安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索
最新の記事
婦人画報創刊号
at 2017-07-07 01:36
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
記事ランキング
タグ
(296)
(147)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(41)
(40)
(39)
(33)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

反骨って難しい

どんな社会にも、社会の常識っていうもんがある。同調圧力もある。これは、真社会性動物の一種である人間の先天的な性質に基づくもので、どうしようもないものなんだろうと思う。ただ、すべての個体がこの同調に一致して一糸乱れず動くのかというと、そうでもないというあたりが人間の面白さであり、厄介さでもあるのだと思う。

昔、エジプトからメソポタミアにかけて広がる文明世界が発生した。その地域には古くから、部族の神が他のどの部族の神にも優越すると信じる牧畜を主体に生活する部族があった。その独立心旺盛な部族も、いつしか拡大する文明世界の中に飲み込まれていく。文明世界に飲み込まれていく中でも自分たちの部族の独立性を確保するために、よくよく考えた人たちが、自分たちが守るべき戒律を考えた。

そしてその末裔たちには、そういう戒律は面倒だと感じる人もいれば、そういう戒律が素晴らしいと感じる人もいたが、それぞれの世代に属する考える人達が戒律をより良いものに改良していき、それを守ることが徐々に生活を豊かに安らかにするようになった。そしていつしか、部族の誰もが戒律を守ることは普遍的に正しいと考えられるようになり、戒律を守らないことは罪として厳しく罰せられるようになる。

そういう時代になると、戒律を面倒と感じる人も、悪いのは自分の方であって、決して戒律が間違っているわけではないと思い込むようになる。そういう時代に現れた、よくよく考える人のうちの幾人かは、よくよく考えた末に、悪いのは戒律を面倒に感じて苦しむ人のほうではなく、多岐にわたり厳しすぎる戒律の方ではないかと気づく。その次の世代あたりに、人は必ずしも戒律の定めるとおりに生きる必要はなく、神と自分の対話によって、自分が正しいと信じる生き方をすればそれで良い、というようなことを言い出す。

そういう人の中で一番目立ち、そして死刑に処されたのがイエスさんだったのだと思う。イエスはユダヤの知恵者が何世代も考え続けたことで豊かになった戒律に我慢できず、反骨を示したプロテスタントの人だったのだろう。彼の言いたかったことは、「人が全て守るべきとされている戒律のすべてを守る必要はなく、自身と神の対話で正しいと思えたことを行おう」ということだったのだろう。

それからしばらくの間、キリスト派はユダヤ教に対するプロテスタントの立場を取る。けれども誰かがこの信仰を皇帝の権威付けに利用しようと考えるようになり、キリスト教は徐々にローマ世界の人が普遍的に守るべき戒律を定める立場へと逆行していく。それから長い年月の間にカトリック(普遍派)の戒律は人の生活を豊かにするものへと洗練されていくけれども、同時に些細な事で人に罪の意識を植え付けたり、人を罪人に仕立てあげたりする原因にもなってくる。

そこで今度は、東方に残っている、イエスさんが生きて語っていた頃の資料を読んで、キリスト教がそもそも厳格な戒律に対する反骨の宗教であったことを知る人達が出てくる。次の世代あたりになると、ヤン・フスのように反骨の言葉を堂々と晒して、その結果死刑になってしまう人が出てくる。彼の言いたかったことは、「人が全て守るべきとされている戒律のすべてを守る必要はなく、自身と神の対話で正しいと思えたことを行おう」ということだったのだろう。

で、自身と神の対話をした結果として、被造物である世界に対して「実験」で求めた答えだけが正しく、聖書のように人の言葉を集めたものや、それを元に教えを説く聖職者の言うことを無批判に受け入れて従う必要はない、ということに正しさを見出した一群の人々が出てくる。この考え方をする人々が現在の世界で主流をなす勢力になっている。

仏教の世界にも似たような反骨の歴史があって、インドの考える人々がバラモン教を作り、それが歴史を重ねる中で厳格すぎて逆に一部の人々を苦しめるようになると、ゴータマさんのような人が出て仏教が生まれる。仏教も考える人々の手によって厳格すぎる長老部に至ると、反骨を示して万人の救済を説く大乗部が生まれる。大乗部の教義もいつしか厳格な信心を要求するようになり、そうすると今度はゴータマさんの生きた時代の古い仏典を探しだして、自分の心との対話から見つけた答えだけが正しいと主張する禅が出てくる。

他の主だった宗教にも、そういう厳格化と反骨が循環する歴史が、探せば見つかるものなのではないかと思う。

で、15世紀あたりに始まり、アメリカ独立あたりで完成したプロテスタント運動も、もう成熟の時代に入っている。戒律に従うかどうかは、自分の頭で考えてもいいんだ、という初期の動機が、「すべての人は遍く自分の頭で考えるべきであって、伝統的な戒律を守るのは誤りである」というあたりにまで純化が進み始めている。科学者が宗教を毛嫌いするのも、この「反骨の果ての戒律」に従わない人への嫌悪感であったりもする。

そして、かつて反骨であった考えを継承する人たちは、自分の頭で考えることを普遍的真理のように考え、それが苦手だったり落ち着かなかったりする人にも強制しようとし始める。また、「自分の頭で考えることは正しい」ということを無批判に受け入れてしまう、従順な人たちが扇動者につき従い始める。現代社会は、だいたいそういうフェーズにある。

人生を無駄にするための10の方法 - Chikirinの日記

この、不合理な因習から人を自由にするはずの格率を受け入れない人を、あたかも罪人のように断ずるという、奇妙な行為のもとにあるのは、現代の宗教である科学、あるいはカトリック成分を完全に抜き取った残滓であるアメリカ式のプロテスタンティズムへの信仰心なんだろう。

人生が無駄だと感じたら、その無駄の原因は、実は世間で良いとされている生き方に無理に合わせているというところにあって、世間で良くないとされていることであっても、あなたにとっては良い生き方かもしれませんよ、あなたが考えた末に良いと思うように生きていいんですよ、それによって困難はあるかもしれないけれど、きっと良い面のほうが多いですよ、と、初期の反骨精神は "may" を説く。ところが成熟し普及した反骨精神は、かつて世間で良いとされていたことを無批判に受け入れて安住しているあなたは罪人ですよ、というようなことを言い出す。成熟した反骨精神は、古い因習の放棄を "must" で主張するようになる。そこに新しい因習が生まれる。

Chikirinは悪いことを言っているわけではないので気分は複雑だけれども、「自分の頭で考えよう」というのは誰にでも普遍的に成立する真理などではなくて、考えない人のように生きると苦しい人への助言なのだろう。「自分の頭で考えて、その答えが世間の常識と違っていてもいい」というのと、「世間の常識と違う答えを出せないあなたは自分の頭で考えられない愚か者である」と断罪するのとでは、かなり意味が違う。

気持ちはわかるけれども、まあちょっと。
[PR]
by antonin | 2013-06-23 13:02 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://antonin.exblog.jp/tb/20629397
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 最近の若くない者 Information >>


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル