安敦誌


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水分子と日本人は似ている

油やフッ素化合物を塗った表面は水を弾くが、あれは実は、水分子どうしの分子間力が強すぎて、水分子が隣の分子と離れようとしないために起こっている。水分子の集まりである水滴の表面にいる水分子は、内側の水分子に強く引きつけられて、水分子が外に露出する表面をなるべく小さくしようとする力が働く。これを表面張力という。

その強すぎる表面張力によって、水滴のほうが油やフッ素化合物を界面の外に弾き出している。油やフッ素化合物は電気的な分極による分子間力が弱い。こういう物質は水に弾かれる。油が水を弾いているのではなくて、水のほうに油を弾き出す原動力がある。

一方、塩は水によく溶ける。「塩」は広く「エン」と読んでもいいが、ここでは「しお」と読んで、食塩を考える。水に溶けない塩(エン)もある。塩は個体であっても陽イオンと陰イオンを保っていて、NaClという分子になっているわけではない。Na+というイオンと、Cl-というイオンが、イオンのまま静電気のような力で互いに張り付いている。

ナトリウムイオンや塩化物イオンは、水分子の分極以上に電荷が強い。けれども、塩はプラスとマイナスに分解してしまう。水分子は、分子内にプラスとマイナスを持ち、分解しない。プロトンの貸し借りはするけれども。

塩から出たプラスイオンのまわりには、酸素を内側に向けた水分子が集まってきて、水素を外に向けた水和クラスターができる。水分子では電気陰性度の高い酸素原子の側にマイナスの電荷が偏っていて、逆に電子を酸素に奪われ気味の水素原子の側では、水素原子核であるプロトン(陽子)がやや透けて見えるようにプラスの電荷を帯びている。

マイナスイオンのまわりには、水素を向けた水分子が集まってきて、酸素を外に寄せたクラスターができる。ただし、水素は2個あるので、2個とも内側に向けられることもあれば、まわりの水分子が邪魔で、1個しかマイナスイオンの方に向けられないこともある。

強い電荷のまわりには、それがプラスだろうがマイナスだろうが、水分子の取り巻きができる。水分子はプラスもマイナスも持っているし、その割には身が小さいので、そういう事ができる。そういう取り巻きの力で、塩のイオンたちはバラバラにされてしまう。イオンのまわりに水分子たちが取り付いて、あたかも大きな一つのイオンのように振る舞うが、本来のイオンは中心にいる外来のイオンだけで、取り巻きの水分子たちはただそちらの方を向いているだけにしか過ぎない。

水分子同士の結合は強いので、一つの分子を引き剥がすのには強い力が必要だが、水分子は軽いので、一度引き剥がしてしまえば運び去るのにはそれほどエネルギーを使わない。液体の水の表面にいる水分子が空気中の分子の熱運動に叩かれたりすると、どんどん飛び出していき、しまいには全部水蒸気になってしまう。しかしある程度の水分子が集まると、同じ水分子同士で集まり、その分子どうしの結びつきは強い。

油はというと、その分子の重さのために空気に飛ばされにくいために集まって油滴になるが、水分子は極性による分子間の結合力、仲間うちの結び付きの強さによって水滴になる。油の仲間ではメタンが水分子より少し軽いくらいだが、これを液体にするには-161.5°Cまで冷やす必要がある。この水分子の結びつきの原動力である、電気的な極性を共有できない物質は、水分子どうしの結合力に馴染めないことによって、結果的に弾き出される。

油の分子というのは、必ずしも同じ形ではなくても、炭化水素骨格を持っているような、おおよそ似た構造の分子であれば、互いに溶け合える。原油とは、いろいろな重さの、いろいろな形の炭化水素系分子の混ざりもののことで、そこから蒸留によって精製したガソリンや灯油であっても、やはりある程度の範囲の沸点をもつ分子の混ざりものになっている。

イオンどうしの場合も、電荷のバランスと大きさで結晶構造が変わる程度で、プラスとマイナスならどのようなイオンとでも結びつく。水の場合、その特徴的な分子の形から、ある程度相手を選ぶところが違う。

均質な水分子同士の相性はいいが、隣り合う水分子同士の結合は水素結合という比較的強い結び付きになっていて、なおかつ2個の水素が104.5度という微妙な角度で付いているため、両隣の水分子との関係の維持は複雑なものになる。水素の付いていない側の酸素には、隣接する2分子の水分子から水素を1つずつ引き付けており、水分子は通常4個の隣接分子と結びついている。

この結びつきが強すぎて、適温で液体を作っているときはお隣さんをときどき入れ替えながら仲良くやっているが、温度を下げて乱れを排して組織を固定すると、結合が強すぎて逆に隣の分子との距離が広がる。だから氷は膨張して水に浮く。氷では水素と酸素の結び付きは固定され、分子は回転することもできない。

氷の表面にはまだ結合していない水素か酸素がむき出しになっていて、空気中に水分子がある場合、磁石の塊に別の磁石が付くようにして氷の表面に固定されていく。この過程が、霜や雪の結晶を作り出す。

液体の水では、お隣さんの水分子との間で、ときどき水素の貸し借りが行われる。水素と言っても原子核の周りを電子が取り巻いた原子の状態ではなく、もちろんH2の水素分子ではなく、分子全体の電子雲は保ったまま、水素原子核であるプロトンだけを貸し借りする。水素を借りた水分子はH3O+になり、貸した分子はOH-になる。借りた水素が貸主に返される場合もあるが、別の水分子に又貸しされたり、貸した方も別の水分子から水素を取り上げたりする。

液体の水の中では水素原子核(プロトン)は天下の回りものなので、水分子の間を適当に流通していく。水素結合と、そういう水素の貸し借りには、不可分の関係がある。こうしてプロトンをやり取りしているうちに、貸し手と借り手が離れ離れになって残ってしまったH3O+とOH-が、常温の水の場合だと水分子180万個に一組くらいの割合で常に存在する。

外から水素の貸し手(酸)がやってくると、H3O+が優勢になり、水は酸性になる。逆に水素の借り手(塩基)がやってくると、今度はOH-が優勢になって、水はアルカリ性になる。H3O+が減った時にだけ水素を貸し出し、H3O+が増えると水素の返済を受け入れるような貸し手(弱酸)がいる一方で、押し貸しをして、なかなか返済を受け入れないような貸し手(強酸)もいる。塩基にも同じような強弱の区別がある。


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# by antonin | 2016-06-04 01:49 | Trackback | Comments(0)

ほげ

池田信夫さんがどこかで、財政ファイナンスが許されるなら税収ゼロで全歳入を中央銀行の通貨発行で賄う政府もできることになるが、そんなフリーランチは無い、というようなことを書いていた。(検索したが出てこない)

純粋に理論的に言えば、政府が善政を敷いて、国内総生産が安定的成長をして、その成長した価値の分だけ通貨を発行させて、その発行させた通貨の全額を政府支出として市場に供給すれば、一応無税政府は成立する。税金みたいに国民に文句を言われないから、普通は財政規律が緩んで歳出が国内成長を大きく超えるまでに膨れて、悪性インフレになるだろうという経験則があって、そういうのは失敗すると言われている。

