安敦誌


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憲法改正に賛成する理由

なぜ改憲が必要なのか、というような言い方でも良かった気もするけれど、まぁ、あくまで個人的な意見ということで。

個人的に、「憲法改正に賛成ですか、それとも反対ですか」という質問があったら、「賛成」と回答すると思う。ネット上に公開されている自民党の草案に賛成かと問われたら「反対」と言うだろうけれども、ともかく改憲の必要は強く感じる。その理由は憲法のせいで自衛隊という名の軍隊を集団的自衛のために海外派遣できないから、ではない。

2期目の首相に返り咲く前の安倍さんの言葉を聞くと、日本国憲法第9条のせいで日本は世界秩序維持のために紛争地帯に軍隊を派遣することができず、そのために首脳会議などで恥をかくから嫌だというようなことを言っていた。日本国憲法を「みっともない憲法」とする理由の一つはそこにあるのだろう。他にも、個人と国家の権利定義で個人に重きを置きすぎているとか、日本の国体が民主制ではなく立憲帝制であることが明瞭に宣言されていないとか、条文が英文和訳であるとか、そういうところも問題にしているらしい。

個人的に、幕末の動乱を勝ち抜いた若い志士がプロシアなどの憲法を研究して作成した大日本帝国憲法と、2つの世界大戦を経過したアメリカの若い研究者が日本人学者と丁々発止の議論の末に作成した日本国憲法に、特段の優劣があるとは思えない。ただ、両者の間にはいくつかの共通点があるものの基本的な発想に違いがあり、日本国憲法のほうが構造的にややいびつな形をしている。そのいびつな部分もいずれ改正が必要になってくるとは思う。しかし最も憲法改正の必要がある部分は、日本国憲法のいびつな全体構造ではなく、言わずと知れた第9条だろう。

第9条の何が悪いのかというと、日本を戦争のできない異常な国として定義しているから、ではない。たとえばスイスなども永世中立などという無茶な宣言を憲法に謳っているが、スイスの場合は、国民皆兵制でも、ナチスドイツへの消極的協力でも、実際に戦争の当事者となった周辺諸国からは苦々しく見られるようなことであっても、実際に困難な努力を払ってまで実行し、それによって憲法に謳った理想を実現しようとしている。つまり、憲法の条項と国家運営の実体にズレがない。これは実は、法治国家として当然のことでしかない。

ところが日本の場合には、憲法は明らかに軍隊の保有を禁じているが、警察予備隊が保安隊を経て自衛隊になったあたりから、日本国は事実上の軍隊を保有することになり、これ以来60年近くも違憲状態が続いている。これに対して司法は、高度に政治性の事案であって司法判断に適さないだとか、他にもいろいろの憲法解釈論でこの違憲状態を無視し続けている。

憲法は軍隊の保有を禁じているが、現実問題として軍隊が必要になった場合に、法治国家が取ることのできる選択肢は2つしかない。一つは憲法を遵守し、軍隊を持たずになんとか軍事的脅威に対抗すること。もう一つは憲法を改正し、軍隊を持つ必要がある現実に憲法を合わせること。ところが、日本はこのどちらの選択肢も取ることができず、法治国家であることを一部ながら放棄した。

法治国家というのも極端に言えばフィクション、あるいは共同幻想と呼ばれるものの一種なので、現実を前にすれば一時的にはその体裁を乱されることはある。しかし、それが60年も続いてしまうということは、もう構造的に幻想が破れているということになる。つまり、日本はもう法治国家ではない。

あるビジネスホテルが自治体の定める条例に違反したことを指摘された時、社長が記者会見の席で、自社の条例違反が軽いスピード違反をしたようなもの、というような弁明をしていた。この話は確かにいろいろなものを象徴していると思った。時速60キロ制限の道を時速65キロで走るというのは確かに軽微な違反だが、違反は違反だろう。仮にそれが正当なプロセスを経て不起訴になるとしても、だからといってやって良いことではない。これが法治というものだろう。

