あるいはその組み合わせ)になっている。しかもそれらが姓だけだったりフルネームだったり、英語だったり原語だったりして、分類整理しているというよりは、探しにくくなるようにばらまいているという印象がある。
Amazonからダウンロードしたファイルのアーティスト名は"Various Artist"というのが多いが、いっそのことクラシックは全部これで統一してくれたらいいのに、とさえ思う。どの曲も大抵「さまざまな芸術家」が関与しているので、無理に誰かを選び出すより、むしろこのほうが正しい。
このあたりの混乱はもう10年くらい続いていて、それでもかつてはディレクトリやファイル名を優先してくれるプレーヤーも多かったからまだ良かったのだが、ポップスのメタデータ普及率が向上したためか、クラシック関係の混乱は改善するどころか、ますます悪化する傾向にある。
メタデータとCSVを相互変換してくれるツールでもあれば、エディタや表計算ソフトを使って自力で修正しようという気もまだ起こるのだが、プレーヤーの貧弱な編集機能ではとても全て修正しきれるものではない。EXIFデータあたりにはそういうツールもあるらしいが、音楽データにもそういうものがないだろうか。
英語に特化したツールを日本語対応させる難しさというのは日本人はよく味わうが、便利な機能ほど、そこからこぼれ落ちたものにはかえって不便になるというトレードオフは、ある意味当然の帰結なのかもしれない。メタデータがzipped XMLになって、自由に定義できる未来が来るといいな、とは思うが、マイノリティのためにそういう変化が起こるのか、プロプライエタリな規格が主流な中では、なかなか難しいだろうな、と思う。
タイトルに意味はありません。
--
識ってなんになる、言ってなんになる、みたいな気分になる。ちょっと眠ったほうがいいのかもしれない。
「春雨じゃ、濡れていこう」という言葉を子供の頃から耳にしていたのを思い出したので、検索してみたら「月形半平太」だという。大正時代の作品で、もうこの言葉自体が国語辞典に載っている。
「鳥無き島の蝙蝠」がどこから出てきたというのも、偶然に読んだ「夏草の賦」の中で見つけた。織田信長が長宗我部元親を指して言った(と司馬遼太郎さんが書いた)ものだったようだ。
松屋の豚焼肉定食が人知れず値上げされていたのだが、また値下げするらしい。学生時代のバイト前に、駅前の松屋でよく豚焼肉定食を食って腹ごしらえしたのを思い出す。
震災から1年。思ったほどには生活は変わっていない。震度5くらいは日常茶飯事なので、地震慣れしたという点が最大の変化。震度7となるとまた世界が変わるのだろう。
円安。ニュースは日銀の緩和策と物価目標が主要因との説だが、個人的には単に対外経常赤字が連続したせいではないかと思っている。それでも、日本全体の単月経常赤字が過去最大とはいっても、パナソニック1社の通期赤字にも及ばないのだから、まだ微々たるものなのかもしれない。
3月は季節の変わり目で、いろんな親族の命日が並んでいる。いろいろと思い出すこともあるが、自粛。
ド・ブロイ波とエーテルの関係とか、遅延と記憶の関係とかについてうだうだ考えているが、別にどうでもいいような気もする。
買った本を記録しようとしたが、失敗したのでまた今度。
--
識ってなんになる、言ってなんになる、みたいな気分になる。ちょっと眠ったほうがいいのかもしれない。
「春雨じゃ、濡れていこう」という言葉を子供の頃から耳にしていたのを思い出したので、検索してみたら「月形半平太」だという。大正時代の作品で、もうこの言葉自体が国語辞典に載っている。
「鳥無き島の蝙蝠」がどこから出てきたというのも、偶然に読んだ「夏草の賦」の中で見つけた。織田信長が長宗我部元親を指して言った(と司馬遼太郎さんが書いた)ものだったようだ。
松屋の豚焼肉定食が人知れず値上げされていたのだが、また値下げするらしい。学生時代のバイト前に、駅前の松屋でよく豚焼肉定食を食って腹ごしらえしたのを思い出す。
震災から1年。思ったほどには生活は変わっていない。震度5くらいは日常茶飯事なので、地震慣れしたという点が最大の変化。震度7となるとまた世界が変わるのだろう。
円安。ニュースは日銀の緩和策と物価目標が主要因との説だが、個人的には単に対外経常赤字が連続したせいではないかと思っている。それでも、日本全体の単月経常赤字が過去最大とはいっても、パナソニック1社の通期赤字にも及ばないのだから、まだ微々たるものなのかもしれない。
3月は季節の変わり目で、いろんな親族の命日が並んでいる。いろいろと思い出すこともあるが、自粛。
ド・ブロイ波とエーテルの関係とか、遅延と記憶の関係とかについてうだうだ考えているが、別にどうでもいいような気もする。
買った本を記録しようとしたが、失敗したのでまた今度。
「地獄について」という話を書こうと思っていたけど、眠いので簡単に。
しかしまぁ、ハリウッド映画とか日本のアニメなんかを見るに、正義の立場から振るう暴力って、最高の娯楽なんだな、と、そんなことを思った。アンパーンチ。
地獄で亡者に暴力で報いるのは鬼の仕事なんだけど、あれにしても仏様の公認なんだよな、と。あれはまだあの世という、ある意味空想の世界の話なんだけど、あの世を信じない唯物的な世界では、恨み憎しみはこの世で決着を付けざるを得ない。だから現代日本では、鬼ではなくて刑務官が法と正義に則って悪人を殺すことになる。
地獄の鬼を仮定することで、生身の人間が復習の鬼になることを避けられるとすれば、それはそれで人の高度な知恵ではあると思うのだが、現実は宗教より鬼なり、というところか。
しかしまぁ、ハリウッド映画とか日本のアニメなんかを見るに、正義の立場から振るう暴力って、最高の娯楽なんだな、と、そんなことを思った。アンパーンチ。
地獄で亡者に暴力で報いるのは鬼の仕事なんだけど、あれにしても仏様の公認なんだよな、と。あれはまだあの世という、ある意味空想の世界の話なんだけど、あの世を信じない唯物的な世界では、恨み憎しみはこの世で決着を付けざるを得ない。だから現代日本では、鬼ではなくて刑務官が法と正義に則って悪人を殺すことになる。
地獄の鬼を仮定することで、生身の人間が復習の鬼になることを避けられるとすれば、それはそれで人の高度な知恵ではあると思うのだが、現実は宗教より鬼なり、というところか。
「ローマ人の物語」、ついに読了。古代ローマ帝国について概略を知ると、アメリカという国がどういう姿を理想としていて、どういう変化を恐れているのか、そのあたりがなんとなく見えてきて面白かった。
アメリカの上院というのは元老院を手本としているが、世襲を認めつつも公選制のスタイルを導入している。大統領は基本的に皇帝を手本として、一人に軍と行政を任せる強権を与えているが、同時に執政官の性質も併せ持っていて、上院議員か州知事の中から選挙で選ばれ、4年という固定した任期を定めている。
アメリカから見た近隣の大国は、かつてはソヴィエトと中国、今はイスラム諸国と中国で、どちらもアメリカとは文化圏の異なるパルティアのようなオリエントの王国に近い。そういう目で見ると、日本や韓国、台湾などは、文化圏としては中国に近いが、政権の中枢はアメリカに近い勢力で固めていて、これは古代アルメニア王国の位置付けと非常によく似ている。この3国と中国、あるいは3国間があまり強く結び付かないほうが「分割し、支配せよ」のセオリーに合致してアメリカの利益になることもわかる。ただし、だからといってアジアで連合してアメリカに立ち向かうべきかというと、アメリカがローマ帝国を目標とする大国であれば、むしろその枠内で自由にやったほうが利益が大きいということも、歴史を見るとわかってくる。
ローマ衰亡史の部分では、武官と文官の分離、市民権の取得権から既得権への移行、キリスト教の独占的優遇あたりが大きな原因として挙げられていた。その点は確かに認めるけれども、後期まで戦略戦術に長けた名将がいたのに、ローマ軍が蛮族に数で押され続けていくのが、いまひとつ納得できなかった。塩野さんが述べなかった、ローマ滅亡のもうひとつの原因は、ローマ帝国内の人口減少で、その理由は出生率の低下と、移民の減少の両面によったのだと思う。文明化が進んで出生率が下がるのは防ぎようがないとして、領土拡大を止めた時点で必要になる、周囲の蛮族を継続的に受け入れて文明化する体制を十分に拡大できなかったために、国内人口の減少と周辺人口の拡大を許してしまったのだろう。
移民の国アメリカ本国ではさすがに人口を維持しているが、自由主義圏にまで視野を広げると、先進国の多いヨーロッパや東アジアでは、人口の減少が続いている。それぞれイスラム圏や中国から徐々に移民を受け入れているが、移民の数のわりには異文化の衝突で難しい状況になりつつある。中国やインドではもう文明化による出生人口の減少が始まっているけれども、イスラム圏の一部やアフリカなどでは、紛争終結後の人口爆発はこれからという感じもある。
日本もどこかで移民を受け入れるしかないのだろうけれども、日本語を話す日本人として受け入れる教育体制を作れるのか、それとも外国人と共存する形をとるしかないのか、そのあたりで国の形は大きく変わってくる気がする。
アメリカの上院というのは元老院を手本としているが、世襲を認めつつも公選制のスタイルを導入している。大統領は基本的に皇帝を手本として、一人に軍と行政を任せる強権を与えているが、同時に執政官の性質も併せ持っていて、上院議員か州知事の中から選挙で選ばれ、4年という固定した任期を定めている。
アメリカから見た近隣の大国は、かつてはソヴィエトと中国、今はイスラム諸国と中国で、どちらもアメリカとは文化圏の異なるパルティアのようなオリエントの王国に近い。そういう目で見ると、日本や韓国、台湾などは、文化圏としては中国に近いが、政権の中枢はアメリカに近い勢力で固めていて、これは古代アルメニア王国の位置付けと非常によく似ている。この3国と中国、あるいは3国間があまり強く結び付かないほうが「分割し、支配せよ」のセオリーに合致してアメリカの利益になることもわかる。ただし、だからといってアジアで連合してアメリカに立ち向かうべきかというと、アメリカがローマ帝国を目標とする大国であれば、むしろその枠内で自由にやったほうが利益が大きいということも、歴史を見るとわかってくる。
ローマ衰亡史の部分では、武官と文官の分離、市民権の取得権から既得権への移行、キリスト教の独占的優遇あたりが大きな原因として挙げられていた。その点は確かに認めるけれども、後期まで戦略戦術に長けた名将がいたのに、ローマ軍が蛮族に数で押され続けていくのが、いまひとつ納得できなかった。塩野さんが述べなかった、ローマ滅亡のもうひとつの原因は、ローマ帝国内の人口減少で、その理由は出生率の低下と、移民の減少の両面によったのだと思う。文明化が進んで出生率が下がるのは防ぎようがないとして、領土拡大を止めた時点で必要になる、周囲の蛮族を継続的に受け入れて文明化する体制を十分に拡大できなかったために、国内人口の減少と周辺人口の拡大を許してしまったのだろう。
移民の国アメリカ本国ではさすがに人口を維持しているが、自由主義圏にまで視野を広げると、先進国の多いヨーロッパや東アジアでは、人口の減少が続いている。それぞれイスラム圏や中国から徐々に移民を受け入れているが、移民の数のわりには異文化の衝突で難しい状況になりつつある。中国やインドではもう文明化による出生人口の減少が始まっているけれども、イスラム圏の一部やアフリカなどでは、紛争終結後の人口爆発はこれからという感じもある。
日本もどこかで移民を受け入れるしかないのだろうけれども、日本語を話す日本人として受け入れる教育体制を作れるのか、それとも外国人と共存する形をとるしかないのか、そのあたりで国の形は大きく変わってくる気がする。
