かなりどうでもいい話。
最近はあまり特定のblogを購読と言うか定期アクセスしたりする習慣が消えたのだけれど、tumblrのdashboardなんかを眺めていると、ときどき特定のIDから特定blogの記事が引用されたりしていて、まれにリンク先へ飛んで全文を読んだりする。今回もそんな具合で「極東ブログ」の記事を読んだ。
吉本隆明の言う「精神の速度」について: 極東ブログ
ここで言う「精神の速度」というのは、「熱い社会」と「冷たい社会」の比喩で言う温度パラメータのようなものを指すらしい。熱力学の温度パラメータの場合だと、微視的には気体定数がボルツマン定数に化けて分子運動の平均速度の大小というあたりに落ち着くので、そういうものと対比したときの「速度」ということを言っているのだろう。まあそこらへんの主題は、私が吉本隆明という人を面相以外ほとんど何も知らないということもあって理解出来ない部分が多かったけれども、今回の私のネタはもっとずっと皮相な部分で、正月休み以降ちらほら目にする「つらつら」という言葉をここでも目にしてしまったことだった。
安敦誌を始めて間もないころ、知っているようで実は意味に確信が持てないような言葉をいくつかネット辞書に入力して遊んでみたことがあった。
安敦誌 : わたしの知らない日本語
こういうのを辞書で調べてきて、現代人の多くが「誤用」しているなどと言ってあげつらう態度は私自身の嫌うところであって、日本語のネイティブスピーカーたる現代人の過半が新しい意味でその単語を用いていたら、もうその単語の意味は日本語において不可逆的に変化したのであり、むしろ辞書のほうが最新の用法を参照して改訂されるべきだと思っている。なので、finalventさんのような知識人が「つらつらと」を「熟熟と」という感じではなく「たらたらと」に近いニュアンスで書いていたとしたら、それが正しいものとして読むべきものだと思っている。
ただ、なんというか、知らなきゃいいものを知ってしまった面倒というのか、「つらつら」という、オノマトペだかなんだかよくわからない島言葉風日本語表現を目にするたびに、私の脳内で「たらたら」というイメージと「熟熟」というイメージの両者が同時に提示されてしまって、その前後の表現を読んでどちらの意味と取るべきなのか精査するというのが、半ば義務的な習慣になってしまった。「つらつら」を書いた主がお気楽父さんみたいな人物であれば、「熟熟」という選択肢は半自動的に棄却されて楽なのだけれど、問題は「だが私の精神・感性はそれを肯んじはしなかった」みたいな文章を書く知識人がその主である場合で、この場合には果たしてどちらの意味と取るべきなのか、ある程度前後の文脈を慎重に読み込むことが要求されるという厄介が生じる。ちなみに「肯んずる」は「がえんずる」と読むらしい。読みがわかってなお聞いたことがない言葉というものに久しぶりに出会った。意味はまあ、字面から肯定と知れるからまだいいのだけれど。
今回の事例では、冒頭に「正月ぼんやりとだが、『精神の速度』ということを考えていた」という一文があり、どうやらfinalventさんは正月にはぼんやりしていたらしいから、「つらつら」の部分も「熟熟」とは考えなくてよさそうだ、と結論した。そこはまあどうでもいいのだけれど、仮に「つらつら」の辞書的な意味がfinalventさんのような人物の耳に入った場合、その前後で果たして同じように「つらつらと」という文を書き続けることができるものだろうか、というのは少し興味がある。もし仮に辞書的意味を知らずに習慣的に使っている言葉なのだとしたら、是非耳打ちしてみたいという意地悪な衝動に駆られるが、まあ放っておくのがいいのだろう。
私自身は「つらつらと考えていた」みたいな表現を元から使わないほうだったので、辞書を引く前後で文章に変化が生じたりはしなかった。しかし、あの「ら抜き言葉」騒ぎ以降、実際に一段動詞とラ行五段動詞の区分についてかなり慎重になってしまったという経験もあるので、もし仮に「つらつら」遣いであったとしたら、もう面倒だから「つらつら」なんて書かない、という選択肢を取っていたんじゃないかと思う。「食べれる・しゃべれる・ミニストップ」あたりは全く抵抗がないが、「教えれる」とか「潜られる」なんて言葉を耳にしたときは、余計なことを言わないようにと、ちょっと無口になってしまったことがあった。ら抜き言葉についてはATOKが鼻につくCMを打っていた頃の記事があるので、そちらを引用して結。
安敦誌 : 日本語テスト
最近はあまり特定のblogを購読と言うか定期アクセスしたりする習慣が消えたのだけれど、tumblrのdashboardなんかを眺めていると、ときどき特定のIDから特定blogの記事が引用されたりしていて、まれにリンク先へ飛んで全文を読んだりする。今回もそんな具合で「極東ブログ」の記事を読んだ。
吉本隆明の言う「精神の速度」について: 極東ブログ
ここで言う「精神の速度」というのは、「熱い社会」と「冷たい社会」の比喩で言う温度パラメータのようなものを指すらしい。熱力学の温度パラメータの場合だと、微視的には気体定数がボルツマン定数に化けて分子運動の平均速度の大小というあたりに落ち着くので、そういうものと対比したときの「速度」ということを言っているのだろう。まあそこらへんの主題は、私が吉本隆明という人を面相以外ほとんど何も知らないということもあって理解出来ない部分が多かったけれども、今回の私のネタはもっとずっと皮相な部分で、正月休み以降ちらほら目にする「つらつら」という言葉をここでも目にしてしまったことだった。
安敦誌を始めて間もないころ、知っているようで実は意味に確信が持てないような言葉をいくつかネット辞書に入力して遊んでみたことがあった。
安敦誌 : わたしの知らない日本語
つらつら 【▽熟▽熟/▼倩▼倩】
(副)
つくづく。よくよく。
「―(と)思うに」「港内の動静(ようす)を―窺ひ見るに/近世紀聞(延房)」
漢字の難しさはさておき、よくよくって意味だったんですね。「てきとうに」とか、「なんとなく」って意味だと思っていました。「つらつらとページをめくりつつ」なんていうと、熟読なんですね。
こういうのを辞書で調べてきて、現代人の多くが「誤用」しているなどと言ってあげつらう態度は私自身の嫌うところであって、日本語のネイティブスピーカーたる現代人の過半が新しい意味でその単語を用いていたら、もうその単語の意味は日本語において不可逆的に変化したのであり、むしろ辞書のほうが最新の用法を参照して改訂されるべきだと思っている。なので、finalventさんのような知識人が「つらつらと」を「熟熟と」という感じではなく「たらたらと」に近いニュアンスで書いていたとしたら、それが正しいものとして読むべきものだと思っている。
ただ、なんというか、知らなきゃいいものを知ってしまった面倒というのか、「つらつら」という、オノマトペだかなんだかよくわからない島言葉風日本語表現を目にするたびに、私の脳内で「たらたら」というイメージと「熟熟」というイメージの両者が同時に提示されてしまって、その前後の表現を読んでどちらの意味と取るべきなのか精査するというのが、半ば義務的な習慣になってしまった。「つらつら」を書いた主がお気楽父さんみたいな人物であれば、「熟熟」という選択肢は半自動的に棄却されて楽なのだけれど、問題は「だが私の精神・感性はそれを肯んじはしなかった」みたいな文章を書く知識人がその主である場合で、この場合には果たしてどちらの意味と取るべきなのか、ある程度前後の文脈を慎重に読み込むことが要求されるという厄介が生じる。ちなみに「肯んずる」は「がえんずる」と読むらしい。読みがわかってなお聞いたことがない言葉というものに久しぶりに出会った。意味はまあ、字面から肯定と知れるからまだいいのだけれど。
今回の事例では、冒頭に「正月ぼんやりとだが、『精神の速度』ということを考えていた」という一文があり、どうやらfinalventさんは正月にはぼんやりしていたらしいから、「つらつら」の部分も「熟熟」とは考えなくてよさそうだ、と結論した。そこはまあどうでもいいのだけれど、仮に「つらつら」の辞書的な意味がfinalventさんのような人物の耳に入った場合、その前後で果たして同じように「つらつらと」という文を書き続けることができるものだろうか、というのは少し興味がある。もし仮に辞書的意味を知らずに習慣的に使っている言葉なのだとしたら、是非耳打ちしてみたいという意地悪な衝動に駆られるが、まあ放っておくのがいいのだろう。
私自身は「つらつらと考えていた」みたいな表現を元から使わないほうだったので、辞書を引く前後で文章に変化が生じたりはしなかった。しかし、あの「ら抜き言葉」騒ぎ以降、実際に一段動詞とラ行五段動詞の区分についてかなり慎重になってしまったという経験もあるので、もし仮に「つらつら」遣いであったとしたら、もう面倒だから「つらつら」なんて書かない、という選択肢を取っていたんじゃないかと思う。「食べれる・しゃべれる・ミニストップ」あたりは全く抵抗がないが、「教えれる」とか「潜られる」なんて言葉を耳にしたときは、余計なことを言わないようにと、ちょっと無口になってしまったことがあった。ら抜き言葉についてはATOKが鼻につくCMを打っていた頃の記事があるので、そちらを引用して結。
安敦誌 : 日本語テスト
明治政府が優秀な人材を集めるために始めた恩給制度が、名前を変えて今に続いているものが共済年金で、それを真似て民間企業が始めたのが厚生年金なのだという。国民年金は少し性質が違うけれども、現役時代の給料が高いほど年金額が多く、原資を現役世代の稼ぎに依存するという年金制度の基本的な性格は、この恩給制度に由来するという。
日本の財政の問題点は、大きく2点からなる。ひとつは、人口ピラミッドが本当にピラミッド形をしていた多産多死の時代に合わせて設計された制度が、少産少死の時代になって機能しなくなっていること。もうひとつは、旧大蔵省の過剰な強権を嫌って各省庁が導入した特別会計が、国家予算として審議を受けない裏帳簿となって国内の経済を圧迫していること。
この二つの問題点を凝縮したようなものが年金問題で、このあたりをきれいに解決できないと、表帳簿である一般会計の借金問題を増税で解決したとしても、国家財政全体の問題は解決しない。松下政経塾のビジョンにそこまでの将来像があるのか、ちょっと調べてみたい。
