安敦誌


つまらない話など
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雑感

不満の中でも、比較的救いがあるのは、不満の原因が外部にある場合ではないかと思う。他人や環境に対して、怒ったり恨んだり罵ったり呪ったりすれば、不満な状況が好転するかどうかは別として、一時の気は済むものである。

不満の中で、最も救いがあるのは、不満の原因を取り除き、好転させることが可能な場合であるのは間違いがないだろう。可能性がある、あるいは可能性があると信じられるということは、それだけで人間の心にとっては大きな救いになる。

ここに上げた二つの裏を返せば、救いのない不満がわかる。その二つが重なれば、いよいよ救いがない。不満の原因が自分自身の中にあり、そしてそれが好転する可能性を信じられないとなると、これは不満として最も悪質なものなのではないだろうか。


「信じる者は救われる」とキリスト教は説くらしい。これを聞くと、シニカルな日本人は「信じる者は掬われる」と揶揄する。最近の「振り込め詐欺」と呼ばれる演劇型の詐欺や、民放の情報娯楽番組などを見ると、確かにそうした揶揄にも一理ある気がしないでもない。

しかし、懐疑的にものを見るのは、横道から飛び出してくる車や歩行者を予想しながら自動車を運転するのに似て、ある種の安全をもたらしてくれるものではあるが、懐疑的に過ぎれば、恐ろしくて自動車を運転することすらできなくなってしまうのであり、そこには経験にある程度裏打ちされた、健全な楽観性が必要となる。そして、両者のバランスが重要であるが、どこに最適点があるかを知ることは難しいし、実際にそこに至ることはもっと難しい。そしてそれが自分の精神に関わることであれば、なお難しい。


信じる、ということは、人の動きを軽くする。そこに適度な懐疑的精神を盛り込み、重みを与えることがもちろん大事なのだけれども、基本は信じるところに置くべきだろうと思う。デカルトは、常識や知識に潜む矛盾を見つけてしまってから、全てを疑うことをした。そして、「考えている私がいる」ということだけは疑えないという結論にいたり、逆にそこから信じられる多くのものを導き出していったという。

自分を信じられない、自分が変わる可能性を信じられないというのは、やり場のない不満を生み出す悪循環の一地点ではあるのだけれど、やはり信じてみるところから始めなければ、石のように動かなくなってしまう。

また同時に、悪循環から抜け出せない状態、あるいは工学的に言えば"dead lock"という、鍵を閉じこんだ金庫のように、通常の手段では脱出不能の状態というのもありうる。システムがデッドロックに陥ると、そのシステム自身の機能では機能を回復することができなくなり、外部からリセットや再起動をしたり、修理などによって問題を解決したりする。

人間も面倒な造りではあるがひとつのシステムであって、人が集まってできる会社や国家もシステムの一種であると私は考えているので、人間も、会社も、再起不能に陥ったら出直したり外部に頼ったりということがあっていい、あるいはむしろ、そうするより他にないと思っている。

けれども、デッドロックの具合によってはその解除は簡単ではない場合がある。そうすると、一度の出直しや、外部に一度頼るだけでは問題が解決しない場合もある。その場合は、方法を変えて、何度でもやり直してみるしかない。


信じられない、というデッドロックに関してはなかなか難しい状況にあってもう12年ほどになるのだけれども、その間にデッドロックを解く努力を多くの人にしてもらってきた。ある人は善意であったり、ある人は義務感であったり、ある人は業務であったりしたが、そのこと自体には大変感謝している。人間社会というのは、面倒ではあるが、案外うまくできている。問題が解決していない、という事実は確かにあるのだけれども、全く改善していないかというとそうでもない。


私は幼い頃、日本的な漠然とした信仰心と、UFOと超能力と超常現象などを心から信じていた。そして成長して多くを学んだある日、後者を信じられなくなったと同時に、前者をも否定するようになった。また、科学的な方法というものに強い信を置くようになった。科学的方法という考え方は、素朴な方法では従来の信仰心と相容れない。私は軽さを失って、重たい人間になってしまった。

年齢のせいか、信仰と科学との両立に、少しずつ可能性を感じるようになったし、それは自分自身の可能性にも少しは反照している。信仰と科学の両立というと、新興宗教の怪しい団体を思い浮かべるけれども、これは19世紀以来の深刻な課題でもあって、現代人の一人ひとりが自覚するにせよしないにせよ、克服を試みている問題なのだろうと思う。

食べるだけで痩せると称した、捏造された実験データによる健康法紹介が批判されたり、高価な「何とか還元水」が批判されるのも、科学と信仰の間の問題、あるいは説く者と信じる者の間の問題なのであって、構造としてはマルティン・ルターが批判した種類の問題の焼き直しであるようにも見える。