マネタリーベースを増強すると、なぜデフレが解消されるのか。その理屈がわからない。デフレが解消すると、なぜ公的債務問題が解決するのか、その仕組みがわからない。
まず、マネタリーベースを増やすと、銀行の貸し出し余力が増える。ところが国内にはもはや大きな投資需要がないので、日本国債を購入するか、あるいは海外投資をすることになる。国債に回る分はデフォルトを防止する程度に抑えるとして、余剰分が海外投資に流れる。いまさらロックフェラーセンター買収の轍は踏みたくないので、せいぜいハイアールを買収して三洋ブランドを復活させる程度になるだろう。最初こそ投資額超過で経常黒字幅は縮小するが、徐々に投資効果が現れて経常黒字幅は増加に転じるだろう。すると、その財によってさらに海外投資が活発になり、その投資により資本力の拡大した周辺諸国が日本製品を活発に購入し、日本の貿易黒字も拡大する。(中略)よって、日本のデフレは解消する。
とまぁ、こんな感じの展開を予想できるだろう。ただ、(中略)の部分がどう繋がるのかがまだ理解できない。素人考えでは、日本の経常収支が慢性的に黒字で続くと、円の需要が高まって円高に傾くような気がするのだけど、それ以上に通貨乱発による信用低下などで円は下がっていくのだろうか。あるいは円高の環境下でもデフレが解消していくようなメカニズムが考えられるのだろうか。あるいは海外投資が純金とか不動産などの、売買差益以上の利潤を産み出しにくい投資に集中するとか、あるいはもっと意地悪く、海外投資の大半は損失を計上して終わるという予測なんだろうか。
とにかくデフレが解消して、物価の上昇予測が年率5%くらいになるとする。すると、国債資産に期待する利率は6%程度になる。国債残高が700兆円として、年間42兆円の利払いが発生することになる。国債の償還期間は一般に長いので、実際の利払いは先送りされるし、マネタリーベースが拡大されているとしたら買い手はあるだろうから、償還を迎えるまでに一般歳入を120兆円くらいまで増やせれば、財政破綻は回避できる。償還債の元本は借り替えるとして、一般歳出が約80兆円、国債利払いに約40兆円の計算なので、社会保障費の取り込みなどで一般歳出が増加していたり、好景気に乗って国債残高の圧縮まで考えると、もう少し余計に税収が必要になる。うっかり物価上昇率が7%くらいまで上昇してしまうと、国債の利率を8%と見積もって、単年の利払いが56兆円になるので、財政均衡に必要な歳入は120兆円から136兆円になって12.5%ほど上昇してしまう。実際には物価上昇に合わせた歳出の増加などもあるだろうから、このあたりのさじ加減というのはかなり難しそうだ。
ただ、そもそも年率5%程度のインフレ率で、大幅な増税なしに増収の倍増というのは可能なのだろうか。5%のインフレ率が10年続けば物価水準は63%上昇するので、企業の利益率が上昇すれば無理な話ではないのかもしれない。ただまぁ、あまりに景気の良い数字ばかりが並んでいて、どうにも胡散臭さが消えない。一度はよくまとまった本を読む必要がありそうだ。
まず、マネタリーベースを増やすと、銀行の貸し出し余力が増える。ところが国内にはもはや大きな投資需要がないので、日本国債を購入するか、あるいは海外投資をすることになる。国債に回る分はデフォルトを防止する程度に抑えるとして、余剰分が海外投資に流れる。いまさらロックフェラーセンター買収の轍は踏みたくないので、せいぜいハイアールを買収して三洋ブランドを復活させる程度になるだろう。最初こそ投資額超過で経常黒字幅は縮小するが、徐々に投資効果が現れて経常黒字幅は増加に転じるだろう。すると、その財によってさらに海外投資が活発になり、その投資により資本力の拡大した周辺諸国が日本製品を活発に購入し、日本の貿易黒字も拡大する。(中略)よって、日本のデフレは解消する。
とまぁ、こんな感じの展開を予想できるだろう。ただ、(中略)の部分がどう繋がるのかがまだ理解できない。素人考えでは、日本の経常収支が慢性的に黒字で続くと、円の需要が高まって円高に傾くような気がするのだけど、それ以上に通貨乱発による信用低下などで円は下がっていくのだろうか。あるいは円高の環境下でもデフレが解消していくようなメカニズムが考えられるのだろうか。あるいは海外投資が純金とか不動産などの、売買差益以上の利潤を産み出しにくい投資に集中するとか、あるいはもっと意地悪く、海外投資の大半は損失を計上して終わるという予測なんだろうか。
とにかくデフレが解消して、物価の上昇予測が年率5%くらいになるとする。すると、国債資産に期待する利率は6%程度になる。国債残高が700兆円として、年間42兆円の利払いが発生することになる。国債の償還期間は一般に長いので、実際の利払いは先送りされるし、マネタリーベースが拡大されているとしたら買い手はあるだろうから、償還を迎えるまでに一般歳入を120兆円くらいまで増やせれば、財政破綻は回避できる。償還債の元本は借り替えるとして、一般歳出が約80兆円、国債利払いに約40兆円の計算なので、社会保障費の取り込みなどで一般歳出が増加していたり、好景気に乗って国債残高の圧縮まで考えると、もう少し余計に税収が必要になる。うっかり物価上昇率が7%くらいまで上昇してしまうと、国債の利率を8%と見積もって、単年の利払いが56兆円になるので、財政均衡に必要な歳入は120兆円から136兆円になって12.5%ほど上昇してしまう。実際には物価上昇に合わせた歳出の増加などもあるだろうから、このあたりのさじ加減というのはかなり難しそうだ。
ただ、そもそも年率5%程度のインフレ率で、大幅な増税なしに増収の倍増というのは可能なのだろうか。5%のインフレ率が10年続けば物価水準は63%上昇するので、企業の利益率が上昇すれば無理な話ではないのかもしれない。ただまぁ、あまりに景気の良い数字ばかりが並んでいて、どうにも胡散臭さが消えない。一度はよくまとまった本を読む必要がありそうだ。
文章を書くには、文章を読む時間と、一人で黙って考える時間と、寝ながら夢を見る時間の3種類が必要で、最近までそれがほとんど確保できなかった。そういうような時間が無尽蔵にあるような境遇よりはかなりマシとはいえ、ちょっと度を越していた。けれども周囲の人達の配慮で、今はそのような時間が少しだけ確保できている。ありがたい。
文章を読む時間と言っても、二宮金次郎少年のように寸暇を惜しんで読む方法もあるが、そういう情報というのは不思議と頭に残らない。ここらへんは個人的な脳の構造に由来する部分が大きいと思っているのだけれど、とりあえずデータとして入力しておけば記憶はあとから付いてくるという人がいる一方で、私などは文章の書かれる背景や情景などをかなり映像的に再生しながらでないと、その内容が記憶できない。そういう読書は速読の反対側に位置するので、どうしても余計な時間を必要とする。寸暇を惜しんで読めるような情報はニュースのような揮発性の情報くらいで、ある程度意味のある文章を読もうとすると、退屈で本でも読みたくなるような時間が必要になる。基本がぐうたらな人間なので、時間さえ与えられれば、いずれそういう状態に陥る。
一人で黙って考える時間というのも、これも傍目には無駄時間で、軽い食事と飲み物を口にする以外の活動が何もできなくなる。本を読んでいても、内容によっては文字を追っている時間と同じか、ひどいとその数倍の時間は、本を開いたまま何かを考えている。30分くらいの読書時間では、ひどいと2ページくらいしか読書が進まないことがあって、そういう場合は読んだ文章が呼び水になって溢れてきた考えを、しばらくそのまま楽しんでいることが多い。もうすぐ読み終わる「ローマ人の物語」だけれども、読書量に比べて読書時間はかなり長く、スキピオやカエサルが戦術を駆使して戦闘していた時期以外は、読み進めるペースは非常に遅かった。逆に考えると、戦場でのスポーツ的な戦術については、自分はほとんど関心がないんだなと、今になって思う。
夢を見る時間というのも無駄に見える時間の極致で、だいたい睡眠時間が7時間を超えてくるあたりから夢というものを見るようになる。あるいは、休日に2時間くらいの昼寝をしているときにもそういうことがある。逆にそれほどの時間が取れない、典型的な日本人サラリーマンの生活をしているときは、全く夢を見ない。起きていても寝ていても、夢を見る余裕がない。そういうときほど社会適合性は高まっているのでなんとも言えないが、個人的な脳の生理から言って、あまり正常な状態ではないと思う。夢の内容というのは自分自身でも不思議に思うようなものが多く、この夢を見る機能がもう少し統制のとれた精神状況で起こるのが、発想とか創作とか、そういうようなものなのだろうと思う。個人的には、週に1回くらい10時間睡眠をとっておくと、そのあたりのバランスがいろいろと具合がいいような気がしている。
--
「隠蔽と信頼」というタイトルを決めたときには、医者にかかるときに、インフォームド・コンセントを取るのか、セカンド・オピニオンを取るのか、あるいは自分の病気の詳細なんて聞いてもわからないし、むしろ聞きたくもなくて、頭から信じて頼るという方法を取るのか、とか、そういう話にしたかったが、どうもケータイサイズに収まる話にならなかった。デバイスというのは、表現の形式も左右するものなんだな、ということも少し思った。
で、3番目の「信頼」を取ると、インフォームド・コンセント方式が要請するような情報の開示は免除されるのだけれど、その「隠蔽」の代償として、信頼される側というのは厳しい倫理規定というか、もうほとんど無限責任というような自律が求められてしまう。それを自他に要求してきたのが明治あたりの教育者や医者であって、だからそういう人たちは「先生」と呼ばれて聖職扱いされてきたのだろう。その無限責任のようなものから、「一労働者」へと格下げしつつ、責任も信頼も(尊敬も)緩和していく過程が最近の日本の状況なのだろうと思った。地域独占を許された電力会社や、免許事業の独占を許された放送系企業なども、そういう信頼と責任の関係から、気付けば一般営利企業の地位に落ちてきていて、そろそろ隠蔽は許されなくなってきているのだろうと、そんなあたりを書こうとしていた。が、なんだかどうでもよくなってきた。
--
よく、30歳を過ぎると体力の衰えを痛感するという人がいるけれども、私の個人的な経験からすると、そういうことはなかった。子供の頃からもともと体力に自身がなく、20代だからと言って特段体力を自慢できるような状況ではなかった。基本的に運動やスポーツは嫌いで、例外としては自転車に乗るのが嫌いではないという程度だったので、70過ぎて足腰立たなくなるくらいまでは、体力の衰えがあったとしても、それを「痛感」する機会がないのだろうと思う。
仏教の世界観に六道というのがあって、人間界というのは天界の一つ下に位置することになっている。天界の住人というのは基本的に老いも病も飢えも痛みもないのだけれど、いずれ天界から落ちる時期というのだけがあって、その予兆が出始めると、地獄にいる苦しみの16倍くらいの苦痛があるという話を聞いたことがある。まあ、感覚としては理解できる気がする。人間というのは基本的に感覚量を微分値で処理する傾向があって、過去の自分との差だとか、周囲の他人との差だとか、そういう差分がマイナスになることのほうが、絶対値の大小よりよほど痛烈に感じられる所がある。そういう意味では、恵まれた環境からの脱落ほど嫌なものはないのだろう。
30を過ぎて体力の衰えを痛感する人も似たようなもので、20代にはさぞかし体力を誇っていたのだろう。絶世の美女、だったかどうかはともかく、その容姿で男性にはモテたという話の小野小町が読む歌に、後半はその衰えを嘆くものが多いというのも似たような理屈なのだろう。若くして絶対値の低さに苦労した人というのは、老いてからの精神的な平穏には恵まれるものなのかもしれない。ただまぁ、音楽を聞いても弦楽合奏の高音が楽しめなくなったとか、アクション系のゲームが異常に下手くそになったとか、その手の衰えを感じることはある。
--
ムスメが学校に通って3年になり、それなりに漢字なども読めるようになってきている。ムスコ1号もひととおりかなが読めるようになって、徐々に機械の操作などもできるようになってきている。そろそろ、ブログ内容の管理というか、家族バレの中でもコドモバレの時期について想定する必要が出てきたように思う。あんまり子供が読んで楽しい内容が書いてあるとは思わないけれども、自分が生まれる前後の時期に親が書きためた文章というのを、自身が成長しながらチラチラと眺めるというのはどういう状況なのか、私自身がそういう経験をして来なかっただけに、想像しづらい。一応表に出してきた内容なのであんまりクリティカルな内容は入っていないはずだけれども、家族にも直接言わないような感情や妄想を書き綴った箇所も多いので、そのあたりはどうかと思う。
--
信仰とは何か、宗教とは何か。「宗教とは結局のところ、『どの教えを宗(むね)とするか』というところに集約されるのであって、それがオカルトの要素を含む必要は、必ずしもない」というような出だしの文章を、ケイタイで書いたことがあった。正しくは投稿メール送信機能を使うべきだったのだが、間違ってフォーム入力を使ってしまい、認証期限切れで投稿に失敗してしまった。PC版のFirefoxのようなフォーム内容復元機能もなくて、内容は完全に消失してしまった。
古い宗教には大きく2つの要素があって、ひとつは「どのように生きるべきか」というあたりで、もうひとつは「なぜそのように生きるべきか」というあたりになる。戒律や儀礼などは「どのように」の部類に入るのだろうし、創世記などの各種神話は「なぜ」の部類に入るのだろうと思う。それらの宗教が成立した時点では、そういう戒律や神話は、単に「何が正しいのか」を追求しただけの結果だったのだろう。ただし当時の文化と現在の文化はかなり離れたものなので、直接的な説明が難しいような事柄については、寓話的に記述することも多かったのだろうと思う。「神」や、天界神話の性質を持つようになってからの「仏」というのも、そういう比喩の一種なのだろうと思う。
当然、それらの伝統宗教が持っていた「なぜ」の部分には、世界がどのような構造を持っているかという宇宙論だとか、現象が起こる原因を説明する法則などを記述した部分があった。ただ、そういう部分については、中東からヨーロッパにギリシャ・ローマの文献とイスラムの科学技術が流れ込んだあたりから、どんどんと新事実が発覚してしまい、信じるべき事実として語られていた「なぜ」の記述が、内容的には下手なファンタジーのようなものだったことが誰の目にも明らかになってしまった。
ただ、その一方で「どのように生きるべきか」という部分については、「なぜ」の記述ほどには壊滅しない程度の普遍性があって、そのあたりは1万年前から人間の本質が変化していないというところが効いてるのだろうけれども、とにかく現在でも人間の心が傷を受けるような状況では効果があるということを、多くの人が経験的に知っている。ただし、「どのように」の前提として組み込まれていた「なぜ」の部分が崩壊してしまっているため、「どのように」の部分が根拠を失ってしまっている面がある。そこで、古来伝えられる「なぜ」は本当に正しいのだ、という流派と、精神医学や「ライフ・ハック」という形で、伝統宗教から独立した方法を「再発見」するような流派が、それぞれに活動しているような状況にある。
あとはまぁ、前頭葉あたりが担っている「理性」のほうは、だいたいにおいて「疑う」ことで力を発揮するけれども、辺縁系あたりが担っている「感情」のほうは、「信じる」ことでしか力を発揮しない。必ず成功すると信じると理性は仕事をしないが、必ず成功すると信じていないと、感情は逃げることを画策して理性の支持を無視するようになる。このあたり、人間組織の指導部と末端の関係にも似ているのだけれど、中枢にあって論理的に判断するパートは、すべてを悲観的に見て疑ってかかるときに最良の仕事をする。一方、各部に具体的司令を出すパートは、中枢の支持や行動の成功をまったく疑わずに信じるときに裁量の仕事をする。
その完全な両立というのは、現時点での生身の人間にはまったく不可能だと思うのだけれども、それに近い精神状態を作り出す実践形態というのは、神や仏などの超越的な力が助けてくれるから絶対に大丈夫だ、安心しろ、ということを「祈り」の形で感情のパートに十分に刷り込んでおき、その状態を作ってから我に返り、理性的に十分なリスク対処をして事に望む、ということなのだろうと思う。なので、超越的な存在というのは単に「信じる」しかないものであり、その超越的な力が現実的に現れることまでは、理性的には期待すべきでないということが、どの宗教の聖典にも、どこかを探せば必ず書いてあるものなのだろうと思う。イエス・キリストあたりも、まるごと信じられる人は幸いだよな、みたいなことは言っているので、そのあたりは十分理解していたのではないかと思う。
問題としては、理性的にも感情的にも信じる事しか許されないと思っている人たちの存在があるし、「理性的には信じてはいけないが、感情的には信じるべきである」という二面性を知っている人の中に、その二面性を人を騙して思いのままにコントロールするための手段として使ってしまう誘惑に負けてしまう人が出るというあたりで、このあたりは古典的な宗教を脱した社会でも、現代的に「何が正しいのか」を巡る論争の中で見かける問題のような気がする。リフレだろうが増税だろうが、実際の環境で実行してみるまではその正確な結末というのはわからないのだけれども、ある考えが正しいと理性的にも感情的にも正しいと信じている人や、そういう人たちの勢いに乗って理論を実地に乗せたい人たちの思惑なども重なって、ある種の宗派論争のような状況になっている。まぁ、このあたりは他人事ではないのだけれど。
--