こういうことを言うと、じゃあお前は時速60キロ制限の道路を一度も1キロもオーバーせずに走っているのか、そんなノロノロ運転をする奴はかえって迷惑だ、という話が、日本の場合は出てくる。正常な法治国家の場合、人々は法を守って時速60キロ以下で車を運転し、しかしそれだと色々と具合が悪いので市民が大騒ぎし、程なく規制が緩和されて時速80キロ制限あたりになり、人々は余裕をもって法を守れるようになる。

ここでもまた、今時速60キロ制限の道路をすべての車が時速80キロで走ったら危ないだろう、事故が増えたらどうするんだ、という話になる。しかしこれも、制限時速が80キロだったら80キロ近辺で運転しないと周りに迷惑という今の日本での常識で考えるからおかしなことになるだけであって、制限時速が80キロであろうと100キロであろうと、免許を与えられた全てのドライバーには状況に応じた安全速度で運転することが義務付けられている。だとすれば、時速75キロでも安全だと判断できる車両はその速度で走ることができるし、時速60キロでも危険だと感じる車両は、より遅い速度で走ることができる。

法治国家とは、法律でなんでもかんでもがんじがらめにする国家のことではなく、本当に害悪をもたらす行為だけに最小限の規制をかけ、それを厳格に守り、ただし守ることが不都合だとわかれば遅滞なく改正する、そういう国家のことを指すのだと思う。その厳格な法が許す範囲内で、国民は自己の良心的判断を常に求められ、その良心的判断によって自由に生きることができる。

現在の日本というのは、何か問題があるとすぐさま規制を定める法律や政令や条例が定められ、そしてその規模が大きくなりすぎてしまったために、時の為政者や行政組織の上級官僚が個人的に注目した項目だけが厳密に運用され、その他の膨大な法令はほとんど無視される状態となる。法令の大部分は無理があった場合には単に無視されるため、苦情を寄せられた行政府は立法府に直接働きかけ、単純な規制法を制定することで責任に対して十分な言い訳を確保し、その運用や効果検証には関心を示さない。

こういう具合に乱発され膨大になった法令を手繰れば、普通に生きている国民や普通に営業している企業も、必ずどこかに抵触してしまう。そしてそれを問題視して公権力を発動するか否かは、公権力に属する個人の裁量に帰せられる。これは人治国家であって法治国家ではない。

そういう意味で、日本国というのは実はアジア的な人治国家であって、程度の差はあれども五十歩百歩、中国などのことはあまり馬鹿にはできない状況にある。少なくとも、欧米からはまともな法治国家とは思われていないフシがある。誠実な人治国家というのもありうるので、日本は概ねそのように見られているのだろう。つまり、システム的に統治しているのではなく、個人の力量の積み重ねでどうにか運用されていると見えているのだろう。今はかろうじて機能しているが、仁と義と忠が失われれば、国家は崩壊する。

そこで、安倍さんは日本国憲法に義と忠を盛り込もうとしているように見える。世界最高水準の人治国家だった大日本帝国の再興を目指しているように見える。だが、一方で日本はグローバル化を目指している。グローバル化と国民文化の関係というのは難しいところがあって簡単な結論は出ないのだけれど、古くから異文化との闘争と融合を繰り返してきた大陸の国家が選びとったのが、民族によってバラバラになる仁義や忠誠などではなく、少数の、しかし厳密で客観的な法律に依存して多様な国民を束ねようとする、法治国家というシステムだった。

イスラム革命の影響などでキリスト教圏とは随分とスタイルの異なる国家も大陸には多いけれども、それでも厳格なイスラム国家というのはイスラム法を厳格に守る法治国家という面が強い。クルアーンの記述言語であるアラビア語は特別視するけれども、アラブ人を特別視するという習慣はない。ラテン語は特別視してもラテン民族は特別視しなかった古代ローマに似た仕組みを持っている。イスラム法学者による裁量はあるけれども、これにしても裁判官の裁量と似たところがあって、法解釈の裁量を下す権利を法的に与えられた人々によって行われている。

危険なイスラム国家は、たいていキリスト教圏にある国家のテコ入れによって成立した独裁国家に分類されるが、これは本論を離れた話なのでどうでもいい。ともかく、まともな大陸国家はたいてい法治国家というシステムを採用しているし、国際紛争についても極力国際法を尊重しようとしている。国際法というのは強制権を与える組織がなく、戦争を発動する要件とそれを終結させる要件が書かれているだけという話もあるが、ともかく法を尊重する国家は国際的にも尊重される。日本国が本当にグローバル化を目指すなら、法治国家へのより一層の成長は必ず必要になってくるだろう。

もしも日本国をより法治国家に近いものにしようとするなら、もはや共産党だって廃止を表立って言うことのできない自衛隊を憲法という最高法規から禁止している、現実に合わない9条を改正する必要がある。そして、同様に憲法と現実がすっかり合わなくなっている1票の価値の問題も、1票の価値が国土の面積に比例するように憲法を現実に合わせるのか、あるいは住む場所にかかわらずに個人の平等を謳う憲法に現実を合わせるのか、どちらかを選択しなくてはならない。

自分が東京に住むからあえてこういうことを言うけれども、利己的な都市の住民の投票価値は、実際に日本の国土を支える地方在住の人よりいくらか軽いくらいが合理的だろうと思っている。けれどもまぁ、これは法治原則の話とは別の議論になってしまうのでこれ以上は触れない。

ともかく、多くの国民を戦争で失った大日本帝国臣民が八紘一宇の壮大な理想を掲げて世界を相手に戦争をしていたところから一転、平和を希求する日本国憲法を受け入れ民主主義国家の市民になったのも、あながち占領統治政府による単純な押し付けとは言えなかったんじゃないかと思う。現に、国体の宣言たる天皇条項については、様々な日本人がGHQと粘り強い交渉を続けていたらしい。そしてそれは、ある程度は叶えられたと見ていいのだろう。

なので、自民党の改憲派が目指すような、より優れた人治国家を再興するための憲法改正には反対するけれども、もろもろの法令が制定においては乱発され、運用においては軽視されるような現状を是正し、より本格的な法治国家に成長するための改憲なら賛成したい。

思うに、法令というのは一種の宣言型プログラムになっている。そこには社会運営を定義する論理構造だけが示されていて、実際の解決手続きは公務員というエージェントがそれを知っていて、実行される。ところが現状の日本の法律には内部矛盾が多く、不具合に対して場当たり的なパッチが多数当てられたプログラムと化している。エージェントはプログラムの最下層の条文だけを参照し、それにより隠蔽されている上位クラスのプログラムとの矛盾を検出できていない。日本国の法令は適切なリファクタリングが必要な段階にあり、その必要性は基底クラスである憲法にまで及んでいるという状況なのだろう。

まず最初に修正する条項として最適なのは、前文や9条のような大物ではなく、もちろん96条でもなく、100条から103条だろう。もし日本国憲法にみっともない部分があるとしたら、こんなテンポラリな条文を60年も手を付けずに抱え込んできたというあたりが該当すると思う。私たちはまだレガシーコードの基底クラスのリファクタリングという難しい作業を行うのに十分な経験を積んでいない。本丸である9条の修正は、もう少しだけ改憲の経験を積んでからのほうがいいだろう。

そして、前文の書き換えというのは一種の革命でもあるので、これは軽々にできるものではないと思う。もしもそのあたりが流血を伴う維新ではなく理性的なビロード革命になるようなら、日本国もいよいよ成熟してきたな、と思われるのだろう。そういう将来を望みたい。その一歩としての改憲なら、私は歓迎する。
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by antonin | 2013-06-09 01:32 | Trackback | Comments(1)
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