安敦誌


つまらない話など
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極道というもの

いわゆる「ヤクザ」屋さんという人々と関わりを持ったことはないのだけれども、近所の公園の向かいに、それらしい人々が出入りする、小さな、そして真っ黒な家がある。大きくて黒い車に、黒いスーツを着た立派な人が乗るときに、黒いスーツを着たゴツい人たちが一列に並んで頭を下げる。どういう生き方をしているのかは知らないが、おそらくは「ヤクザ」な生き方をしているのだろう。

「ヤクザ」の対極には「カタギ」の生き方がある。倫理・道徳を守り、人々に愛され、コンプライアンスを遵守し、正しく生きる。天下に人の道があり、その道の真ん中を歩く、正道の人々。

「ヤクザ」にはもうひとつの対極があって、それにはどういう呼び名があるのか知らないが、それは誰からも許容されない罪人である。人の道を完全に外れた、非道、ないし外道の人々。

人道の真ん中をいく正道と、人道を大きく外れた非道があって、その間のきわみに、極道がある。人の道の真ん中を歩くこともできないが、人の道を外れることもできない。人の道の真ん中を歩く人の胡散臭さも知っているが、人の道を外れた人の悲惨さも知っている。そうして人は、極道になっていくのだろう。

哲学でも科学でも良いのだけれども、世界とは何か、人間とは何かということを追求していくと、世間の人々がありがたく奉っている常識が、実はさほど正しいものではないということに気付いてしまう。しかしまた一方で、常識を完全に外れた極端に走る人間は、常識の力によって抹殺されてしまうことも知っている。そしてまた、多くの人々が常識を信じることによって社会が動いているのだということにも気付いてしまう。

ここへ至り、三つの生き方を選ぶ必要が出てくる。ひとつは、常識人の欺瞞に見切りをつけ、非道ないし外道へと落ち、人の世界から去っていくこと。ひとつは、常識がさほど正しいものではないと知りながら、それでも常識人であることを装い、しかし常識の裏にある正しさを駆使しながら、常識人たちの中で生きること。もうひとつは、非道に落ちることはできないが、かといって仮装としての常識を身に纏うこともできない、極道として生きること。

既に書いたとおり、私はいわゆる「ヤクザ」屋さんとの関わりはないが、常識人との理解の乖離を繰り返し経験することによって、自分がもはや常識人ではないことに気付いている。かといって、非道に落ちてこの世を見捨てるほどには非常識ではないことにも気付いている。つまりは、黒いスーツを着る人々とは別の意味で、極道の領域にあることに気づく。

となると、三つの生き方のうち、どれかを選択しなくてはならない。できれば、常識人の皮をかぶって生きて行きたいものだと思う。たとえば、民主主義における選挙の価値とは、民衆が政治を支配しているという気分にさせ、政治不満に対するガス抜きをする効果であると知りながら、選挙に行きましょう、一票を大切にしましょう、などという道理を、白々しく説く。そういう、腹黒く汚い大人になりたい。それによって若者に信奉されたり面罵されたりする、そういう大人になりたい。

仏教に四諦というものがあるのだという。諦観というのは、「あきらめ」というよりは「さとり」という意味合いらしいのだが、それでも「あきらめ」に通ずる部分はあって、その四諦の第一は「苦諦」であるという。世界とは、人生とは、すなわち苦であり、まぁそんなもんだと開き直ってしまえば、逆に苦しみに耐えられるようになるよ、苦しみが安らぐよ、というありがたい教えである。

人間世界の常識など、不正確で欺瞞に満ちたものだと割り切ってしまえば、案外安らかに常識人として暮らせるようになるのかもしれない。あるいは失敗してキチガイになってしまうかもしれないが、それはそれで仕方がないだろう。ともかく、あからさまに偽善と見えてしまうような偽善ではなく、よくよく判別しなければ偽善とは見えない、渋みのある偽善を目指していきたい。

そもそも究極の善など存在しないとすれば、全ての善はある種偽善にならざるを得ないのだが、それでもあからさまな悪に比べれば、やはりマシなものであるに違いないと思っている。紳士的であるということは、偽善的であるのと等価だと思っている。素朴な善意でもなく、素朴な悪意でもなく、それでもやはりある種の意図をもって生活を保たなくてはならない。あらゆる人は生活をしのいでいかなくてはならず、そのための活動がシノギということになる。そこには自然と競争が発生し、人々は互いにシノギを削ることになる。

道のきわに立って道ゆく人を眺めると、その喜びも悲しみも、一幅の絵画のように見えるのだと、「草枕」の主人公は説く。まぁ、確かにそんな気もする。それでいて、そういう非人情の中に長く立っていることはできなくて、いずれは人情の世界に帰って日々をしのがなくてはならない。智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくいのだけれども、人の世でなければそれは人でなしの世なのだから、なお住みにくかろう、などとも言う。そういう諦観の先に、安寧があるといいのだけれど。
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by antonin | 2009-01-18 04:05 | Trackback | Comments(0)
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