安敦誌


つまらない話など
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ノーブレス・オブリージュについて

日本語で言うと、「品格」騒動の内容に近いのだと思う。品格というのは、格に見合った品の良さというようなものであって、まず大前提に「格」がなければならない。ノーブレス・オブリージュ、高貴さゆえの義務を期待するならば、まずは高貴さを保証しなくてはならない。ノーブルでないところにオブリージュに見合う精神は育たない。

横綱朝青龍に横綱としての品格を要求する声が上がっていたが、その品格を要求する側の一部に見られた品のなさが目に余った。なぜ横綱に品格が求められるのかというと、歴史を持った横綱という格に対する、人々が持つ無条件の敬意があるからだ。個人的品位が高いから横綱が尊敬されるのではなく、まず人々が横綱という格に対して無条件に尊敬する態度を見せるから、そういう格に置かれた個人は、否応なく格にふさわしい品位を持たざるを得ないところまで追い詰められる。これが品格というものだろう。

横綱という格から降りたときに、なお個人として尊敬され続けるのか、それとも格の喪失と共に追放されるのかは、横綱時代の品格を満たしたかどうかがものをいうのだろう。それにしてもまず最初には、横綱という個人ではなく横綱という格に対して無条件の敬意を払う、周囲の人間の存在が欠かせない。そういう敬意に欠けた人間が、横綱という格にある個人に対して一方的な品位を要求するのは、きわめて軽率な態度である。

医師も教師も品位を求められる聖職であるが、その大前提として医務や教務に対する無条件の信頼と敬意があらねばならない。それがあって初めて、それらの格を占める個人に対する品位を要求できる。まず順番としてはそちらが先だろうと思う。たとえ総理大臣という格にある個人の資質がどうあれ、総理大臣という格に対する信頼と敬意を失っては、その座にある個人に対して高度の義務を要求することはできない。

かつてノーブレス・オブリージュを求められていたのは専ら貴族だった。生まれつき衣食住に困ることなく、優れた教育を与えられ、領民からは無条件の敬意を払われる。そういう中で思い上がってしまう人間も生まれるだろうが、それでもなお無条件の敬意と富を与えられた人間は、どこかでそれに見合う品位を求められていることを自覚せざるを得ない。

終身雇用制度の中で腐敗に落ちた人間も多かっただろうが、その中で高度な義務感に駆られて困難な仕事に対向していた人間も多かった。その義務感の根底に、何があっても生活と家庭が守られるという安心感と、その無条件の富と敬意によって強い義務感を持つに至った、あるいは強い義務感を持たざるを得ないように追い込まれた人間がいたということだろう。ある一定水準の働きを期待するだけなら褒賞による条件付けが有効だろうが、ある一定水準を超えて人間の限界に近づく働きを期待するなら、人間に対する無条件の保護と敬意が有効になる。

「人権」というのは腐敗の元のように見られることも多いが、あらゆる人間に普遍的な権利を認める基本的人権というものは、限られた貴族階級だけでなく一般国民のすべてにそうした高貴な義務感を生み出す素地なのだろう。基本的人権というのはそういう戦略的意図を持って人為的に生み出された概念なのだということを、人権を擁護する側も批判する側も改めて思い起こす必要がある。

社会がどう動くかは別として、少なくとも自分のコドモたちにだけは無条件の保護と愛情を注ぎたい。善くありたいと思う精神の基盤には、無条件の自尊心、自己愛でも驕慢でもない自尊心が必要だ。その根底には、やはり大人の愛情というものが必要になるのではないかと思う。
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by antonin | 2009-12-05 13:15 | Trackback | Comments(5)
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Commented by fazero at 2009-12-05 18:41
そーれす その とーり れす
Commented by NAF at 2009-12-05 22:23 x
>少なくとも自分のコドモたちにだけは無条件の保護と愛情を注ぎたい。

そりゃもう、どばどば注いで下さい!なんなら愛情もって鍛えてあげますわ☆
Commented by antonin at 2009-12-06 20:44
コメントありがとうございます。
いやどうも、本当にありがとうございます。

我が家では父親と母親のポジションが逆転しているようなところがあって、規律と厳しさについてはヨメが、まあよしよしというところについては私が担当しておりまして、どうしたもんだろう、という具合であります。
Commented by 照井 at 2010-03-02 18:02 x
はじめまして。
あまり聞きなじみのないノーブレス・オブリージュというものは、
かつてどの日本人にもあったであろう
「困った人を助けるのは当たり前」の精神とよく似たものなのだなぁと
色々と読んでおりましたらば、こちらにたどり着きました。

安敦様の書かれた文には「これだ!」と強く感銘を受けました。
自分の胸中でモヤモヤと上手に言葉に出来なかったものが
ここにある、と目的地に到達した気持ちです。

信頼と敬意、品位・品格・・・
確かに、朝青関を散々に舌鋒で切りつけたマスメディアには
横綱や大相撲への敬意があったのでしょうか、甚だ疑問に感じます。

こうしてみると、おいそれと口に出せるような軽い言葉ではないと
改めて思い知らされますね。

今はスノーボードのとある選手であったり、「品位を求められる」ケースが大変に多いように見受けられますが、
本来は自分の内側から沸き出でてくる「気高さ」こそが人を真に尊敬さるるに足る人物と
しうるのではないかなァ、と、そんな風に思う今日この頃でした。

乱筆乱文、大変に恐縮ではありますが、この感激をなんとか稚拙ながらも
お伝え申し上げたいと思い、コメントさせていただきました。
Commented by antonin at 2010-03-03 21:58
>照井様

ご賛同のコメントに感謝いたします。

理想的には本文に書いたような話になるのだろうと思いつつも、鶏が先か卵が先か、という話にも似ているような気もして、やはり人間というのは一筋縄にはいかないものだと感じます。

ただ、どうしても忘れられないのが、朝青龍関を格下の日本人力士が破った時の観客の反応に、どうにも単なる金星以上のものが見えたという記憶なのです。

遠い国から少年時代に日本へ渡ってきた力士が、格段の努力の結果として番付を上がった末に観客からこういう扱いを受けたとき、果たして彼の心に去来するものはどんな味だったのかということを想像してしまいました。

そういう日常の積み重ねを抜きにして、ドルゴルスレン・ダグワドルジという一介の「スポーツ選手」に対して私生活にまで及ぶ厳しい規律を求めるほどの品格を、果たして私たち日本人自身が持ち合わせているのだろうかという疑問は常に心を離れませんでした。

朝青龍関と床山さんの親密な交流などが、かろうじて異国出身の若者に横綱としての品格を与えていたのだと思うと、どうにも気の毒な報道が多すぎるのではないかというのが正直なところです。
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