安敦誌


つまらない話など
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教え育てること

子育てをしながら、自分が子供時代に見ていた子供向けの商品を思い出したりするのだけれども、そうすると、当時の商品を作っていた大人たちからのメッセージが、なんだかとても優しさに満ちていて、子供に対する単純な愛情が感じられたなぁ、なんていう、当時は気付かなかったようなことを思うことがある。けれどもまあ、今もそういう暖かな視線というのはあって、ただ大人の立場からは検知しにくいだけなのだろうな、というようには思う。

当時から、テレビ番組とタイアップした玩具商品など子供を食い物にした商売はあったけれども、少なくとも子供の教育のためという建前のようなものはどこにもあったような気がする。最近はビジネスに対する憚りみたいな感覚も減って、子供たちのメンションを奪い合うことに対して、あまりそういう言い訳じみた建前を前置きする機会は減っているという感じはする。当時を大人として生きていたわけではないので、等価な比較はできないけれど。

テレビに関しては、もう維持期から衰退期に入ったメディアなので、当時の放送作品との品質の差というのは、勃興期特有の挑戦的なスタッフが減ったことや、あとは単純に運営規模と収入の比率が悪化しただけなんだろうと思う。現在はウェブの世界が勃興期から維持期に入っていて、コドモたちが子育てをするような時代には衰退期特有の失望感に迎えられているのだろう。

--

最良の育児とは、凡庸な教育者である実の両親が子供の教育をいくらか放棄して、教育に使命を感じている人に一部を丸投げしてしまうことだ、というような意見もある。確かにそんなような気もするし、しかし一面でしかないような気もする。

近代的な学校というのは、ほぼそういう丸投げ先の組織なのだけれど、西欧文明にキャッチアップしていた明治時代ならともかく、もう大概制度劣化していると思う。けれども、ゆとり教育政策だとか、その反動としての基礎反復教育政策だとかで、均一な国民学校全体のあり方を均一に変えていくという方法そのものがとても明治政府的で、なんだか疲れる。現状の公立学校という組織は国民の6割くらいに対してはすでにベストプラクティスになっていて、ただ残りの4割を標準に抑え込もうとした、国民を生産する工場としての品質管理的手法が時代に合わなくなっているだけだと思う。「均一な教育」ということが問題なのであって、「均一」という部分に手を付けないまま、すでに多数にとってベストなものを違う何かに「カイゼン」しようとするのは、方法として間違っているように思う。

習熟度別クラス編成とか、そういう小手先の修正ではなくて、学校という枠組みは今の完成したものを残し、しかしその枠組みの外側で教育を受けることを徐々に認めていくしかこの時代に合わせる方法はないと思う。でも、学校を卒業したその日から学校に勤める教員出身の官吏にそういう発想は難しいだろう。微視的には大きく変えたいが、巨視的な構造について変えるという発想からして無いようにも見える。素人考えでは逆だろうと思うが、まあ自分の属する業界のことを考えるに、難しいだろうなとは思う。改革の内容が、自分たちの手からこぼれ落ちる部分を作るだけ、というのは受け入れ難いものがあるだろう。

保護者の自由選択という市場原理を受け入れる私的教育と、国家による標準化と経済補償という社会主義的な公的教育をどう共存させるかというのも難しい。今も私立学校は存在するけれども、その自由度というのは知れている。NHKと民放のテレビジョン放送なんかを念頭に置くと、教育の自由化後に平均的な子供たちが公教育に残り、私教育が多様性を司るというよりは、マスがベネッセ的な民間サービスに流れ、公教育のほうが「パブリックスクール」のような形へと変質していくのかもしれない。そういう未来像もどうなんだろうなぁ。

--

古い偉人伝などを読むと、親は平凡な職を継がせたかったのに、教師や親戚が子供の才能を見抜き、親を説得して親元から引き離し、資金を援助しつつ育て上げた、なんていう話が目立つ。一定水準を超えた才能は、運はあるにしてもそうやって見出されるものなのかもしれない。ただ、そういう「引き抜き」が人身売買にならない程度にシステム化すると、恐ろしく強い国になるだろう。学費の安い国立大学なんていうのはかつてそういうシステムだったのだけれど、今は私学とさほど費用の差がないらしい。

うちのコドモたちをどう育てるか、というのとは別の水準で、そういうようなことも少し考えてしまう。
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by antonin | 2014-03-24 01:54 | Trackback | Comments(0)
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