安敦誌


つまらない話など
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切実さについて

絶対的な真理というのは到達不可能なのであり、何が正しくて何が誤りかということに対して、あまり真剣になっても仕方がないとは思うのだが、世の中には何が正しくて何が誤りかということを追究したり教育したりすることを本業としている人もあって、そういう人々の切実さというのもまた仕方がないな、とも思う。同じように、人の罪の程度を厳しく同定して、それにきっちり見合った罰を与えようとするのもどうかと思うのだが、そこにもそれを本業とする人々がいて、その切実さというのももっともだという気がする。


自宅の近くに一方通行の道があるのだが、最近道交法が改定されて自転車の走行が基本的に車道側とされたのに合わせて、この一方通行の狭い道の両側が自転車通行レーンとして色分けされた。そしてその道路の出口付近に3台分のタクシープールがあるのだが、利用者の頻度と待機台数のバランスが悪く、この自転車通行レーンを埋めてタクシーが列をなして駐車している。この道路は歩行者も自転車も通行量が多く、路上駐車で道幅が狭くなっている部分ではかなり危険な状況も見られる。

自転車通行レーンは当然駐車禁止で、時折通報されてパトカーに追い払われているのだが、それも一時的なもので、すぐに待ち行列は復活する。要するに慢性的な違法行為なのだけれども、タクシーの運転手たちにも生活というものがあり、後付けの法令で排除されるにはあまりにも法令と実情が乖離していることもあって、なんというか、ここでもやはり客待ちを本業とする人の切実さを想って考え込んでしまう。


部外者は気楽で当事者は切実なのだが、傍目八目というのか、部外者の意見のほうが大筋マトモに見えることも多い。もちろん、部外者が勝手気ままに出来もしないことを言う場合もまた多いのだが、そういう部外者による余計な口出しの部類が法律として制定されるなんていうことがままあり、どうしたものかな、と思う。

こういう場合の運用として、いくつかの方法が提案されている。ひとつは、ソクラテスばりに「悪法もまた法なり」という具合で、ルールはルールとして厳格に適用していくという道になる。ゼロ・トレランスとも呼ばれて、それなりの評価もある方法ではあるのだが、歴史上の法家の故事などを知っている東洋の文化の中では、あまり受けがよろしくない。

また、理想的な解決として、運用開始されたルールの問題点を素早く吸い上げ、実情に即したルールへと日々改善し、法令が設定当初に持っていた目的を現実的な形で実施できるような形へと仕上げていく方法がある。民主主義の覚悟ができた国民としてはこれが理想なのだけれども、これもまた支配と恭順の伝統が残る日本の文化には合わない。

それから変わり手として聞こえてくるものに、確率的罰則、あるいは見せしめ的処罰というのがある。違法行為の大部分は見逃されるのだが、ときどき気まぐれに厳しく処罰される。こうすると、大多数の善良な人は不合理な処罰を嫌って違法行為から距離を置くので、個人の節制によって法の定める罰則水準に近づきすらしないのだという。西洋的なフェアネスに則って全てのケースを合理的に判断してしまうと、その合理的判定ギリギリまでが当然に許されるものと、人間は心理的に考えてしまうかららしい。

日本の道交法というのは見事にこの確率的処罰の方法で運用されているのだが、本当に理論通りになっているとは言いがたい。時速50キロ制限の道路を40キロで走るのが主流とはなっていないし、最近になって路上駐車が減ったのも、違法駐車摘発部隊を雇って確率的罰則から合理的判定にいくらか近づけたためのように思える。


ルールが実情を無視して運用され続けるとき、人は最初にルールを遵守するか無視するかの選択を迫られるのだが、結局のところ無視するしかないという結論に至る。すると、次第にルールを無視することに対して鈍感になってしまい、本当に重要で適切なルールまで踏み外してしまうようになる。「嘘つきは泥棒の始まり」ということわざはそういう事を言っているのだと思うし、ユダヤの格言にあるという「誰も守ることができない法を定めてはならない」というのも、やはりその手の意味があるのだと思う。

それはまあ、泥棒をする人間が悪いのは確かなのだけれども、どこかに悪法を放置してしまった責任というものもあったのかもしれないと考えるような、そういう反省の仕方があってもいいんじゃないかと思う。問題を見つけたときに「対策」と呼べそうなものを考えるのは案外簡単なのだが、その実際の影響、特に副作用的な影響を推測するのは難しい。もちろん勘の鋭い人はそれに気付くわけだけれども、かといって問題を放置するわけにもいかず、結局は無理を通すことになる場合も多い。


最近では脱原発がどうのこうのというニュースが聞かれてくるけれども、そこにもやはりそれを本業とする人々の切実さというものがあり、そういう切実さを考慮しながら、それでも全体的な仕組みというものを理解しつつ制度を作り上げていくというのが政治というものなのだろう。社会に歓迎されない産業には人材が集まらないから、放っておいても自然に衰退していくものだ、というのが自由経済の原則なのだけれども、それには職業人としての寿命に相当するスケールの時間を要するので、問題解決に急を要する場合には、やはり政治の出番となる。重大事故を起こした原子力事業に対して、つらく厳しく当たるのは当然としても、一方的に厳しいだけでは問題は解決しないのだろうから、そこは政治交渉の腕の見せ所になるのだろう。

で、そういうわけなのだけれども、どうも政治をする人に生活の掛かった切実さが感じられないような感じがあって、そのあたりのバランスの悪さが今の政権が抱える問題の根っこの部分なのだろうと思う。庄屋とか名主とか、昔の国家レベルの組織構成で「中間管理職」的な位置にあった人々には、政治的な交渉に相当する活動が生活の中で大きな部分を占めていて、そういう人たちが国政に参画した場合には、切実さから発するような政治交渉をしていたのだろう。先祖伝来の「票田」を守るような世襲議員は、対立する立場から見ると実に老獪で厄介な相手なのだが、政治を実行する上での切実さを持った人間という意味では、実に適格なのかもしれない。

特定の地域や職業団体を背景に持たない人は不偏不党のクリーンな印象を与えるのだけれども、結局そこには深刻な切実さがないという特徴を伴っていて、そういう人には主流より傍流にあって傍目八目を保っていてもらうのが全体としてはよろしいんじゃないでしょうか、というのが今回の教訓になったように思う。まあ、国民を殺してでも何事かを成し遂げたいというほどの切実さを持った人よりは、何もなさない人のほうがまだましだというのが、より長いスパンの歴史を見たときの教訓でもあるので、ほどほどがいいのだけれども、しかし中庸ほど難しい目標もないというのがつらいところではある。
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by antonin | 2011-07-14 13:48 | Trackback | Comments(0)
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