仮に禅僧のような厳しい役人と政治家ばかりで無限の財政統制が実現できるなら、正しい国家運営に対する正当な対価として、政府は新規発行通貨を所得として得ることができる。現実には上に書いたような国民からの圧力の不在だとか、中央銀行が発行した通貨を最初に供給してもらう既得権を持った銀行の抵抗などで、そんな神聖な政府は生まれないだろう。けれども、一応理屈としてはフリーランチではない財政ファイナンス制度もあり得ないではない。

今の日本だって、ゆうちょを含めた銀行各社がこれまでに買った国債の債権を放棄すれば財政危機は終わるし、それで間接的に貯金を失う高齢者の最低生活保証を確保できれば、経済は本格的な回復路線に乗る。理論的には。理想的には。空気抵抗や摩擦は無視しても良い。

道州制とか、ベーシックインカムとか、非永住移民とか、みんな正しいんだけど、空気抵抗がね。摩擦がね。ダイラタンシーがね。まあしょうがねぇよな。私ら団塊ジュニアが75歳くらいの頃に日本経済は最悪の状態になって、その先は徐々に回復していくんだろうという話になっているが、途中で不連続点が出てくるかもしれない。ただ、日本の経済の件については、早めにドカンと処理するよりダラダラと処理する方が被害が少ないらしく、あんまり性急に経済政策とかしないほうがいいのだろう。

もうカエルはゆだってしまったので、あとはゆっくりコトコト煮込んで、21世紀後半の人においしく召し上がっていただくしかない。今さら冷ましてもカエルは生き返らない。南無。

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# by antonin | 2015-06-05 03:46 | Trackback | Comments(0)

フリーランチハンター

今日も、まとまっていないことを書く。ほとんど誰も見ていないとはいえ、まとまっていないことを表に書くのは不誠実だとは思うが、なんとなくリハビリ的に何か書いておきたいので書く。

--

若いころ、私はネオダーウィニズムにはまっていた。自己組織化とかニューラルネットワークとかも好きで、数学的構造が環境に適応して勝手に高度な構造を生み出す仕組みに興味を持っていた。それに比べると、今は随分と平凡な仕事をしている。そんな話はどうでもいいのだけれども、「利己的な遺伝子」以降、ネオダーウィニズムはどういう方向に進んでいるのだろう。最近あまりこの方向を追っていなかったので、最新の状況がわからない。

というわけで最新の研究動向は知らないのだけれど、「利己的な遺伝子」の考え方に慣れてくると、そこに書かれていた遺伝子プールというものの役割がわかるようになる。多細胞の生物種にはだいたい3段階くらいの適応機構があって、まず一番短いスパンだと個体の環境適応がある。これにも食べたら太るというような最短スパンの適応と、成長過程で生育環境に適応するという、やや長いスパンがあるが、このあたりは1段階として考える。

それから、最長期スパンとしては、遺伝子コピーのエラーあたりに起因する突然変異と自然淘汰の累積による進化がある。遺伝子から生物個体が作られるという原理(セントラルドグマ)が提唱される前から、それこそダーウィンの時代から仮説として立てられていた古生物学を説明する原理としてはこのあたりの段階が考えられていた。

そして、その中間的な、数世代から数百世代での環境変化に対する適応がある。真核生物の遺伝子というのは染色体の中に遺伝子対があって、実際に表現型となって個体の機能に強く影響する優性遺伝子と、表現型とはならずにその世代では淘汰圧を受けずに遺伝する劣性遺伝子がある。赤血球凝固血液型のA型とB型のように、どちらも同じ程度に優性という組み合わせもある。

とにかく、最長期スパンのように、遺伝子そのものが新しく発生したり数が増えたりするのではなくて、同じ種の群の中でプールされる遺伝子の種類はほぼ変化しないような短期スパンでも、そこに含まれる遺伝子の比率というのは案外短期間で急激に増減することがある。表現型として表に出る優性遺伝子は、繁殖確率を通じて環境の短期的な変動の影響を比較的素早く反映する。

こういう変化では魚が犬になったりはしないけれども、ラマルクが考えたようにキリンの首の長さが統計的に長くなったり短くなったりという変化は起こりうる。ただし、そういうパラメータ調整のような変化では、やはり馬がキリンになるほど劇的な変化はできない。動脈の逆流を防ぐ弁だとか、そういうブレークスルーが突然変異によって起こらない限り、一定以上の変化はメリットよりデメリットが顕在化して阻害される場合が多い。ただ、有性生殖を行う生物種の場合、数十万年のスパンになるとそういう劇的な変化もかなりの確率で起こるものらしい。

ダーウィンが自分の目で観察したフィンチのくちばしの形状変化は、どちらかというとダーウィニズムによる進化というよりはパラメータ調整による短期スパンの適応段階による分岐のような気がするけれども、地理的要因で遺伝子プールがある程度絶縁されている以上、淘汰による進化の一種ではあったのだろう。

最近は遺伝的アルゴリズムやディープニューラルネットワーク、他にももっと古典的な機械学習理論が研究されているけれども、学習にもヒューリスティックな学習とメタヒューリスティックな学習というのがある。ヒューリスティック学習では、計算モデルは固定されていて、そのパラメータが環境からのフィードバックによる最適化を受けて精度を高めていく。

それに対してメタが付く方の学習は、基盤計算モデルと直接計算モデルの2層構造、あるはそれ以上の多層構造になっていて、基盤計算モデルが直接計算モデル自体をいじりながら学習が進む。ニューラルネットワークではニューロンモデルが直接計算モデルになっていて、学習を通じてシナプスの結合係数をいじって、実質的なネットワークモデルを変えていくことでパターン認識などの学習を行うヒューリスティック学習をする。

ここで、赤ん坊の脳味噌でニューロンが枝を伸ばしながらシナプスを新設していくように、ネットワークトポロジーそのものを組み替えていくような基盤計算モデルがあると、ニューラルネットワークはメタヒューリスティック学習をするようになる。このメタヒューリスティックができるようになると万能的な学習ができるようになるのだが、世の中に銀の弾丸は無いというか、効率まで考えに入れてしまうと、万能な学習モデルは無いという定理が存在する。

ノーフリーランチ定理 - Wikipedia

生物の適応でも個体適応は別として、短期の適応は遺伝子比率を動かすだけのヒューリスティックな学習であり、他方地質学的なスパンの「進化」となると、遺伝子プール内の遺伝子セットそのものが変わっていくメタヒューリスティック学習が行われていると考えることができる。ダーウィンが見た生物の微妙なばらつきの原因というのはたぶんヒューリスティックなものだけれども、そこから連想されたダーウィニズムというのはこのメタヒューリスティックな挙動を予想したものだった。

その後の放射年代測定技術や分子生物学の進歩で、ダーウィニズムはかなり強い傍証を得てネオダーウィニズムになっていくのだけれども、化石にならずに消えていった生物種のことなども推定すると、まだまだ分からないことが多い。これからわかってくることも多いのだろう。

人類が猿っぽい生き物から現代人のように進化するまでに、長く見積もっても300万年程度しかかかっていないらしい。そこにもメタヒューリスティックな進化がかなりあったとは思うけれども、大脳が大きくなるとか、背筋が伸びるとか、そういうあたりはひょっとするとヒューリスティックな変化が主要因なんじゃないかとも思う。

そういうヒューリスティックな、パラメータ調整程度の環境適応で充分に生きていけるほど安定した環境が続く場合、単純な生物からどんどん大型で複雑で長寿命の個体を持つ生物種が分岐してくる。ただし地球の歴史には隕石の衝突や火山の大噴火などによる壊滅的な環境変化が、長スパンで見た場合は定期的にあって、そういう急激な環境変化による大絶滅がおこると、貧しい残存環境では大型生物が選択的に絶滅してしまい、微小生物ほど生き残りやすい。そこで再び環境が安定して来ると、微小生物の多様化による大型生物への進化がやり直されることになる。

昔あった定向進化説というのはだいたいこういう原理だと思っている。進化そのものは大型化も小型化も起こりうる不定向なランダムウォークだが、地球環境の変化は小さい方から大きい方への拡散が目立ちやすくするような傾向を持っていたのだろう。そういう意味でいえば、昆虫自体は非常に長い歴史を持っていても、ハチやアリのような真社会性の生物というのは、案外に人類と同程度の歴史しか持っていないんじゃないかという気もする。

もちろん、ハチやアリのような形をした昆虫は昔からいたのだろうけれども、ハチやアリは個体数の割に繁殖能力を持った個体が少なく、世代交代は基本的に群単位で起こる。群の寿命は女王アリの寿命で規定されていて、結構長い。群からオスアリと女王仕様のメスアリがハネアリになって飛び立って別の群が独立する頻度は、それほど高いものではないらしい。

つまり、遺伝子の交換が起こる世代交代の単位でいうと、一匹の女王アリと少数のオスアリだけが意味のある個体で、働きアリはその従属要素ということになる。雑に言うと、遺伝子から見た場合一つのアリの巣が一つの個体というモデルで説明できる。働きアリは、生殖細胞に対する飛び道具的な体細胞みたいなものということになる。ドーキンスが批判していた群淘汰理論とは前提からして違う。

人類や真社会性のハチやアリ(の巣)というのは、「複雑で長寿命の大型個体を持つ生物」という意味で、似たような存在なのだろうと思う。こういうものが存在するということは、直近の大絶滅以降、比較的安定した地球環境が続いていたという証拠で、ヒトもアリも、その間に急激に進化した生物種なんじゃないかという気がしている。

そしてその進化は、突然変異が駆動するメタヒューリスティックな進化よりも、ヒューリスティックな遺伝子配合比率の調整による適応の度合いが高いのではないかという気もしている。セミなどの長寿命の昆虫も、ひょっとするとそういう部類なのかもしれない。鶴や亀などはどうなのだろうか。

まあ、最近あまり本も読んでいないのでこのあたりがどうなのか詳細は分からないが、あと10年くらいしたらゆっくりと本でも読んでみたいと思う。

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# by antonin | 2015-04-17 01:48 | Trackback | Comments(0)

アメリカのプロテスタント的な部分

塩野七生さんの「ローマ人の物語」は書店で平積みになっている第一巻の初版を買った覚えがあるのだが、引っ越しのどさくさか何かで無くしてしまった。それでそのまま読まずにほったらかしになっていたのだが、あるとき文庫になったのでそれから通読したのだけれど、あれを読んで、アメリカ合衆国という国が少しわかったような気がした。

アメリカ合衆国というのはフリーメーソンが建てた国で、個人的な理解では「修正ローマ帝国」なんだと考えている。実際の北米大陸にはフランス的な部分だとかスペイン的な部分だとか、もっと野卑なフロンティア精神だとかがいろいろと混ざっているけれども、地理的には東海岸にある国家の中枢には、フリーメーソン的な連邦政府の思想がある。共和党は寡頭制の頃を理想としている風があって、一方の民主党には初期帝政の、市民と護民官(ただし終身制ではない)というあたりを理想としている感じはある。けれども、どちらも基本的に軍事的強権で自由経済圏を守るというローマ帝国の理想を共有している気はする。

ローマ帝国は王政とか共和制とか帝政とか、政体で分けることもできるけれども、日本人から見ると、国教が多神教の時期と一神教の時期で印象が全く違う。大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓をしたりしているが、基本的に信教の自由は建前として堅持されている。このあたりは多神教ローマと一神教ローマの中間的なものになっている。アメリカ合衆国は、ただ一人で公選制で4年の有期職の大統領を頂点に持っていて、そこに元老院(上院)と衆院(下院)が付いている。このあたりも共和制ローマと帝政ローマの中間的な体制になっている。共和制ローマには任期1年の二人の執政官がいて、帝政ローマには終身制の一人の皇帝がいた。

皇帝という広域国家のトップが終身制だと、選んでみたら実は無能でしたというときに暗殺するしか退位させる方法がない、というのがローマを衰退させる一因だった。コンスタンティヌス帝はキリスト教の宗教的権威を使ってそのあたりをうまくコントロールしようとしたらしいが、逆に息子のコンスタンティウスの代から早くもキリスト教司教の勢力が皇帝権より強くなり始め、西ローマ帝国が滅ぶとキリスト教会のトップが教皇となって君臨するようになってしまった。

そうして長くカトリックが続くのだけれども、聖地巡礼や十字軍などを通じてヨーロッパとオリエントの接触は細々と続いていて、古代ギリシア文化の実質的後継者となっていたイスラム教だとか、キリストを生んだ時代の名残りを伝えるユダヤ教だとか、あるいは東ローマの正教だとか、カトリックの常識が通用しない文化に接する人達に出会う。一番代表的には聖堂騎士団だとか病院騎士団といった、戦時だけではなく平時も絶え間なく巡礼者保護の活動をしていた修道騎士団なんだろうが、建築や美術を学びに行っていた石工などもそのうちに入っていたのだろう。

そういう中で、巡礼者の路銀を預かってトラベラーズチェック的なものを発行するところから始まった金融業が聖堂騎士団の中に起こった。そこから発展した、カトリックの戒律では禁制だった有利子融資の技法だとか、薬学も含めた化学だとか、構造設計のための幾何学だとか、そういうあたりが、信仰と権力の真っただ中にいるカトリックの司祭たちには理解されずに発達し、ヨーロッパでは迫害されながら徐々に秘密結社になっていく。それからユグノー戦争だの30年戦争だのフランス革命だのを経験しながら、最終的に新大陸に合衆国が樹立する。