野田さんは案外に食えない人らしいので、今は消費税増税以外のことまで気が回らないようなことを言っていても、余り周囲を刺激しないようにしつつも改革の着地点の像は持っているだろう。TPPにこだわって見せたのも、実は税制問題からマスコミの目を反らすためのブラフだったのでは、などと想像すると楽しい。そこまで狸かどうかはわからないけれども。
手始めに、最高額紙幣から私利主義の象徴のようなあの人の肖像を外すあたりから改革してくれると痛快だが、あえてそういう刺激的なことをしないのがドジョウ流らしいので、まあ気長に観察していこうと思う。
日本の財政の問題点は、大きく2点からなる。ひとつは、人口ピラミッドが本当にピラミッド形をしていた多産多死の時代に合わせて設計された制度が、少産少死の時代になって機能しなくなっていること。もうひとつは、旧大蔵省の過剰な強権を嫌って各省庁が導入した特別会計が、国家予算として審議を受けない裏帳簿となって国内の経済を圧迫していること。
この二つの問題点を凝縮したようなものが年金問題で、このあたりをきれいに解決できないと、表帳簿である一般会計の借金問題を増税で解決したとしても、国家財政全体の問題は解決しない。松下政経塾のビジョンにそこまでの将来像があるのか、ちょっと調べてみたい。
野田さんは案外に食えない人らしいので、今は消費税増税以外のことまで気が回らないようなことを言っていても、余り周囲を刺激しないようにしつつも改革の着地点の像は持っているだろう。TPPにこだわって見せたのも、実は税制問題からマスコミの目を反らすためのブラフだったのでは、などと想像すると楽しい。そこまで狸かどうかはわからないけれども。
手始めに、最高額紙幣から私利主義の象徴のようなあの人の肖像を外すあたりから改革してくれると痛快だが、あえてそういう刺激的なことをしないのがドジョウ流らしいので、まあ気長に観察していこうと思う。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
と、誰に言うでもなく。
--
年初なので特別なことでも書こうと思ったけれども、もはや日本の正月というのは子供のころに経験したようなしんとした正月ではなく気分もあまり平生と変わらないので、珍しくフルキーボードで入力できるという点のみいつもと違った感じで、適当に思いついたことでも書いていくことにしよう。
--
陸軍省と財務省は似ている。そんなことを思った。
野田政権が財務省の傀儡政権みたいな言い方をされることがあるけれども、今は財政が危険水域にある非常事態なのだから、財政のプロである財務省の意見に内閣が耳を傾けるというのはマトモな判断だと思う。基本的に菅政権が与謝野さんを引き入れたあたりからこの流れは確定路線だったので、それを野田さんが日本人向きのドジョウのような柔軟性と泥臭さで陽の当たるところに出し始めたということでしかない。
小泉さんが郵政という累代の宿敵相手に格闘していたとき、世間的な大儀として財政改革も旗印にしていたので、そのあたりの実務に竹中さんを引っ張り出した頃はまだ、国債も正攻法で何とかなる可能性をいくらか残していた。しかしその後に安倍さんが神州復活に怪気炎を上げて財政改革が一休みになったり、そうこうするうちにリーマンショックがあったりして、その後は累積国債も新規国債も安定した指数関数を描く発散路線に入ってしまった。
この段階になってようやく財務省が政治の主導権を握ったのだけれど、財務省というのは財務のプロであると同時に、財務の最高責任官庁でもあって、あからさまな財政破綻というような結末を自身で選択するという道は、あらかじめ塞がれているようなところがある。新書などでいくつかの説を読むと、日本国民が自暴自棄になって各自の仕事をぶん投げたりしない限りは、日本円の信用が底なしに低落するような事態にはならないらしい。とはいっても、やはりどこかで国と地方の「債務整理」みたいな事態は発生するのが必然らしく、公債がほぼ国内で消化されているという日本の公債構造上、そこで債権放棄を迫られるのは(その時点での)日本国民ということになる。
ものの本によると、全くの無策で残り3年、土俵際で問題先送りの粘り腰を最大限に発揮しても20年くらいで、日本の公債は「破綻」するらしい。その被害というのは、意外にも無策でドカンとやった場合が最悪で、粘りに粘った末では案外にソフトランディングに近い形に持ち込めるものらしい。まあ、頼れる奴が突然死するよりも、しばらく前からダメだダメだと言った末に息絶えるほうが、周囲の迷惑も少ないということなのだろう。で、そういう危機的状態、勝ち目は無いけれどもここまで来た以上は最大限の戦果を残して以後の交渉を優位に進めるべくプライドを掛けた負け戦をしている段階に、日本経済というのは入っているらしい。
そういう局面における責任をモロに負ったプロ集団ということで、日米開戦あたりの陸軍省と、今くらいの財務省は似通った位置づけにあるような気がした。日本軍が追い込まれた原因が欧米列強を刺激するほどの大陸利権拡張にあったとか、日本経済が追い込まれた原因が地価の過熱を止められなかった時点にあったとか、まあそういうことは言えるのかもしれない。けれどもそういうのはどうしても後知恵という面があって、国民の熱狂が冷める頃には局面がもう9割がた決しているということになりがちなのだろう。
自転車やスキーなどで空中に飛び出てからバランスを崩して、どう見ても怪我をするとわかりきっていても、なんとかダメージを最小にする姿勢を模索するときの妙な冷静さというものがあって、民主党政権を3代経験した日本国民の冷めた空気というのは、なんとなくそういうものになりつつあるんじゃないかという気がしている。
参謀本部でも、もとより負け戦だというのは戦略に通じた人ほど良く理解していて、それでも前線の士気というのは負けを意識した時点で使い物にならなくなるものでもあるので、最後の際まで「勝つぞ勝つぞ」で押し切る羽目になる。で、とうとう潮時がやってくると、中枢部は停戦を決議しなくてはいけないし、勝つぞ勝つぞで尻を叩いてきた末梢に対するけじめを付けないといけなくなる。実際には陸軍大臣が自決したりなんだかんだと物語があったようで、そのあたりは近いうちに本で読んでみようかと思う。
今の消費税増税論議も似たようなところがあって、消費税を増税することで財政破綻が回避できるというわけでもないのだが、かといって税制改革も未了の状態で財政破綻が直撃すると、「その後」が大変なことになってしまう。もちろん、国民の手前としては財政破綻を前提とした増税などというのは筋が通るはずも無く、あくまで財政の正常化を目指すという旗印を下げるわけにはいかないのだけれど、経済に通じた人ほど、それが実現不可能であるということを直視しているらしい。
まあ、とにかく具合が悪いらしいんですけれども、80年に1回くらいはそういうこともあるわいな、という気もしなくもない。願わくば東北の津波被害より小さい被害で終わるように、最善を尽くしましょう、と。
--
地球の丸さについて。
昔々、まだ20歳かそこらの頃、気まぐれに購入した天文手帳に載っていた天文定数表を眺めながら、アポロ探査機が月面にレーザー反射鏡を設置する以前は、どのようにして太陽までの距離を測っていたのだろう、などということを考えていた。
古代ギリシャの文化を生み出した人々は地中海貿易をする海洋民族で、地面が丸い地球と呼べるものであるということと、やはり丸い太陽が非常に遠くにあるということを経験的に知っていた。また、アレクサンドリアのエラトステネスは、シエネという町には夏至の日に井戸の底に日光が達する井戸があると知って、同じ夏至の日にアレクサンドリアの太陽南中高度を計ってみた。すると、シエネとアレクサンドリアには円の50等分角に相当する角度差があるとわかり、そこから地球の円周を25万スタディアと算出した、というような話が、理科の教科書に載っていた。
その後、ルネサンス以降のヨーロッパでは経度の等しい2地点間を精密に三角測量して子午線の長さを計るというプロジェクトが何度もあったらしく、フランス革命の余力を駆って、子午線(北極から赤道までの距離)の1千万分の1の長さを1メートルという科学的な測長単位とする、というような決定もされた。似たような感覚で、太陽系内の測長単位というのは地球の平均公転半径を1AU(天文単位)としているけれども、この1AU、つまり地球から太陽までの距離の測定方法というのが、ギリシア的な単純な方法でもなく、レーザー測距のような現代的な方法でもなく、その制定時点での手法としてはどのような方法だったのか、いろいろと考えてはみたものの、これといった結論は出なかった。
書店や図書館などで簡単に調べてもみたが、どうも直接的な回答を発見することはできなかった。そこで、当時のパソコン通信で、史実としてはどんな具合だったのかを質問してみた。史実はさておき、こういう方法だったんじゃないかという侃々諤々の議論などを経てから、プラネタリウム勤務の専門家の方から、幸いにも史実に基づく回答をしてもらえた。まずケプラーの法則から各惑星の軌道半径比率が求まっており、惑星軌道のかなり精密な定数は判明していたが、絶対的な距離だけはわからない、という状態があったという。次に、望遠鏡を使って金星、あるいは火星までの距離を三角測量し、そこから地球の軌道半径の計算に必要な定数を求め、結果として地球から太陽までの距離が求まった、ということだった。今なら検索で簡単に答えが見つかる。
参考:「暦と星のお話」より
「星の距離を測る」
「金星の日面通過」
のちには、軌道計算の済んだ小惑星の接近時にそこまでの距離を測定することで、徐々に計算精度を上げていったらしい。
で、太陽までの距離はともかく、地球が丸いということは確かに了解可能なのだと思った。現在の一人住まいは海沿いの道に面していて、海況によっては波音を聞きながら眠ることになるような距離にある。そこから太平洋を眺めると、大洋という印象に反して海は穏やかで、晴れた日には水平線がえらくクッキリと見える。もしも地面が世界の果てまで平坦だとすると、空と海を区切る水平線というのは無限のかなたにあるはずなのだが、実際に目に見える水平線というのは、あまりにもはっきりとしすぎている。地面というか海面が大きな球だとすると、水平線が近くにあってくっきりと見えることに矛盾が無くなる。