信じることが、軽さだけでなく、強靭さや、しなやかさ、その他の多くの利点を持つことを私は知っている。自分を適度に信じることがその信じるべきことのひとつではあるけれども、信じるべきものは必ずしも内に向いているとは限らない。けれども私の場合、何を信じるべきかということについては、救いの少ない「科学的方法」しかない。けれども、少ないとは言っても救われている部分は確かにあって、もう少しこの方法について考えてみたい。

具体的には、古典的な宗教が持っていた戒律や説法を、今日の自然科学的な知見と矛盾しないように取捨選択して再構築する作業が必要なのだけれども、これは私にはどうにも荷が重い。特にこの国では、科学と宗教が融合すると、実に醜悪なものが多すぎ、こうしたことを考えたり発言したりすること自体が偏見にさらされるリスクを持つ。オウム真理教はその極限であるし、そこまでいかないような有象無象の団体にも事欠かない。

かつて宗教に含まれていながら科学で裏打ちが可能なものの例としては、カウンセリングなどがキリスト教の懺悔などから発して宗教から独立したものと考えることができるし、保険制度なども修道会組織の慣行に起源を持っているという。また、いくつかの宗教に見られる喜捨という行動の心理に、神や仏は必要不可欠な存在だろうか、あるいは超自然的なものを除いても成り立つだろうか。ヨーガなどはインドの宗教思想の体系に起源を持つが、体の動きを意識的に整えることから内分泌系に影響を与え、結果として心身を健康に保つという現象には、一定の科学的検証可能性がある。しかし、ヨーガ体操教室がオウム真理教の勧誘の手段として利用されていた過去も無視することができない。


ところで、今の日本で宗教といえば新興宗教が連想される現状は、日本の近代史に原因があるのではないかと思う。

大政奉還がなされ、天皇を再び国家の元首に据え、帝国国家を建設しようとするとき、その国家の設計者はミカドのシャーマン的性質と、中華帝国の「天子」という概念を天皇に融合し、江戸後期以降勃興した歴史学である国学の成果を援用して、近代西洋的議会制立憲君主国家という構造をよく機能させるために、国家神道という「魂」を創造した。

この過程で、日本で独自に変質し、従来神道と深く和合していた日本固有の仏教信仰が神道から分離された。神社にある仏教的偶像や図像は廃棄され、仏寺の持つ多神教的信仰は神道から分離された。国内の神社をよりどころとした土着の信仰は、明治天皇を頂点とする国家神道に統合され、全国の神社は新たな国家組織として再編された。

それから百年を経ないうちに、世界大戦での敗戦を受けて、日本の国家神道は再び解体された。九州にJesus会修道士が到達し布教を行ってから300年、信教を禁じられてもなお信心を失わなかった人々が居たとおり、禁じられてこそいないが長く忌避はされてきた国家神道を奉ずる人々は現在もいるのだけれども、その力はあまり強くない。

結果として、仏僧は葬儀に、神主は地鎮祭に、神父は結婚式に、それぞれまじないの儀式を執り行う職人として呼ばれるだけの存在となった。彼らが何を信じているかよりも、どのような姿をしているかが重んじられる。もちろんそれ以上の強い信仰心を持つ人々もあるが、現在はそれぞれが小さな集団を作っており、国家的に統括されたり管理されるものではなくなった。一般の人々と宗教との接点は、どんどん小さくなっている。

国家神道の専横を私は好まないが、ある国を代表する、洗練されていて温和で、かつ政権から独立した宗教団体がないというのは、得てして悪徳の横行を生むような気がしてならない。21世紀の日本人は、一体何を信じれば、心穏やかに育ち、働き、そして死ぬことができるのだろうか。


今読んでいる本に、戦後日本に残った宗教は拝金教だという表現がある。それも、ストイックなまでの拝金教なのだという。確かに、給料をもらっているからには誠心誠意頑張るという人は多い。それが給与の額に関係していなければ単にプロ意識だが、給与こそが仕事の質を示すバロメーターであると信じていれば、ストイックな拝金教信者なのだろう。

「金儲けは悪いことですか?」と言った人がいるが、当然良い金儲けもあれば悪い金儲けもある。あの人の場合は、良いと思う人より悪いと思う人のほうが多かったのではないだろうか。ものごとが善いか悪いかなどという問題は所詮、人を良い気分にさせるか悪い気分にさせるかということでしかないと思っている。


