安敦誌


つまらない話など
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以前の記事

障害者って何者だ

日頃の「手助け」に感謝(?) (ゴミ箱の中の雑記帳)

友人のblogから、上の記事を読んでいろいろと思ったのだけれども、長くなったので久しぶりに正統派のトラックバックを打つことにした。

上の記事では、次のニュースを参照している。

障害者の手助け経験、7割が「ある」 世論調査-政治ものニュース:イザ!

なんというか、「障害者」とか、「xxxの不自由な方」ってなんだろうなぁ、と思う。

足のない人もいるし、目の見えない人もいるし、耳の聞こえない人もいるし、幻聴が聞こえる人もいるし、人並みはずれて頭の悪い人もいるし、人並みはずれて顔の不細工な人もいる。みんな生きていく上での障害があるから、障害者と呼ぶのだろう。不自由があるから、不自由な人というのだろう。国が障害者認定をして手帳を交付する障害者もあるが、ブスの美容形成外科手術には健康保険すら適用されない。

私なんかは仕事が不自由な人だし、妻は一日中吐き気が続く人や腹が異常にでかい人などに2回ほどなった。どちらも障害者には認定されないが、当人はつらくて、しかも見た目にはそうは見えない場合だってある。金銭的社会扶助はあるが、障害者とは呼ばれない。

歳をとって体が不自由になれば介護認定というのが待っているが、一人で買い物に出られる程度に自由であれば、筋力が落ちたり節々が痛んだり神経痛がしたりしても、それは老いや病気であって障害とは扱われないが、当人は何かとつらいだろう。

逆に、当人はぜんぜんつらくないのに、見た目がとても「かわいそう」に見えてしまう人ってのもいる。当人は手助けを望んでいないのだが、助けるのがマナーであるという「常識」が流布していて、「今こそ助けるべきときだ」と人々に感じさせるオーラを放っている人がいる。車椅子や白い杖はそうした効果を増倍させる。

そして、関わりあいたくないと思わせるオーラを放つ「不自由な人」もいる。ひとりでブツブツ言い続けている人。パチンパチンと大きな音を立てたり聞きなれない声を出しながら手話で談笑している人。なんだか疲れちゃって、電車の長いすで横になって熟睡している人。妊娠初期の女性は、見た目には全く分からないが非常につらいものだという。


「障害者」ってカテゴリーってのは、つまりはなんなんだろう。よくわからなくなってきた。


みな、なにかしらが不自由で、何かしらの障害を持っている人なのに、他人の印象はさまざまだし、障害を持っている人だっていろいろだ。電車の座席の前に老人が現れたとき、その人が席を譲られて笑顔で感謝してくれる人なのか、一応遠慮してみるが本当は座りたい人なのか、年寄り扱いされたと感じて譲られた席を無視する人なのか、その人を見ただけでは分からない。

要するに、他人に気遣いができる紳士淑女は麗しいが、ときに小さな親切は大きなお世話であり、その厳密な区別は人間の手に余る業であるという、人類の普遍的問題の切れ端にも見えてきた。

少し問題を絞れば、重要なのは相手を知ることなのだが、一般に「障害者」なるものに接する機会は少ない。比率として少ない種類の障害もあるだろうし、世間から隔絶されているために絶対数に比して社会接触が少なくなる障害もあるだろう。


日本において日本語を話したり読み書きしたりできないことは大きな障害になるが、英語話者を障害者とか日本語の不自由な方とは言わない。言わないけれども、ガイジンと呼んで「普通の」人間と区別している。「普通の人」が英語話者に接する機会は少ないが、絶対数は多いので彼らと接する機会は皆無ではない。英語話者にどう接していいかは分からないが、基本的なコミュニケーションだけは取りたいので、知識として英語を学んだり、英語話者に金を払って会話を習ったりする。

中国語や朝鮮語、場合によってはタガログ語や、ポルトガル語などしか解さない人も日本にはいるわけだが、その人たち全てへの対応を普通の人が学ぶことは難しい。結局、ガイジンは面倒という結論に落ち着いてしまう人も出てくる。視覚や聴覚の障害で点字や手話を要求する人も、普通の人から見た性質としては似ている。

フィジカルやメンタルに障害のある人も同様で、一口に障害者といってもそのサブカテゴリーは無数にあり、総数はそれなりに多くても、サブカテゴリー単位では普通の人が一生お目にかかれないかもしれない障害だってある。それに加えて各個人の性格的な個性まであるのだから、完全な親切を施す術は人間の手に余る。しかるに、障害者は面倒、という結論になる人もいる。

しかしながら、親切は美徳であって、困っている人は助けるべきだという信念を持つ人も多い。ただ、人が困っているかどうか、あるいはどう助けて欲しいのかを見抜くのは、別に相手が障害者でなくても難しい。特に日本人は本音は別にして遠慮したりするから余計に難しい。勝手に親切だと思っていきなり行動してしまうのは、やはりバクチ打ちだろうと思うが、特に若い人の親切から出る行動に対して不愉快な反応をするのも、次の親切の芽を摘み取ってしまうという社会的損失を生み出してしまうように思う。


