安敦誌


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自分のドタマで考えよう

ちきりん著「自分のアタマで考えよう」を先週Amazon kindle storeで購入、翌日一気に読了。購入前に一番興味があると言っていた、両親への感謝の言葉は書かれていなかった。別の本と勘違いしていたみたい。

自分のアタマで考えよう

ちきりん / ダイヤモンド社


内容を字義通りに解釈すると、未読の人にはこう言わなければならない。

「この本に書かれている内容を信じてしまうような人は、この本を読んではいけない」

論旨の構成はこういう具合で、論理的にはいろいろとグダグダした部分が多く、錯綜していたり矛盾していたりする。こういう部分が、「ちきりんって自分と同じ匂いがする」と感じさせる理由なのだろう。これが理屈にうるさい人にかかると、たぶん無教養の極みという感じで違和感を持たれてしまう。

で、ちきりんには彼女なりの成功体験というものがあって、自分のアタマで考えることを他人に勧めるわけなのだけれど、個人的には自分のアタマで考えるというのは宿命みたいに感じている部分があって、人に勧められてどうこうというものではないような気がしている。こういう本に勧められてようやく自分のアタマで考え始められる人がいるものなのかどうなのか、ちょっと疑わしい。

この本に書かれていることを一言で言うと、「考えるためのツール」がサラッと説明されたハウツー本ということになる。考えろと言われてもどうやったら考えられるのかわからないという人がいて、そういう人に対して「こうすれば考えられるよ」ということが説明されている。それでいて、最後の章になって、名著を読んで答えを知るのはやめよう、先に自分のアタマで考えよう、みたいなことが書かれている。この本は名著だろうし、考え方の答えが書かれているのだし、じゃあこの本を信じてしまうような人はこの本を読んだらダメじゃん、というのが第一印象だった。

私にも、自分の頭で精一杯考えたことが、古典にあっさりと、そして数段エレガントに書かれていたのを見つけてはガッカリしていた時期があった。で、答え合わせをするときには自分の答えを持っている方が楽しい、というようなことは書いたことがある。

考える葦 : 安敦誌

ただこれ、若干負け惜しみみたいなところがあって、古典をサクッと読んでスッと理解できる情報網と頭脳があるなら、そのほうが手っ取り早いとは思う。しかし実際のところ、古典というのはあまりにも膨大な量があって、どれを読んだらいいのかがまず分からないし、苦労して読んだだけの知識が得られるかどうかもわからない。「この本に答えが書かれているらしい」という情報にたどり着くのがまず難しく、それにはある程度問題を自分のものとして捉えている必要がある。

しかも、コロンブスの卵の話のように、思いつくのは大変だが、知ってしまえば馬鹿でも理解できるような答えもあれば、オセロゲームのように、ルールや勝ち方の理論を知るのは一瞬だけれども、それを本当に理解したり、試合の中で実践するまでには、嫌になるほど多くの時間を必要とするようなものもある。

買ってくる花には、切花のように根がなく、枯れて消えてしまうか、押し花にして永遠に変わらないようにしなければ蓄えられないものがある。また、鉢植えのように、根を張って水を吸い、陽を浴びて次々に花を咲かせ続けるものがある。そして、更に実を生じて株を増やしたり、食事に色を添えたりするものもある。

知識も花に似ている。ただ言葉として知っているだけの知識は、切花に似ている。「管理する」は英語で"manage"または"control"とか言うというのを知っていれば、簡単な試験問題には答えられる。"manage"と"control"という単語を、英語話者はどういう場面で使っていて、どう使い分けているのかまで理解できていると、「管理しろ」と言われた時に、manageすればいいのかcontrolすればいいのかという考え方ができるようになる。これは鉢植えに似ていて、単なる言葉の組み合わせとしての知識が、他の経験や知識と結びついて、単語の意味を訳す以外のいろいろな場面で力を発揮し始める。

そして、実際に"control"ではなく"manege"をしなくてはいけないという時に、実際にそれを遂行するには種々雑多な知識の援用が必要になる。こうなるともう、「管理する」が"manage"と訳されるなんていうのはどうでもいいくらいの要素になっていて、膨大な知識がその知識の断片と有機的に結びついている必要がある。

知識には、「知っている」と「わかっている」と「使える」の3段階があって、知ったからといってわかっているわけではなく、わかったからといって使えるわけでもない。知っている状態からわかっている状態へ持って行くには考えるというプロセスが必要で、だから論語にも「学びて思わざるは即ち罔(くら)し」とある。でも、種もないのに水をまいても花が咲かないように、「思いて学ばざるは即ち殆(あやう)し」ともあって、極端な我流も良くないと言っている。

名著と呼ばれてしまうような作品に書かれているのは、コロンブスの卵的に効果覿面という類いのものが書かれている割合というのがとても低くて、大抵は一読したところでは意味がわからず、そこから著者との勝負が始まる。ただし、予め自分の答えを持っていると、一読目で勝負がつくこともある。(この場合、大抵は読者が負ける。良くて引き分け。だから名著と言われる)

「わかっている」を「使える」に昇格させるには、とにかく実践経験しかない。実際に失敗してああでもないこうでもないと、無数の細かい経験を積むしかない。逆に、実践で使えない経験がより確かな理解を要請するし、理解できない経験がより豊富な知識を要請するものだと思う。

「自分のアタマで考えよう」の冒頭では、ちきりんがアメリカで学んできた哲学がストレートに書かれている。つまり、「人はなぜ学び、考えるのか」という問に対して、「判断し実行するためだ」という答えを、あまり疑わずに信じているような書き方がされている。このあたり、私が大学に入った年に英語の授業で読まされた、ウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」の完成形が、今もアメリカでは連綿と生きているのだな、という感じがする。

アメリカというのはプロテスタントの国だし、ローマを範とした軍事の国でもあるので、議論のための議論を嫌い、功利主義的な議論を好む傾向はあるらしい。このあたり、ヨーロッパ人のねちっこい議論に比べるとかなりスッキリしていて小気味いいのだけれど、そのスピード感から離れて、ちょっと落ち着いて考えてみると、なんだかおかしな所も多い。

私も大学生の頃に誤差伝搬の計算方法と有効数字の取り扱いだとか、データに騙されないグラフの描き方だとか、まずはそういうものから教えられた。理工系のグラフの描き方というのは、とにかく定量的で、量的なものを長さや面積などで正しくアナログ表現し、それにより視覚を通じて直感的にデータを認識したり比較したりするのが目的だった。なので、実験で取得したデータを数表などで提出すると手抜きだと怒られ、今度は棒グラフにすると原点が0ではないので面積と数値が比例関係にないと怒られた。大量の数値は必ず図にして把握しろと、口を酸っぱくして教えられた。

社会に出ても、統計的品質管理手法の講習を受け、QC7つ道具の使い方などを習った。実務と並行していたのでなかなかキツかったが、データがいかに人を騙すかというのがわかって面白かった。そういうデータに騙されない方法というのが、データを見て納得している自分に対して、「本当にそうか?」という強制的な疑問を義務的に向ける作業で、これがなかなか難しいものだった。で、まあ、やってみると気付かなかった疑問点がザラザラと出てくる。グループ討議などでやってみると、さらにいろいろと見つかる。

そういうツールを使うと確かに色々なものが見えてくるし、問題を考えることそのものより問題解決を優先するなら、恐ろしい勢いで問題を片付けることもできるので、確かに楽しい。ただ、それは本当に「考える」ということなんだろうか。

かなり前に読んだ「算法少女」という本が、まだ左列のライフログに棚晒しになったままになっているが、そこでは、江戸時代に実在した、少女の名による算法書をめぐるストーリーにからめて、「学ぶとは何か」ということが隠れたテーマになっている。復刊を果たした文庫の帯には「楽しいからよ」と高らかに書かれているし、確かに主人公の少女もそういうセリフを言うのだけれど、完全に算法を趣味として楽しみ、「壺中の天」にとどまる主人公の父を見て、あるいは九九を教わって喜んでいる町人の子供たちを見て、楽しいだけが学問の価値でもない、ということも語られる。

自分のアタマで考えるのも、基本は楽しいからであって、それがなくてはいけないが、それだけでもいけなくて、必ずいつかどこかで役立つものでなければいけない。一方で、功利的になりすぎて、判断をもたらさない思考は結局何も考えていないのと同じ、というのも極端が過ぎる。アメリカというのは伝統的にこちらの極端に近いところにいて、ヨーロッパのねちっこさに比べると、非常にはっきりとしている。

聖徳太子を降ろして福沢諭吉を掲げるようになってからの日本の嫌味なところはこういう部分なのだけれど、福沢諭吉が、イギリスにいいようにやられた清を見て、ああいう形で学問を薦めたのと同じように、平成の日本が、ドルにいいようにやられた円を見てこういう形になったのも、似たような恐怖に駆られた結果であって、まあ仕方がないのかな、とも思う。

関係ない話になってしまった。まあ、道具なんていうのは、仕組みを考えるより買ってくるほうが早い。要は、考えて何かを理解することそのものに情熱を感じるのか、理解したことによって小気味良く現実の問題をバッタバッタと解決していく方に情熱を感じて、手段として考えることを利用するのか。そのあたりの動機の問題だろうと思う。

ある人の動機(motif)というのは、幼年期の終わりに初めて自分の手で何かを成し遂げた喜びとか、あるいはウィリー・ウォンカのように子供の自然な欲求を不自然に抑圧されたための渇望とか、そういう偶然の結果がズルズルと尾を引いているだけで、大人になって他人の書いた文字を眺めたからって、そうそう変わるものではないのだろうという気がする。

変わる要因がただ一つあるとしたら、それは青春期に固有の「惚れる」という体験だろう。それは異性でも同性でも良いのだけれど、同性だからといって薔薇とか百合とかになるタイプのものではなくて、「この人ってすごい」という無批判な惚れ込みようってのは、ハタチ前後にはよくある話だろうし、ある程度歳を取るとほとんど失われてしまう能力でもある。

そういう、心底惚れられる人か、自分がうちに秘めた動機と合致する仕事か、20代の貴重な時間にそのどちらかがない職場にいるなら、躊躇はあるだろうけど思い切って辞めてしまえ、という話を「若さの無駄遣いはやめよう」というタイトルで書こうとしていたのを思い出して、脱線してしまった。

ちきりんは、幸福な20代を送ることができたのだろう。善き哉。もうちょっと、その惚れたあたりの話を読んでみたかった。この本も、若い人を惚れさせようと口説いている内容なのであって、私が読んでもしかたがないのだろう。

ツールなんかは、必要な人が必要に応じて使えばいい。分解して仕組みが知りたい人もそうすればいい。薬を飲みながら11年を過ごし、若さを無駄遣いして終わってしまったおっさんは、歌を歌おう。ぬぬぬーーん、ぬぬぬーーん、ぬぬぬーーん。

マーラー 交響曲第5番より 第1楽章 - YouTube
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by antonin | 2013-03-11 01:34 | Trackback | Comments(0)
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