それから、港から出て行った船が、案外簡単に水平線の上に乗ってしまう。これも同じく、水平線が世界のかなたにあるとすると説明がつかない。教科書にあったように、水平線に乗った船が下から見えなくなっていくというのはまだ確認していないが、矯正視力0.7程度の私の目でも、水平線にきれいに乗った大型船を確認することができる。帆船の時代ではないので、仮に船が沈んで見えていたとしても貨物が重くて喫水が深くなった状態と区別することも難しいだろう。
そういう具合で、海沿いに暮らすと地球の丸さなども実感できるというのが面白い。大陸に1年とか、地球周回軌道に1ヶ月とか、月面に1週間とか、とにかく異質な環境で生活した経験があるというのは、その後の感覚に何かしら違いをもたらすものなんだろうなと思う。水面下に潜ることを趣味にしていた時期があって、それはそれで新しい感覚があって面白かったが、水平線の見える土地で生活したことは無かった。水平線だけでなく、この土地では月の無い夜には5等星あたりまで平気で見えたりするので、状況が許せば久しぶりに天体観測などもしてみたい。
--
宗教とか信仰とか、そういうものについても日々考えているが、あまり新しい解釈が出てきたわけでもなく、眠くなってきたのでまたいずれ。
おんぼうじしったぼだはだやみ。
本年もよろしくお願い申し上げます。
と、誰に言うでもなく。
--
年初なので特別なことでも書こうと思ったけれども、もはや日本の正月というのは子供のころに経験したようなしんとした正月ではなく気分もあまり平生と変わらないので、珍しくフルキーボードで入力できるという点のみいつもと違った感じで、適当に思いついたことでも書いていくことにしよう。
--
陸軍省と財務省は似ている。そんなことを思った。
野田政権が財務省の傀儡政権みたいな言い方をされることがあるけれども、今は財政が危険水域にある非常事態なのだから、財政のプロである財務省の意見に内閣が耳を傾けるというのはマトモな判断だと思う。基本的に菅政権が与謝野さんを引き入れたあたりからこの流れは確定路線だったので、それを野田さんが日本人向きのドジョウのような柔軟性と泥臭さで陽の当たるところに出し始めたということでしかない。
小泉さんが郵政という累代の宿敵相手に格闘していたとき、世間的な大儀として財政改革も旗印にしていたので、そのあたりの実務に竹中さんを引っ張り出した頃はまだ、国債も正攻法で何とかなる可能性をいくらか残していた。しかしその後に安倍さんが神州復活に怪気炎を上げて財政改革が一休みになったり、そうこうするうちにリーマンショックがあったりして、その後は累積国債も新規国債も安定した指数関数を描く発散路線に入ってしまった。
この段階になってようやく財務省が政治の主導権を握ったのだけれど、財務省というのは財務のプロであると同時に、財務の最高責任官庁でもあって、あからさまな財政破綻というような結末を自身で選択するという道は、あらかじめ塞がれているようなところがある。新書などでいくつかの説を読むと、日本国民が自暴自棄になって各自の仕事をぶん投げたりしない限りは、日本円の信用が底なしに低落するような事態にはならないらしい。とはいっても、やはりどこかで国と地方の「債務整理」みたいな事態は発生するのが必然らしく、公債がほぼ国内で消化されているという日本の公債構造上、そこで債権放棄を迫られるのは(その時点での)日本国民ということになる。
ものの本によると、全くの無策で残り3年、土俵際で問題先送りの粘り腰を最大限に発揮しても20年くらいで、日本の公債は「破綻」するらしい。その被害というのは、意外にも無策でドカンとやった場合が最悪で、粘りに粘った末では案外にソフトランディングに近い形に持ち込めるものらしい。まあ、頼れる奴が突然死するよりも、しばらく前からダメだダメだと言った末に息絶えるほうが、周囲の迷惑も少ないということなのだろう。で、そういう危機的状態、勝ち目は無いけれどもここまで来た以上は最大限の戦果を残して以後の交渉を優位に進めるべくプライドを掛けた負け戦をしている段階に、日本経済というのは入っているらしい。
そういう局面における責任をモロに負ったプロ集団ということで、日米開戦あたりの陸軍省と、今くらいの財務省は似通った位置づけにあるような気がした。日本軍が追い込まれた原因が欧米列強を刺激するほどの大陸利権拡張にあったとか、日本経済が追い込まれた原因が地価の過熱を止められなかった時点にあったとか、まあそういうことは言えるのかもしれない。けれどもそういうのはどうしても後知恵という面があって、国民の熱狂が冷める頃には局面がもう9割がた決しているということになりがちなのだろう。
自転車やスキーなどで空中に飛び出てからバランスを崩して、どう見ても怪我をするとわかりきっていても、なんとかダメージを最小にする姿勢を模索するときの妙な冷静さというものがあって、民主党政権を3代経験した日本国民の冷めた空気というのは、なんとなくそういうものになりつつあるんじゃないかという気がしている。
参謀本部でも、もとより負け戦だというのは戦略に通じた人ほど良く理解していて、それでも前線の士気というのは負けを意識した時点で使い物にならなくなるものでもあるので、最後の際まで「勝つぞ勝つぞ」で押し切る羽目になる。で、とうとう潮時がやってくると、中枢部は停戦を決議しなくてはいけないし、勝つぞ勝つぞで尻を叩いてきた末梢に対するけじめを付けないといけなくなる。実際には陸軍大臣が自決したりなんだかんだと物語があったようで、そのあたりは近いうちに本で読んでみようかと思う。
今の消費税増税論議も似たようなところがあって、消費税を増税することで財政破綻が回避できるというわけでもないのだが、かといって税制改革も未了の状態で財政破綻が直撃すると、「その後」が大変なことになってしまう。もちろん、国民の手前としては財政破綻を前提とした増税などというのは筋が通るはずも無く、あくまで財政の正常化を目指すという旗印を下げるわけにはいかないのだけれど、経済に通じた人ほど、それが実現不可能であるということを直視しているらしい。
まあ、とにかく具合が悪いらしいんですけれども、80年に1回くらいはそういうこともあるわいな、という気もしなくもない。願わくば東北の津波被害より小さい被害で終わるように、最善を尽くしましょう、と。
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地球の丸さについて。
昔々、まだ20歳かそこらの頃、気まぐれに購入した天文手帳に載っていた天文定数表を眺めながら、アポロ探査機が月面にレーザー反射鏡を設置する以前は、どのようにして太陽までの距離を測っていたのだろう、などということを考えていた。
古代ギリシャの文化を生み出した人々は地中海貿易をする海洋民族で、地面が丸い地球と呼べるものであるということと、やはり丸い太陽が非常に遠くにあるということを経験的に知っていた。また、アレクサンドリアのエラトステネスは、シエネという町には夏至の日に井戸の底に日光が達する井戸があると知って、同じ夏至の日にアレクサンドリアの太陽南中高度を計ってみた。すると、シエネとアレクサンドリアには円の50等分角に相当する角度差があるとわかり、そこから地球の円周を25万スタディアと算出した、というような話が、理科の教科書に載っていた。
その後、ルネサンス以降のヨーロッパでは経度の等しい2地点間を精密に三角測量して子午線の長さを計るというプロジェクトが何度もあったらしく、フランス革命の余力を駆って、子午線(北極から赤道までの距離)の1千万分の1の長さを1メートルという科学的な測長単位とする、というような決定もされた。似たような感覚で、太陽系内の測長単位というのは地球の平均公転半径を1AU(天文単位)としているけれども、この1AU、つまり地球から太陽までの距離の測定方法というのが、ギリシア的な単純な方法でもなく、レーザー測距のような現代的な方法でもなく、その制定時点での手法としてはどのような方法だったのか、いろいろと考えてはみたものの、これといった結論は出なかった。
書店や図書館などで簡単に調べてもみたが、どうも直接的な回答を発見することはできなかった。そこで、当時のパソコン通信で、史実としてはどんな具合だったのかを質問してみた。史実はさておき、こういう方法だったんじゃないかという侃々諤々の議論などを経てから、プラネタリウム勤務の専門家の方から、幸いにも史実に基づく回答をしてもらえた。まずケプラーの法則から各惑星の軌道半径比率が求まっており、惑星軌道のかなり精密な定数は判明していたが、絶対的な距離だけはわからない、という状態があったという。次に、望遠鏡を使って金星、あるいは火星までの距離を三角測量し、そこから地球の軌道半径の計算に必要な定数を求め、結果として地球から太陽までの距離が求まった、ということだった。今なら検索で簡単に答えが見つかる。
参考:「暦と星のお話」より
「星の距離を測る」
「金星の日面通過」
のちには、軌道計算の済んだ小惑星の接近時にそこまでの距離を測定することで、徐々に計算精度を上げていったらしい。
で、太陽までの距離はともかく、地球が丸いということは確かに了解可能なのだと思った。現在の一人住まいは海沿いの道に面していて、海況によっては波音を聞きながら眠ることになるような距離にある。そこから太平洋を眺めると、大洋という印象に反して海は穏やかで、晴れた日には水平線がえらくクッキリと見える。もしも地面が世界の果てまで平坦だとすると、空と海を区切る水平線というのは無限のかなたにあるはずなのだが、実際に目に見える水平線というのは、あまりにもはっきりとしすぎている。地面というか海面が大きな球だとすると、水平線が近くにあってくっきりと見えることに矛盾が無くなる。
それから、港から出て行った船が、案外簡単に水平線の上に乗ってしまう。これも同じく、水平線が世界のかなたにあるとすると説明がつかない。教科書にあったように、水平線に乗った船が下から見えなくなっていくというのはまだ確認していないが、矯正視力0.7程度の私の目でも、水平線にきれいに乗った大型船を確認することができる。帆船の時代ではないので、仮に船が沈んで見えていたとしても貨物が重くて喫水が深くなった状態と区別することも難しいだろう。
