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コドモたちがローカル局の再放送で元祖天才バカボンを見ている。アニメ版バカボンも大雑把に2世代あるけれども、テレビでは私たちが子供のころに見た第1世代のほうが流れていて、コドモたちも意外に違和感なく見ている。私が子供のころにも鉄腕アトムや鉄人28号のリメイクなどを見たが、コストダウンのために白黒の初代作品をそのまま流すということはさすがになかったと思う。ウルトラマンシリーズやルパン3世などを繰り返し再放送していたことはあったが、当時としてはそんなに古いものでもなかった。今でもキー局などではそういう古い作品が流れることもないので、放送チャンネル数の増加による余裕というか、あるいは余裕のなさといったほうがいいのかもしれないが、そういうものが昔の作品の再放送を生んでいるのだろう。 過去にヒットした作品というのは、当然ある水準の品質を満たしているので、あとの世代でそのまま流用しても意外に通用することが多い。そうすると、人間の寿命と同じか、うまくすると人間の寿命を超えて鑑賞される。そういう、世代を越えて共有される作品が、ある地域の文化を形成していくのだろう。何か説明が面倒なことを言葉で表すときに、共有している作品に出てくる人物や場面を挙げれば、それで話が通じることがあって、共通辞書というのか符丁というのか、そういうものを持っていれば簡単に話が通じるが、もっていないと話が通じない。そういう区分が文化の境界を作るし、何か困ったときに作品の一部を思い出して、自然とそれに倣った判断をすることが、行動面の傾向を作る。 江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃、長唄や落語なんかがそういう文化を形成していたと思うけれど、昭和には水戸黄門や大岡越前が、平成ではサザエさんやドラえもんあたりが、実質的に日本文化を担う共通辞書になっているんだろうと思う。水戸黄門や大岡越前は江戸時代の話しだし、サザエさんやドラえもんは昭和の話なんだけれども、この手の作品は当の時代の大人から子供まで認識が共有されていないといけないので、どうしてもひとつかふたつ前の時代を描いたような作品になる。男の子的には、明治にはチャンバラが、昭和後期には航空戦あたりが、平成の次あたりにはガンダムみたいな宇宙戦なんかが、共通辞書になるんだろうと思う。 言語や物流の縛りなどもあって、だいたいそういう共通辞書は特定地域内のもので、したがって共通辞書の存在によって形成される文化のほうも、特定地域と強い結びつきがあった。ただ、古い神話の一部は、ある種の宗教が持っていた「布教」という自己増殖能力と結びついて、地域を越えて広く広がったりしている。古代バビロニアあたりに由来があるという旧約聖書の物語は、なんやかやできっと南米あたりまで知られていると思うし、バラモン教の雑多な神話の一部も、仏教に取り込まれて日本までやってきている。 ところが、そうやって長い年月を経て国境を越えた神話というのは、同じ源流を持っていながら、時間的、空間的に長い旅を経ることで、結局独自解釈によってアレンジされたりしているので、これもやっぱり地理的距離に比例した隔たりを持った地域文化を作ったりしている。「サブカルチャー」という単語の定義は、多義的過ぎて正直よくわからないのだけれども、その混乱に乗じてひとつ意味を付け加えると、そうやって地理的な地域と強く結びついた、古いスタイルの「カルチャー」に対して、20世紀初頭の電信やその後のラジオ放送あたりから始まった、地域性よりむしろ時代性や嗜好性によって区分けされた文化区分をサブカルチャーと呼べるんじゃないかと思う。 音声作品や映像作品が楽しまれるようになっても、やっぱり生演奏や舞台演劇や肉声による語りが主流だった時代には、サブカルチャーのほうがあくまで「サブ」で、「メイン」の文化は地域文化のほうだっただろう。ところが、テレビには海外から輸入した番組や映画があふれ、普通の市民の日常生活の中でPCや携帯端末でネットに触れるような時間の比率が高まってくると、どちらかというとサブカルチャーのほうが「メイン」になってきて、地域文化のほうが「サブ」に落ちるというような逆転現象も、だんたんと出てきたのではないかと思う。 もちろん、テレビ局もある程度の戦略性を持って輸入する作品を選んでいるので、まったく無差別にサブカルチャーが世界均一になっているとは思わないけれども、アメリカで作られた映画が世界各国で見られていたり、こちらは完全に日本ローカルだと思っていたアニメ番組が多くの国の子供に見られていたというようなことも考えると、もうどちらがサブなのかわからない地域というのは徐々に増えてきているのだと思う。 で、まぁ、なんの話かというと、そうやって、地域性よりもどんな作品に接して育ったかが所属文化を規定しちゃうような世の中を今現在生きているんだけれど、そんな中で偶然、コドモたちが天才バカボンを見ている、と。もう今の日本人は、国定忠治とか、楠正成とか、弁慶・義経なんかでは感覚を共有しなくなったのだけれども、そういう中でコドモが天才バカボンを見ることで物語の辞書を形成していて、その結果として親子が同じ文化に所属するようになるという現象が目の前で起こっている。なんだか不思議なことだなぁ、と思った。 バカボンのパパは41歳と歌われていて、もうすぐ追いついてしまう。家の外で来年40だよと言ったら、40歳って「初老」なんですよね、と言われてしまう。40が初老ってのは、女が二十歳過ぎると「年増」って言われてた時代の話だろう、と切り返しておいたが、辞書で「初老」を引くと、確かに「四十歳の異称」と書いてある。70歳なら古希だが、70まで生きるのは古来まれなりというような中国の古典から来ているらしい。魏志倭人伝には倭人は百歳まで平気で生きる長生きな民族だと書いてあるから、日本人基準では別にまれでもないのかもしれないが、とにかく古希を過ぎたうちのオヤジは元気にしている。 「慶事抄」の後日談で甥っ子が生まれたので、時間があったら見に行こうと思うが、細切れの時間しか空いていないのでどうなるかわからない。この子が長じてバカボンを見る機会があるのかとなると、なおのことわからない。
by antonin
| 2011-08-18 10:42
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