安敦誌


つまらない話など
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幸せな王子

秋の深まりと共に南へ帰ろうとするツバメを引き留めて、身に付けた宝物を貧しい人に届けてほしいと頼む、王子の像の話がある。

こういう話を好む人は、自分を犠牲にして貧しい人を助ける、感動的な物語として読むだろう。一方、こういう話を好まない人は、自己満足のために身を滅ぼすばかりか、関わった相手にまで迷惑をかけるという教訓話として読むだろう。

本来なら、自己犠牲を良しとする人には限度をわきまえさせる教訓として、貪欲な人には他人のためになる幸せを知らせる物語として、それぞれ読まれるべき話なのだろう。しかし、実際にはそれぞれが自分の感覚に都合のいい部分だけを感じとって、結局両者がさらに両極端へと離れていくように見える。

文字に書かれた訓話にはどうしてもそういう部分があって、またそこがいいところでもあるのだけれど、やはりある種の危うさみたいなものがある。生身の師匠というものは煙たいのだけれど、それでもやはり必要なものなのだろう。

人間、年齢を重ねるとだんだんそういう煙たい存在から自由になってくるのだけれど、耳の痛い話にも、気力の許す限りは接していかないといけないだろう。

優れた先人の残した言葉が、知らないうちに奸佞の輩の言葉になって身を滅ぼしてしまうというのは、案外気がつきにくいものなのかもしれない。

仏典などを読んでいろいろ気づくことはあるのだけれども、どこをどう読んだらいいのかということについては、もう少し裏を探る必要があるかもしれない。
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by antonin | 2011-07-26 01:27 | Trackback | Comments(0)
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