安敦誌


つまらない話など
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精神的吐瀉物

文章を書くには、文章を読む時間と、一人で黙って考える時間と、寝ながら夢を見る時間の3種類が必要で、最近までそれがほとんど確保できなかった。そういうような時間が無尽蔵にあるような境遇よりはかなりマシとはいえ、ちょっと度を越していた。けれども周囲の人達の配慮で、今はそのような時間が少しだけ確保できている。ありがたい。

文章を読む時間と言っても、二宮金次郎少年のように寸暇を惜しんで読む方法もあるが、そういう情報というのは不思議と頭に残らない。ここらへんは個人的な脳の構造に由来する部分が大きいと思っているのだけれど、とりあえずデータとして入力しておけば記憶はあとから付いてくるという人がいる一方で、私などは文章の書かれる背景や情景などをかなり映像的に再生しながらでないと、その内容が記憶できない。そういう読書は速読の反対側に位置するので、どうしても余計な時間を必要とする。寸暇を惜しんで読めるような情報はニュースのような揮発性の情報くらいで、ある程度意味のある文章を読もうとすると、退屈で本でも読みたくなるような時間が必要になる。基本がぐうたらな人間なので、時間さえ与えられれば、いずれそういう状態に陥る。

一人で黙って考える時間というのも、これも傍目には無駄時間で、軽い食事と飲み物を口にする以外の活動が何もできなくなる。本を読んでいても、内容によっては文字を追っている時間と同じか、ひどいとその数倍の時間は、本を開いたまま何かを考えている。30分くらいの読書時間では、ひどいと2ページくらいしか読書が進まないことがあって、そういう場合は読んだ文章が呼び水になって溢れてきた考えを、しばらくそのまま楽しんでいることが多い。もうすぐ読み終わる「ローマ人の物語」だけれども、読書量に比べて読書時間はかなり長く、スキピオやカエサルが戦術を駆使して戦闘していた時期以外は、読み進めるペースは非常に遅かった。逆に考えると、戦場でのスポーツ的な戦術については、自分はほとんど関心がないんだなと、今になって思う。

夢を見る時間というのも無駄に見える時間の極致で、だいたい睡眠時間が7時間を超えてくるあたりから夢というものを見るようになる。あるいは、休日に2時間くらいの昼寝をしているときにもそういうことがある。逆にそれほどの時間が取れない、典型的な日本人サラリーマンの生活をしているときは、全く夢を見ない。起きていても寝ていても、夢を見る余裕がない。そういうときほど社会適合性は高まっているのでなんとも言えないが、個人的な脳の生理から言って、あまり正常な状態ではないと思う。夢の内容というのは自分自身でも不思議に思うようなものが多く、この夢を見る機能がもう少し統制のとれた精神状況で起こるのが、発想とか創作とか、そういうようなものなのだろうと思う。個人的には、週に1回くらい10時間睡眠をとっておくと、そのあたりのバランスがいろいろと具合がいいような気がしている。

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「隠蔽と信頼」というタイトルを決めたときには、医者にかかるときに、インフォームド・コンセントを取るのか、セカンド・オピニオンを取るのか、あるいは自分の病気の詳細なんて聞いてもわからないし、むしろ聞きたくもなくて、頭から信じて頼るという方法を取るのか、とか、そういう話にしたかったが、どうもケータイサイズに収まる話にならなかった。デバイスというのは、表現の形式も左右するものなんだな、ということも少し思った。

で、3番目の「信頼」を取ると、インフォームド・コンセント方式が要請するような情報の開示は免除されるのだけれど、その「隠蔽」の代償として、信頼される側というのは厳しい倫理規定というか、もうほとんど無限責任というような自律が求められてしまう。それを自他に要求してきたのが明治あたりの教育者や医者であって、だからそういう人たちは「先生」と呼ばれて聖職扱いされてきたのだろう。その無限責任のようなものから、「一労働者」へと格下げしつつ、責任も信頼も(尊敬も)緩和していく過程が最近の日本の状況なのだろうと思った。地域独占を許された電力会社や、免許事業の独占を許された放送系企業なども、そういう信頼と責任の関係から、気付けば一般営利企業の地位に落ちてきていて、そろそろ隠蔽は許されなくなってきているのだろうと、そんなあたりを書こうとしていた。が、なんだかどうでもよくなってきた。

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よく、30歳を過ぎると体力の衰えを痛感するという人がいるけれども、私の個人的な経験からすると、そういうことはなかった。子供の頃からもともと体力に自身がなく、20代だからと言って特段体力を自慢できるような状況ではなかった。基本的に運動やスポーツは嫌いで、例外としては自転車に乗るのが嫌いではないという程度だったので、70過ぎて足腰立たなくなるくらいまでは、体力の衰えがあったとしても、それを「痛感」する機会がないのだろうと思う。

仏教の世界観に六道というのがあって、人間界というのは天界の一つ下に位置することになっている。天界の住人というのは基本的に老いも病も飢えも痛みもないのだけれど、いずれ天界から落ちる時期というのだけがあって、その予兆が出始めると、地獄にいる苦しみの16倍くらいの苦痛があるという話を聞いたことがある。まあ、感覚としては理解できる気がする。人間というのは基本的に感覚量を微分値で処理する傾向があって、過去の自分との差だとか、周囲の他人との差だとか、そういう差分がマイナスになることのほうが、絶対値の大小よりよほど痛烈に感じられる所がある。そういう意味では、恵まれた環境からの脱落ほど嫌なものはないのだろう。

30を過ぎて体力の衰えを痛感する人も似たようなもので、20代にはさぞかし体力を誇っていたのだろう。絶世の美女、だったかどうかはともかく、その容姿で男性にはモテたという話の小野小町が読む歌に、後半はその衰えを嘆くものが多いというのも似たような理屈なのだろう。若くして絶対値の低さに苦労した人というのは、老いてからの精神的な平穏には恵まれるものなのかもしれない。ただまぁ、音楽を聞いても弦楽合奏の高音が楽しめなくなったとか、アクション系のゲームが異常に下手くそになったとか、その手の衰えを感じることはある。

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ムスメが学校に通って3年になり、それなりに漢字なども読めるようになってきている。ムスコ1号もひととおりかなが読めるようになって、徐々に機械の操作などもできるようになってきている。そろそろ、ブログ内容の管理というか、家族バレの中でもコドモバレの時期について想定する必要が出てきたように思う。あんまり子供が読んで楽しい内容が書いてあるとは思わないけれども、自分が生まれる前後の時期に親が書きためた文章というのを、自身が成長しながらチラチラと眺めるというのはどういう状況なのか、私自身がそういう経験をして来なかっただけに、想像しづらい。一応表に出してきた内容なのであんまりクリティカルな内容は入っていないはずだけれども、家族にも直接言わないような感情や妄想を書き綴った箇所も多いので、そのあたりはどうかと思う。

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信仰とは何か、宗教とは何か。「宗教とは結局のところ、『どの教えを宗(むね)とするか』というところに集約されるのであって、それがオカルトの要素を含む必要は、必ずしもない」というような出だしの文章を、ケイタイで書いたことがあった。正しくは投稿メール送信機能を使うべきだったのだが、間違ってフォーム入力を使ってしまい、認証期限切れで投稿に失敗してしまった。PC版のFirefoxのようなフォーム内容復元機能もなくて、内容は完全に消失してしまった。

古い宗教には大きく2つの要素があって、ひとつは「どのように生きるべきか」というあたりで、もうひとつは「なぜそのように生きるべきか」というあたりになる。戒律や儀礼などは「どのように」の部類に入るのだろうし、創世記などの各種神話は「なぜ」の部類に入るのだろうと思う。それらの宗教が成立した時点では、そういう戒律や神話は、単に「何が正しいのか」を追求しただけの結果だったのだろう。ただし当時の文化と現在の文化はかなり離れたものなので、直接的な説明が難しいような事柄については、寓話的に記述することも多かったのだろうと思う。「神」や、天界神話の性質を持つようになってからの「仏」というのも、そういう比喩の一種なのだろうと思う。

当然、それらの伝統宗教が持っていた「なぜ」の部分には、世界がどのような構造を持っているかという宇宙論だとか、現象が起こる原因を説明する法則などを記述した部分があった。ただ、そういう部分については、中東からヨーロッパにギリシャ・ローマの文献とイスラムの科学技術が流れ込んだあたりから、どんどんと新事実が発覚してしまい、信じるべき事実として語られていた「なぜ」の記述が、内容的には下手なファンタジーのようなものだったことが誰の目にも明らかになってしまった。

ただ、その一方で「どのように生きるべきか」という部分については、「なぜ」の記述ほどには壊滅しない程度の普遍性があって、そのあたりは1万年前から人間の本質が変化していないというところが効いてるのだろうけれども、とにかく現在でも人間の心が傷を受けるような状況では効果があるということを、多くの人が経験的に知っている。ただし、「どのように」の前提として組み込まれていた「なぜ」の部分が崩壊してしまっているため、「どのように」の部分が根拠を失ってしまっている面がある。そこで、古来伝えられる「なぜ」は本当に正しいのだ、という流派と、精神医学や「ライフ・ハック」という形で、伝統宗教から独立した方法を「再発見」するような流派が、それぞれに活動しているような状況にある。

あとはまぁ、前頭葉あたりが担っている「理性」のほうは、だいたいにおいて「疑う」ことで力を発揮するけれども、辺縁系あたりが担っている「感情」のほうは、「信じる」ことでしか力を発揮しない。必ず成功すると信じると理性は仕事をしないが、必ず成功すると信じていないと、感情は逃げることを画策して理性の指示を無視するようになる。このあたり、人間組織の指導部と末端の関係にも似ているのだけれど、中枢にあって論理的に判断するパートは、すべてを悲観的に見て疑ってかかるときに最良の仕事をする。一方、各部に具体的司令を出すパートは、中枢の指示や行動の成功をまったく疑わずに信じるときに最良の仕事をする。

その完全な両立というのは、現時点での生身の人間にはまったく不可能だと思うのだけれども、それに近い精神状態を作り出す実践形態というのは、神や仏などの超越的な力が助けてくれるから絶対に大丈夫だ、安心しろ、ということを「祈り」の形で感情のパートに十分に刷り込んでおき、その状態を作ってから我に返り、理性的に十分なリスク対処をして事に望む、ということなのだろうと思う。なので、超越的な存在というのは単に「信じる」しかないものであり、その超越的な力が現実的に現れることまでは、理性的には期待すべきでないということが、どの宗教の聖典にも、どこかを探せば必ず書いてあるものなのだろうと思う。イエス・キリストあたりも、まるごと信じられる人は幸いだよな、みたいなことは言っているので、そのあたりは十分理解していたのではないかと思う。

問題としては、理性的にも感情的にも信じる事しか許されないと思っている人たちの存在があるし、「理性的には信じてはいけないが、感情的には信じるべきである」という二面性を知っている人の中に、その二面性を人を騙して思いのままにコントロールするための手段として使ってしまう誘惑に負けてしまう人が出るというあたりで、このあたりは古典的な宗教を脱した社会でも、現代的に「何が正しいのか」を巡る論争の中で見かける問題のような気がする。リフレだろうが増税だろうが、実際の環境で実行してみるまではその正確な結末というのはわからないのだけれども、ある考えが正しいと理性的にも感情的にも正しいと信じている人や、そういう人たちの勢いに乗って理論を実地に乗せたい人たちの思惑なども重なって、ある種の宗派論争のような状況になっている。まぁ、このあたりは他人事ではないのだけれど。

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そろそろ寝よう。おやすみなさい。
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by antonin | 2012-02-05 01:52 | Trackback | Comments(0)
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