安敦誌


つまらない話など
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ヨタヨタ話

昨日は投票に行ってきた。猪瀬さんに投じた都知事票以外は、だいたい死票になった。ただ、「違憲状態」というものがあるときに、議会に送り込む代議士の人数だけを勘定すると地域格差がひどいのだけれど、死票に集まった票数の絶対値などは、目立たないものの確定した統計値として記録に残る。そういう獲得票数の数値を直接比較したとき、選出議員の人数とは別に、投票した一人ひとりの数字が生で表れる。それは厳密に一人一票で数えられ、地域格差は存在しない。

当選を生んだ投票というのは、その代議士の生きた人格という、時間とともに変化する流れに飲み込まれてしまうのだけれど、逆に死に票は投票時点での票数としてしか表現しようがなくなる。下手に勝ち馬に乗るよりも、どうせスレッショルド以下に埋もれる市井の民意表現としては、死票表現というのは案外に割がいいんじゃないかという気もしている。

開票時間中は、久しぶりにテレビを眺めていた。NHKなんかは極力常識的な態度を守ろうとしていたけれども、テレビ朝日は本当に悔しそうに開票状況を伝えていた。今年の隠れ流行語に「ステマ」というのがあったけれども、局として「推し」があるとすれば、形式的には公正中立に見える態度の中に、巧妙に偏向を混ぜるというステルス性が求められるんじゃないかと思う。なのに、朝日系列さんは、もはや聖教新聞や赤旗に匹敵する勢いで旗幟鮮明に民主党を推していた。ある意味、今回の選挙で民主党を殺した要因の3割くらいはこのメディアにあるのではないかという気もする。

紳士が紳士然としているのは、自分の表面的な欲望を押さえつけられるほどに強い、より根深い欲望があるからであって、そういう真の強欲さがないと、表面的な欲望を押さえつけられるだけの動機というのはなかなか得られない。表面的なステルス性を失っているメディアの人たちは、その基礎生活が案外に恵まれていて、夢にうなされたり喉から手が出たりするような動物的な渇望が、もはやないんだろうなという感じがある。

逆に、最後に石原さんを孕んでしまった維新を絶対に国政の中心にはおかないぞ、というような恐怖心は各メディアに共有されている感じがあって、最後の最後で第三極への風をきっぱりと断ち切った見事なステルス性の奥にある渇望というか恐怖心というか、その根深さが伝わってくるような気がした。

今後を考えると、憲法をどうするんだ、という話になるんだろうか。いきなり9条や前文に手を付けるのは軽く内戦状態を誘発するので、まずは第百条以降を削除するなんていうところから手を付けてみたらいいんじゃないだろうか。ここを削除しても法令体系の論理的整合性に対してなんの害もないし、議員にとっても国民にとっても、日本人にも憲法を書き換えられるんだという実感が持てて、先の話が面白くなると思う。官僚機構は先例主義だから、まず正規の手続きを踏んで国民投票を経て憲法を改正したという実績を残しておくのは良いことだと思う。

そういえば、この国は愛と平和を旨とする憲法を戴く国になって久しい。だから我が国では、正しくは愛と平和を何より尊重する人たちが立場的に保守派であり、必要とあらば勇ましく戦える誇り高き「普通の国」を目指す人のほうがむしろ改革派ということになる。後者は明治政府を範とする復古主義的な性質も強いので、必ずしも「革新」とは呼べないが、現状を打破して改めたいと願っているという点では、現行憲法下における「真正保守」という人々は、最も先鋭な改革派だといえる。

そういう目で見ると、「9条を守る会」だとか、その他の護憲派という人たちは、日本国憲法という「不磨の大典」を是が非でも守ろうとする態度を取っているように見える。第百条以降のフランクな条文を読むと、まさか70年近くもメンテナンス無しで放置を食らうとは、公布当時には想定されていなかった憲法であるということが明らかなのだけれど、「進歩的」な護憲派の人たちがかなり屈折した形ながら、大日本帝国憲法の時代にあった「不磨の大典」という文化を継承しているというのが、なんだか奇妙で面白い。

日本語の「保守」という単語も面白い。これを英単語に戻すと、文脈によって "conservative" になったり、あるいは "maintenance" になったりする。護憲派の人は、本当に平和憲法を守り続けたいのなら、頑なに conservative に拘泥するよりは、ときどき適切に maintenance を入れてみたほうがいいんじゃないだろうか。本当に日本が民主主義の国であると信じるならば、国民が望めば適宜憲法を改正していく権利があるはずなんだけれど。

ただまあ、憲法改正というのはOSのバージョンアップみたいなところがあって、その効果が正しく法令のレイヤーに反映されてくるまでは効力を持たないんだけど、そういうことを考えると、大日本帝国憲法下で制定された法令をベースにツギハギしてきた現在の法令体系を一度棚卸して、分量を一度現在の10分の1以下まで削減しないと、とてもじゃないが改正憲法との整合性なんて検証できないと思う。

世界最初の総合大学とされるパリ大学の、中心的学部は神学部だったらしい。中世ヨーロッパを単なる暗黒時代だと信じていた年頃には、フィクションである神について学問を編み出すなんて不毛だな、なんて考えていた。けれども、ある水準を超えると論理的に主張の善悪や当否を判定できなくなることがあるのを知ってからは、神学という学問に対する見方が変わった。

中世ヨーロッパというのは、王国や共和国より上位にカトリック教会を置き、あらゆる価値判断の根底にキリスト教の信仰を置くと決めた社会だった。それはもう決め事という以上の根拠はないのだけれど、とにかくそういう価値判断の根底にある「神の意志」と、現実的な状況判断の際に求められる判断基準との間に、論理的な整合性を取ってやらないといけないような社会だった。そういうカトリック世界における神学というのは、近代国家における憲法学や法学に相当する学問だったのだな、ということが、ようやく見えるようになってきた。

現状、日本の法令はおびただしい項目に膨れ上がり、道交法や労基法などのように、もはや取り締まることすらできないで放置されているような法令もいたるところに転がっている。杓子定規に規定通りに運用される法もあれば、超拡大解釈で恣意的に運用される法もある。最近の日本は、あまり法治国家とは言えなくなってきているようにも思える。

憲法改正もいいけれども、そういう法令体系の論理矛盾を整理するような虫干しを先に実施するのが筋だろうとも思う。イデオロギーじゃなくて、単に論理整合性だけを基準に論じるような。けれども、そういう作業ができるほどの憲法学者や法学者って、この国にいるんだろうか。そういう、利権を切り崩す危険な作業に着手する学者を保護できる政治家って、この国にいるんだろうか。

やっぱり、次善の策を求めて積み重ねていくことしか、実際にはできないのだろうなぁ。
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by antonin | 2012-12-18 03:50 | Trackback | Comments(0)
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