安敦誌


つまらない話など
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個性、あるいは正常と異常について

いろいろな精神状態を渡り歩いてきて気付くことは、他人の目から見てどれほど異常に見える精神状態や行動であっても、その人の主観的な立場から見れば、その選択や行動というのは常に合理的なのだな、というあたりかと思う。

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子供が大人になる過程で、あるいは大人が老人になる過程でもいいのだけれど、どこかでアンパンマン問題(なんのために生まれて、なにをして生きるのか)を解く必要がある。この問題は「明日の天気はどうなるか」という問題に似ている。「明日の天気は」という問いに対する答えは、どこの地点の話なのか、具体的に何年何月何日の話なのかという、個別の前提によってすべて答えが異なる。これと同じように、誰のどういう状況における問題なのかという違いによって、アンパンマン問題もそれぞれに個別具体的な問題になる。当然普遍的で唯一の解などないし、自信を持って得た解でも結局は外れだったという可能性さえ残される、そういう性質もある。

一人ひとりの置かれた状況というのはそれぞれ違っている。そういう外因性の要素も当然あるのだけれど、それ以外に、外見的には捕捉できないような、内因的で器質的な要素も潜んでいる。ホロコーストを生き残った人の中でも、ひどいPTSDに終生悩まされた人もいれば、忘れはしないが精神を病むようなこともなく過ごせている人がいるらしい。その差というのは、元々が前向きで楽観的な性格だったかどうかと関連性があるようだ、というような話も聞いたことがある。

ひとつの仮説としては、同じ事件の現場に居たとしても、本当に個々人が受けた待遇には、いくらかの差があっただろうということが考えられる。それに加えて、信仰、文化、教育などの理由によって、精神の癖、考え方の習慣というものに差があったという可能性もある。最後に、解剖学的に特定の神経回路が太くて影響が伝播しやすいとか、あるいは生化学的に神経伝達物質消費に対する回復が早いとか、そういう物理的で先天的な気質の違いがあったという可能性も、当然にある。どれが主要因なのかということもわからないし、主要因すら個別ケースによって異なる可能性もあって、そのあたりは学術研究の世界になってしまうのでなんとも言いようがない。

とにかく、それぞれの人は、それぞれの外部環境、それぞれの思考習慣、それぞれの器質的要素を抱えて精神生活を送っていて、その規定された条件の中で、脳と精神は必然的な結果しか残せないと考えている。運命論とは違うのだけれども、量子論的な確率過程でも、事前予測は不可能にしても、相互作用が発生して結論が出るときには結論が出る。その確率事象の向こう側というのは現代科学では不可知ということになっているけれども、その不可知の結論を出す機構を情報出力装置とみなして自己の精神回路の前提側に置くと、結局精神が下す判断の帰結というのは因果律の範囲内にあると、これは単なる思い込みの類なのだけれど、とにかくそう信じている。

火星人襲来を報じるラジオドラマに反応してパニックを起こした人を、客観的に見てバカにするのは比較的簡単なのだけれども、非常に限定された条件の中で、その情報を疑えなかった人の正確な文脈を推測するのは、むしろ難しい。戦時下にあって虐殺に走った人を非難するのも容易なのだけれども、弱い人が戦闘の過程で狂気に走る文脈や、そもそも暴力的欲求を抱えた人が戦時にあって自由に振る舞う文脈などを、正確に推測するのもまた難しい。

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同じ親を持つきょうだいでも、かなり器質的に違いがあることを実感したのは二人目の子供を持ったときだった。今年の春に生まれた、琉金と和金を両親に持つ29匹の金魚のきょうだいを眺めると、遺伝というのはもっと多様なんだなということをさらに感じて、それで何か書こうとしたけれども尻切れになった。

困ったことに私の血は理性的な部分より感情的な部分のほうが優勢で、しかも宵っ張りの朝寝坊を極端にしたような体質でもあったので、密な人間社会を生きるには相当面倒な作りをしている。その面倒さの成分というのは何種類もあるのだけれども、その一部がコドモたち、特にムスメとムスコ1号に濃厚に遺伝しているらしい。といって、自分と全く同じ構成でもないので、自分が経てきた問題と、コドモたちが経ていくだろう問題というのは、当然異なる。


http://www.iqtest.dk/main.swf


こういう推論力検査をすると、131くらいの数値が出るのだけれど、顔認識力の過剰が心霊写真を観てしまうのに似て、過剰なパターン推論力というのも、ありもしない相関を認識してしまう統合障害と隣り合わせにある。私の場合は言語認識やパターン推論などの数値が高い一方で、記憶力の方は平均以下だった。そのために漢字書き取りや英単語の意味、歴史の年号や数学の公式などを覚えることが不得意で、非常に苦労した覚えがある。意味を理解し納得できれば忘れることは少ないのだけれども、とにかく形式だけ覚えるということは不可能に近かった。

