安敦誌


つまらない話など
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改憲心得

96条の要件緩和はいずれ必要だと思うけれど、まだ時期尚早であるという気がする。改憲に慣れないうちはあまり劇的な変化や頻繁な変化は法制度全体の改定やら役所の運用やらがついていけないと思う。憲法は変化するもの、という前提が法令の運用システム全体に行き渡らないうちに、そのベースとなる憲法だけが急速に書き換えられて行くと、だんだんと実運用される法令との乖離が進んでしまい、単に政党の宣伝用スローガン集みたいになってしまうだろう。

本当であれば先に憲法を制定してから、それに合わせて法令の体系を構築していく、いわゆるウォーターフォール開発のスタイルが理想的ではあるのだけれど、人智というのはそこまでの水準にないという事実がすでに知れていて、ある程度は実運用で鍛えられた詳細な法令の精神を憲法が追認していき、それが別分野にも展開されていく、というような憲法メンテナンスの進め方が現実的だろう。9条なんてそういう追認が必要とされる項目の代表例でもあるし。

で、改憲が通常イベントとなる社会では、ときどきの政権を奪取した政党が過去の憲法理念を破壊して自らが正しいと信じる理念でオーバーライトしていくという編集合戦になってしまうと、憲法は乱れるし、それに追従していかなくてはならない法令体系と役所の業務も乱れるだろう。改憲が普通の世界では、自分の正しいと信じる理念を、従来の理念や対立政党の理念とうまく融合していかないと、次の政権で塗りつぶされるまでの軽い文言となってしまう。そうならないためには、少なくとも立法府議会には適切な水準のディベート文化が育っている必要がある。

自民党の改憲草案などを見ると、「もしもドラえもんが秘密道具を出してくれたら」みたいな奔放な条文ばかりで、見ていて困った。

http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

現行憲法下での護憲派の人々の頭が硬すぎて、あるいは人権の行使の仕方がラディカル過ぎて、旧憲法下で穏健な教育を受けてきた人にとって目に余るというのは理解できる。けれども、そういうのは現行憲法にある次の条文が正しく守られていないという一言で片付くように思う。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。


つまり、現在の人権活動家の人たちは国民の権利を乱用したために社会から疎んじられているという、単にそれだけの憲法運用の問題としていいと思う。そして、こういうタイミングで自民党草案に近い形に憲法を書き換えられないように国民が不断の努力をしてきたかというと、ちょっとそれを怠っていたのだろう。これも運用の問題ということであり、憲法の条文の不備ということではないと思う。

サッチャーさんが亡くなっていろいろの話が出てきたけれども、国家にも無限の力があるわけではないということを告白した勇気というのは賞賛に値すると思う。けれども社会保障より民間努力という題目も、あまり先鋭的に進めすぎると、公(おおやけ)が公であることを放棄するという宣言になってしまう。そこのところのバランスは難しいけれども、サッチャーさんはそのあたりが少し極端だったように思う。でも、そういう極端な力が求められていた局面でもあったのだろうし、首相とはいえ個人にその責任の全てを負わせるのも不適当だろう。

競争を良しとする市場主義の仕組みはとても優れていると思う。けれどもそれは成熟した近代的な社会があってのことであって、原始的な弱肉強食とは違うはずだろうとも思う。重要なのは、最近良く聞く言葉で言うところの "gamification" だろう。日本語でゲームというとコンピューターゲームくらいしか連想できないけれども、野球やサッカーの試合なんかも game に違いない。そういう、ゲームとして楽しめる競争をしながら実社会が発展していくというのが、産業革命から少し距離をおいた時代の市場主義だと思っている。

優れた体操選手を育てるのに、落ちたら確実に首の骨を居るようなコンクリートの床の上で練習をさせるのが良いのか、それとも落ちても痛くもなんともないクッションを敷き詰めた上で練習をさせるのが良いのか。緊張感をもたせるという意味では前者のほうが良いはずだが、それでは怖くて練習する気がしない。失敗した選手の卵は文字通りに死んでいく。一方、クッション敷きの練習場では、選手の卵はどんどん失敗してどんどん床に落ちていく。しかし、それが失敗だったということはわかる。失敗しても痛くないので、成功確率の低い大技も気軽に何度も練習できるし、失敗の経験が豊富なので失敗が起こりそうな状況もよく分かるようになる。

