安敦誌


つまらない話など
by antonin
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つまらない話など

いいね、またChikirinが極論全開になってる。いいと思う。

「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ - Chikirinの日記

これは、論理的には先日ここで書いたこれに似た意見になっている。

断言 : 安敦誌

結論は逆方向に見えるけど。逆方向に「見える」というのは、総論としては賛成なんだけど、各論としては反対だから。つまり、断定的な極論を唱えて、ともかくも決断を下すのが正しいとしているのは、ちきりんも私も同じ。「断定か」「相対主義か」で比べれば、断定するほうが正しいと思っている。ただ、量的な判断を加味すると、a)結論を出さない相対主義者がゼロの場合と、b)社会の片隅に少数いる場合と、c)社会の中心にあふれている場合だと、c)は最悪という意見は共通しているが、一方でa)の状況よりはb)のほうが健全だと、私は思っている。ちきりんはきっとそこまで考えていない。彼女が何かを判断するためにはそこまで考える必要がなかったからだ。

こういう数量的な思考は、若いころにある種の訓練をした人にしかできないものらしく、そうでない人にはなかなか伝わらない。なので、話をわかりやすくするなら、ちきりんの言うようにお互いに極論を持ち合わせて議論する方がいいのだろうと思う。

今回の話は全体的に論理的思考による結論ではなく、「あたしはこういうヤツが嫌い」というだけの話だったので結論はどうでもいいのだけれど、途中にひとつだけ明確な間違いがあった。
最悪なのは、「Aの場合もあるが、Bの場合もある」とか言ってる本人が、「オレの意見は客観的だ」「自分は、『Aだ!』と言ってる人みたいに偏っていない」と思ってたりすること。コレ、本当にタチが悪い。

それ、客観的なのではなくて、単に、

「決断できない人間である」

「選べない人間である」

「自分の意見を持てない人間である」

ってだけのことです。

ここには、明確な間違いがある。「Aでもあるが、Bでもある」という人のほうが客観的だというのは、たいてい事実であり、正しい。問題はそこではなくて、「客観的ではなく決断できないだけ」なのではなく、「客観的になってしまったために決断できなくなっている」というのが正しい。つまり、「客観的であるほうが主観的であるより優れている」という先入観が正しくない。理解よりも決断を優先するなら、客観的に物事を見てはいけない。決断は常に主観から生まれる。偏ることを恥じてはいけない。

まあ、一度は客観的に物事を分析できる冷静さというのは有用だけれども、それでも最後は主観に帰ってこないといけない。決断が求められるとき、あんたはあんた自身の人生の客なんかじゃないんだ、主(あるじ)なんだ、「客」観的な分析は一度捨てておけ、というのが正しい。ただもう一度グダグダ文句を言うなら、それは判断を求められる地位にある人の話だ。客ではなく、主についての正しさだ。

だから、社会になんの影響も及ぼさないような、軽い、あるいは存在しないも同然の地位にあって、社会の客人として扱われていると感じ、むしろ主であることを捨てて生きようと決断した人があるなら、その人には存分に客観論を展開してもらって、主観的なしがらみに生きるしかない人に、得難い視点を与えるという役割があってもいいと思う。それにより軽蔑されることもあるだろうが、軽蔑を恐れる価値もないなら、それも問題ない。

ちきりんも、普段は「考えよう」とか人に言っているが、そこは人間なので、イデオロギー的な部分に触れると怒り出す。理屈やデータより感情が優先する。まあ、正しいと思う。それが人間だろう。ちきりんの譲れないイデオロギーというのは、若い頃にアメリカで仕入れてきたプラグマティズムだろう。それに抵触するような、多神教的で曖昧な意見を目にすると、彼女は烈火のごとく怒り出し、ロジックも何もなくなる。

私自身にも似たような傾向があって、普段は多角的な視野みたいなものを求めているものの、いざ自分の魂に触れるような話題になると、ロジックをなぎ倒して感情的な論を展開してしまう。こういうのがそれだ。

OpenOffice.orz : 安敦誌

UIが規定しているのはファンクションではなくプロトコルである : 安敦誌

私はコンピューターが大好きで大好きで、でも夢破れて化学系の製造業に進んだ。ところが就職後の世の中は徐々にIT化が進み、化学系の仕事場にも、あの憧れに憧れたPCが徐々に入ってくるようになった。PCを触りながら、しかしプログラミングではなく製造業者としての仕事をしなくてはならないという自制は本当に苦しかった。そういう苦しい生活の中で、数少ない喜びはExcelでデータプロセッシングをしている時間だった。

もちろん、会社から給料を貰っているので、体面上は仕事のためにExcelを使っている振りをしなくてはならなかったが、本心では、Excelを触るための口実として仕事をしているようなところがあった。かなり強烈に依存関係を持った数式を羅列しても、奴は当時の貧弱なマシンの上でも実用的な時間で計算結果を返してくれたし、自動記録でマクロ操作を保存すれば、なんとその全てがVBA (Visual Basic for Application) のコードとして吐き出された。しかもそこにVisual Basic的ハンドコーディングを追加すると、その通りに動いてくれた。楽しくてたまらなかった。

Wordの場合、マクロ動作は記憶しても、必ずしもすべての動作要素がVBAのコードに落ちるわけではなかった。通常操作でも日本語版はバグだらけで、また英語用の機能の残骸が、人間が日本語テキストを入力している最中に不可解な細工を加えてきた。あれは大嫌いだった。

そんな話はどうでもいいが、とにかく私はExcelの事となると冷静になれない。で、Excelがらみで気に喰わないことがあると、上にリンクを置いたような感情的で饒舌な意見を書いてしまう。困ったものだと思うが、まあ、これが主観的な意見というやつだろう。

考えに考えた果てに、人間らしく主観的であることを捨て客観に逃げることに決めた人について、それを嫌うのは仕方がない。が、煩雑な決断を避けて客観に逃げるのも、それはそれでひとつの決断であると認めてやってはくれないか。と、まあ、そういうことを思うのだけれども、たぶん認めてもらえないだろう。それは、イデオロギーの問題なのだから。

生きていることに客観的な意味はない : 安敦誌
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by antonin | 2013-11-23 23:55 | Trackback | Comments(0)
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