そういう具合で、海沿いに暮らすと地球の丸さなども実感できるというのが面白い。大陸に1年とか、地球周回軌道に1ヶ月とか、月面に1週間とか、とにかく異質な環境で生活した経験があるというのは、その後の感覚に何かしら違いをもたらすものなんだろうなと思う。水面下に潜ることを趣味にしていた時期があって、それはそれで新しい感覚があって面白かったが、水平線の見える土地で生活したことは無かった。水平線だけでなく、この土地では月の無い夜には5等星あたりまで平気で見えたりするので、状況が許せば久しぶりに天体観測などもしてみたい。
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宗教とか信仰とか、そういうものについても日々考えているが、あまり新しい解釈が出てきたわけでもなく、眠くなってきたのでまたいずれ。
おんぼうじしったぼだはだやみ。
加速器から観測器までの速度が、計算上の光速度よりも若干速いという問題だけれど、GPSによる時間計算に重力レンズ効果って入っているのかな。重力による時空の曲率というのは一般相対論の領域だけれど、今回のニュースでは特殊相対論の仮定を覆すという言い方をされているのが少し気になった。
GPS衛星が送ってくる電波というのは光というか電磁波の一種だから、わずかにしても地球の重力のために曲がって届く。その経路差による時間差が60nsにもなるのかどうかわからないが、そういう補正はきちんとされているのだろうか。衛星自体の対地速度による影響の補正は当然されているけれども、あまり地球の重力補正というのは聞いたことがない。ns精度でも無視できるほどの影響しかないからかもしれないけれど。
あと、もし仮に実験が正しかったとして、SN1987Aの光学観測とカミオカンデによるニュートリノ観測がほぼ同時だった結果と矛盾するという意見も聞く。けれども、SN1987Aの場合はほぼ無重力かつ、ほぼ真空の経路を飛来したニュートリノであるのに対し、人工ニュートリノの経路は地中という、それなりに質量密度の高い経路を通っていて、なおかつ地球重力に垂直の経路をたどっている。こういう条件下では、電磁的に測定される最短距離と、電磁気相互作用をしないニュートリノが通る最短経路が異なる可能性があり、光速に近い(が光速を越えない)ニュートリノが遠回りをせざるをえない光よりも先に到着するということはありうるだろう。
この場合、ニュートリノの到達時間の差は光との速度差によるものではなく、弧と弦の距離の差ということになる。するとニュートリノは光速を越えないが、測り方の基準によって同じ2地点間の距離が複数定義できることになり、それはそれで一部の理論は見直しが必要になるだろう。けれども相対論そのものが導入した時間と空間の再定義に比べれば、微修正と言えるだろう。
専門家がどういう結論を出すのか楽しみだが、計器の遅延による誤差でしたというような終わり方はしてほしくないなぁ。
GPS衛星が送ってくる電波というのは光というか電磁波の一種だから、わずかにしても地球の重力のために曲がって届く。その経路差による時間差が60nsにもなるのかどうかわからないが、そういう補正はきちんとされているのだろうか。衛星自体の対地速度による影響の補正は当然されているけれども、あまり地球の重力補正というのは聞いたことがない。ns精度でも無視できるほどの影響しかないからかもしれないけれど。
あと、もし仮に実験が正しかったとして、SN1987Aの光学観測とカミオカンデによるニュートリノ観測がほぼ同時だった結果と矛盾するという意見も聞く。けれども、SN1987Aの場合はほぼ無重力かつ、ほぼ真空の経路を飛来したニュートリノであるのに対し、人工ニュートリノの経路は地中という、それなりに質量密度の高い経路を通っていて、なおかつ地球重力に垂直の経路をたどっている。こういう条件下では、電磁的に測定される最短距離と、電磁気相互作用をしないニュートリノが通る最短経路が異なる可能性があり、光速に近い(が光速を越えない)ニュートリノが遠回りをせざるをえない光よりも先に到着するということはありうるだろう。
この場合、ニュートリノの到達時間の差は光との速度差によるものではなく、弧と弦の距離の差ということになる。するとニュートリノは光速を越えないが、測り方の基準によって同じ2地点間の距離が複数定義できることになり、それはそれで一部の理論は見直しが必要になるだろう。けれども相対論そのものが導入した時間と空間の再定義に比べれば、微修正と言えるだろう。
専門家がどういう結論を出すのか楽しみだが、計器の遅延による誤差でしたというような終わり方はしてほしくないなぁ。
最近、自宅のPCの調子が悪い。愛用していたスライドパッドはしばらく前から使えなくなっているので、苦手なマウスでの操作を強いられている。最近では起動時に本体を少し叩いてやらないとHDDを認識しなくなった。どうやらペリフェラルドーターのコネクタ端子あたりが腐っているらしい。
昔は動作中のHDDに衝撃を与えるなんていうのは自殺行為だったが、最近は3.5インチならともかくモバイル用の2.5インチであれば、瞬間数百Gに達するような落下衝撃でもない限り、そうそう故障の原因とはならない。それよりも台湾製のこのPCは、端子のメッキ品質あたりがモンスーン気候の高温多湿に耐えられなかったらしい。
ハードの購入から間もなく5年が経過して、Vistaのほうもサポートが切れるらしいので、来年中にはPCを更新したい。OSは7とubuntuあたりになるんだろうか。運転免許の更新にからんでメガネなんかも買わないといけないので余裕はないのだが、今からこつこつ積み立てて、来年の秋までにはそれなりの性能のノートを購入したい。NASなんかも置きたいが、果たしてそこまで予算が回るかどうか。バルクで買ってきたHDDを繋げればNASに化けるような安いパーツも、きっとどこかにあるだろう。
ただ、年金だの家賃だの電車賃だの奨学金返済だので余裕資金は雀の涙なので、削れるところはお付き合い費用くらいしかないのがつらいところ。食費をせっせと節約しても、だいたい1回の飲み会で吹き飛ぶ。すると食費の倹約などもバカらしくなってしまうという副作用まである。でもまぁ、酒は楽しいんでいいんですが。
最近は目的によって銀行口座を6行も使い分ける羽目に陥っているが、それぞれ残高が底をつかないように管理するのが問題になってきている。集約したいとは思っているのだが、書類を書いたり平日の昼間でないとできないような手続きをするのが面倒で、つい放置してしまっている。おかげで、コンビニATMで大昔のゲームみたいなデータ移動をやっている。ミスすると、どこかから督促状が届く。レベルアップして次の面に進んだりせずに、煩雑さが増して難易度だけが上がっていくのも、大昔のゲームによく似ている。
いや、まぁ、レベルアップしていく人もいるんでしょうけど。
昔は動作中のHDDに衝撃を与えるなんていうのは自殺行為だったが、最近は3.5インチならともかくモバイル用の2.5インチであれば、瞬間数百Gに達するような落下衝撃でもない限り、そうそう故障の原因とはならない。それよりも台湾製のこのPCは、端子のメッキ品質あたりがモンスーン気候の高温多湿に耐えられなかったらしい。
ハードの購入から間もなく5年が経過して、Vistaのほうもサポートが切れるらしいので、来年中にはPCを更新したい。OSは7とubuntuあたりになるんだろうか。運転免許の更新にからんでメガネなんかも買わないといけないので余裕はないのだが、今からこつこつ積み立てて、来年の秋までにはそれなりの性能のノートを購入したい。NASなんかも置きたいが、果たしてそこまで予算が回るかどうか。バルクで買ってきたHDDを繋げればNASに化けるような安いパーツも、きっとどこかにあるだろう。
ただ、年金だの家賃だの電車賃だの奨学金返済だので余裕資金は雀の涙なので、削れるところはお付き合い費用くらいしかないのがつらいところ。食費をせっせと節約しても、だいたい1回の飲み会で吹き飛ぶ。すると食費の倹約などもバカらしくなってしまうという副作用まである。でもまぁ、酒は楽しいんでいいんですが。
最近は目的によって銀行口座を6行も使い分ける羽目に陥っているが、それぞれ残高が底をつかないように管理するのが問題になってきている。集約したいとは思っているのだが、書類を書いたり平日の昼間でないとできないような手続きをするのが面倒で、つい放置してしまっている。おかげで、コンビニATMで大昔のゲームみたいなデータ移動をやっている。ミスすると、どこかから督促状が届く。レベルアップして次の面に進んだりせずに、煩雑さが増して難易度だけが上がっていくのも、大昔のゲームによく似ている。
いや、まぁ、レベルアップしていく人もいるんでしょうけど。
過去に何回か携帯電話からの投稿を試みたが、慣れない操作で失敗し、かなりの文章が消えていった。もう凝ったことはやめて、簡単にメモを。
かなり売れているらしい、「デフレの正体」という本を読んでいる。総合的な感想としては、
知ってた。
という感じの内容だったが、例によって、最後のほうにある「ではどうしたら良いのか」の部分で、ちょっと著者の藻谷さんと違う意見を持った。
本に書かれている消費向上策は、よく聞くような女性の就労と経営参加というものだった。だが、本文中では消費者の総時間減少が消費傾向の減少を招いていると書かれている。だとすれば、時間に余裕のある専業主婦を増やし、その時間を潰すために、外食やショッピング、あるいはテレビや映画の鑑賞などを楽しんでもらうほうが、消費率の向上に貢献するのではないだろうか。
もちろん、その原資はダンナの稼ぎになるので、専業主婦を抱える夫には税金の解除や扶養手当てなどを払うようにする。家が広いほうが家財の購入も促進されるので、広い住宅の購入や貸借を奨励するような融資制度も整備する。そうして家庭がいろいろな需要を発揮することで、企業の売り上げが増加し、ひいては世のダンナ衆の稼ぎも向上する。
女性が男性に(あるいは男性が女性に)経済的に依存することによって、結婚に対する欲求も増加する。さらに、夫の(あるいは妻の)いない時間に退屈しはじめると、子供がいてもいいかな、という気分になる人も増える。すると、出生率も多少上向きになるかもしれない。
要するに、昭和の家計システムを破壊してしまったのもデフレの一因になっているんじゃないかと、うっすら思っているんですが、いかがなもんでしょうか。所得倍増計画とか、もうできないのかな。
かなり売れているらしい、「デフレの正体」という本を読んでいる。総合的な感想としては、
知ってた。
という感じの内容だったが、例によって、最後のほうにある「ではどうしたら良いのか」の部分で、ちょっと著者の藻谷さんと違う意見を持った。
本に書かれている消費向上策は、よく聞くような女性の就労と経営参加というものだった。だが、本文中では消費者の総時間減少が消費傾向の減少を招いていると書かれている。だとすれば、時間に余裕のある専業主婦を増やし、その時間を潰すために、外食やショッピング、あるいはテレビや映画の鑑賞などを楽しんでもらうほうが、消費率の向上に貢献するのではないだろうか。
もちろん、その原資はダンナの稼ぎになるので、専業主婦を抱える夫には税金の解除や扶養手当てなどを払うようにする。家が広いほうが家財の購入も促進されるので、広い住宅の購入や貸借を奨励するような融資制度も整備する。そうして家庭がいろいろな需要を発揮することで、企業の売り上げが増加し、ひいては世のダンナ衆の稼ぎも向上する。
女性が男性に(あるいは男性が女性に)経済的に依存することによって、結婚に対する欲求も増加する。さらに、夫の(あるいは妻の)いない時間に退屈しはじめると、子供がいてもいいかな、という気分になる人も増える。すると、出生率も多少上向きになるかもしれない。
要するに、昭和の家計システムを破壊してしまったのもデフレの一因になっているんじゃないかと、うっすら思っているんですが、いかがなもんでしょうか。所得倍増計画とか、もうできないのかな。
いろいろな精神状態を渡り歩いてきて気付くことは、他人の目から見てどれほど異常に見える精神状態や行動であっても、その人の主観的な立場から見れば、その選択や行動というのは常に合理的なのだな、というあたりかと思う。
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子供が大人になる過程で、あるいは大人が老人になる過程でもいいのだけれど、どこかでアンパンマン問題(なんのために生まれて、なにをして生きるのか)を解く必要がある。この問題は「明日の天気はどうなるか」という問題に似ている。「明日の天気は」という問いに対する答えは、どこの地点の話なのか、具体的に何年何月何日の話なのかという、個別の前提によってすべて答えが異なる。これと同じように、誰のどういう状況における問題なのかという違いによって、アンパンマン問題もそれぞれに個別具体的な問題になる。当然普遍的で唯一の解などないし、自信を持って得た解でも結局は外れだったという可能性さえ残される、そういう性質もある。
一人ひとりの置かれた状況というのはそれぞれ違っている。そういう外因性の要素も当然あるのだけれど、それ以外に、外見的には捕捉できないような、内因的で器質的な要素も潜んでいる。ホロコーストを生き残った人の中でも、ひどいPTSDに終生悩まされた人もいれば、忘れはしないが精神を病むようなこともなく過ごせている人がいるらしい。その差というのは、元々が前向きで楽観的な性格だったかどうかと関連性があるようだ、というような話も聞いたことがある。
ひとつの仮説としては、同じ事件の現場に居たとしても、本当に個々人が受けた待遇には、いくらかの差があっただろうということが考えられる。それに加えて、信仰、文化、教育などの理由によって、精神の癖、考え方の習慣というものに差があったという可能性もある。最後に、解剖学的に特定の神経回路が太くて影響が伝播しやすいとか、あるいは生化学的に神経伝達物質消費に対する回復が早いとか、そういう物理的で先天的な気質の違いがあったという可能性も、当然にある。どれが主要因なのかということもわからないし、主要因すら個別ケースによって異なる可能性もあって、そのあたりは学術研究の世界になってしまうのでなんとも言いようがない。
とにかく、それぞれの人は、それぞれの外部環境、それぞれの思考習慣、それぞれの器質的要素を抱えて精神生活を送っていて、その規定された条件の中で、脳と精神は必然的な結果しか残せないと考えている。運命論とは違うのだけれども、量子論的な確率過程でも、事前予測は不可能にしても、相互作用が発生して結論が出るときには結論が出る。その確率事象の向こう側というのは現代科学では不可知ということになっているけれども、その不可知の結論を出す機構を情報出力装置とみなして自己の精神回路の前提側に置くと、結局精神が下す判断の帰結というのは因果律の範囲内にあると、これは単なる思い込みの類なのだけれど、とにかくそう信じている。
火星人襲来を報じるラジオドラマに反応してパニックを起こした人を、客観的に見てバカにするのは比較的簡単なのだけれども、非常に限定された条件の中で、その情報を疑えなかった人の正確な文脈を推測するのは、むしろ難しい。戦時下にあって虐殺に走った人を非難するのも容易なのだけれども、弱い人が戦闘の過程で狂気に走る文脈や、そもそも暴力的欲求を抱えた人が戦時にあって自由に振る舞う文脈などを、正確に推測するのもまた難しい。
--
同じ親を持つきょうだいでも、かなり器質的に違いがあることを実感したのは二人目の子供を持ったときだった。今年の春に生まれた、琉金と和金を両親に持つ29匹の金魚のきょうだいを眺めると、遺伝というのはもっと多様なんだなということをさらに感じて、それで何か書こうとしたけれども尻切れになった。
困ったことに私の血は理性的な部分より感情的な部分のほうが優勢で、しかも宵っ張りの朝寝坊を極端にしたような体質でもあったので、密な人間社会を生きるには相当面倒な作りをしている。その面倒さの成分というのは何種類もあるのだけれども、その一部がコドモたち、特にムスメとムスコ1号に濃厚に遺伝しているらしい。といって、自分と全く同じ構成でもないので、自分が経てきた問題と、コドモたちが経ていくだろう問題というのは、当然異なる。
http://www.iqtest.dk/main.swf
こういう推論力検査をすると、131くらいの数値が出るのだけれど、顔認識力の過剰が心霊写真を観てしまうのに似て、過剰なパターン推論力というのも、ありもしない相関を認識してしまう統合障害と隣り合わせにある。私の場合は言語認識やパターン推論などの数値が高い一方で、記憶力の方は平均以下だった。そのために漢字書き取りや英単語の意味、歴史の年号や数学の公式などを覚えることが不得意で、非常に苦労した覚えがある。意味を理解し納得できれば忘れることは少ないのだけれども、とにかく形式だけ覚えるということは不可能に近かった。
長期的な記憶だけでなく、短期の記憶も苦手だった。公衆電話で通話を終えるとテレホンカードや財布の回収を忘れたり、地図は覚えられても一度通った道の風景を覚えられなかったり、そういう不便もあった。手帳に書けばいいといっても、記憶が必要な場面で手帳に書くということを思い出すために何かの仕掛けを作る必要があったりして、あまり実用的にならない。一行の文を書き終える頃には書き始めの表現を忘れるということさえあり、そういうレベルでも推敲しないと変な文章になるというのは、ここでもよく見かけると思う。
そこまで風変わりではなくても、ほとんどの人が何かしらの面で「異常」を抱えている。何か正規分布に従っているような性質があるとすると、平均値付近の人が一番多い。「偏差値」というのも正規分布を前提にしている指数なので、これを使うと偏差値50というのが平均ど真ん中になる。そこからプラスマイナス標準偏差の範囲内、記号を使うと±σの範囲に、68%の人が入る。偏差値で言うと、40から60の範囲ということになる。平均からの乖離が標準偏差の3倍以上の「変人」となると、偏差値20以下と偏差値80以上の両翼に、それぞれ0.135%の人がいる。
評価軸がひとつだけだと7割近くの人が平凡、あるいは正常ということになって、常識的な感覚と一致する。けれども、互いに独立な評価軸、具体的に言うと「数学の成績」と「握力」と「肝臓のアルデヒド耐性」など、(この例が本当はどこまで独立かわからないけれども)それぞれ関係のない評価軸で平均からの乖離を考える。すると、3本の軸の全てで±σの範囲に入る「常人中の常人」は31%となって、3分の1を切る。独立の評価軸が10本にもなると、すべての軸で±σの範囲に入る「完璧な常人」は2.2%となって、こちらのほうがむしろ希少な存在になってしまう。ちなみに10本の評価軸の少なくともひとつで±3σを外れてしまう人というのは2.7%になり、「完璧な常人」よりもやや多くて40人クラスに一人くらいはいるというような計算になる。
こういう、確率的にどうしても個々人にみられる性質の違いのことを「個性」と呼ぶのだと思う。上で計算したように、多くの面で全て平均的だという性質さえ、「何かしらの偏りを持っている」という人が多勢の中では、むしろ個性的になる。そういう潜在的あるいは顕在的な個性を抱えた人間が、互いに同質だとみなして推論すると、いろいろな齟齬が発生してしまう。自分とは個性のかけ離れた人の感覚というのは、ある程度想像が可能な場合もあれば、どうしても想像不能な場合さえある。
そういう「個性」による個々人の違いが無いと仮定すると、他人の判断や行動に対して乱暴な批判が出るだろうし、今度は逆に、個性の違う相手のことを常に想像すべきと言ってみても、感覚的あるいは経験的にそういう「個性」が存在しうると信じられない人に、その個性を超えて想像してみろというのも酷だという気がする。
例えば、夜になってもなかなか寝付かれず、寝る前にトイレに行ってもおねしょがなかなか治らないだとかいうムスコ1号のような体質を、自分自身はおろか近親者の中にもそういう体質を全く持っていないような人に対して、「体質的な問題であって当人としては全く正常である」ということを想像してもらうのは、これは非常に難しいのだろうと思う。
よくあるような体質であれば、まあ想像は可能かもしれない。けれども、10の性質の全てについて、少なくととも一人は±σを外れる人との接触経験を持ってもらおうとすれば、だいたい31人くらいの知り合いが必要になる。これは無作為の場合であって、だいたい平均を外れた人というのは平均を外れた人同士でコミュニティを作っている場合が多いので、人種も国も職業も何もかも入り交じった31人の知り合いがいて、しかもそれでやっと±σの壁を片側越えるという程度でしかない。±3σを外れた人を、プラスとマイナスの両翼について経験したければ、運が良くても10万人くらいの多彩な人付き合いが必要ということになる。まあ、±3σ外れとなれば、偶然に頼らずに特定コミュニティを選んで訪問するという手もありそうだけれども。
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個性や文化や能力の異なる他人の言動を評価するのは難しいが、「人間誰しも、常にその人のその状況において合理的な判断を下すことしかできない」というところを、出発点として考えてみようと思う。
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子供が大人になる過程で、あるいは大人が老人になる過程でもいいのだけれど、どこかでアンパンマン問題(なんのために生まれて、なにをして生きるのか)を解く必要がある。この問題は「明日の天気はどうなるか」という問題に似ている。「明日の天気は」という問いに対する答えは、どこの地点の話なのか、具体的に何年何月何日の話なのかという、個別の前提によってすべて答えが異なる。これと同じように、誰のどういう状況における問題なのかという違いによって、アンパンマン問題もそれぞれに個別具体的な問題になる。当然普遍的で唯一の解などないし、自信を持って得た解でも結局は外れだったという可能性さえ残される、そういう性質もある。
一人ひとりの置かれた状況というのはそれぞれ違っている。そういう外因性の要素も当然あるのだけれど、それ以外に、外見的には捕捉できないような、内因的で器質的な要素も潜んでいる。ホロコーストを生き残った人の中でも、ひどいPTSDに終生悩まされた人もいれば、忘れはしないが精神を病むようなこともなく過ごせている人がいるらしい。その差というのは、元々が前向きで楽観的な性格だったかどうかと関連性があるようだ、というような話も聞いたことがある。
ひとつの仮説としては、同じ事件の現場に居たとしても、本当に個々人が受けた待遇には、いくらかの差があっただろうということが考えられる。それに加えて、信仰、文化、教育などの理由によって、精神の癖、考え方の習慣というものに差があったという可能性もある。最後に、解剖学的に特定の神経回路が太くて影響が伝播しやすいとか、あるいは生化学的に神経伝達物質消費に対する回復が早いとか、そういう物理的で先天的な気質の違いがあったという可能性も、当然にある。どれが主要因なのかということもわからないし、主要因すら個別ケースによって異なる可能性もあって、そのあたりは学術研究の世界になってしまうのでなんとも言いようがない。
とにかく、それぞれの人は、それぞれの外部環境、それぞれの思考習慣、それぞれの器質的要素を抱えて精神生活を送っていて、その規定された条件の中で、脳と精神は必然的な結果しか残せないと考えている。運命論とは違うのだけれども、量子論的な確率過程でも、事前予測は不可能にしても、相互作用が発生して結論が出るときには結論が出る。その確率事象の向こう側というのは現代科学では不可知ということになっているけれども、その不可知の結論を出す機構を情報出力装置とみなして自己の精神回路の前提側に置くと、結局精神が下す判断の帰結というのは因果律の範囲内にあると、これは単なる思い込みの類なのだけれど、とにかくそう信じている。
火星人襲来を報じるラジオドラマに反応してパニックを起こした人を、客観的に見てバカにするのは比較的簡単なのだけれども、非常に限定された条件の中で、その情報を疑えなかった人の正確な文脈を推測するのは、むしろ難しい。戦時下にあって虐殺に走った人を非難するのも容易なのだけれども、弱い人が戦闘の過程で狂気に走る文脈や、そもそも暴力的欲求を抱えた人が戦時にあって自由に振る舞う文脈などを、正確に推測するのもまた難しい。
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同じ親を持つきょうだいでも、かなり器質的に違いがあることを実感したのは二人目の子供を持ったときだった。今年の春に生まれた、琉金と和金を両親に持つ29匹の金魚のきょうだいを眺めると、遺伝というのはもっと多様なんだなということをさらに感じて、それで何か書こうとしたけれども尻切れになった。
困ったことに私の血は理性的な部分より感情的な部分のほうが優勢で、しかも宵っ張りの朝寝坊を極端にしたような体質でもあったので、密な人間社会を生きるには相当面倒な作りをしている。その面倒さの成分というのは何種類もあるのだけれども、その一部がコドモたち、特にムスメとムスコ1号に濃厚に遺伝しているらしい。といって、自分と全く同じ構成でもないので、自分が経てきた問題と、コドモたちが経ていくだろう問題というのは、当然異なる。
http://www.iqtest.dk/main.swf
こういう推論力検査をすると、131くらいの数値が出るのだけれど、顔認識力の過剰が心霊写真を観てしまうのに似て、過剰なパターン推論力というのも、ありもしない相関を認識してしまう統合障害と隣り合わせにある。私の場合は言語認識やパターン推論などの数値が高い一方で、記憶力の方は平均以下だった。そのために漢字書き取りや英単語の意味、歴史の年号や数学の公式などを覚えることが不得意で、非常に苦労した覚えがある。意味を理解し納得できれば忘れることは少ないのだけれども、とにかく形式だけ覚えるということは不可能に近かった。
長期的な記憶だけでなく、短期の記憶も苦手だった。公衆電話で通話を終えるとテレホンカードや財布の回収を忘れたり、地図は覚えられても一度通った道の風景を覚えられなかったり、そういう不便もあった。手帳に書けばいいといっても、記憶が必要な場面で手帳に書くということを思い出すために何かの仕掛けを作る必要があったりして、あまり実用的にならない。一行の文を書き終える頃には書き始めの表現を忘れるということさえあり、そういうレベルでも推敲しないと変な文章になるというのは、ここでもよく見かけると思う。
そこまで風変わりではなくても、ほとんどの人が何かしらの面で「異常」を抱えている。何か正規分布に従っているような性質があるとすると、平均値付近の人が一番多い。「偏差値」というのも正規分布を前提にしている指数なので、これを使うと偏差値50というのが平均ど真ん中になる。そこからプラスマイナス標準偏差の範囲内、記号を使うと±σの範囲に、68%の人が入る。偏差値で言うと、40から60の範囲ということになる。平均からの乖離が標準偏差の3倍以上の「変人」となると、偏差値20以下と偏差値80以上の両翼に、それぞれ0.135%の人がいる。
評価軸がひとつだけだと7割近くの人が平凡、あるいは正常ということになって、常識的な感覚と一致する。けれども、互いに独立な評価軸、具体的に言うと「数学の成績」と「握力」と「肝臓のアルデヒド耐性」など、(この例が本当はどこまで独立かわからないけれども)それぞれ関係のない評価軸で平均からの乖離を考える。すると、3本の軸の全てで±σの範囲に入る「常人中の常人」は31%となって、3分の1を切る。独立の評価軸が10本にもなると、すべての軸で±σの範囲に入る「完璧な常人」は2.2%となって、こちらのほうがむしろ希少な存在になってしまう。ちなみに10本の評価軸の少なくともひとつで±3σを外れてしまう人というのは2.7%になり、「完璧な常人」よりもやや多くて40人クラスに一人くらいはいるというような計算になる。
こういう、確率的にどうしても個々人にみられる性質の違いのことを「個性」と呼ぶのだと思う。上で計算したように、多くの面で全て平均的だという性質さえ、「何かしらの偏りを持っている」という人が多勢の中では、むしろ個性的になる。そういう潜在的あるいは顕在的な個性を抱えた人間が、互いに同質だとみなして推論すると、いろいろな齟齬が発生してしまう。自分とは個性のかけ離れた人の感覚というのは、ある程度想像が可能な場合もあれば、どうしても想像不能な場合さえある。
そういう「個性」による個々人の違いが無いと仮定すると、他人の判断や行動に対して乱暴な批判が出るだろうし、今度は逆に、個性の違う相手のことを常に想像すべきと言ってみても、感覚的あるいは経験的にそういう「個性」が存在しうると信じられない人に、その個性を超えて想像してみろというのも酷だという気がする。
例えば、夜になってもなかなか寝付かれず、寝る前にトイレに行ってもおねしょがなかなか治らないだとかいうムスコ1号のような体質を、自分自身はおろか近親者の中にもそういう体質を全く持っていないような人に対して、「体質的な問題であって当人としては全く正常である」ということを想像してもらうのは、これは非常に難しいのだろうと思う。
よくあるような体質であれば、まあ想像は可能かもしれない。けれども、10の性質の全てについて、少なくととも一人は±σを外れる人との接触経験を持ってもらおうとすれば、だいたい31人くらいの知り合いが必要になる。これは無作為の場合であって、だいたい平均を外れた人というのは平均を外れた人同士でコミュニティを作っている場合が多いので、人種も国も職業も何もかも入り交じった31人の知り合いがいて、しかもそれでやっと±σの壁を片側越えるという程度でしかない。±3σを外れた人を、プラスとマイナスの両翼について経験したければ、運が良くても10万人くらいの多彩な人付き合いが必要ということになる。まあ、±3σ外れとなれば、偶然に頼らずに特定コミュニティを選んで訪問するという手もありそうだけれども。
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個性や文化や能力の異なる他人の言動を評価するのは難しいが、「人間誰しも、常にその人のその状況において合理的な判断を下すことしかできない」というところを、出発点として考えてみようと思う。
「金魚」について、と、「ヘルツ」について、途中まで何か書いたけれども仕上がらず、保留。単身暮らしの手慰みに始めた安敦誌だけれども、今度はPCを持たずに単身赴任しているので、妄想を書き留める習慣が消えつつある。まあ別に誰もそれで困らないことではあるけれども。
で、断片をいくつか。