完全な解決は人の手に余るが、次善の解決策はあるだろうか。

ひとつは、多少なりとも不自由そうな人を見かけたら、とりあえず"May I help you ?"に相当する干渉から始めてみたらどうだろうか。なるべく多くの人のマナーとして。また、干渉される側にも、なるべく干渉を厭わず、遠慮なく正直に希望を伝えるということをマナーとして定めてみてはどうだろうか。こういう場合には"Honesty is the best policy"だと思う。なんだかこういう表現が日本語でしにくいのはむずがゆい。

本来、日本ではそうした問いかけの必要もないほど、近隣者同士が馴れ合う社会だった。だから互いの性格も知れているし、親切もおせっかいも差別も数え切れないほど存在していた。多少のおせっかいにも、のちのち親切を受けるためにさらりと感謝の言葉を返す建前も育った。しかし今はそういう社会ではないし、昔の姿に戻るという道もなくはないが、仮にあったとしてもずいぶんと先の話になりそうだ。当座の新しいルールと常識が必要となるだろう。


障害者に優しい社会、という概念はもはや古いらしい。ユニバーサルデザインという考え方が出てきてからは、誰にも優しい社会を目指すことになったらしい。五体不満足の人、代理出産で遺伝的親の籍に入れなかった人、脳の問題から言語能力のない人、精鋭を指揮して睡眠もほとんど取らず小国の国家予算並みの年収を得る人、そして普通の人も。彼ら全てに優しい社会。そんなものありえないだろう、とは思うのだけれども、理想から遠く離れた状態ではひとつの指針として正しいように思える。

私は最近、共産主義とか社会主義とかに凝っているのだけれども、これらはブルジョワジーなる資産階級が労働者を家畜のように扱っていた時代には、理想的行動目標として正しかったのではないかと思うからだ。ただし、共産政権が樹立し、そのリーダーが資産家を殲滅させて全体主義を敷いてしまった時代には、逆に資本主義が目標として機能をしはじめた。資産家と労働者は生物学的な共生に似た関係にあるのだから、どちらかが死ねば社会が死ぬ。少なくとも会社が死ぬ。今、日本ではそのバランスがまた狂い始めているような気がしている。


政治の話はどうでもいいのだけれども、隣にいるのに全然知らない人間との付き合いという、非常に難しい対人技術が現代の都市生活者には求められている。都市といっても別に東京だけの話ではなく、もはや日本に暮らす人々のほとんどは、人口密度のいかんに関わらず「都市生活」を送っていると考えていいだろう。地方であっても、すれ違う自動車の運転手がすべて顔見知りという生活を送っている人はいないだろう。

正しい日本語、正しいマナー、正しい常識、正しい学識、正しい思想。そうしたものがしきりにもてはやされるのも、全く知らない人に囲まれた日常生活の中での、他人との摩擦に対する不安感からくる、回帰行動の一種なのではないかと思うようになった。


ところで、ネット界隈には元気な障害者が多い。けれども、ネットに上がらない世界には、だんだんと元気をなくしている障害者も多い。養老先生の言ったように、現代の都市は脳の作り出した世界であって、特にネットはその粋である。昔は頭が少々バカでも五体が満足であれば農耕に駆り出したりできて役立ったが、今はその逆である。力仕事はほとんど機械的エネルギーが肩代わりしてくれるので、人間に残された役割は脳を働かせて何らかの情報を処理するばかりになりつつある。

ワット時やジュールといった単位の「仕事」を人間自らが処理していた時代は終わり、ビット単位の仕事に変わりつつある。月に何ビットの統計的情報量を社会に出力し、受容されたかで人間の価値が決まるようになりつつある。逆に肉体は運動不足になり、ジムに通って機械相手にジュール単位のエネルギーを無駄に消費して汗を流さないと、生物的な健康を保てないようなありさまである。

現代では、五体は少々不自由でも、頭脳が優れていれば水準以上の生活が可能になりつつある。逆に、知的障害者の立場はますます失われている。映画「マトリックス」では地球を支配した機械が人間をエネルギー源として利用し、人間の体を生かすために脳には仮想情報環境「マトリックス」を機械が与えているという設定だった。しかし決定論的なアルゴリズムで動く機械にとって、人間の体のうちで利用価値があるのは健康な脳ぐらいだろう。主人公の「ネオ」が仮想世界でソフトウェア技術者として働いていた意味のほうが深いように思う。


