安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索
最新の記事
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
記事ランキング
タグ
(295)
(146)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

批評文化批判

切れすぎるモノと鈍すぎるモノ。
私はどちらにも対応できていない。

それはそれで仕方がないのだと思うが、まだ釈然としないものが残る。

--

昔、三越だったか、とにかくデパートに設置された美術館で、「パウリの排他律」と題された抽象画の展示を見たことがある。パウリの排他律がなんであるかを知っている人間から見ると、それはかなりマヌケな図像に見える。けれども、そういう抽象芸術とセットになった批評文化というものが優勢となった時代があって、そういうニッチマーケットに向けて、「なんだかわからないけれども意味が深そう」な芸術作品を送り込む作家が栄えた。そしてそれは今でも健在のように思う。

私はこういう批評文化圏の人々が好きではない。あるいは単に理解できないから嫌っているだけなのかもしれないが、それが単なる社交ゲームにしか見えないからでもある。

ヨーロッパには長く中世キリスト世界が続いたが、聖地巡礼ブームが昂じて、ついに十字軍を送ってイスラムと対決するようになる。そこで当初は善戦するものの、次第にイスラムの、強い信仰と科学的知識を併せ持った軍勢に押し返され、最終的にはウィーンを包囲されたりするまでになる。その過程でヨーロッパはルネサンスに目覚めたりするのだけれども、そういう具象芸術の時代が終わると、抽象芸術の時代に入る。

結局のところ、具象芸術が終焉に至ったのは、写真術によって肖像画家の写実描画技術が市場価値を失ったあたりにあると思うのだけれども、それでも絵描きというのは絵を描くことを捨てることができなかった。それでどうなったかというと、産業に擦り寄ってインダストリアルデザインに転向したり、哲学に擦り寄って抽象絵画に手を染めるようになった。

このうち、抽象絵画の源流には、やはりアラベスクの影響があるように思う。レコンキスタでキリスト者がイベリアに戻ると、そこにはアルハンブラをはじめとして、多くのイスラム建築が残されていた。イスラム教は戒律で偶像崇拝を厳しく禁じているから、宮殿にもモスクにも人物像を描くことができない。コーランから引いたアラビア文字であるとか、一部には花などの図像もあったが、基本デザインは複雑に繰り返す幾何学模様であった。

そうしたアラベスクの幾何学模様の起源が、果たしてピタゴラス教団の数理宗教哲学にまで遡ることができるのかどうかはわからない。けれども、深い宗教的思想が、なんら具体性を持たない抽象的なデザインとして現れることに、その後のヨーロッパ美術は深い影響を受けていく。

プロシアなどからは中国西域の仏教遺跡に調査隊が派遣された。当時その地域にまで勢力を広げていたイスラム勢力が、仏画が描かれた遺跡を偶像崇拝の邪教寺院として破壊するのを見て、急遽壁画を剥ぎ取って国へ持ち帰ったりもしたという。胡域で発見された仏画はたいてい素朴な聖人仏神の像であったが、中には曼荼羅のような必ずしも具象的ではない図像が見つかる。また、中国の東海上に浮かぶ島国の寺院で、枯山水という庭園が見つかる。

そういう、一見わかりにくいデザインの背景に、実は深遠な思想が込められているという「芸術」が、近代のヨーロッパへ徐々に流れ込んでいく。そしてそれに刺激されて、当時ヨーロッパを覆っていたキリスト後の世界を記述するための諸哲学が、それを表象するための芸術を求め始める。一部には哲学的思想を深く理解した芸術家があって、その思想を絵画としたり建築としたり音楽とした芸術が生み出されてくる。

そういう具合で、深い思索に裏打ちされた芸術作品が生まれてくるのだけれども、また一方で、単に具体性に欠けてわかりにくい作品が、あたかも深い思想を秘めたような姿をして現れてくることがある。個人的には、最初に挙げた「パウリの排他律」などは、まさにそういう作品であると見ているが、あいにくそれを確かめるだけの鑑識眼を持たないので、本当のところはわからない。

ともかく、見せ掛けだけの抽象性を持った、愚にもつかない「芸術」作品が量産され、また同時に、そうした愚にもつかない芸術作品の中に、ありもしない哲学的思想を幻視し、ああだこうだとありがちな術語を並べ立てて褒め称えるような「解釈」をした「批評」が渦巻くようになる。

人は、ありふれた濃淡のパターンに反応し、人間の顔を認識してしまうことがある。これがフィルム写真時代の心霊写真の典型的なパターンだと思う。これと同様に、あまりにも批評文化に染まりすぎた人間というのは、ほんのつまらない抽象性の中にも、典型的な哲学的思想を抽出して認識してしまうようになる。こういう、本来ありもしない思想を逆投影して遊んでいる批評文化人が、どうにも好きになれない。また、こうした批評文化人に向けて、空疎な抽象芸術を販売して恥じない「芸術家」もまた、好きになれない。

最近はこうした「批評空間」は縮小しており、かといって消滅もしていないのだけれども、単なる解釈ゲームに明け暮れている人間というものを、どうしても信用できない。そしてそういう空疎な解釈をあえて呼び込むような作品を作る人間と、それに大金を投じて嬉々として買い入れる成金もまた、私は信用できない。単にサインされた便器にでさえもっともらしい解釈をできてしまう「文化」に、私は積極的に関わりたいとは思わない。

デュシャン雑感

あまりにも切実な思想や哲学から、立ちのぼるように芸術作品が生まれるのは、きわめて愛すべき現象なのだけれども、単に人の知的虚栄を飾るための「解釈ごっこ市場」というものには、あまり近寄りたいと思わない。アラン・ソーカルが思わずツッコミをいれずにおれなかったのも、おそらくはそうした欺瞞の部分だったのだと思う。

--

さて、自分自身に潜む無知と欺瞞に光を当てると、なかなかに複雑な影が投影されてくるのだけれども、その解釈というものは自分自身には不可能であるような気がしている。どうとでもなれ、というような気分でもある。
[PR]
by antonin | 2009-02-14 03:08 | Trackback | Comments(9)
トラックバックURL : http://antonin.exblog.jp/tb/10348730
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by NAF at 2009-02-14 10:36 x
『もっともらしく、えらっそーに語っている』割には実はそれがうすっぺらい
ということにたいする嫌悪感、という捉え方でよろしいでしょうか?

少し話がずれますが、以前から社外の取引先の人たち(おじさん)を見てるうちに
『いろいろと熱心に調べているのに』『決してアタマは悪くないのに』
と思える人たちの言うことが、なぜか尊敬できなかったり、あるいは
どこか寒々しい、と思うことがあり、それが何故なのかを考えた時が
ありました。

私自身がうすっぺらいので、このまま行くと将来の自分は↑の彼らのように
なるだろうな、と危惧してます。

それにしても、
『自分自身には不可能であるような気がしている。
  どうとでもなれ、というような気分』

は逃げかと思います。あるいは記事の中の『好きになれない人たち』も、
同じように『どうにでもなれ』というタイプだったのかもしれません。
Commented by fazero at 2009-02-15 11:23
さいきん おっちゃんら から 「おまー わし お ばか に しとるなー  うーん?」 と ゆわれまふ ;
なんでや と きーてみたら いつも ちょと わろてる やないか いうので、 それわ そーゆー つくり に なってるよって そーみえる だけやろが と おもーねんけど、 まーおとしより わ だいじ に せな あかんので、 くちごたえ せんよーに してるねんけど、 けども みな じぶん が あほや と おもてて いうてるんやったら やはし おとな わ えらい。
Commented by antonin at 2009-02-15 17:15
>なふん

「『もっともらしく、えらっそーに語っている』割には実はそれがうすっぺらい
ということにたいする嫌悪感、という捉え方でよろしいでしょうか?」

違う違う。そうじゃない。全然違う。

>ふぁぜろ

なんというか、角が取れると丸くなるんだけれども、角が取れるたびに、それなりの痛みってのもあるもんなんだな。

いま、若い人は生意気であるべきだ、というようなことを書こうと思ったんだけど、やめた。もう書いたことがあるし。

安敦誌 : 吾唯知足
http://antonin.exblog.jp/8794051/

路上でイチャイチャしているカップルを見て、嫌がらずに満足そうな顔をしているオッサンは、自分もかつてそうした段階を踏んでいるはずだと思う。
Commented by antonin at 2009-02-15 17:22
「実るほどに こうべを垂れる 稲穂かな」

それはそうなんだけれど、ただこうべを垂れているだけで、実り豊かになった気分になっているのは、やっぱり間違っているんじゃないかと。実り豊かであるがためにこうべを垂れているなら、ツンツンと上を向いて成長していた時期を必ず経ているんじゃないか。

哲学から作品が生まれるのは、良し。
それに共感するのも、良し。
ただ他人の作品に哲学を見出して喜んでいるのは、悪し。

ただ、それだけのことでして。
Commented by antonin at 2009-02-15 17:41
「それにしても、
『自分自身には不可能であるような気がしている。
  どうとでもなれ、というような気分』
は逃げかと思います。」

実はこの部分だけは正しくて、最近のテーマが、自分の無知がどの程度であるかを正確に判断できるほどには自分は賢くない、であるとか、自分の欺瞞がどの程度であるかを正確に判断できるほどには自分は誠実でない、とかそのあたりでして、またそういう自分に対して適切な逃げ道を用意して前向きに歩き出すための大乗教研究なのでありまして、なんだろう、そういう意味で指摘は正しいのです。逃げてもいいじゃない。人間だもの。的な。
Commented by NAF at 2009-02-15 22:40 x
全然違いましたか。それは失礼しました。

ただ、

>哲学から作品が生まれるのは、良し。
>それに共感するのも、良し。

も、「ただ他人の作品に哲学を見出して喜んでいる」という所作の
一つに見えなくもないので、おそらくその行間に更に
意味があるのでしょうね。読み切れてなくて申し訳ないのですが。


>逃げてもいいじゃない。人間だもの。的な。

↑逃げちゃあいかん!とまでは思ってません。が、
中には他人へはやたら厳しいのに、自分のこととなると
やたら甘い、という人もいるので、そういう場合は
逃げっぱなしはやはりどうかと(私は)思ってしまったのです。
Commented by fazero at 2009-02-16 02:53
じぶん に あまい ひと わ、 どんな に ええ ひと でも、 かならず ひと に めーわく かけてる のに きい が つかへん よって、 ときどき わるい こ に なって、 いろいろ いうたり して、 いしし
で、 じぶん わ どーやねん いわれると、 それ わ また べつ の もんだい れす ;; 
Commented by antonin at 2009-02-16 22:35
ほらみてみい、他人様から面と向こうて言うてもらわなわからんちゅうこともあるんや。面と向こうて、やで。陰でこそこそ言うても仕方ないんや。

というキャラが脳内にわいて出ましたが、どうしましょうか。
Commented by NAF at 2009-02-17 01:13 x
すんません。意見をいいたかっただけで、
決して管理人殿を批判する意図では決してなかったのです。
(説得力に欠けるかもしれませんが)


こちらこそ、応えてくださってありがとうございます。
<< ぶっちゃけて書く 鼻が利くのは悲しいことね >>


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル