安敦誌


つまらない話など
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そういうふうに、できている

ちょっと気になったこと。綿ではなくフィルター式の紙マスクというものは、自分が風邪を引かないための予防措置ではなく、自分が風邪を引いたときに他人に感染させないための措置だ。もちろん、外科医なら患者の血液の飛沫が口に飛び込まないようにというような効果もあるが、そこまで危険な患者であれば、医師の眼を防御するための安全メガネも必要になる。それを装着していないということは、もっぱら口内細菌が唾液飛沫に乗って患者の体内を汚染しないことを目的としている、ということになる。

市販のマスクは、出口フィルターとしては有効だが、入口フィルターとしては機能しない。細菌より桁違いに小さいインフルエンザ・ウィルスを濾過するためには、高性能の限外濾過フィルタが必要となる。そんなものは近所の薬店では手に入らない。綿フィルターなら呼気の湿気を吸収して、吸い込む空気を加湿して咽を守るくらいの効果は確かにあるだろうが、そういうことは一般にどの程度認識されているのだろう。

それはそれとして、自分が感染症に感染することで周囲への感染源となることを憚るという理由で、感染予防のためのマスクをつけるという人も日本には多い。手許にこういう本がある。

日本人はどこから来たか (講談社現代新書 265)

樋口 隆康 / 講談社


歴史というものは「追試」をやりようがないので、原理的にどうやったところで科学という学問に取り込みようがないのだが、それでも近代の大学学問というのは実証的であるべしという理念が優勢で、歴史学もまた、文献学、あるいは発掘考古学の援用がなければ信用されないようになっている。だから古い学説はほとんどが「覆された」という扱いになるのが近代的学問の運命で、1979年初版発行の本書も同様の試練にさらされている。そういう事情なのだけれども、本書に含まれている魏志倭人伝の全文現代語訳の価値というのはそうそう低下していないだろう。少なくとも学問の門外漢にとっては。

その箇所を読むと、葬式の様子が書かれている。遺族が何もしないで喪に服す「もがり」に相当する期間や、最後に水に入って身を清める「みそぎ」に相当する行為が描写されている。その他、倭人の死と病気への対処法を連想させる記述がいくつも見られる。その中で興味深いのに、罪に対する処罰の項がある。「軽い罪ではその妻子を取り上げ、重罪だと一家だけでなく、親族まで滅ぼしてしまう」とある。この連帯責任、お家大事の源流となる制度自体も日本人らしい感じがして興味深いのだけれども、この時期に思い返してみると、考え過ぎかもしれないが、鳥インフルエンザの感染が確認された後に全数処分された鶏舎を連想してしまった。

結局これは、日本人の「ケガレ」という意識なのかもしれない、と思った。その手の民俗学については詳しく知らないのだが、葬式から帰ってきて塩を振るなどというのも、家では靴を脱ぐというのも、握手や接吻をしないというのも、行水や入浴を好むというのも、結局のところ感染症を防ぐという清潔志向が根にあったのではないかという気がしてくる。だとしたら、日本人が新型インフルエンザをことのほか警戒するというのも、ほとんど無意識レベルの国民文化だから致し方ないのではないか、ということになる。

そういう衛生面での「お清め」にことのほか注意を払うという部分も日本文化に根付いていると思う一方で、潔さ、つまり「いさ清さ」という、一度ケガれたら類族殲滅というような精神文化もまた、そういう鳥インフルエンザ対策に通じる歴史的な経緯とつながりがあるのではないか、というようなところまで妄想は広がる。うちの祖父は「潔」とかいて「キヨシ」と読ませる町医者だったらしいが、私が生まれる前に死んでしまった。そんな祖父の名も少し思い出したりしている。

それで、もし何千年も続いてきた文化なのであれば、今さら少しくらい騒いだところで何も変わりはしないな、それでやってきたのだものな、と思い始めている。野菜を多く食べているうちに腸が長くなったのと同様に、脳の構造もそういう文化に合わせて何かしらの適応が生じていたとしても、さもありなん、という気がする。日本文化が潔癖症というのではなく、日本人が潔癖に適応するように進化しているとしたら、もう誰にも止めようがないのだ。もちろんそんなことは科学的に実証されていないが、個人的にはそれがあまり重要だとは感じていない。

さくらももこさんの本に「そういうふうにできている」という本があって、妹が学生時代に読んでいた記憶がある。

そういうふうにできている (新潮文庫)

さくら ももこ / 新潮社


つまり、女性が出産してみると、その体というものは改めて「そういうふうにできている」ことを実感した、というような内容だという。

で、なんというか、最近「諦める」とか「観念する」とかいうことに興味が行っているのだけれども、それもまた、「そういうふうにできている」んじゃないのかと思い始めている。子供というものは、走り回って遊ぶようにできている。青年というものは、恋に落ちるようにできている。そして、中年というものは、現実の前に屈服して、適度に諦めるようにできているのではないかと感じる。そう「思う」のではなく、ましてや「考える」のでもなく、そう「感じる」。そしていずれ老境にさしかかれば、若い人が知らない昔のことを繰り返し語るようにできているのだろう。そして子供たちは、そうした老人の繰り言に興味深く耳を傾け記憶する。きっと、そういうふうにできているのだろう。人間の歴史は、そうして連綿と続いてきたのだろう。そう思う。
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by antonin | 2009-05-17 03:15 | Trackback | Comments(0)
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