長期的な記憶だけでなく、短期の記憶も苦手だった。公衆電話で通話を終えるとテレホンカードや財布の回収を忘れたり、地図は覚えられても一度通った道の風景を覚えられなかったり、そういう不便もあった。手帳に書けばいいといっても、記憶が必要な場面で手帳に書くということを思い出すために何かの仕掛けを作る必要があったりして、あまり実用的にならない。一行の文を書き終える頃には書き始めの表現を忘れるということさえあり、そういうレベルでも推敲しないと変な文章になるというのは、ここでもよく見かけると思う。

そこまで風変わりではなくても、ほとんどの人が何かしらの面で「異常」を抱えている。何か正規分布に従っているような性質があるとすると、平均値付近の人が一番多い。「偏差値」というのも正規分布を前提にしている指数なので、これを使うと偏差値50というのが平均ど真ん中になる。そこからプラスマイナス標準偏差の範囲内、記号を使うと±σの範囲に、68%の人が入る。偏差値で言うと、40から60の範囲ということになる。平均からの乖離が標準偏差の3倍以上の「変人」となると、偏差値20以下と偏差値80以上の両翼に、それぞれ0.135%の人がいる。

評価軸がひとつだけだと7割近くの人が平凡、あるいは正常ということになって、常識的な感覚と一致する。けれども、互いに独立な評価軸、具体的に言うと「数学の成績」と「握力」と「肝臓のアルデヒド耐性」など、(この例が本当はどこまで独立かわからないけれども)それぞれ関係のない評価軸で平均からの乖離を考える。すると、3本の軸の全てで±σの範囲に入る「常人中の常人」は31%となって、3分の1を切る。独立の評価軸が10本にもなると、すべての軸で±σの範囲に入る「完璧な常人」は2.2%となって、こちらのほうがむしろ希少な存在になってしまう。ちなみに10本の評価軸の少なくともひとつで±3σを外れてしまう人というのは2.7%になり、「完璧な常人」よりもやや多くて40人クラスに一人くらいはいるというような計算になる。

こういう、確率的にどうしても個々人にみられる性質の違いのことを「個性」と呼ぶのだと思う。上で計算したように、多くの面で全て平均的だという性質さえ、「何かしらの偏りを持っている」という人が多勢の中では、むしろ個性的になる。そういう潜在的あるいは顕在的な個性を抱えた人間が、互いに同質だとみなして推論すると、いろいろな齟齬が発生してしまう。自分とは個性のかけ離れた人の感覚というのは、ある程度想像が可能な場合もあれば、どうしても想像不能な場合さえある。

そういう「個性」による個々人の違いが無いと仮定すると、他人の判断や行動に対して乱暴な批判が出るだろうし、今度は逆に、個性の違う相手のことを常に想像すべきと言ってみても、感覚的あるいは経験的にそういう「個性」が存在しうると信じられない人に、その個性を超えて想像してみろというのも酷だという気がする。

例えば、夜になってもなかなか寝付かれず、寝る前にトイレに行ってもおねしょがなかなか治らないだとかいうムスコ1号のような体質を、自分自身はおろか近親者の中にもそういう体質を全く持っていないような人に対して、「体質的な問題であって当人としては全く正常である」ということを想像してもらうのは、これは非常に難しいのだろうと思う。

よくあるような体質であれば、まあ想像は可能かもしれない。けれども、10の性質の全てについて、少なくととも一人は±σを外れる人との接触経験を持ってもらおうとすれば、だいたい31人くらいの知り合いが必要になる。これは無作為の場合であって、だいたい平均を外れた人というのは平均を外れた人同士でコミュニティを作っている場合が多いので、人種も国も職業も何もかも入り交じった31人の知り合いがいて、しかもそれでやっと±σの壁を片側越えるという程度でしかない。±3σを外れた人を、プラスとマイナスの両翼について経験したければ、運が良くても10万人くらいの多彩な人付き合いが必要ということになる。まあ、±3σ外れとなれば、偶然に頼らずに特定コミュニティを選んで訪問するという手もありそうだけれども。

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個性や文化や能力の異なる他人の言動を評価するのは難しいが、「人間誰しも、常にその人のその状況において合理的な判断を下すことしかできない」というところを、出発点として考えてみようと思う。
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by antonin | 2011-09-24 04:43 | Trackback | Comments(0)
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