新大陸を得て、秘密結社だったフリーメーソンは開放的に発展していくのだけれども、石工みたいな技術者の自由思想とは別に、カトリックの禁制を犯してキリスト教の起源に迫るプロテスタントの活動というものの中には、ローマ皇帝に祖国を破壊され、その後も迫害を受け続けたユダヤ教徒の怨念のようなものが静かに横たわっているように感じる。アメリカ合衆国にも、フリーメーソン的な科学的発想と個人の自由を愛する傾向と並行して、プロテスタント的な、カトリックの博愛を強制する態度に反発してユダヤ教に接近する傾向が感じられる。

ユダヤ教には、単に古い時代の「アブラハムの宗教」を伝える人々とは別に、国家を持たない民族の悲哀と怨念のようなものが潜んでいる。ヨーロッパでのユダヤ教徒のイメージというと、医者か学者か金融業者というステレオタイプがあるが、学者は別として、医者と金融業者というのは、人が困った時に頼る職業というところが共通している。いつの世でも、どこの土地でも、よそ者の「異教徒」として生きていた時代、医学や金融資産など、どんなに差別されようが最終的に人間が頼らざるを得ない技能を有する人間だけが生き残ることができたという、ある種の淘汰圧がユダヤ人のステレオタイプ的な「憎たらしいがきわめて優秀な人々」という像を作り出したように見える。

もちろん、カトリックの禁制が不合理で、異教徒だからその禁制を無視して、死体を解剖したり利子を取って金を貸したりという合理的活動ができたのだから、そのことでユダヤ人が力を付けたという見方もできる。しかし、カトリックの禁制も、単に権力の都合による抑圧というものではなくて、経済は停滞するとしても、弱者を守るための慈愛の精神というのが根底にある。ステレオタイプ的ユダヤ人の活動というのは、そういう慈愛を踏みにじって私利を追っているようにも見える。そこに財力への羨望が重なって、カトリック教徒からユダヤ教徒への差別や偏見が助長されたのだろう。

そういう差別の中で生き抜くために、ユダヤ人側もなりふり構わず合理主義を押し通すようになる悪循環のようなものもあったのではないか。信仰としてはあくまで誠実だとしても、キリスト教徒から向けられる嫌悪の情に対して、切り返し的とは言え、悪意の応酬もあったのではないか。大日本帝国時代の朝鮮人でも、移民導入後のフランスにおけるマグレブ人でも、彼らが暴力的だとか悪意に満ちているだとか言うことは簡単だけれども、その遠因はやはり多数派の庶民が少数派の庶民へ無意識の差別をしていたというあたりにあるのだろう。

そういうわけで、一部のユダヤ人は歴史上の祖国を武力で破壊したローマ帝国の末裔であるキリスト教徒たちを憎んでいただろうし、そういう態度がヨーロッパのキリスト教がユダヤ人をより差別的に扱うという悪循環につながったのだろう。その頂点がナチズムからホロコーストに至る暴挙だったのだろうが、ドイツのキリスト教徒たちが嫉妬した資産階級のユダヤ人は相当部分が国外へ亡命し、一方でそういう資力もコネも持たないような社会的弱者のユダヤ人ばかりが、結局は殺害された。

最近の日本でみられる「嫌韓」も、何かそういった悪循環の一種にしか見えず、気分が悪い。そして、アメリカとフランスでは事情が違うにしても、イスラム教徒への偏見にもそういう悪循環が見えるし、キリスト教徒からイスラム教徒への悪意にも気分が悪くなる。ナチスドイツに迫害されたユダヤ人を多く受け入れて救ったアメリカ合衆国にしても、プロテスタントに潜むユダヤ的な憎しみの痕跡のようなものが共産圏の崩壊後に強く滲み出ているように見えて、やはり気分が悪い。

フリーメーソン的なあっけらかんとした個人自由主義は好きなのだけれども、「アメリカンドリーム」と呼ばれるような、天文学的な貧富の差を許す新自由主義というのは、ユダヤ的な、被差別の中で生まれた屈折した割り切りの痕跡のように見えて、あまり好きではない。ユダヤ人は別に嫌いなところは何もないけれども、かつて村上ファンド的に翻訳された「金を儲けて何が悪いんですか」という割り切った態度は、どうも好きになれない。儲かるのは美徳だけれども、儲けるのは悪徳だと感じる。この部分については、禁制の極端さは別として、ナイーヴなカトリックの心情のほうにむしろ好感を覚える。

また共産革命のような若者の暴動を誘発するまでこういう傾向が続くのか、ナチズムのような憎悪が渦巻くまでこういう傾向が続くのか、よくわからない。歴史に興味がある人たちはタックスヘイブンを規制しろだとか富裕税を上げろなどと言い始めているが、上げ潮派のような人達はまだまだ元気そうに見える。そういう人たちが必ずユダヤ人なのかというとそういうことはないのだが、その思想の根底には歴史上のユダヤ人たちの鬱屈があるようにも思う。

美術館が無料で開放されるとか、大学教育が無料で提供されるとか、そういう背景にはある程度ヨーロッパ人が血を見てきた過去の歴史があるのだけれども、そういう文化資本も市場に投げ出してしまう態度というのは、本来市場主義者であるはずの私にも理解しにくい。

ドイツにもトルコ移民などが入ってきていろいろの摩擦が起こっていたようなのだけれども、最近どうなっているのかという話をあまり聞かない。プライマリーバランスをプラスに振って負債を圧縮した原動力がどういう運動なのかというのも知らない。フランスの原子力偏重を横目で見ながら、フクシマを見て原発ゼロに舵を切ったらしいが、自然エネルギーを活用しながら電力輸出超過をどうやって維持しているのかという事情を知らない。

北欧の高福祉思想がほころびを見せている中で、やっぱり米国主義、ということではなく、枢軸国の悪夢を連合国に思い起こさせない程度に、今の日本が参考にすべきは再びドイツという気がしているのだが、どうもマスメディア経由ではドイツ関連の情報が取りにくい。日本語世界にドイツ語の情報が少ないのが、単に商業的需要の反映なのか、あるいは枢軸国の復権を嫌うユダヤ資本が支配しているというマスメディアの陰謀というオドロオドロしいものなのか、そのあたりはなんともわからないが、「修正ローマ帝国」の西部前線にある列島の住民として、東部前線にある地域の動向が少し気になる。

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# by antonin | 2015-04-08 02:23 | Trackback | Comments(0)

卯月惚け

ベイヤー法とは、1860年代にアメリカの鉱山技師エリック・ベイヤーが考案した橋梁技術(アンカリング技法)である。現在はコンクリートなどの人工成形物にアンカーを埋設する成形ベイヤー法が主流であるが、初期には強固な岩盤に穿孔しアンカーボルトを埋め込むタイプの岩盤ベイヤー法が多用された。

岩盤ベイヤー法は成形ベイヤー法に比べ資材の使用量が少なく、山間部での施工に有利な面はある一方で、硬い岩盤に深い穴を多数開ける必要から作業量が多く、先進国家で労働集約的な作業コストが資材コストを上回るようになる19世紀末頃から、次第に利用されなくなった。

