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「盗人にも三分の理」ということわざがあって、広辞苑で意味を引くと、こうある。 どんなに筋の通らない事にも、理屈をつければつけられるものである。 どうやら、「理屈と膏薬はどこへでもつく」ということわざと同じ意味であるらしい。だが、どうもその解釈は底が浅いのではないかという気がする。 ある町で盗難が相次ぐ。そしてある日、その実行犯である盗人が捕まる。事情を明らかにすると、罪は罪として認めるが、そこに到るまでにはそれなりの事情があったのだという話になる。そういう事情にはそれなりの理があるのだが、窃盗の罪を覆すほどには、止むに止まれぬというものでもない。そういう事情を総合的に見ると全体の3割程度だろう、というように、ここは素直に考えておく。 こうして罪は秩序維持のための「七分の理」から裁かれ、相応の罰が与えられる。だが、盗人の持っていた「三分の理」を、どうとでも言えるような屁理屈であると言って切り捨て続けていくと、切り捨てた三分の理は次第に蓄積し、やがて七分の理であったものが三分の理の側に転落していく。 盗人が、例えば人々に嫌われたための飢えから盗みに走ったのだとすると、その飢えという事情は三分の理にしかならない。しかしその三分の理は、飢えた人が盗みでしかそれを癒すことができないという問題を指摘しているかもしれない。秩序の側がその欠点を修正しないとすれば、人生には付き物の偶然から飢えに落ちた人間が出るたびに、そこから盗みに走るということがこれからも繰り返されるだろう。何かの偶然で飢えが社会に蔓延してしまえば、秩序は崩壊するだろう。一方、三分の理をすくい上げて制度を修正し続けるような体制であれば、三分の理さえ言わせずに盗みを減らすことができるだろう。 法に反するのにも、必ず何かしらの理由はあるだろう。けれども多くの場合、秩序維持という大義の前で個別の事情は見劣りする「三分の理」でしかなく、体制の側に「七分の理」がある。造反する側の頭は「三分の理」でいっぱいだが、冷静に見ればその効力は限定的となることが多いだろう。しかし体制の側が「七分の理」ではなく「十分の理」を持つと勘違いすれば、三分の理もいずれ火を噴く。 そういうことが続けば、いずれは造反する側に「七分の理」があるということにもなるだろう。けれどもやはり、それにしても「七分の理」でしかない。劣化した体制を打ち倒す側に多くの理があるとはいえ、劣化した体制の側にもそれなりの事情があり、そこには依然として「三分の理」がある。それを造反側に完全な理があると思えば、いずれ揺り戻しに苦しめられるのは造反した側自身ということになる。 独裁者を追放して美酒に酔うのもいいが、そこで頭を冷やすことができなければ、程なく恐怖政治や復古主義が吹き荒れるというのも、過去にある革命の歴史を見渡すと類例が多い。北アフリカの造反はまだ始まったばかりだが、冷静な目をした人を血祭りに上げるような事のないよう、陰ながら期待したい。 ジャスミン革命 - Google 検索
by antonin
| 2011-01-30 23:38
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