安敦誌


つまらない話など
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いろは歌考

いろはにほへとちにぬるを
わかよたれそつねならむ
うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみしゑひもせす

子供の頃、この「いろは47文字」のような呪文を昔の日本人はよく覚えたものだと感心していた。感心していたというよりもむしろ、「あいうえお かきくけこ」のように整然とシステマティックに作られた音順で覚えられなかった昔は効率の悪い時代だったのだなぁなどと思っていた。

それが決して非効率などではないと知ったのは、高等学校に上がってからだった。いろは歌は単なる仮名の羅列ではなく、言葉としてそれなりに意味の通る歌であると授業で習ったからだ。
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見し酔ひもせず

全体を通すと、意味がわかったようなわからないような、哲学的ですらある響きだけれども、局所的には日本語としてしっかりと意味の通る節になっている。こういうのを統計の世界ではマルコフ過程と呼ぶ。

単純に47音の並びが何通りあるかというと、これは数学で言う順列という計算になり、47!(47の階乗)という式で表される。これをざっと計算すると2.5862x1059という数字になる。これを漢数字で表すと、二百五十八阿僧祇(にひゃくごじゅうはちあそうぎ)というような数字になる。1052である恒河沙(ごうがしゃ)から先は位取りのルールが億単位に変わるという説もあるので定かではないが、全ての単位が万単位で繰り上がるとすると、このような呼び方になる。

この阿僧祇の世界の順列から唯一の歌を選んだ人は人間ではないようにも思えるが、いろは歌が歌であるというのは奇跡であると同時にひとつの限定でもあるので、可能性の空間はもう少し狭まる。「いろは」というならびは「色は」という大和ことばと解釈できるけれども、「はろい」は大和ことばとは考えにくい。ありえないとは言い切れないにせよ、より不自然な並びである。こうして不自然な並びを除いて組み合わせていくとなると、順列の数字はずっと小さくなる。こうした制限のある文字の並び、面倒な言い方をすれば事象の系列をマルコフ過程という。

しかし、47の仮名を並べ、ひとつの重複もないという組み合わせを選び出すのはやはり困難な作業である。私は大和ことばの詳細を知らないので具体的な数字を求めることができないが、なんにせよ膨大な組み合わせがありうるだろう。そのいろは歌から七音ずつ末尾の仮名を取って並べると「とかなくてしす」となり、濁音を適当に加えれば「罪(とが)無くて死す」と読めるという。

そこから不遇に遭った菅原道真の作であるという説もあるが、いろは歌の作者がそこまで考えていたかどうかは怪しい。怪しいのではあるけれども、仮にいろは歌が千年にわたり詠み伝えられたとすれば、「百年に一人の逸材」というような天才が十人は生まれては死んでいく年月であるともいえる。

そうした逸材が、ある朝に考えてその晩に書き記したのかもしれないし、あるいは執念深く一生を捧げて撰択した歌であるのかもしれない。ただ単なる全音アナグラム以上の意味があったとしても、単純に否定することはできない。それが道真公の怨念であったかどうかは別として。

太平洋戦争後の日本語では「ゐ」と「ゑ」の仮名は絶えてしまったし、"m"と読む「む」やハ行の活用形としての「へ」なども使われなくなってしまったので、それまでの日本人と同じ感覚でいろは歌を味わうことはできないのだけれども、こうした歌で文字を覚えた時代の日本人はなかなか風雅であったと思う。調べると他にもこういったものがあるという。

手習い歌 - Wikipedia

昔は良かったという気はさらさら無いのだけれども、教育にもこういう遊び心はあってもいいように思う。
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by antonin | 2007-08-25 00:46 | Trackback | Comments(4)
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Commented by まこ at 2007-08-29 20:52 x
原文のみが遺されていて、その詳細は定かではない。
というのが古典には数多い。
そこから時を越えて、その成立背景に、作者の人柄に思いを馳せる。

文字がデジタル情報としてしっかり管理されている今、千年後にそんなロマンはあるのかな??
Commented by antonin at 2007-08-30 00:27
>まこさま

>文字がデジタル情報としてしっかり管理されている今、
>千年後にそんなロマンはあるのかな??

ええ、あると思いますよ。

もしこのペースで文明が進歩しているとしたら、そもそも物質的に情報を蓄積していたというのが信じられないと思います。手書き文字というものもきっとミステリアスな魅力を放ち、なかなかロマンを掻き立てられると思います。

逆に文明が崩壊していたら、CDやらDVDやらを見て、そこに音楽や映画が収められているなど想像もできないでしょう。首尾よく顕微鏡を使える人が残っていたとすると、そのキラキラの原因が微細なビット情報であることを「発見」するかもしれません。

もし今とあまり水準が変わらないとしたら、整理しきれない膨大な情報だけが残っていて、暇な人だけが玉石混淆の古典情報の海をさまよって、きっと面白いネタを見つけては喜ぶのだと思います。
Commented by まこ at 2007-08-31 23:43 x
いずれにしても、千年前も今も、そして千年後も、人の物思いの内容に変わりはないのでしょうね。

1年生の古典の授業のはじめには、いろはうたから教えます♪
Commented by antonin at 2007-09-01 05:07
そうそう。
時代や人種を越えて、人間のタイプというのはいくつも無いように思うのです。
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