21世紀の日本人は、悪い気分になっている人が多いように思う。老いも若きも生きることに疲れているように見える。そして他人の批判に忙しい。拝金教でも国家神道でも何でも、人を良い気分にするのであればそれはそれで善いと思う。ところが、そうはなっていない。21世紀の日本人は、何を信じたらいいだろうか。

明治と昭和に、日本は二度の断絶を受けた。宗教は変わり、言語すら変わった。今の日本で、自然科学を志向しない学者に何か重要な仕事があるとすれば、それはそうした「信ずべき何か」を再構築するか、少なくともそのための材料を与えることではないかと思う。あるいは学者ではなくて、やはり自己に厳しい求道者にしかそうした仕事はできないのかもしれない。そんな聖人の登場を待つしかないのだろうか。

拝金教なら拝金教で、ルパート・マードックやビル・ゲイツではなく、松下幸之助や本田宗一郎のような宗祖がこの国にはいるから、いっそのこと彼らの言動を結集してひとつの宗教に仕立て上げてはどうだろうか。一部のいかがわしい在来宗教派生勢力よりはよほど健全に見えるのは、私も拝金教の信者の一人だからだろうか。

住友財閥の祖をなした住友家の家訓に、こういうものがあるという。
「我営業ハ確実ヲ旨トシ、時勢ノ変遷、理財ノ得失ヲ計リテ 之ヲ興廃シ、苟クモ浮利ニ趨リ軽進ス可ラザル事」

参考:「住友グループ広報委員会:事業精神

ユダヤ財閥の話でもそうだが、商いの道理というのは科学と人情をつなぐ良いヒントになりそうである。


何を信じたらよいのか。強靭に、しなやかに、軽やかに生きるためにはどうしたらいいのか。いろいろと人に助けてもらって感謝してはいるのだが、結局のところ自分で考えたり試してみたりするしかない部分というのがどうにも残っていて、人生を折り返してもまだ答えは見えない。

--------

とまあ、また愚痴なのでありましたが、最近良く体を動かすようになりました。目覚めるたびに筋肉が痛みます。思ったほどネットから断絶されなかった今回の環境変化期間でありましたが、間もなく元の環境に戻る見込みです。いくらかは生活が改善するよう努力します。I try to do my best. たいしたbestじゃなさそうではありますが。

話が飛びますが、簡易アクセス解析で最近の検索キーワードを見ると、n進法関連が増えているので、有利進法の研究を近いうちに書き上げたいと思います。昨年末の走り書きしか残っていなくて、すっかり忘れてしまっているんですけどね。面白い結論になったのでとりあえず形には残したいと思います。

Antonín Dvořák作品目録ページ作成とか、積ん読制覇とか、Linuxで無線LANとか、いろいろとプライベートでやってみたい課題は山積みなのですが、とりあえず今はコドモと遊んでいます。今だけですしね、コドモなのは。
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by antonin | 2007-03-31 00:32 | Trackback | Comments(6)
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Commented by oki_mo at 2007-03-31 20:36
ブログ移転しました~♪
よろしくね(^-^)
http://blogs.yahoo.co.jp/oki3_mo
Commented by antonin at 2007-04-03 00:13
>おきちゅー

Yahoo! BLOGかぁ・・・
あそこのシステム苦手なんだよなぁ・・・。
頑張って見に行きます。
Commented by おき at 2007-04-03 22:32 x
苦手なものを克服するのが、今の私の課題なの♪・・・って違うって(笑)
Commented by antonin at 2007-04-04 05:54
いやね、あそこはYahoo!のアカウントからアバター、ブログまでいろんなものを用意しないとコメントに名前やリンクも有効にできない(こともないんだけど非常に目立たない)から、コメント付ける側として苦手なんだよね。

でも、その分「足跡」が残ったりしてSNSっぽいから、うまく使えばコミュニケーションは増える傾向にあるみたいだね。

安敦誌は、英文コメントももらったように、「検索してたら引っかかっちゃった」お客さんをメインターゲットにしているから、コミュニケーションは作りづらい分、結構googleとかに拾ってもらってるから便利なんだよね。

要は使い方しだい、ってことで。RSSリーダーが安定して使える環境に戻ったらまた読みますのでどうぞよろしく。(今のところ他人様のblog読んでるのはmixiからリンクしているところだけなのです)
Commented by oki at 2007-04-04 23:31 x
なるほどね~。確かに(苦笑)
やふーゆーざーは結構多いから、それなりに大丈夫かなって思ったけど、そーなると面倒は面倒だね(苦笑)
Commented by antonin at 2007-04-05 07:03
まぁRSSで読みにいくから大丈夫さぁ。
やってみむべし。
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