安敦誌


つまらない話など
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個性の話

「五体不満足」の乙武さんが、僕のは「特徴」とは言ったが、皆が言うような「個性」だとは言っていないというような旨のことを言っていた。

確かに「特徴」といえば顔つきとか外見的なものを想像させるが、「個性」といってしまえば性格といった内面的なものを想像させる。体の障害は、その人の外見の特徴の延長線上にあるが、たとえば乙武さんは、性格的にはその身体的特徴とはかなり関係なく、普通に早稲田卒の文人を想像させる冴えた個性の持ち主だ。

しかし、精神に環境的な要因と器質的な、つまり、脳みそという器のつくりに由来する要因があるとするなら、両者をひっくるめたものは個性であるけれども、器に由来するものも無視できないところであって、実はそれは身体的な特徴と同じものなんじゃないかと、子供の性格を見るようになってから深く納得するようになった。

同じ両親から生まれて、まずまず似たような顔をしている子供たちも、行動や反応が全く違う。もちろん、一人目の子供と二人目の子供では親の育児経験も違うわけで、特に我が家の場合では育児環境もいくら変わっているので、環境要因が全く同じというわけにはいかないけれども、それでもウチのコドモたちの性格はあまりに違っていて、それは教育などによる環境要因だとはどうしても考えられないのだった。

上の子は、はっきり言って素直でない。1歳ごろから保育園に預けられ、お遊戯や手遊び歌をたくさん教えてもらったが、先生の目の前でしか踊らない。音楽を流し、親が楽しみに見ていても、決して踊らない。そして言葉を覚えるようになると、親の質問や叱責に対して、実にもっともらしい理屈を言うのだった。往々にしてそれは自己弁護の嘘だったりするのだけれど、大人の目から見ても論理が通っていて、一見して矛盾がない。あとから物的証拠が出てきて破られたりすることはあったけれども。そこで我々両親は、ムスメを「言い訳の達人」と呼んでいた。

下の子は、かなり素直である。やはり1歳から保育園に預けられたが、姉があまり興味を示さなかったテレビ番組に釘付けになり、音楽に合わせて踊っている。上の子ではあり得なかった現象で、よくテレビ番組に出演してお遊戯をしている1歳くらいの子供たちを見ていたが、あれは特殊な才能の持ち主を選別しているのだと思っていた。まあ選別はしているのだろうが、ウチの下の子にもある程度の才能であって、別に特殊なものではないのだということをその時点で知った。確かにお遊戯会などを見ても、上手に踊っている子と、つまらなそうに立っている子の割合は半々くらいであった。ムスコは別に親が促さなくても、テレビを見て一人で勝手にお遊戯をやっているから不思議なものだと思った。

そういったわけで、人間の性格には、もちろん教育によるところも大きいのだけれど、それ以前の基礎基盤には、どうにも避けようのない器質的な特徴があり、それがいろんな人物や出来事と出会うことで、個性へと成長していくのだという確信を得た。裏を返すと、努力は確かにいろいろなことを可能にするし、重要な徳ではあるのだけれど、そのやり方というのは、やはり人の性格に潜む「特徴」を捉え、ふさわしいものを選ばなければ、結局成果とはならないのだと思った。

私が「やりたいことをやる」というのは、そうした育児の経験にも助けられて出てきた結論だった。確かに本田宗一郎さんの書いた「やりたいことをやれ」という本は私の聖典になったが、それは言ってみれば最後の一押しであって、もっと言ってしまえば、いわゆる社会の成功者である本田さんにあって、私と同じような器質的特徴があったのを読んで安心したということに過ぎないのかもしれない。自分の好きなことに向かって突き進んで幸せな人生を送った人もいた、ただそれを知っただけで十分だったのかもしれない。

同時に松下幸之助さんの本なども読んだが、こちらは、どうやら器質的に違う才能の持ち主らしい。人の能力を見抜き、その能力を極限まで使うなどということは、これもどうやら天賦の才であって、私がこれを目指しても、テクニックとして真似をするのが精々で、必ずアラが出るに違いない。私としては、則を超えさえしなければ好きなことに邁進する本田さん方式が器質的に合っているような気がしただけだ。ただし、そこで、違う才能を持った他人を尊敬し、信頼するという生き方の哲学は、ありがたく頂いておきたい。

子供の話に戻るけれども、最近早期教育がどうとうるさいが、早期教育で天才的大人になる子供などやはり一握りなのであって、そんなことよりも、自分の子供のどこが自分と似ていて、どこが自分と違うかなどをよく観察して見抜き、あとは本人に合ったものを適宜提供していくことで十分なのだと思った。学校に上がる前の子供に、なぜ他の子と同じことができないのだと叱っても、気持ちを萎縮させるだけで、早期教育どころか早期虐待にしかならないだろう。どんな内容が子供の器に合うのか見極めるというだけでいいのではないだろうか。その視点で見れば、子供の自由に遊ばせれば、たいていのことは分かるような気がする。

ここへ来て我を省みると、好きなことはとことんやるし、嫌いなことはとことんやらない。しかもその好きなことはあっちこっちへと散っているときている。なかなか御しがたい性格ではあるけれども、とりあえず上機嫌で何かをやって、気が済んだら次へ進むのが性分に合っているし、周りにも迷惑を掛けずにすむような気がしている。そういう意味で、今までは迷惑を掛け続けてきた。これからは、得手に帆を挙げていきたい。風向きが変わったら、それはそのときの話である。私は無宗教、あるいは科学教徒だが、「これも何かの縁」という言葉は案外に好きだったりする。未来には無限の可能性があるが、実際に取りうる選択は常にたった一つしかないのだから。

この性格で、多くの人に迷惑を掛けてきたが、深く反省しているかといえば、そうでもなくて、浅く反省している。次はもっとましなやり方をしようとは思うが、あれはあれで自分の限界であって、仕方のない部分が大勢を占めていたと思っている。人間的に立派な人は身の回りにたくさんいるが、そうした人が哲学書や科学書に通ずる透徹した論理を持っているかというと必ずしもそうではなくて、私にもやはりないのだけれど、幾分ましだと感じることは多い。そうした部分で人様のお役に立てればと思う。

教育現場で「個性の尊重」という時代があったらしいが、性格や性分といった動物的なところが個々別々なのであって、個性はやはり教育をはじめとして、社会や自然といった環境と交わり染まることによって初めて生じるものなのだと思う。動物的で、器質的で、変えるのが難しい、あるいは、抑圧することくらいしかできない部分には鷹揚に接し、人間的で、後天的にプログラミングしていくことで生まれる「個性」は、少なくとも15歳くらいまでは未定のものとみなして積極的に育てたほうがいいような気がしている。このあたり、脳科学の進歩が待たれる。

ウチのムスメは私に似た性格をしている。ウチのムスコはヨメに似た性格をしている。けれども、家族4人、やはり全員違う性格をしている。これは、たぶん遺伝子の仕業だ。そんなことが、実感で分かるというだけでも子育ては面白い。
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by antonin | 2007-06-11 06:02 | Trackback | Comments(0)
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