この頃、欧米で使われなくなった岩盤掘削用機材が日本に輸入されるようになり、山間部での鉄道や大型鉄塔のステイワイヤー敷設など、国内でベイヤー法の普及が進んだ。機材の老朽化は進んでいたが、安価であり、また初期のシンプルな設計であったアーヴィング ドリルなどはメンテナンスも簡単で、当時の日本の工業技術でも保守が容易だったため、人件費の安い発展途上国であった日本には適した技法であった。

岩盤の露出する山間部に適した岩盤ベイヤー法であったが、機材メンテナンスの都合から都市部を離れた地域で作業が行われる時代にはすでに成形ベイヤー法が主流となっていたため、岩盤ベイヤー法が多用されたのは東京からの鉄道延伸が関東平野を取り囲む山岳部に達する地点であった。

代表的な工区は中央本線の八王子~上野原間(明治34年開業)であり、総計200ポイントを超えるベイヤーアンカーが作成されたと言われる。当時の作業者が過酷な掘削作業中に歌ったのが「がんばんべーやー節」であるとされ、今でも八王子近辺では親しまれている。もっとも、アメリカ民謡「線路の仕事」と同様に、その歌詞は当時の過酷な仕事内容を歌ったものから、楽しげな内容に変化しつつある。

--

みたいなことを2月くらいからボチボチ考えていた。馬鹿だ。
今年度もよろしくお願いいたします。

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# by antonin | 2015-04-01 02:22 | Trackback | Comments(0)

光は本当に量子なのか

光ってなんなんだろう、というのをブツブツ考えている。今や、光というのは光量子、フォトンというものだということが常識になっていて、波動か粒子かなんていう議論はとうの昔にケリが付いたことになっている。けれどもよくよく考えると、どこの説明を読んでも、光が粒子性、あるいは離散性みたいな性質を示す場合というのは、何かの物質粒子、つまり質量のあるフェルミオンとの相互作用を起こした場合に限られるように思える。

光そのものというのはフェルミオンのような状態の排他性がないので、空間的にもポテンシャル的にも線形性がある。この状態のままだと人間からは測定できないので、何らかの物質粒子と相互作用させて、物質側の状態変化を観測している。電流として光を観測するにしても、最初に電子というフェルミオンが媒介していて、純粋な電磁波そのものを直接に観測しているのではなく、電磁波と相互作用する電子の状態を通じて観測している。

そういう観測をすると、光は量子性を示す。なので確かに数式上では光を量子として扱うのが美しい記述になるのだけれども、実験結果などを考えるとき、光自身が量子であると考えてしまうと、スリット干渉実験などのようにいろいろと納得のいかない現象が多い。そこで、光、つまりは電磁波というのはあくまで純粋に近い波動であり、電磁波が物質粒子と相互作用する場合には物質粒子の性質として量子性が出てしまうのではないかと考えるようになった。

ミクロスケールでは電子をはじめとした物質粒子もド・ブロイの物質波という波動性を持っているが、人間が物理観測に使えるような素子では、何らかの結晶質のような空間的に束縛された状態の物質を使っている場合が多い。そういう、TEMなんかを使うと個々の原子のツブツブが見えてしまうような粒子性を示す状態のフェルミオンで電磁波を観測しているのだが、人間が想像する以上にそのフェルミオンというのは広範な波動を持っているんじゃないかという気がしている。

統計的に意味のあるレベルでは各粒子は格子点に局在化しているのだが、光のような波動と相互作用する場合には、意外にブロードな、結構非局在化した物質側の波動が広がっていて、それが純波動である電磁波と相互作用し、たとえば感光反応などの場合には、たまたま何らかの位相が合った粒子が "winner gets all" 式に、ある空間の電磁波のエネルギーを粒子が拘束されている中央付近に集めてしまうのではないかという気がしている。実際、格子点に束縛されていない単原子で光を「観測」してみても、光量子の状態はほとんど収束しないものらしい。

光は3原色から成っています、というのは小学校や中学校の理科の知識としては正しいのだけれども、網膜の錐体細胞内で起こっている光化学反応あたりを理解すると、3原色というのは別に光の性質などではなくて、それを受容する視神経の性質に過ぎないということがわかるようになる。これと同じように、光をフォトンという量子として扱うというのは、あくまで数式上のテクニックに過ぎず、実際のところ量子性というのは光の性質などではなく、光と相互作用する際のフェルミオンの性質に過ぎないんじゃないのか。

そう考えると、マルチパス観測で「光子」が通過しただのなんだのというのは、単に観測側のフェルミオンの波動がどういう形で広がるかというあたりをいじっているに過ぎず、電磁波はあくまで波動として広く並行的に拡散しているんですよ、ということになる。だから、光が「通過した」とか「通過していない」とかは実は観測できていなくて、光はどちらの検出器に検出されるかにかかわらず常にどちらのスリットも通過していることになる。

一方、光の「通過」を観測するかどうかを制御することで、通過点で観測に使っているフェルミオン側の波動の広がり方が、実は観測側にも同時的な影響を与えてしまっていて、その相関が一様に進行する電磁波と観測点の物質粒子の相互作用に影響してしまっているに過ぎないんじゃないかと考え始めている。ハミルトニアンなんかで記述できる既知の波動関数ではなくて、M理論とつながってくるような、もっと高次元で、いわゆる粒子の領域よりずっと広い範囲に影響する波動があって、それが電磁波と相互作用しているんじゃないのか。

ただ、そのフェルミオンが光と相互作用する場合の具合が、EPR相関などでもわかるように、必ずしも局所的でも光速に縛られた因果的なものでもないので、ちょっとマクロ世界の常識が通じにくいというところは残る。ただ、これにしても光速より早く伝わる因果関係は無いという常識を捨てれば、むしろマクロ世界のように光のような非常に速い伝達と水面の波のような遅い伝達があるモデルを持ち込みやすいような気がする。

逆に考えると、量子が「素粒子」に近いものであるという発想自体が大きな間違いで、電磁波が大数法則にしたがうマクロな波動と見なせるほど広大なミクロ世界が、電子などのレプトンより下のスケールにもまだまだ広がっているという方が正しいのかもしれない。

こういうことを考えはするのだけれども、それを裏付ける傍証の調査などをする気力もなく、プログラムのユニットテストの方法論なんていう実用的な情報を集めるのもそこそこ楽しく、また通勤時間などはまとまりのつかないSNS情報の流し読みなどで潰れていったりもするので、こういう妄想を確信に変えるほどのことはできないんだろうなぁ、という気がして、なんだか気怠い。

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# by antonin | 2015-03-17 23:48 | Trackback | Comments(0)

自分のアタマで考えざるを得ない生き方

数式の変換過程だとか、将棋の読み手だとか、そういう作業経過を覚えておく短期記憶に困らない人というのは脳の海馬が大きいらしいのだが、そういう人はきっと記憶の構造が違うのだろう。自分はどうやら海馬が小さいので、記憶というのは丸暗記ではなくて、たとえ嘘でもいいから何かしらの意味付けが必須だった。そうして、短期記憶をなるべく経由せずに、新皮質側の連想記憶でものを覚えていく。そうすると記憶は意味論でしかできなくなるから、細かいディテールは消えて、「だいたいこんな意味のことだった」という記憶の集合体になっていく。

