安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
検索
最新の記事
アキレスと亀
at 2017-05-02 15:44
受想行識亦復如是
at 2017-05-02 03:26
仲介したことはあまりないが
at 2017-04-29 03:36
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
記事ランキング
タグ
(295)
(146)
(122)
(95)
(76)
(65)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

雑感~分析と分類の間

アナログとディジタルの話、すでに長文を書いてあるのですが、結論がどうもしっくりこないので、まだディスク上に眠っています。

現在のように、かなり成熟した技術となったディジタル信号処理を論じるとき、個人的にどうしても障害になるのが、「信号」たる記録作品の品質に対する分析能力の無さです。

人というのは、目や耳などの感覚器がデバイス的にとらえた情報を、そっくりそのまま全て利用しているわけではありません。まず網膜や蝸牛管の受容細胞がとらえた情報は、そのすぐそばの神経細胞によって必要な情報を保ったまま信号の本数を減らすように信号の編集を行い、大脳に情報を送信します。

これは神経回路の物理構造的な要因による情報圧縮であり、大脳に届く前に情報を落とされることもあって、ある程度避けようがなく、また、特別の事情がない限り万人に共通した情報処理がなされるわけです。ところが、むしろ大脳に情報が届いてからが大きく情報を選別する舞台であり、これは後天的な「学習」によって情報処理が決まるため、一人ひとり事情が異なってきます。




わかりやすいのが音声言語の音素の問題であり、英語では"s"や"th"、それに"su"なども互いに区別される音素ですが、日本語では全て「す」に集約されてしまうため、それらを互いに区別することができません。これはもちろん訓練によって区別が可能になるのですが、音声信号としては明らかに別のものであっても、区別する必要が生じるまでは人は区別することができないのです。

実は日本語の「す」にも、正しく"su"に近い音を発する場合もあれば、特に関東などで母音が欠落して"s"に近い音になる場合もあるようですが、関東で育った私にはこれらを区別して聞くことができません。

----------

ビタミンに「B群」という一群の物質があり、B1, B2, B6, B12などと番号を添えて区別されています。これらは分子構造的にも生体内での働きとしても全く異なる物質群なのですが、なぜこれらが同じ「ビタミンB群」などと呼ばれているのかというと、ビタミンという生体作用の高い栄養素群が発見された当時、まだ化学的な分離能力が十分でなく、現在ビタミンB群に分類されている物質群がひとつの物質であるとされたために、単にビタミンBと名づけられ、その後の分離能力の向上によって複数の物質であることが判明し、現在のような名前になりました。

参考:「ビタミネ」より「ビタミンの名前の由来

目や耳といった自分自身の感覚器だけを使うか、あるいは分析機器のような道具を使うかの差はあれ、人間は区別する能力があって初めて対象を同じではないものとして扱うことができるようになります。逆に、区別されないものは、物理的にどんなに違っていても同じものとして扱うことができるという点が、人間の大脳の強力な情報処理能力の源泉です。大きな宇宙の現象を、たとえ片鱗だとしても1リットルあまりの小さな人間の脳に映し出すことができるのは、この分類能力のたまものです。

この分類能力、逆説的に言えば「共通点のあるものは区別しない」という大脳特有の情報処理テクニックは、ある面で人間の五感が持つ繊細な感覚を無に帰す危険を常にはらんでいます。もちろん人間の大脳は常に柔軟な面を残していて、訓練によって感覚器の能力の限界近くまで細かく分類する能力を獲得することが可能ですが、それには多大な時間と、優れた教師(それが人間とは限りませんが)と、ときには絶対的な若さを要求します。

私は音楽の項で演奏者による違いがわからんと宣言しましたが、それ以外にも分析不能の事柄が実にたくさんあります。アナログとディジタルの違いを論じるとき、理屈でわかる部分と、感性に依存する部分のうち、後者に関してひどく能力が欠けていることに不安を感じます。また、理屈でもわからないことがたくさんあります。

----------

「はだかの王様」という寓話があって、賢者によって織られた「賢いものにしか見えない布」でできた服を身にまとった王が街を行進するのを見て、子供が「王様は裸だ」と言うわけです。ここで、子供の素直さを称え、大人の虚栄心の浅はかさを糾弾するわけですが、もし、本当に賢者に布が見えているとしたら、話は全く別のものになってしまいます。子供は子供ゆえに未熟で、目に見えるままを口にするだけの浅はかな存在であり、一方、たとえ自分には見えないとしても、賢者を信じて投資を惜しまない王は、別の意味で賢者ということになります。

たとえば陽子の自然崩壊を観測するという名目で巨大なカミオカンデを作り、結局出てきたのは超新星ニュートリノとの相互作用でした、という結論に億単位の資金を出すのは、形式上とは言え国家の主権者である我々国民にとって、まさに裸の王様の英断といえるのではないでしょうか。

その一方で、ただ単にだまされる人も確実に存在します。自分に理解できないものを素朴に信じる人がいます。ときには、他の誰かにだまされるのではなく、自分自身の思い込みにだまされる人もいます。あるいは誰もがそうなのかもしれません。自分の理解できないものに対して、人はどのように対処すればいいのでしょうか。

科学や工学は現在、巨大になりすぎました。アリストテレスのような卓越した知性が一人でなんとかできる範囲を大幅に超えてしまっています。現代人は、自分に理解できない事であっても、他の誰かが理解していると主張する事を利用することなく活動できません。自分が理解できないままであっても、他人の主張に対して、その真偽を見分ける感覚を求められています。買ってくる食材が安全か、といった身近なことでも例外ではありません。

まずは理解しようとすることが第一歩だとは思いますが、全てが理解できるわけではありません。そんな現代を生きていくためにはどうしたらいいのか。ディジタル・ハイビジョンテレビと真空管アンプを見ながら、なんとなくそんなことを考えてしまいました。
[PR]
by antonin | 2005-06-26 23:29 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://antonin.exblog.jp/tb/3014466
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by かお at 2005-06-27 23:27 x
どもども。
あたま硬いので、最後まで読めませんでした。

先ほど、何年かぶりにエキチャに侵入。
23:30というのに、チャット人数389人!
すくねっ!
時代の移り変わりを実感しました。
Commented by antonin at 2005-06-29 00:21
どもども、おひさし。
チャットなんてしばらくログインもしてないなぁ。
人いないから。
じゃぁヤフーみたいに人がいれば行くのかというと、そうでもないような気もするけど。
チャットは完全に対話の世界だったから、話題がいろいろで面白かったけど、BLOGは基本的に独り言だから、こうして人に読んでもらえないようなことばかり書いてしまうんだなぁ。
それはそれで気楽だけど。
<< 五月雨式散財録 賞与のゆくえ >>


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル