安敦誌


つまらない話など
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偽善について

忙しい期間が過ぎて、雑念をまとめるだけの時間が取れるようになった。幸か、不幸か。

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偽善というと非常に嫌な印象のある言葉だが、何度か書いているように、人はむしろ偽善的であるべきだとさえ思っているので、なぜ人は偽善を嫌うのだろうかということについて少し書いてみたい。

まず、偽善とは何を指しているのか。一般的にこの言葉は二つの意味で使われているように思う。ひとつは、表向きは善であることを標榜している行為が、当事者の隠された意図としては悪であることを自覚しているというもので、つまり善に身を隠しておこなわれる悪というもの。もうひとつは、表向きの言葉も当事者の本心も偽りの無い善意であるのだが、思慮が浅いために結果としては悪影響をもたらすというもの。

前者は詐欺や搾取に類するものなので、分かりやすいタイプの偽善と言える。後者は立場の違いによって見解が相容れないので、より厄介なタイプの偽善と言える。自ら悪と知りながら悪行をする者と、自ら悪とは知らずに悪行をする者ではどちらがより罪が重いかという問答が仏典にあるらしく、その答えは、際限を知らない分だけ知らずにする悪行の方が罪が重い、となっているというから、議論すべきは本心の善意から発する偽善の方なのだろう。

災害救助の募金を募っておきながら集まったカネを寄付せずに持ち逃げするのは、知って行う悪に属する偽善になる。「災害地で困っている人にできることがあります。このメールを一人でも多くの友人に転送して下さい」というチェーンメールの転送者になってしまうのは、知らずに行う悪に属する偽善になるだろう。知って行う偽善者を、知らずに行う偽善者が取り囲んで組織をなすという形態もあるだろう。一番問題になるのはこのタイプの偽善構造かもしれない。

ただし、本心からの善意に発する行為というものを、善と判断するのか悪と判断するのかということは非常に難しいもので、軽々しく偽善と批判したり、偽善という批判に軽々しく屈したりするのも問題であると思っている。

個人的に、善とか悪とかというものは、ある美的感覚に対してプラスに作用する行為が善、マイナスに作用する行為が悪、とみなしている。なので、ある行為や考えが善であるとか悪であるとかというのは、なんらかの美的感覚に依存するもので、同じ行為でも基準となる感覚によって善であったり悪であったり、あるいはどうでもよかったりするのだと考えている。善悪とは基準となる感覚に依存する相対的なものであって絶対的なものではない。

善悪にはそういう相対性があるので、ある感覚を基準に善であるものが別の感覚からは悪に見え、したがってあらゆる善は偽善に陥る可能性があるということになる。ただしこれは、同じような美的感覚を共有する人々からなるコミュニティを大きく外れた経験のない人には理解できない構造でもあって、問題は厄介になる。

善悪は美的感覚に依存するという考え方からすると、自分の美的感覚に照らして醜悪である行為が、別の人々の間では善行であると評価されていることに対するいらだちと、自分の美的感覚にとって醜悪なその行為が自分にも課されるという苦痛が、偽善が嫌われる要因なのだろう。

善悪が所詮は局所的なものでしかないという考え方からすれば、自分の感覚に基づく善悪の判断と、他人の感覚に基づく善悪の判断が食い違うということは、不快ではあるが受容しなければならないだろう。一方で、その善悪を行為として他人に強いる場合には、これはお互いに慎重さが求められるのだろう。移民を受け入れる際の苦痛というのも、こういう民族文化に根差した美的感覚の相違をどうやって共存させていくかということだろうし、近隣国家との軋轢も幾らかはそうした文化摩擦の面があるのだろう。

失敗をしたときに謝罪を先にすべきなのか弁明を先にすべきなのかというのは単に習慣と美的感覚の問題だが、事実関係や個別事情を明確にする前に謝罪を先に立ててウヤムヤにするのが偽善なのか、あるいは相手に対する思いやりの気持ちと事態を収拾させる努力を示す前に事実関係を述べ立てようとするのが偽善なのか、その判断基準はそういう美的感覚の違いに帰するのであり、そこは無視できない問題なのだろうと思う。だとすれば、その手の「偽善」に対する嫌悪については、甘んじて飲み込む訓練も必要になっていくのではないかという気がしている。

医師という立場を考えてみると、弱った人を賢明に救う人々と考えることもできるし、弱った人に対する優位を利用して利己的行為をする人々と考えることもできる。しかし、医師が得る権益と、市民が得る医療という利益を天秤にかけて、あまりひどいアンバランスが無いようであれば、そこに偽善を見出して排斥しようとして医療体制を損害することこそが、むしろ偽善ということになってしまう。

ペットボトルのキャップだけを回収することで寄付金を集めることが、エネルギー収支的にも物質収支的にも非合理な行動だとしても、その行動が広がることでペットボトルリサイクル現場の作業員が無数のキャップを外す作業からいくらか解放されているのだとすれば、キャップ集めのインセンティブを誰かが提示するのにも合理性があることになる。そうであれば、キャップの分別回収を偽善として排斥することが、ペットボトル本体の体積圧縮作業を破綻させるという、より大きな視点から見た場合の偽善行為になってしまう可能性もある。

人間の思慮には限りがあるので、誰かの意見と別の誰かの意見ではどちらがより良いのかという判断は、簡単にはできない。明らかな欺きや悪意のある偽善は別として、本心からの善意に基づく行為というのは、推し進めるにしても押しとどめるにしても、かなりの慎重さを要するのだろう。

ただし、そういう含みは残しながらも、結局のところ人は自らの美意識に照らして善いと思うことをしたいと思うように出来ているのだろうから、見方によっては偽善になるとは知りながらも、それでもやはり善と感じる方向へと進んでいくしかないのだろうという気はしている。
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by antonin | 2010-10-26 13:49 | Trackback | Comments(0)
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