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いやはや。タイトルはあんまり関係ありません。 -- 芸術というのはある程度まで、作り手と受け手、あるいは買い手と言ってもいいけれども、生産する側と消費する側の間に共通したルールが存在する必要がある。たいてい最初はありふれた日用品や娯楽の品質に関する緩いルールであったものが、偶然の積み重ねであったり変人の偏執であったり、そういうものが時間の経過とともに積もりに積もって、最終的には針をも通さないような複雑なアレやコレやの決め事になってしまったものが、高度な芸術になる。 そういう、高度な芸術に含まれる高度な「お約束」とは、客観的な視点、つまりそうした高度なルールを理解しない視点から見ると、一般に滑稽に映る。京劇のメイクアップと頭のてっぺんから出るような声であるとか、歌舞伎の見栄切りやそれに応えて役者の屋号を叫ぶ観衆であるとか、そういう慣習というものは、ほとんどが冷静になってみれば馬鹿らしいようなものばかりである。 しかしだからといって、そういう客観的に無意味な決まりごとに縛られた芸術が馬鹿げているのかというと、決してそういうことはない。そうした予定調和が高度に調和したとき、人の心には得も言われぬ昂揚感が起こる。この感情こそが芸術の正体なのであって、約束事というのはそのための道具立てに過ぎない。しかし高度な道具ほど完璧に扱うことは難しく、そこに人間は芸術を見る。 だから、芸術を扱う人々はふたつのことに気を付けなければならない。ひとつは、ある芸術がどんなに高度な美を表していると感じられても、その芸術が内包するルールを理解しない視点から見れば、それは極めて滑稽なものでしかなくなるということを忘れないこと。もうひとつは、周囲から冷ややかな評価を与えられていても、自らの感覚が美しいと訴えかける芸術には、必ずなんらかのルールに支配された本物の美が潜んでいるのだから、周囲の評価に過大に影響されないこと。 そんなことを、夜郎自大にならずに自己暗示するということは、果たして可能だろうか。芸術家や職人の煩悶のうちのいくらかは、このような問題によるものなのではないかという気もする。
by antonin
| 2010-01-12 19:21
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