私はこういうものの覚え方しかできないので、どんなに些細なことでも、学習というのは意味の考察とほとんど等価だった。理由、構造、関係、そういったものを、とりあえずでもいいので発見しないと記憶にならなかった。これが、小さい海馬を持って学校のようなものに通う義務を課せられた人間が、考えざるを得ない生き方をしてきた主な理由だった。覚えにくく忘れにくいので、定期試験には弱く外部模試のような出題範囲の広いものには強い傾向があった。

もちろん、特段の理由なんて無いんだからとにかく反復で覚えるしかない、というものもある。そういうことも全く不可能ではなかったが、非常に不得意だった。得意なのは、どうしても理由付けが可能なものになった。何事も既存の記憶に関連付けられるような、理由や背景や構造を必要とするので、ときには普通の人が気付かないような本質的な理由に気付くこともあったが、一方で、妄想に近いようなこじつけの理由付けで記憶されるようなことも多かった。記憶するためには既存の記憶と連合する理由付けが必要なだけで、それが必ずしも客観的な正しさと整合する必要はなかった。

どうしてそんなことまで知ってるの、というようなことを呆れたように言われることもあるが、たいていはそういう理由探しからトリビアルな情報にたどり着いたという経緯だった。そこまでしないとものが覚えられないので必要に迫られてやっているのと、単純にそういうのが楽しいからというのと、両方だった。

海馬の大きい人は「まずは深いことを考えずに記憶してみるといいよ」と言うし、海馬の小さい人は「とにかく自分の頭で考えてみよう」などと言うのだが、こういうものにはおそらく生まれつきの向き不向きがあって、自分の脳の器質に合わない方法を使ってみても、きっとその提唱者のようにはうまくいかない。憧れる人というのは自分にはない能力を持った人であることが多いが、近親憎悪みたいな感情があっても、結局は自分に似たタイプの人に倣うのが効率がいい。顔かたちと違って、脳の機能というのはまだ簡単に弁別できる時代ではないので、画一的な学校教育が続いている日本のような国では、本当に自分に合った学習や考え方のスタイルを見つけ出すのは簡単ではないだろう。

現代日本が苦手だとは言いつつも、記憶が外部化できる時代に生きていられるというのは、海馬の小さい人間にとっては非常に助かる。抗生物質の使い過ぎで免疫系がバカになって花粉症などを起こしているが、それでも現代医学がない時代に生まれていたら、結構な確率で成人前に死んでいただろう。まあ、現代でも精神的に生きづらくて死にそうな20代を送っていたのではあるが。学校というのは記憶重視の時代の方法論がまだ色濃いので困った環境だったが、社会というのはもうちょっとだけ自由なので、そのあたりで救われた面はある。

もしも人工知能というものができたならば、それはおそらくディープニューラルネットワークのような低水準からの脳のシミュレータではなく、もっと現行検索エンジンに近いユニットを多数相互接続して作られた分散ネットワークのようなものになるだろうから、現行のデータベースには直結できて、人間の海馬に相当するような機構はいくらでも強くできるだろう。むしろ、詳細な記憶に支配されすぎてローカルミニマルみたいなものに拘束されないように、詳細すぎる記憶を能動的に遮断するくらいじゃないと正常に動かないかもしれない。詳細記憶に支配されすぎると、おそらくアスペルガー症候群のような動作になってしまう。

ムスコ1号は私によく似て、ワーキングメモリーが非常に小さい。立体図形の脳内回転などの操作が得意な一方で、文章の読み書きが苦手で、作文などでは非常に苦労している。平時はとても穏やかだが、一線を越えると突然キレる。このあたりも私の子供時代によく似ている。考えることを重視した画一的なゆとり教育から、反復を重視する画一的な陰山メソッドに移行した現在の学校教育とは相性が悪く、問題児扱いされて苦しんでいるようだ。

一方、ムスコ2号は記憶力抜群で、特に教えてもいないのに文才があり、兄とは非常に対照的な脳のつくりをしている。物わかりはいいが、自分が譲った不満はなかなか忘れてくれない。春から小学校に入るが、学校ではうまくやっていけるタイプだろう。ムスメは私の父に似て、攻撃的で頑固者だが、寂しがりやである。私は父を見て育ってきたのでこういう性格は嫌いじゃないが、ヨメはどうにもこういうのが苦手らしい。

たった3人しかいないうちの子供たちが、恐ろしいほどに三者三様なので、あまり親の立場で正確なアドバイスはできないが、できればたった2人しかいない親の意見に影響されすぎず、なるべく大勢の大人の意見に接するようにしてもらえたらいいんじゃないかと思う。学校の教室というのも、小学校の場合はたった1人の担任教師しかいない閉鎖空間なので、中学校以降のような教科別教員のいる学校へ進んだ方が生きやすくなるんじゃないかと思う。どんなに品性に優れた教師でも、数人の生徒には必ず嫌われるし、どんなに下品な教師でも、数人の生徒には慕われる。結局、人にはどうしようもない相性というものがあって、このあたりは親兄弟であっても例外ではない。

世界というものは、家庭や学校なんかよりずっと広いものなので、あんまりがっかりせずにいろんなものを見ていってもらいたい。

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# by antonin | 2015-03-06 03:57 | Trackback | Comments(0)

折り合い

湯船に浸かりながら、エウレカがあった。

業務でのC#を使ったツール作成が、スケジュールを大幅に超過している。理由は、新しい言語と新しい開発環境の「理想」を一気に取り込みすぎて消化不良を起こしたところにある。理想の姿を考えるのは楽しいが、考えをまとめるのには時間がかかる。そろそろ現実との折り合いをつける必要がある。理想を一部放棄することになるだろう。その理想の捨て方が、湯船の中でひらめいた。

けれどもまぁ、挫折というのではなくて、考え悩みながら手を動かしてきた末に、ようやく落としどころが見えてきたんだという実感がある。ここまで理想に取り組みながら突っ走ってきてよかったなぁ、最初から妥協していたら、この落としどころは見えなかっただろうな、というのが正直なところだ。

理想像の素描を捨てることで若干の手戻りは発生するが、言語の変更だとかライブラリの変更だとかのために、どうしても新規に作らなくてはならない最低限のところはもう形になっているので、あまり不安はない。美しいが険しい道のりと、泥臭いが手堅い道のりが見えたという意味では、「曳光弾」としては上出来だろうと思うし、失敗ではあるが必要な手順だったのだとも思える。