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韓国と台湾の対日感情の理由というか原因というか、そこの部分が李承晩さんと李登輝さんという、二人のLee氏の政治姿勢に由来するんじゃないかということを思うようになった。自民党と民主党、あるいは読売新聞と朝日新聞の意見の隔たりというのも、系統をたどれば山県有朋さんとマッカーサーさんあたりの政治方針の違いの名残なのかも知れないし、そういう目で見ればイギリスとフランスでの日本文化の受け入れられ方の違いでさえ、ひょっとするとサッチャーさんとシラクさんの対日感情の違いあたりが尾を引いているだけのことかもしれないと思えてくる。
近代国家にはたいてい学校という制度があって、使いようによっては50年後の国民感情を規定することなども案外簡単なのかもしれないと思った。問題を過剰に単純化してもいけないのだけれども、そういう切り口も面白いかもしれない。
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人間の体液の組成が、人類の祖先が海から陸へ上がった当時の海水に近いんじゃないかという仮説がある。女性の子宮と卵巣というのは直接的にはつながっていなくて、卵巣から放出された卵子は一度腹腔の体液中に浮いてから、子宮の中に吸い込まれるようにできている。これも海水中で卵子と精子を結びつけていた時代の生物のシステムをあまり変更せずに流用するのに都合が良かったからと考えると、理解しやすい。
もしそういう仮説が成立するのだとすると、人間の体温が摂氏36度程度だというのも、もしかすると動物上陸当時の海水温に近い温度を維持しているのかもしれない。古典的な進化論では、現在の魚類のような脊椎動物から始まり、現在の両生類のような動物と、現在の爬虫類のような動物、更には現在の猿のような動物を経て人類に進化したと考えられていた。けれども、現代的な進化論では、猿と人間には、ある時点で共通の祖先があって、そこからそれぞれ別の方向に進化したとされていて、必ずしもどちらか片方が共通祖先と同じ姿をしているとは考えられていない。
そういう意味では、海から陸に上がった生物は低体温で生きられる両生類的な変温動物で、その後の進化の過程で体温を上げながら恒温性を身に付けたというよりは、摂氏36度からそう遠くない海水中で生活するのに適応していた共通祖先がまず陸上に進出し、そこから派生して哺乳類と爬虫類が生まれたのだが、どちらも地球環境の変化に合わせてそれぞれ違う方向へ進化しただけと考えたほうがいいのかもしれない。
哺乳類の祖先が採用したと考えられる陸上適応戦略は、体内に原始海水と似た組成と温度を再現できるような能力を身につけ、その環境に対して最適化された当時の生理活性を持つ代謝システムを使い続けるという方向の進化だったのに対し、両生類や爬虫類の採用した戦略の方は、環境温度と同程度の体温で生きるという性質の方を維持して、代わりに温度変化の大きい陸上環境の変化範囲でも生きられるよな代謝の仕組みを、新しく身に付けていくという方向の進化だったのではないか。そう考えれば、海に残った魚類というのは体積あたりの比熱の大きい海水温度に合わせて生きざるを得ない中で、徐々に冷えていく海水温に合わせて現在のような代謝システムへと漸進的に進化したと考えることもできる。
ここからは比喩的な話になるけれども、企業組織などでも外部環境の変化に合わせてそれなりに自身も変化しながら永続する適応の方法もあれば、外部環境の変化とはある程度切り離された内部環境を保守的に維持することで、その限られた環境の中で昔ながらの慣れ親しんだ仕組みを使いながら、組織としては結局永続していくという適応の方法もあるのかもしれない。世界は世界、国は国、我社には我社のやりかたがあるというような、そういう企業が案外に潰れないということも、実は哺乳類の進化の戦略に似ているのかもしれない。
我が道を 笑わば笑え ガラパゴス
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一部で「フィーチャーフォン」と呼ばれる電話端末を使っているが、そこでフルブラウザ替わりになるiアプリを使っている。性能と使い勝手が良く、これを使っていると、最近の流行の主流を外れているために事業者固有の新規サービスに対応したアプリが提供されないという制限を別とすれば、基本的にスマートフォンと同等のことができる。
ただし、機能と性能が同等になってくると、一般には電池寿命に定評のあるフィーチャーフォンであっても、電車内でブラウジングを続けているとフル充電でも2時間くらいで電池切れになるし、回線品質に定評のあるNTT docomoのハイスピードFOMAであっても画像表示などではさすがにもたつくし、電車待ちの乗客たちがみんな携帯電話端末をいじっている乗換駅構内などでは、ちょっとした通信でもかなり待たされることが多い。iPhoneやSoftbankに固有の性質と思われていたものでも、案外に単なる利用法の違いに起因する問題というだけなのかもしれない。
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自宅に帰って無線LANの電波を見ると、5年ほど前には802.11gの電波が3波程度、窓際でも5波程度観測される程度だったが、最近では802.11nのアクセスポイントが15局ほど観測される。そのうち幾つかは同一の物理局なのだろうけれども、とにかく数が増えた。我が家には今のところ5GHz対応の子機がないので、基地局の方も5GHzを切って802.11gのプロトコルに設定してあるが、5GHz対応の端末に移行できたら、マンション内で混線気味かつ電子レンジの妨害なども受けやすい2.4GHzは切って、いっそ802.11aにしてしまったほうが接続が安定するなんていうこともあるのかもしれない。
で、そういう802.11nのAPの中に、FON_FREE_INTERNETというのがある。別に無料ではないのだが、加入者は他人のFON_APを自由に使えるらしい。最近Softbankが3G回線の帯域負荷を減らすためにFONの無線LANルータを無料で配布していて、契約者世帯以外への回線又貸し利用を禁じていることが多い固定回線の事業者と、新たな軋轢を抱えているなんていう話が検索で見つかった。
FONのルータをデフォルト設定で使用している世帯がマンション内に複数存在すると、APの識別子が衝突して見かけはひとつのFON_FREE_INTERNETしか見つからないが、気がつくとよその家の回線からインターネットに接続していたなんていう事態も発生するらしい。まあ、3GはFOMAでWLANは802.11gな我が家には関係のないことですが。
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常磐線に乗っていると、途中駅で車内の照明が消える。すると、交流区間と直流区間の切り替えのためというアナウンスが入る。なるほど。特急に乗っている場合に、途中で照明が若干暗くなり空調が停止することがあるのだけれども、これも客席照明をバッテリー電源に切り替え、駆動機関の切り替え中は惰性走行しているのだろう。なるほど。
東日本と西日本を区別する基準のひとつは今も残る商用電源周波数の違いで、その変換に特別な機器が必要なために、中部電力と東京電力との間での電力融通はあまり大きくできないらしい。これはイギリスとアメリカから導入した発電機の仕様の違いが今に残っているものらしいが、これに加えて鉄道業界には直流方式まで残っている、と。これも、エジソンさんとテスラさんの軋轢の影響が今に尾を引いているのかもしれない。
太陽光発電や化学電池による蓄電システムは、本質的に直流システムになっている。最近は性能の良い強電用途向け半導体が開発されているので、家庭電力程度であれば交直変換なども難しくはないが、太陽電池や電気自動車などの直流デバイスが普及してくると、ひょっとすると民生用にも直流給電が復活するなんていうことがあるかもしれない。
まあ、そういう事態になっても寝室に13.8Vの電源ジャックが設置されるなんていうことにはならないんだろうけれども。
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自宅に携帯電話の充電器を置き忘れ、5日間を電池だけで過ごしたことがあった。幸い、単身部屋には単3電池式の携帯充電器と、フル充電された14本のニッケル水素電池があったため、問題なく次の週末までを乗り切ることができた。
近い将来、照明とノートPCくらいは夜間電力を貯めて動かせるような室内直流化なんかを日曜工作で試みても面白いかもしれない。インバータで蛍光灯を点けるとなるとそれなりの技術が必要になるが、LED照明なら難しいのは放熱対策くらいなので、PC自作と大差ない難易度の工作になるだろう。ただ、電源電圧が12Vといった低電圧だと大電流が必要になるし、逆に直流100Vとかになると部品の選定が難しくなってしまう。交流電源は電圧がゼロクロスする瞬間があるのでリーク放電が発生しても消えやすいが、直流だと一度絶縁破壊してしまうと復旧しにくいなんていう問題があるらしく、スイッチ類が難しいらしい。
鉛蓄電池は重すぎるし、ナトリウム硫黄電池は高温電池なので個人では手が出ない。家庭用に小容量の蓄電システムを作るにしても、結局ニッケル水素電池かリチウムイオン電池のセルを使うことになるんだろうか。まあ、90度のお湯を100リットル単位で保管する電気温水器が市販されるくらいだから、保温性能の高いナトリウム硫黄電池システムが風呂場の外に置かれるなんていうこともあるかもしれないけれど。プラズマテレビと液晶テレビの運命などを見ると、結局リチウムイオン電池に資本と人員リソースが集中して、民生分野ではどんな用途もリチウム電池が汎用的にカバーするんじゃないかという気がする。
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とある待合室で週刊文春を開いたら、若い頃の野田さんの写真が載っていて、その姿は美男子だった。こういう歳のとり方もあるのだな、と。私も学生時代より12kgも体重が増えていて、あんまり他人のことを言えた立場でもなくなりつつある。
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ではまた。
で、断片をいくつか。