そろそろ寝よう。おやすみなさい。
文章を読む時間と言っても、二宮金次郎少年のように寸暇を惜しんで読む方法もあるが、そういう情報というのは不思議と頭に残らない。ここらへんは個人的な脳の構造に由来する部分が大きいと思っているのだけれど、とりあえずデータとして入力しておけば記憶はあとから付いてくるという人がいる一方で、私などは文章の書かれる背景や情景などをかなり映像的に再生しながらでないと、その内容が記憶できない。そういう読書は速読の反対側に位置するので、どうしても余計な時間を必要とする。寸暇を惜しんで読めるような情報はニュースのような揮発性の情報くらいで、ある程度意味のある文章を読もうとすると、退屈で本でも読みたくなるような時間が必要になる。基本がぐうたらな人間なので、時間さえ与えられれば、いずれそういう状態に陥る。
一人で黙って考える時間というのも、これも傍目には無駄時間で、軽い食事と飲み物を口にする以外の活動が何もできなくなる。本を読んでいても、内容によっては文字を追っている時間と同じか、ひどいとその数倍の時間は、本を開いたまま何かを考えている。30分くらいの読書時間では、ひどいと2ページくらいしか読書が進まないことがあって、そういう場合は読んだ文章が呼び水になって溢れてきた考えを、しばらくそのまま楽しんでいることが多い。もうすぐ読み終わる「ローマ人の物語」だけれども、読書量に比べて読書時間はかなり長く、スキピオやカエサルが戦術を駆使して戦闘していた時期以外は、読み進めるペースは非常に遅かった。逆に考えると、戦場でのスポーツ的な戦術については、自分はほとんど関心がないんだなと、今になって思う。
夢を見る時間というのも無駄に見える時間の極致で、だいたい睡眠時間が7時間を超えてくるあたりから夢というものを見るようになる。あるいは、休日に2時間くらいの昼寝をしているときにもそういうことがある。逆にそれほどの時間が取れない、典型的な日本人サラリーマンの生活をしているときは、全く夢を見ない。起きていても寝ていても、夢を見る余裕がない。そういうときほど社会適合性は高まっているのでなんとも言えないが、個人的な脳の生理から言って、あまり正常な状態ではないと思う。夢の内容というのは自分自身でも不思議に思うようなものが多く、この夢を見る機能がもう少し統制のとれた精神状況で起こるのが、発想とか創作とか、そういうようなものなのだろうと思う。個人的には、週に1回くらい10時間睡眠をとっておくと、そのあたりのバランスがいろいろと具合がいいような気がしている。
--
「隠蔽と信頼」というタイトルを決めたときには、医者にかかるときに、インフォームド・コンセントを取るのか、セカンド・オピニオンを取るのか、あるいは自分の病気の詳細なんて聞いてもわからないし、むしろ聞きたくもなくて、頭から信じて頼るという方法を取るのか、とか、そういう話にしたかったが、どうもケータイサイズに収まる話にならなかった。デバイスというのは、表現の形式も左右するものなんだな、ということも少し思った。
で、3番目の「信頼」を取ると、インフォームド・コンセント方式が要請するような情報の開示は免除されるのだけれど、その「隠蔽」の代償として、信頼される側というのは厳しい倫理規定というか、もうほとんど無限責任というような自律が求められてしまう。それを自他に要求してきたのが明治あたりの教育者や医者であって、だからそういう人たちは「先生」と呼ばれて聖職扱いされてきたのだろう。その無限責任のようなものから、「一労働者」へと格下げしつつ、責任も信頼も(尊敬も)緩和していく過程が最近の日本の状況なのだろうと思った。地域独占を許された電力会社や、免許事業の独占を許された放送系企業なども、そういう信頼と責任の関係から、気付けば一般営利企業の地位に落ちてきていて、そろそろ隠蔽は許されなくなってきているのだろうと、そんなあたりを書こうとしていた。が、なんだかどうでもよくなってきた。
--
よく、30歳を過ぎると体力の衰えを痛感するという人がいるけれども、私の個人的な経験からすると、そういうことはなかった。子供の頃からもともと体力に自身がなく、20代だからと言って特段体力を自慢できるような状況ではなかった。基本的に運動やスポーツは嫌いで、例外としては自転車に乗るのが嫌いではないという程度だったので、70過ぎて足腰立たなくなるくらいまでは、体力の衰えがあったとしても、それを「痛感」する機会がないのだろうと思う。
仏教の世界観に六道というのがあって、人間界というのは天界の一つ下に位置することになっている。天界の住人というのは基本的に老いも病も飢えも痛みもないのだけれど、いずれ天界から落ちる時期というのだけがあって、その予兆が出始めると、地獄にいる苦しみの16倍くらいの苦痛があるという話を聞いたことがある。まあ、感覚としては理解できる気がする。人間というのは基本的に感覚量を微分値で処理する傾向があって、過去の自分との差だとか、周囲の他人との差だとか、そういう差分がマイナスになることのほうが、絶対値の大小よりよほど痛烈に感じられる所がある。そういう意味では、恵まれた環境からの脱落ほど嫌なものはないのだろう。
30を過ぎて体力の衰えを痛感する人も似たようなもので、20代にはさぞかし体力を誇っていたのだろう。絶世の美女、だったかどうかはともかく、その容姿で男性にはモテたという話の小野小町が読む歌に、後半はその衰えを嘆くものが多いというのも似たような理屈なのだろう。若くして絶対値の低さに苦労した人というのは、老いてからの精神的な平穏には恵まれるものなのかもしれない。ただまぁ、音楽を聞いても弦楽合奏の高音が楽しめなくなったとか、アクション系のゲームが異常に下手くそになったとか、その手の衰えを感じることはある。
--
ムスメが学校に通って3年になり、それなりに漢字なども読めるようになってきている。ムスコ1号もひととおりかなが読めるようになって、徐々に機械の操作などもできるようになってきている。そろそろ、ブログ内容の管理というか、家族バレの中でもコドモバレの時期について想定する必要が出てきたように思う。あんまり子供が読んで楽しい内容が書いてあるとは思わないけれども、自分が生まれる前後の時期に親が書きためた文章というのを、自身が成長しながらチラチラと眺めるというのはどういう状況なのか、私自身がそういう経験をして来なかっただけに、想像しづらい。一応表に出してきた内容なのであんまりクリティカルな内容は入っていないはずだけれども、家族にも直接言わないような感情や妄想を書き綴った箇所も多いので、そのあたりはどうかと思う。
--
信仰とは何か、宗教とは何か。「宗教とは結局のところ、『どの教えを宗(むね)とするか』というところに集約されるのであって、それがオカルトの要素を含む必要は、必ずしもない」というような出だしの文章を、ケイタイで書いたことがあった。正しくは投稿メール送信機能を使うべきだったのだが、間違ってフォーム入力を使ってしまい、認証期限切れで投稿に失敗してしまった。PC版のFirefoxのようなフォーム内容復元機能もなくて、内容は完全に消失してしまった。
古い宗教には大きく2つの要素があって、ひとつは「どのように生きるべきか」というあたりで、もうひとつは「なぜそのように生きるべきか」というあたりになる。戒律や儀礼などは「どのように」の部類に入るのだろうし、創世記などの各種神話は「なぜ」の部類に入るのだろうと思う。それらの宗教が成立した時点では、そういう戒律や神話は、単に「何が正しいのか」を追求しただけの結果だったのだろう。ただし当時の文化と現在の文化はかなり離れたものなので、直接的な説明が難しいような事柄については、寓話的に記述することも多かったのだろうと思う。「神」や、天界神話の性質を持つようになってからの「仏」というのも、そういう比喩の一種なのだろうと思う。
当然、それらの伝統宗教が持っていた「なぜ」の部分には、世界がどのような構造を持っているかという宇宙論だとか、現象が起こる原因を説明する法則などを記述した部分があった。ただ、そういう部分については、中東からヨーロッパにギリシャ・ローマの文献とイスラムの科学技術が流れ込んだあたりから、どんどんと新事実が発覚してしまい、信じるべき事実として語られていた「なぜ」の記述が、内容的には下手なファンタジーのようなものだったことが誰の目にも明らかになってしまった。
ただ、その一方で「どのように生きるべきか」という部分については、「なぜ」の記述ほどには壊滅しない程度の普遍性があって、そのあたりは1万年前から人間の本質が変化していないというところが効いてるのだろうけれども、とにかく現在でも人間の心が傷を受けるような状況では効果があるということを、多くの人が経験的に知っている。ただし、「どのように」の前提として組み込まれていた「なぜ」の部分が崩壊してしまっているため、「どのように」の部分が根拠を失ってしまっている面がある。そこで、古来伝えられる「なぜ」は本当に正しいのだ、という流派と、精神医学や「ライフ・ハック」という形で、伝統宗教から独立した方法を「再発見」するような流派が、それぞれに活動しているような状況にある。
あとはまぁ、前頭葉あたりが担っている「理性」のほうは、だいたいにおいて「疑う」ことで力を発揮するけれども、辺縁系あたりが担っている「感情」のほうは、「信じる」ことでしか力を発揮しない。必ず成功すると信じると理性は仕事をしないが、必ず成功すると信じていないと、感情は逃げることを画策して理性の支持を無視するようになる。このあたり、人間組織の指導部と末端の関係にも似ているのだけれど、中枢にあって論理的に判断するパートは、すべてを悲観的に見て疑ってかかるときに最良の仕事をする。一方、各部に具体的司令を出すパートは、中枢の支持や行動の成功をまったく疑わずに信じるときに裁量の仕事をする。
その完全な両立というのは、現時点での生身の人間にはまったく不可能だと思うのだけれども、それに近い精神状態を作り出す実践形態というのは、神や仏などの超越的な力が助けてくれるから絶対に大丈夫だ、安心しろ、ということを「祈り」の形で感情のパートに十分に刷り込んでおき、その状態を作ってから我に返り、理性的に十分なリスク対処をして事に望む、ということなのだろうと思う。なので、超越的な存在というのは単に「信じる」しかないものであり、その超越的な力が現実的に現れることまでは、理性的には期待すべきでないということが、どの宗教の聖典にも、どこかを探せば必ず書いてあるものなのだろうと思う。イエス・キリストあたりも、まるごと信じられる人は幸いだよな、みたいなことは言っているので、そのあたりは十分理解していたのではないかと思う。
問題としては、理性的にも感情的にも信じる事しか許されないと思っている人たちの存在があるし、「理性的には信じてはいけないが、感情的には信じるべきである」という二面性を知っている人の中に、その二面性を人を騙して思いのままにコントロールするための手段として使ってしまう誘惑に負けてしまう人が出るというあたりで、このあたりは古典的な宗教を脱した社会でも、現代的に「何が正しいのか」を巡る論争の中で見かける問題のような気がする。リフレだろうが増税だろうが、実際の環境で実行してみるまではその正確な結末というのはわからないのだけれども、ある考えが正しいと理性的にも感情的にも正しいと信じている人や、そういう人たちの勢いに乗って理論を実地に乗せたい人たちの思惑なども重なって、ある種の宗派論争のような状況になっている。まぁ、このあたりは他人事ではないのだけれど。
--
そろそろ寝よう。おやすみなさい。
プライベートの反対をパブリックと言っていいのかどうか、日本語ではちょっと微妙なところがあるけれど、他に適当な言葉もないので、そういうことにしておく。というわけで、パブリックな面でいろいろと大変だった1月が終わり、ちょっとだけゆっくりとしている。
暇になったので、信仰と経済の関係という、一般市民とっては毒にも薬にもならないような事を、また考え始めている。けれどもまぁ、過去に苦労してケイタイのキーで打ち込んで、そして投稿に失敗した以上のものをいま書ける気もしないので、ちゃんとしたキーボードと、ちゃんとしたブラウザがある環境に戻ってから、そこらへんはゆっくりと吐き出すことにする。
というわけで今日は、掲題の件について、思うままに少し書いてみる。
--
人は、他人を信用できるものなら信用したいと考えるものだと思う。というのも、他人を疑いながら、それでもなお他人と付き合おうとするには、自分がいろいろと考え、それに基づいて判断する必要があり、要するにそれは面倒なことだからだ。人間もまた動物であり、楽ができるものなら楽をしたいという、本能的な欲求がある。
他人を信用していても、時には悪意によって、そして大抵は力不足によって、それが裏切られることがある。その事に対する対処法には大きく二つの方向があって、ひとつはそもそも他人など信用しないという方向であり、もうひとつは裏切られる可能性を織り込んだ上で信用するという方向になる。あとは、裏切られる可能性を織り込まず、それでいて他人を信用して、裏切られたら一族郎等殲滅の上、末代まで祟るという文化もなくはないが、それはひとまず考えないことにする。
最初の、そもそも他人を信用しないというやり方は、他人の能力を頼りつつも、その完全性は信じないので、相手が自分の依頼をどのように実行しているか、常にその情報を必要とする。そこで開示される情報の質は、依頼した仕事の質と同じくらいの、あるいはそれ以上の価値があることになる。
一方、他人に裏切られる可能性を前提とすると、情報の開示にも保身のための嘘が入り込む可能性を織り込むことができ、そんな余計なことをしても、お互いに労力の無駄ということになる。結果として裏切られた場合には、依頼した側が潔く諦めることになるが、世の中諦めて済む問題ばかりでもない。そこでどうするかというと、あらかじめ保険を掛ける。
適当な保険商品が売られているような分野ならそれに加入しておくのもいいが、そうでない場合には、リスクを分散しておく。金を貸すときに担保を取るとか、仕事を発注するときには2者発注にするとか、具体的にはいろいろなやり方があるけれども、人間のやることに失敗は付き物と考えて、事前に打てる手を打っておく。「常に最悪の事態を想定する」という方針は、基本的にこちらの考え方に属するのだと思う。
個人的には、無常と諦を知る後者のやり方が好きだけれども、世の中必ずしもそういう流れにはなくて、リスクは無駄の一種として嫌われる方向に傾きつつある。そのわりに正確な情報の開示と開示情報の精査には消極的で、かといって、失敗したら潔く解散という風でもない。他人を信用しておいて、裏切られてからうるさく騒ぐ。何がしたいんだろう、という疑問だけが残る。
暇になったので、信仰と経済の関係という、一般市民とっては毒にも薬にもならないような事を、また考え始めている。けれどもまぁ、過去に苦労してケイタイのキーで打ち込んで、そして投稿に失敗した以上のものをいま書ける気もしないので、ちゃんとしたキーボードと、ちゃんとしたブラウザがある環境に戻ってから、そこらへんはゆっくりと吐き出すことにする。
というわけで今日は、掲題の件について、思うままに少し書いてみる。
--
人は、他人を信用できるものなら信用したいと考えるものだと思う。というのも、他人を疑いながら、それでもなお他人と付き合おうとするには、自分がいろいろと考え、それに基づいて判断する必要があり、要するにそれは面倒なことだからだ。人間もまた動物であり、楽ができるものなら楽をしたいという、本能的な欲求がある。
他人を信用していても、時には悪意によって、そして大抵は力不足によって、それが裏切られることがある。その事に対する対処法には大きく二つの方向があって、ひとつはそもそも他人など信用しないという方向であり、もうひとつは裏切られる可能性を織り込んだ上で信用するという方向になる。あとは、裏切られる可能性を織り込まず、それでいて他人を信用して、裏切られたら一族郎等殲滅の上、末代まで祟るという文化もなくはないが、それはひとまず考えないことにする。
最初の、そもそも他人を信用しないというやり方は、他人の能力を頼りつつも、その完全性は信じないので、相手が自分の依頼をどのように実行しているか、常にその情報を必要とする。そこで開示される情報の質は、依頼した仕事の質と同じくらいの、あるいはそれ以上の価値があることになる。
一方、他人に裏切られる可能性を前提とすると、情報の開示にも保身のための嘘が入り込む可能性を織り込むことができ、そんな余計なことをしても、お互いに労力の無駄ということになる。結果として裏切られた場合には、依頼した側が潔く諦めることになるが、世の中諦めて済む問題ばかりでもない。そこでどうするかというと、あらかじめ保険を掛ける。
適当な保険商品が売られているような分野ならそれに加入しておくのもいいが、そうでない場合には、リスクを分散しておく。金を貸すときに担保を取るとか、仕事を発注するときには2者発注にするとか、具体的にはいろいろなやり方があるけれども、人間のやることに失敗は付き物と考えて、事前に打てる手を打っておく。「常に最悪の事態を想定する」という方針は、基本的にこちらの考え方に属するのだと思う。
個人的には、無常と諦を知る後者のやり方が好きだけれども、世の中必ずしもそういう流れにはなくて、リスクは無駄の一種として嫌われる方向に傾きつつある。そのわりに正確な情報の開示と開示情報の精査には消極的で、かといって、失敗したら潔く解散という風でもない。他人を信用しておいて、裏切られてからうるさく騒ぐ。何がしたいんだろう、という疑問だけが残る。
< 前のページ






