国家が社会保障を切るということは、社会に出てくる若い人やスタートアップ企業に対して、床のクッションを剥ぐのと同じ効果がある。競争競争と煽るのはいいが、失敗すると痛い目にあったり死んでしまったりするのでは、どうしても臆病になってしまう。そういう野生の弱肉強食も究極の競争原理であるけれども、文化的な現代人が目指す方向とは違うはずだ。現代人であれば、コスト的に可能な限界まで「堕ちた人」を救う手段を用意して、そういうギリギリまで失敗を許せる環境の中で、最大限の競争へ誘うのが現代の文明的な市場主義だろう。

日本のデフレも似たような効果が大きいように思う。公がなんとしても私(わたくし)を守ると宣言していればこそ、私は安心して冒険をすることができるし、そういう環境を与えてくれる公を愛し、それに貢献しようという気が湧いてくる。しかし、公がギブアップ宣言をしてしまい、私に「自己責任」ばかりが求められるようになると、私は公の保険機能を当てにすることができなくなり、信じられるのは自分自身と限られた肉親と手元にある貯金だけということになる。だから人は恐怖から貯蓄に走り、消費や起業をしなくなる。当然の帰結だろうと思う。

安倍晋三さんはどうも、鳩山由紀夫さんと人物が似ているような気がする。思想信条的には対極にあるのだけれど、自分の信じている理念だけが正しくて、それに反するものは全て誤りであるという思いが強いように見えて、そういう、信頼できる人に正しいと教えられたことを無批判に信じられる育ちの良さのようなものが、お二人には共通しているようにみえる。

晋太郎さんは長かった外相時代に晋三さんを外遊に連れて回ったらしいけれども、外交が持っている気味の悪い多重性みたいなものについてはあまり教育しなかったものらしい。あるいは教育はしたけれども吸収されなかったのかもしれないが。晋三さんを見ていると、外遊で得た経験というのが外交官の二枚舌三枚舌四枚舌五枚舌の恐怖などではなく、日本の次代のエスタブリッシュメントを担うプリンスとして扱われるという経験だったのだろう。戦後日本ではあまりそういう階級意識というのは明確にされないけれども、外交の場ではそうではない環境が多い。

北朝鮮から拉致被害者の方々が還って来たとき、安倍さんは被害者の方々を一時帰国のあとに北朝鮮へ戻すという事前の約束を破った。これは、「日本国政府は朝鮮民主主義人民共和国政府を信用しない」と明確なメッセージを送ったのと同じことで、それまでに水面下で何年間の交渉があったのか知らないけれども、そういう交渉ルートの大半を一気に断ち切ってしまったことだろう。確かに北朝鮮は信用ならなかったけれども、その後の交渉で更に多くの人が帰国できた可能性を思うと、あそこで交渉を断ち切る決断をしてしまったのはどうにも悔やまれる。

そういう具合で、安倍さんは対立相手の顔を立てるのが上手くない。私は現行憲法下の日本国を、不完全で嫌な所も多いけれども、なんだかんだで愛している。そういう愛国心の根っこの一本である現行憲法を、安倍さんは「みっともない」とか言ってしまう。安倍さんはそういうみっともない憲法に則って選ばれ任命された首相なんであって、なんだか自虐的だなぁと、私なぞは思ってしまう。そのみっともない憲法の公布署名には、時の内閣総理大臣吉田茂さんの名がある。あの人のおじいさんの名を曲がりなりにも帯びた憲法を、そこまで貶して大丈夫なのかなぁとも思ってしまう。

まあ変えるべきところはたくさんある憲法だとは思うけれども、護憲派が涙を流すような名演説をしながら9条をしれっと書き換えるような演技力のある政治家が出るようになってからでも遅くはないな、という気はする。文明国であれば、可能な限り政治もゲーム化して欲しい。真剣な議論は戦わせても、そして腹には一物あっても、少なくとも表向きだけは、試合が終わればノーサイドという文明的な政治を見てみたいと思う。

憲法がWikipediaみたいに感情的な編集合戦の舞台になってしまうのは見るに忍びない。自分自身を思うとあまり偉そうには言えないけれど、民主制下の政治を目指そうという人は、ゲーム的なディベートの、技術ではなくて文化を身につけて欲しいと思う。
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by antonin | 2013-04-14 03:47 | Trackback | Comments(0)
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