障害者って何者だ。社会的弱者って何者だ。普通の人って何者だ。定義に深入りすれば、案外そこには難しい問題が潜んでいるように思えた。


内閣府のアンケートに話を戻すと、アッサ/Max君は違和感を覚えているようだが、もし「障害者」なるものがあるならば、そうした人と気軽に話すというのは「ノーマライゼーション」なるものにとって非常に有効であると私は思っている。別に話し相手がいなくてかわいそうだから茶飲み友達になってあげるというわけではなく、そうした障害を持つ友人を持つことによって、自分と違う立場にある人間の考え方を知ることができるからであって、そうした会話などによる経験は、似たような障害を持った人々への接触においても、きっと良い方向に向かうと思うからだ。

つまり、「普通の人」はたいてい「障害者」について無知なのだから、たとえ気軽な会話であっても重要な啓蒙になるのだ。北京語や朝鮮語の機械翻訳で気軽に東アジアの人々の文章を読めるならば、彼らと同じ言語や文化を持つ人々との接触においても役立つだろう。英語話者と会話したり一緒に遊んだりした経験があれば、別の人に英語で列車の乗り方を尋ねられたとき、いくらか手助けがしやすくなりはしないか。

変な話だが、東京都内の大学に通っていた頃に岐阜出身の友人がいて、入学時に関東出身のクラスメイトたちから「岐阜って琵琶湖があるところ?」などと言われまくって気を落としていた。クラスメイトたちにとって、その学生と気軽に話し、一緒に遊ぶことは、岐阜県民の関東における将来の地位向上に役立てられるかもしれないのだ。

「気軽な会話」や「一緒に遊んだ」が「手助け」のカテゴリーに入るのは確かに変だが、いずれ手助けの役に立つ可能性はあるし、建前が入っているかもしれないにしても「困ったときはお互い様だから」が手助けをした理由のトップに立っているのは立派な回答だろうと思う。視覚障害者の友人に肘をつかませる誘導法を教えてもらい、実際に誘導してみたのも、若かりし私にとっては遊びの一種だったと言ったら怒られるだろうか。


今回の調査のタイトルが「障害者に関する世論調査」となっているのも、あるいは過去の調査との整合性から止むを得ないのかもしれない。役所の仕事というのはいろいろな法的な縛りがあって大変なものに違いないが、理想はきっと高い人たちの仕事だと信じたい。
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by antonin | 2007-04-11 20:34 | Trackback | Comments(4)
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Commented by アッサ at 2007-04-11 22:19 x
うん、定義を考え始めると、障害者が何者なのか、そして健常者が何者なのか、そもそも世の中に健常者っているのか、という疑問がどんどん大きくなります。
僕は書類上障害者で、それは間違いないことだけど、書類上僕は重度障害者ということになっていて、法律的に間違いはないけど、これに違和感を感じる人は少なくないのではないかと思う。
世の中、僕と同じく重度障害者とされている人で、僕よりもはるかに大変な状況にいる人も少なくないわけで…。

で、話は変わって「気軽な会話」のこと。
確かに「気軽な会話」が結果として「手助け」につながるというのはその通りだと思う。
僕のブログにも書いたように、ノーマライゼーションの実現度合いを測る上では、「会話」の経験者はそれなりに使えると思う。
でもやっぱり同じ設問の選択肢として並んでいるのは変だと思う。
Commented by antonin at 2007-04-14 18:34
>アッサ

コメントありがとう。総合的に同意です。
人間誰しも、どこかしら常ならぬものを持っているわけで、完全な健常者なんていないと言うのが真理なんだろうけど、今の行政にそれを期待するには、法律が一部でも明治の文語体で書かれているうちは無理だろうね。

統計には細部を都合よく化粧するマジックがあって、同じ設問の選択肢にアレが並んでいるのもそうしたマジックの一種なんだろうという点でも同意。そこまでしないと予算を確保できない役所力学など、いろいろとあるんだろうな。
Commented by アッサ at 2007-04-16 14:43 x
> そこまでしないと予算を確保できない役所力学など、いろいろとあるんだろうな。


確かにそうなんだろうね。
でもさ、そこまでしてもあの調査をやる価値があると信じている人がいたとすると、それはそれで尊いことだと思う。
で、よく分からないのは、そうしてだまされ (たふりをし) て予算を割り当ててる、つまり予算を出す側の人たちは、誰に対する義理立てをしているのだろう。
お金の出所?
だとすると納税者なんだけど、納税者はそんな義理立てを望んでるのかなあ?
力学なんだと思うけど、誰にとって何が必要で、ということが考えられている力学であれば仕方がないと思うけど、そうでないなら意味ないよね。

ところで、なぜか TBが飛んできていないなり。
Commented by antonin at 2007-04-18 20:27
まぁ、納税者というか、公明党とか共産党とか、そこらへんからの生々しい圧力の結果かと思われます。「納税」なんてほとんど気にしてないだろうね。

ところで、TB飛んでないなりか。もういっぺん試してみるなり。
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