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モンティ・ホール問題を最初に知った時には面白いと思ったが、突き詰めると、確率論という学問が暗黙のうちに置いている仮定と、モンティ・ホールの出ているテレビショーを見たことがある人が持つ体験的な仮定、というあたりに違いがあってもめているだけだと気付き、意外につまらない話だとも思った。 開く扉の枚数を増やしてみるという説明もあったが、もっと単純にするとこういう問題になるんじゃないだろうか。 「ジョーカーも含めて53枚のトランプを切ります。次に、その1枚を箱に入れました。この箱の中にハートのエースが入っている確率はいくらでしょう。」 「53分の1です。」 「そうですね。では、箱を開けてみましょう。スペードの9が入っていました。次に、このまま箱を閉めます。この箱の中にハートのエースが入っている確率はいくらでしょう。」 ここで「0です」と答えるならベイジアンだし、「53分の1です」と答えれば頻度主義だ。どちらも正しく、どちらかが間違っているという話ではない。単に前提が異なる。「確率」に the が付いていると考えるか a が付いていると考えるかという前提の違いであって、その前提があいまいなまま、どちらが正しいかを議論するのは間違っている。 「確率」には a が付いていると考えるなら、たった1回の試行でどんなカードが出たところで最初の問いに関する一般的な答えは53分の1のまま変わらない。ところが the の付いた「その試行」に関する確率と考えるなら、私はもうそこに入っているのがスペードの9であってハートのエースではないことを知っているから、答えはゼロだ。 the が付く方の、ベイジアンの問題だと考えた場合、実は話がより面倒になる。上の会話の場面で私がマジックショーに参加しているのであれば、次に箱を開けた時には中からハートのエースが出てくることは十分に考えられるので、そういう予測も織り込めば確率は0ではなくなる。また、最初に箱を開けて中身を確認する前でも、使っているカードセットのうちハートのエースのカードが微妙に折れていることを知っていて、箱に入れてカードが折れていない気がしたなら、確率は53分の1より下がってゼロに近づく。 こういう、未知の対象について何も知らない状態から、ある程度推定できる知識がある状態、あるいは完全に知っている状態に変化するために必要な知識の量を、通信工学では情報量と呼ぶ。それはベイズの定理と同じ事前確率と事後確率を使った情報量エントロピーとして定義が確立している。この情報量の式を見てエントロピーという名前を付けるようにアドバイスしたのがフォン ノイマンだという噂もあるくらいで、それは1940年代の話だ。 工学の外側にいる統計学の研究者の中には、1990年になっても頻度主義の前提をベイジアンの問題にも適用しようとするくらい、暗黙の仮定に慣れきった人がいたという話なのだろう。アベノミクス前夜のリフレ論者がリフレ理論を理解しない人たちを馬鹿にして罵っていたときも似たような違和感を覚えた。欧米経済中心の研究から帰納的に抽出した一般的な数式から演繹して、日本経済での個別具体的な状況で量的緩和が足りていないと言いきっていた人たちも、似たように統計学の前提となっている暗黙のルールの虜だったのだろう。 リフレ論者とそれ以外の人たちの言い合いは不愉快だったが、話がすれ違った理由を考えるのはそれなりに楽しい。古典的な命題論理の問題でも日常言語で議論すると変な話になる、という別の文章を書きかけたのだが、コドモと町内会の行事に参加する予定があって書き上げられなかった。そちらはまた今度。YouTubeで禿山の一夜を聴いた話も、その気が残っていればまた今度。日常に退屈している。その話もまたそのうち。
by antonin
| 2017-09-03 02:36
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