安敦誌


つまらない話など
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轍は時に有難い

「一読の価値がある書物は再読の価値がある」

学生時代に読んだ新書本を開くと、挟んであったしおりにそういう格言が書いてある。確かにそうに違いない。世の中には万巻と表したところで桁違いに足りないほどの書物があふれていて、そのうちの一冊を読みこなすにも骨が折れる。それなのに、一度理解したつもりの本を読み返すと、内容の詳細を忘れているばかりか読み取れる内容まで変化している。確かに良書というのは再読の価値がある。

となると、実際に読書に割ける時間なども勘案すれば、いかに速読術などを駆使しても、もう絶望的な何かを感じざるを得ないということになる。あの時代の空海さんでさえ、こう書いていらっしゃる。

悠悠たり悠悠たり、太(はなは)だ悠悠たり。
内外(ないげ)の縑緗(けんしょう)、千万の軸あり。

空海コレクション 1 (ちくま学芸文庫)

空海 / 筑摩書房


限りなく限りなく、とても限りがない。仏教その他の経典は、千万の巻物になる。書いてあることも、それぞれにもっともなことが書いてあるのだけれども、内容はそれぞれに異なる。そんな嘆きのような詩文から、秘蔵寶鑰という書が始まる。

そういう具合で、本というのは嫌になるくらい多くあるのだけれども、大きく分けて本には3種類のものがあるように思う。

ひとつは、読めない本。もちろん言語として読めないものもあるし、言葉としては読めるが内容が難しくて理解できないものもある。言葉もわかるし内容も理解できるが、その内容に納得できないというものもある。

もうひとつは、得るもののない本。なるほど納得できるが、その内容は先刻承知、何も新しく得るものがなく、退屈極まりないという本も、中にはある。

最後は、面白い本。読めないということもないし、退屈ということもない。内容が理解でき、新たに得られるものがある。それが役に立つかどうかは別として、とにかく読んでいて楽しい本というのがある。

考えてみればはっきりしているのだけれども、これというのは書物そのものが持つ性質ではなく、あくまで書物とそれを読む人の関係が3種類あるに過ぎない。だから同じ本を再読してみても、読む側の人間の状態が、経験や感情やその他もろもろのものによって常に変化しているから、かつて理解できず面白くもなかった文章が面白く感じられるようになったり、逆にかつて面白かった本が退屈に成り下がったりする。

時を経ても変わらず面白い本もあるが、どの部分に面白さを感じるかというところまで言えば、やはり読み手の変化に応じて変わってくる。この手の変化というのはほとんどありとあらゆる事象に当てはまると見えて、音楽しかり、絵画しかり、料理も飲み物も、スポーツも旅行も、あるいは仕事であっても、やはり同じ対象に異なるものを感じるようになる。


仏法に因・縁・果という考えがある。同じ原因、要因から発しても、そのときの状況という縁が異なれば、結果も異なるという解釈がある。だから因だけでなく縁も大事なんですよ、という感じの説教になるのだが、cause, condition, resultというような語を当てはめてみると、意外に科学の方法と似ていることに感心した。諸法が空であるなんていうのも、人間の意識から見ればすべての事象は情報と解釈できるとした個人的結論と馴染みがいい。

結局は自分に都合のいい解釈ではあるのだけれども、不動明王を本尊とするお堂の脇の説明を読めば、人の心は人の数だけ異なる相があるけれども、肉体に縛られない不動明王さまは人の心の中に人の心の数だけ現れて、人の心に随いながらも人を導いて救うのだ、というような内容の言葉が書かれているのに気付く。

そういう意味の言葉に気付くのも、自分で苦しみ、自分で悩み、自分で考え、そして不動明王の真言を無心に繰り返して唱え、その結果を体感した経験があるからこそなのだろう。真言が備え持つオカルト的なご利益というよりも、短い真言を唱えるといった単純作業の反復に言語野の入力と出力を割り当てることで、無心という冷静な脳の状態を得る、といった解釈の方が実際に体験した感覚に近い。答えは先人の智慧の中に既にあったのだけれども、それでもやはり、そこにたどり着くためのプロセスは一人ひとりが通ってみる必要があったということなのだろう。

けれどもまぁ、そういうことは大人がちゃんと教えてよね、という気がしないでもない。長い道のりだったし、悟ればそれで終わりということではなく、今後も反復訓練によって自律の精度を高めるという行は日々繰り返す必要があるということも理解できた。

よく、哲学的疑問の答えを探すことに意味がない、というようなことを言う人があるが、そういう人はおそらく、本当の意味で哲学的疑問を発したことがないのだろう。疑問を発していない人には答えは必要がない。当たり前だ。しかし、本当に疑問を発してしまった人は、あくまで哲学的に答えを希求しなければならない。そうしなければ、苦しみに終止符を打つことはできない。議論のための議論をもてあそぶことは確かに不毛だが、切実な疑問の答えを求めることはやはり不毛ではなかった。


コメントには改めて応答いたします。寝る。
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by antonin | 2009-09-11 00:34 | Trackback | Comments(0)
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