達人プログラマー―システム開発の職人から名匠への道

アンドリュー ハント,デビッド トーマス/ピアソンエデュケーション

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工学というのは、もちろん先人の成果に乗ってある程度効率の良い方法を学ぶ面があるけれども、その先にはありとあらゆるところにトレードオフがあって、そこにどう比重を付けて優先順位を決めていくのかというのが、実地の工学では要点になる。そして、その落としどころを探るのは妥協ではなく、あくまで優先順位の問題でなくてはならないので、優先順位の高い部分を台無しにしない限度内で優先順位の低い部分もキッチリ始末してやらないといけないし、トレードオフの交点そのものを高めるブレークスルーの可能性にも、いつも心を残しておく必要がある。

そんなことは若いころから先輩に言われていたことではあるが、こういうことが自分自身の言葉として出てくるようになったのは、やはり好きなこと、得意なことを仕事にしたからだろう。自信が砕けることは多いが、薄皮を破るように何度もそれを乗り越えられるのは、やはり根本的に得意なことだからだろう。やたらと努力を説く人がいるが、あれはおそらく、仕事の内容よりも努力することそのものが得意で、何より努力している自分を感じることが大好きな人というだけのことに違いない。

これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。仕事の内容そのものであっても、仕事の進め方や人との折衝というメタな部分であっても、それを楽しめる人にはやはり敵わないし、仕事を発注する側としても、不得意なことを無理に頑張っている人よりも、得意なことを楽しんでいる人に頼みたいと思うだろう。

今や自分は得意なことで仕事をする幸運に巡り合えたわけだが、好きなことに向かって自分で動いた過去があるからこの幸運があるんだと思える一方で、純粋に「運」の面が強いというのも本当に感じる。ほんの小さな何かが欠けただけで、今の境遇は無かっただろう。色々な人たちに助けてもらっている。

掲げすぎた理想の旗を一部下ろして、現実と折り合いを付けよう。そして、あとで旗を取りに引き返せるよう、アドリアネの糸を引きながら前に進もう。なんだか清々している。

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# by antonin | 2015-03-01 00:19 | Trackback | Comments(0)

C++とC#

製造業からソフトウェア業界に移ってから、ずっとC/C++でプログラムを書いてきた。それはそれで悪くないのだが、CにしてもC++にしても、統一された作法を守っていればどちらも美しい言語なのだけれども、C++という言語には長い歴史の重層というものがあって、C++が "Better C" と呼ばれて段階的に色々な技法を試行錯誤していたような時代のコードが現役で生きている。ソフトウェア予算の乏しい業界では「壊れていないものは直すな」という格言があって、テストで補強してリファクタリングをゴリゴリ進められるようになる以前の設計が、現役でバリバリと金を稼いでいたりする。

そういう厄介があって、C++11はおろかC++03標準すら完全に準拠していないような貧弱なコンパイラを使い、C++でありながらMISRA-Cに似た古臭いコーディングスタンダードに縛られながら、忍耐力を要求される仕事が続いてきた。定数はマクロにして、全てヘッダファイルに書くんだそうですよ。恐ろしい。C++はなまじCと互換性が高いせいで、ネットで拾ってきたような標準Cライブラリにべったり依存した処理だとか、生ポインタのnewとdeleteが飛び交う危険なコードが混入しやすい。古いコンパイラだとテンプレートはごく基本的なものしか仕様通りに動く保証がなくて、ある程度の構造はマクロを援用しないと怖くて書けなかったりする。

そして、C++の仕様は巨大化して、まともなコンパイラは地球上でGCCとclangだけになってしまった。Cの美点は、OSのようなハード寄りのソフトウェアを高級言語で書けたのももちろんだけれども、何よりコンパイラが小さくシンプルで、新しいハードにもコンパイラそのものを短期間で移植できるというところにあった。C++は、言語のシンプル化よりメタプログラミング可能なくらい強力な言語の道を選んでしまったので、正しく扱える人も減ってしまったということなのだろう。ある程度基礎的な計算機科学を知らない人が書いたC++のコードというのは恐ろしいものがある。下のリンクにあるような話を読んで、自分を勇気づけながらなんとか実務をやってきた。

The Noble Art of Maintenance Programming

ところが、ちょっとした流れから、既存の小さなプロセスユニットを新しくC#で組み直すことになった。一応期間としては2か月。ほぼ一人仕事で、コード上のことに関しては、かなり制約なく自由にさせてもらえることになっている。カウボーイプログラミングという言葉もあるようで、野狐禅というか、そういう中途半端なものにならないように注意しないといけないのだが、まあ楽しい。これまでC++でもやっておきたかったような正常なカプセル化と例外運用は当然導入するとして、最近のC#5.0では非同期処理が非常にお手軽に書けるようになっており、このあたりも積極的に取り入れることにした。

ただまあ、お手軽とは言え新機能でもあり、水面下にはあの恐ろしい並列処理が潜んでいるので、あまり油断しているとあとで大変なことになるだろう。あとで大変なことになる、というのは、自分とは経験と意見の異なる人がコードをメンテナンスするときに、あまり繊細な構造にしておくとあっという間に壊れてしまうというあたりだ。そして、自分自身も来年には今とは相当経験と意見が変わっているはずで、そのあたりはしっかりベストプラクティスを調べておくべきなんだろう。

今回はテスト駆動も盛り込んでいるのだが、本体のコーディングよりテストの作成のほうが疲れる。本体のほうは比較的まばらに処理が動くゆるゆる設計なのだが、テストは数十本のテストがマルチスレッディングで一気に走る。実行が早くて結構なのだが、本体より一足先に高度な並列処理地獄に陥っている。それぞれのテストは小さく、また独立しているので、メモリ保護やテスト間の同期は気にしなくていいとはいえ、単独実行では一瞬で成功するテストが、一括実行だと遅延したり失敗したりする。まあ、このあたりで高密度な非同期処理の訓練をしておけるのはむしろいいことなのだろう。

テストが遅延する原因を調べたら、Task.Delayというものを知らなくて、非同期プログラミングのサンプルコードにあるThread.Sleepをテストコード側で多用してしまったために、同時実行によってワーカースレッドが枯渇したんじゃないかという疑いが出てきた。こういう失敗は早いうちにしておくべきだろうと思うので、テスト段階で並列地獄になるのはやはり良かったのだろう。

久しぶりに脳味噌フル回転でコーディングができて楽しい。C#も.Net Frameworkも、新しいVisual Studioもほぼ初体験で何かと不慣れなのだが、使ってみるといろいろと洗練されていて使いやすい。開発環境でいうと、識別子の宣言を書き換えるだけで参照箇所を全部直してくれるのが非常に便利。こういう機能はかなり前からあるのかもしれないが、これまで10年以上前の環境でチマチマとやっていたので、まさに隔世の感がある。StyleCopというツールがあって、スタイルで迷わなくていいのも助かる。スタイルというものは一貫性さえあれば、あとはなんとか慣れるものだ。

新しい言語を使うのは楽しいもんですな。

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# by antonin | 2015-02-07 02:10 | Trackback | Comments(0)

浮世離れ補正

かねてより「耳が悪くなった」と嘆いていたのだが、単にスピーカーやイヤフォンなどの再生デバイスが劣化していたからという可能性が濃厚になってきたので、そのあたりを少し。

しばらく前からSONYのイヤフォンを使っているのだけれど、これを使うようになってから結構自然に音楽が聞けるようになった。

SONY 密閉型インナーイヤーレシーバー XB90EX ブラック MDR-XB90EX/B

ソニー

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それで最近になってCDのロスレスエンコードをえっちらおっちらやっているのだが、それでもONKYOのPCスピーカーや、近所のスーパーで買ってきたJVCの廉価版ヘッドフォンだと、相変わらず音がくぐもって聞こえる。ただ、古いCDをエンコードしたクラシックなどではそういうことになるのだが、比較的最近のポップスなどを聴くと、そういう再生装置でも自然に響く。どうやら最近の再生装置はポップスの音源をリファレンスとして設計されているから、クラシックやジャズをリファレンスとして設計された古い装置と違って、オーケストラ演奏などを鳴らすと音がくぐもって聞こえてしまうものらしい。

ONKYO WAVIO アンプ内蔵スピーカー 15W+15W ブラック GX-D90(B)

オンキヨー

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JVC HA-S200-B 密閉型ヘッドホン 折りたたみ式 DJユースモデル ブラック

JVCケンウッド

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スピーカーなどは装置のつまみで低音と高音の比率が調整できるのだが、その程度だとあまり改善しない。今のPCで使っているマザーボードにはRealTekのHD音源が載っているので、その設定アプリのイコライザ機能を使って、プリセットのイコライジングカーブではなく、耳で聴きながら一番よく聞こえるレベルを探ってみた。そうすると、ONKYOスピーカーでもJVCのヘッドフォンでも、ちゃんとクラシックを鳴らすことができる。ロスレス音源の細かい音場まで拾えている。そして、そういう補正を掛けると、今度はポップスがうるさくて耳障りな音になってしまう。

ヘッドフォンのイコライジングカーブはこんな感じ。

b0004933_23315245.png
中低音が若干盛り上がっているのは、このあたりがズシズシ鳴っていると楽しいので趣味的な補正という感じだが、高音を引っ張り上げているのはポップス向きにアレンジされた再生装置の逆補正成分ということになるんだろう。8kHバンドを中心とした高音域を引っ張り上げると、音が非常にクリアになった。ピアノの高音でもヴァイオリンの高音域合奏部分でもスネアドラムのアタックでもしっかり聞こえるようになった。500Hzバンドをつぶすだけでもかなり音が明確になったので、ポップスではこのあたりを強調するとバランス良く鳴るのだろう。

一方、SONYのXB90EXを接続すると、中低音の補強を少し入れたほうが音がリッチに感じる以外は、特に補正なしでクラシックが聴けた。この場合も、逆にポップスのほうで補正を入れたほうが聴きやすかった。RealTekのプリセットにある「ポップス」は、このフラット特性の装置でポップスを聞く場合の補正になっているようだった。逆に、廉価版の装置はこのあたりの補正が、電子的あるいはアコースティックな特性を使って、デフォルトで掛けてあるのだろう。

ところで、私があまりCDを買わなくなった00年代、CD業界にはちょっとした異常な現象が見られたのだという。CDショップの試聴コーナーでの印象を優先した、音圧競争というのが起こっていたらしい。

Bostonの名曲「More Than A Feeling」に見るラウドネス(音圧)競争の現実 | 山崎潤一郎の「また買ってしまった。」

ブログ 懐かしいCDの美しい波形を偲ぶ会

試聴機を使った店頭販売で売れるための味付けが暴走した結果だということらしい。そういえば、以前のテレビ販売でも似たようなことが起こっていた。最近は通販が強くなってきたが、量販店全盛の時代には店頭で見栄えのする、とにかく明るくてとにかく色の鮮やかなモードを持った機種が売れるので、リビングで見ていると目が痛くなるくらいのチューニングをデフォルト設定に据えるメーカーが増えて、描写力の高い領域を中心に据えたような画質重視の機種が売れなくなっていた。プラズマディスプレイが滅びたのも、まあ電力消費の問題もあるけれども、この店頭画質で液晶に比べて劣ったというのが主要因だったらしい。

一方で、10年代に入るとこの傾向には一定の落ち着きが見られるようになったらしい。その理由はよくわからないけれども、iTunesが普及した影響ではないかという気はしている。ダウンロード販売では試聴用に独自のフォーマットを使えるので、販売音源そのものを歪ませて店頭アピールする必要がないということもあるが、それよりも影響が大きいのはiTunesのランダム再生だろう。

あれはどういうアルゴリズムで選曲をしているのか知らないが、少なくとも単純な乱択ではなくて、再生回数や再生時間帯などを考慮しているらしい。しかしそうは言ってもミュージックライブラリ全体から曲を拾ってくるので、曲から曲に移った時にいきなり音量が変化すると困る。ということで、iTunesはCDからトラックをリッピングする際に平均音圧レベルを記録しており、ランダム再生時はこの音圧が均等になるように補正を掛けて再生している。

この音量補正のために、CD音源で音圧競争をしてもポータブルデバイスでのランダム再生時にはiTunes様によって自動キャンセルされてしまう。そうなると、残るのは一定音圧レベルでの音質ということになるので、あまりに音圧上限に張り付いた曲というのは印象が良くなくなってしまうのだろう。個人的にそういう曲をあまり聞かないのでよくわからないが。

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最後に。イコライジング調整用音源の紹介のためにスターウォーズ Episode V 「帝国の逆襲」の finale を調べていたら、面白いものを見つけた。

『スターウォーズ/帝国の逆襲』(Ending) by Moment String Quartet (弦楽四重奏ver) - YouTube

スターウォーズの音楽はそもそも管弦楽組曲みたいなものなのでクラシックに親和性があるのだが、これは弦楽四重奏に編曲されている。そして動画を見ると演奏しているのは若い女性たちで、こんな昔の男の子仕様の曲を何でまた、と思ったら、ちゃんと黒幕(失礼)が存在していた。

_... m o m e n t ...._

びよら弾きの備忘録

どおりで愛情あふれる編曲なわけだ。これは男の子だった経験がある人間にしかできない編曲だろう。「ベイマックス」にしてもそうだけれども、性差別とかそういう話は抜きにして、趣味における男女差というのはどうしても存在するものなのだ。

ちなみに原曲はこう。

the empire strikes back finale music - YouTube

あのクソ派手な管弦楽を室内楽でよくまああれだけ再現したもんだ。素晴らしい。

そういえば調整用音源の紹介を忘れていた。上に挙げたヘッドフォン用イコライジングカーブの作成にはデュトワ/MSOでラヴェルのボレロ後半を繰り返し鳴らしていた。まあ、有名だから張らなくてもいいか。

ポップス評価用の曲はこれ。

Avril Lavigne-Take Me Away Music Video - YouTube

PV初めて見た。女の子は大変ですな。しかし、これでも10年以上前になるのか。

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# by antonin | 2015-01-25 01:21 | Trackback | Comments(0)


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