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韓国と台湾の対日感情の理由というか原因というか、そこの部分が李承晩さんと李登輝さんという、二人のLee氏の政治姿勢に由来するんじゃないかということを思うようになった。自民党と民主党、あるいは読売新聞と朝日新聞の意見の隔たりというのも、系統をたどれば山県有朋さんとマッカーサーさんあたりの政治方針の違いの名残なのかも知れないし、そういう目で見ればイギリスとフランスでの日本文化の受け入れられ方の違いでさえ、ひょっとするとサッチャーさんとシラクさんの対日感情の違いあたりが尾を引いているだけのことかもしれないと思えてくる。
近代国家にはたいてい学校という制度があって、使いようによっては50年後の国民感情を規定することなども案外簡単なのかもしれないと思った。問題を過剰に単純化してもいけないのだけれども、そういう切り口も面白いかもしれない。
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人間の体液の組成が、人類の祖先が海から陸へ上がった当時の海水に近いんじゃないかという仮説がある。女性の子宮と卵巣というのは直接的にはつながっていなくて、卵巣から放出された卵子は一度腹腔の体液中に浮いてから、子宮の中に吸い込まれるようにできている。これも海水中で卵子と精子を結びつけていた時代の生物のシステムをあまり変更せずに流用するのに都合が良かったからと考えると、理解しやすい。
もしそういう仮説が成立するのだとすると、人間の体温が摂氏36度程度だというのも、もしかすると動物上陸当時の海水温に近い温度を維持しているのかもしれない。古典的な進化論では、現在の魚類のような脊椎動物から始まり、現在の両生類のような動物と、現在の爬虫類のような動物、更には現在の猿のような動物を経て人類に進化したと考えられていた。けれども、現代的な進化論では、猿と人間には、ある時点で共通の祖先があって、そこからそれぞれ別の方向に進化したとされていて、必ずしもどちらか片方が共通祖先と同じ姿をしているとは考えられていない。
そういう意味では、海から陸に上がった生物は低体温で生きられる両生類的な変温動物で、その後の進化の過程で体温を上げながら恒温性を身に付けたというよりは、摂氏36度からそう遠くない海水中で生活するのに適応していた共通祖先がまず陸上に進出し、そこから派生して哺乳類と爬虫類が生まれたのだが、どちらも地球環境の変化に合わせてそれぞれ違う方向へ進化しただけと考えたほうがいいのかもしれない。
哺乳類の祖先が採用したと考えられる陸上適応戦略は、体内に原始海水と似た組成と温度を再現できるような能力を身につけ、その環境に対して最適化された当時の生理活性を持つ代謝システムを使い続けるという方向の進化だったのに対し、両生類や爬虫類の採用した戦略の方は、環境温度と同程度の体温で生きるという性質の方を維持して、代わりに温度変化の大きい陸上環境の変化範囲でも生きられるよな代謝の仕組みを、新しく身に付けていくという方向の進化だったのではないか。そう考えれば、海に残った魚類というのは体積あたりの比熱の大きい海水温度に合わせて生きざるを得ない中で、徐々に冷えていく海水温に合わせて現在のような代謝システムへと漸進的に進化したと考えることもできる。
ここからは比喩的な話になるけれども、企業組織などでも外部環境の変化に合わせてそれなりに自身も変化しながら永続する適応の方法もあれば、外部環境の変化とはある程度切り離された内部環境を保守的に維持することで、その限られた環境の中で昔ながらの慣れ親しんだ仕組みを使いながら、組織としては結局永続していくという適応の方法もあるのかもしれない。世界は世界、国は国、我社には我社のやりかたがあるというような、そういう企業が案外に潰れないということも、実は哺乳類の進化の戦略に似ているのかもしれない。
我が道を 笑わば笑え ガラパゴス
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一部で「フィーチャーフォン」と呼ばれる電話端末を使っているが、そこでフルブラウザ替わりになるiアプリを使っている。性能と使い勝手が良く、これを使っていると、最近の流行の主流を外れているために事業者固有の新規サービスに対応したアプリが提供されないという制限を別とすれば、基本的にスマートフォンと同等のことができる。
ただし、機能と性能が同等になってくると、一般には電池寿命に定評のあるフィーチャーフォンであっても、電車内でブラウジングを続けているとフル充電でも2時間くらいで電池切れになるし、回線品質に定評のあるNTT docomoのハイスピードFOMAであっても画像表示などではさすがにもたつくし、電車待ちの乗客たちがみんな携帯電話端末をいじっている乗換駅構内などでは、ちょっとした通信でもかなり待たされることが多い。iPhoneやSoftbankに固有の性質と思われていたものでも、案外に単なる利用法の違いに起因する問題というだけなのかもしれない。
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自宅に帰って無線LANの電波を見ると、5年ほど前には802.11gの電波が3波程度、窓際でも5波程度観測される程度だったが、最近では802.11nのアクセスポイントが15局ほど観測される。そのうち幾つかは同一の物理局なのだろうけれども、とにかく数が増えた。我が家には今のところ5GHz対応の子機がないので、基地局の方も5GHzを切って802.11gのプロトコルに設定してあるが、5GHz対応の端末に移行できたら、マンション内で混線気味かつ電子レンジの妨害なども受けやすい2.4GHzは切って、いっそ802.11aにしてしまったほうが接続が安定するなんていうこともあるのかもしれない。
で、そういう802.11nのAPの中に、FON_FREE_INTERNETというのがある。別に無料ではないのだが、加入者は他人のFON_APを自由に使えるらしい。最近Softbankが3G回線の帯域負荷を減らすためにFONの無線LANルータを無料で配布していて、契約者世帯以外への回線又貸し利用を禁じていることが多い固定回線の事業者と、新たな軋轢を抱えているなんていう話が検索で見つかった。
FONのルータをデフォルト設定で使用している世帯がマンション内に複数存在すると、APの識別子が衝突して見かけはひとつのFON_FREE_INTERNETしか見つからないが、気がつくとよその家の回線からインターネットに接続していたなんていう事態も発生するらしい。まあ、3GはFOMAでWLANは802.11gな我が家には関係のないことですが。
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常磐線に乗っていると、途中駅で車内の照明が消える。すると、交流区間と直流区間の切り替えのためというアナウンスが入る。なるほど。特急に乗っている場合に、途中で照明が若干暗くなり空調が停止することがあるのだけれども、これも客席照明をバッテリー電源に切り替え、駆動機関の切り替え中は惰性走行しているのだろう。なるほど。
東日本と西日本を区別する基準のひとつは今も残る商用電源周波数の違いで、その変換に特別な機器が必要なために、中部電力と東京電力との間での電力融通はあまり大きくできないらしい。これはイギリスとアメリカから導入した発電機の仕様の違いが今に残っているものらしいが、これに加えて鉄道業界には直流方式まで残っている、と。これも、エジソンさんとテスラさんの軋轢の影響が今に尾を引いているのかもしれない。
太陽光発電や化学電池による蓄電システムは、本質的に直流システムになっている。最近は性能の良い強電用途向け半導体が開発されているので、家庭電力程度であれば交直変換なども難しくはないが、太陽電池や電気自動車などの直流デバイスが普及してくると、ひょっとすると民生用にも直流給電が復活するなんていうことがあるかもしれない。
まあ、そういう事態になっても寝室に13.8Vの電源ジャックが設置されるなんていうことにはならないんだろうけれども。
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自宅に携帯電話の充電器を置き忘れ、5日間を電池だけで過ごしたことがあった。幸い、単身部屋には単3電池式の携帯充電器と、フル充電された14本のニッケル水素電池があったため、問題なく次の週末までを乗り切ることができた。
近い将来、照明とノートPCくらいは夜間電力を貯めて動かせるような室内直流化なんかを日曜工作で試みても面白いかもしれない。インバータで蛍光灯を点けるとなるとそれなりの技術が必要になるが、LED照明なら難しいのは放熱対策くらいなので、PC自作と大差ない難易度の工作になるだろう。ただ、電源電圧が12Vといった低電圧だと大電流が必要になるし、逆に直流100Vとかになると部品の選定が難しくなってしまう。交流電源は電圧がゼロクロスする瞬間があるのでリーク放電が発生しても消えやすいが、直流だと一度絶縁破壊してしまうと復旧しにくいなんていう問題があるらしく、スイッチ類が難しいらしい。
鉛蓄電池は重すぎるし、ナトリウム硫黄電池は高温電池なので個人では手が出ない。家庭用に小容量の蓄電システムを作るにしても、結局ニッケル水素電池かリチウムイオン電池のセルを使うことになるんだろうか。まあ、90度のお湯を100リットル単位で保管する電気温水器が市販されるくらいだから、保温性能の高いナトリウム硫黄電池システムが風呂場の外に置かれるなんていうこともあるかもしれないけれど。プラズマテレビと液晶テレビの運命などを見ると、結局リチウムイオン電池に資本と人員リソースが集中して、民生分野ではどんな用途もリチウム電池が汎用的にカバーするんじゃないかという気がする。
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とある待合室で週刊文春を開いたら、若い頃の野田さんの写真が載っていて、その姿は美男子だった。こういう歳のとり方もあるのだな、と。私も学生時代より12kgも体重が増えていて、あんまり他人のことを言えた立場でもなくなりつつある。
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