安敦誌


つまらない話など
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形而上下の閾値

職場の関係で平日から酒を飲んで帰ってきた。翌日も仕事がある大人の飲み会なので泥酔することはないが、それなりに時間をかけてそれなりの量の酒を飲んだ。帰りの電車で、読書のペースが一向に上がらない「宇宙創成はじめの3分間」を読んだ。不思議なことに、こういう系統の本を読むときは、ある程度酒を飲んでからのほうが読みやすい。

酒の飲みはじめというのは酩酊が徐々に進んで言葉が多くなり、読書どころではないのだけれども、飲みはじめからだいたい3時間も経過すると、飲酒のペースは遅くなり、同時に言葉のペースも落ちてくる。この状態で一人になって帰宅することになる場合が多いのだけれども、こういう場合というのは酒の入っていない状態よりもむしろ思考が冴えて、哲学的なことを考えやすくなっている。

哲学というのが何を指すのか本当のところはわからないけれども、今で言う哲学というのは、形而上学のことではないかという気がする。「形而上学」というのは"metaphysics"の訳語で、今日読んだ本は物理学に関する本なのだから曲がりなりにも"physics"であって、形而上学というよりは形而下の学問に関する本ではある。

けれども、この本が語ろうとしている素粒子物理学や宇宙物理学というのは、理論で使われる高度な数学表現や、大規模な実験施設が吐き出す実験データを体験的に理解できるような人にとって初めてphysicsとなりうる。そういう素養や経験のない一般的な人、つまり人類の大部分にとっては、現代の素粒子物理学というのは、想像は可能だが実感の伴わないmetaphysicsの領域に、むしろ入るのではないかという気がする。

同じように、多くの人にとって自動車の走行や飛行機の飛行はphysicsだが、宇宙飛行にもなるとmetaphysicsになるし、文献や遺構の残る時代の歴史はphysicsになりうるが、先史になるとmetaphysicsにならざるを得ない。

結局のところ、経験による正しい推論や、実際の行動による検証が可能な範囲が形而下の理論であって、正しい推論や検証が及ばない範囲の理論は、現実的には形而上学になってしまうのだろうと思う。そして正しい推論や検証が及ぶ範囲というのは、個人の経験や環境に左右されるので、ある人にとって現実的な理論であっても、別の人にとっては空想と差のない形而上の議論になってしまうということもあるだろう。

人間というのは現実的で有効な推論を働かすために、進化論的な意味があって脳を大型化させてきたのだろうが、脳の大型化の副作用というのか、非現実的で実生活上は無意味な推論を働かすことを楽しめるようにもできている。アルコールによる酩酊が引いていくときの哲学的思考がどういう生理的なメカニズムによるものなのかはわからないが、脳の特定の部位はまだ機能低下していて、別の部位は機能低下から回復しつつあるというアンバランスの作用によるのではないかと思っている。

こういうときにふさわしい形而上学的話題というのが、宇宙の構造はどうなっているかとか、宇宙の歴史の最初はどうであったかというような神話的話題であるというのは、今も昔も変わらないのだろうという気がする。そういう形而上学的妄想の中で、比較的出来の良かったものが神話として後世まで残ったのだろう。

酒の席も後半になると政治の話題になることも多いが、ある程度大きな組織を統括した経験のある人間にとっての政治はphysicsの範疇に入るが、そうでもない人間にとっての政治はmetaphysicsの話題になってしまうというのも、こうした傾向の理由のひとつなのではないかという気がする。

同じ話題を共有する場にあって、すべての人にとってその話題がmetaphysicsであれば議論は盛り上がるだろうが、誰かにとってはその話題がphysicsであるという場合もあって、そういう場合にはその人は苦笑しながら話を聞くしかないのだろう。ときにはそういうthresholdをまたいだ会話も面白いと思うが、いずれは議論が噛み合わなくなって飽きてしまうだろう。人間は酒の席の話を適度に忘れるようにできているのが救いだが、まあ、ある程度閾値の近い人間同士で集まってしまうのは仕方のないところなのではないかと思う。

あまり必要に迫られていない楽しい話というのは、だいたいがmetaphysicsに片足突っ込んだところにあるのではないかというような予感があるが、これ自身もまた検証不能なmetaphysicalな話題ということになる。
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by antonin | 2011-04-21 01:26 | Trackback | Comments(0)
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