安敦誌


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「ルール」と「マナー」と「思いやり」、それから哲学

最近、世間で「マナー」という言葉をよく目にする。安敦誌でも以前にマナーについて書いたことがある。

安敦誌 : マナーとマンネリ

ただ、マナーという言葉が"manner"から借りた外来語であり、日本語に訳すと「作法」となることを考えると、今日本語で言われている「マナー」という言葉が、かなり拡大解釈されたものになっていることがわかる。世の中の人々はとかくマナーにうるさくなっているが、それがお作法にうるさくなっているのかというと、そうでもなく、いわゆる「空気読め」という物言いにも通じる内容になっていることに気付く。

本来のマナーというのはお作法であり、例えば「テーブル・マナー」などというものが本来的な意味でのマナーに相当するように思う。ナイフとフォークが三列でテーブルに並べられていたとき、外側から使っていくというのは決まりごとであり、マナーである。別に守らなくても重大な不都合はないが、守ったほうが順調に事は運ぶし、しかるべき教養のある人と見られるということにもなる。割り箸は横に向けて割れというのは、武家の娘が学ぶ作法を指導する小笠原流かどこかでは確かに定められたマナーなのだと思う。

一方、赤信号では止まり、青信号になったら進むというのは、マナーではなくて「ルール」である。社会が正常かつ円滑に進むためには、原則的に守らなくてはいけない決まりごとがルールである。最近ではこのルールの範疇に入ることがらも、一部でマナーと呼ばれることがあるように思う。喫煙が禁止されている場所ではタバコを吸わないというのはルールだから、マナーよりも一段強い意味がある。

もうひとつ、最近では本来「思いやり」に属する範囲のことがらまでも、「マナー」という言葉で語られる機会が増えているような気がする。周りに誰もいなくても守ることが義務付けられているルールでもなく、人との関わりの中である程度厳密に定められているお作法でもないが、周りの人の心情を考えたときの配慮から生まれるのが、思いやりのある行動である。これはマナーから比べると一段ゆるい意味がある。

周囲への配慮というのは、一般にルール化されていないし、形式的なマナーとしても定められていないが、周囲の人々の心情を察知して臨機応変に対応することで、社会はより円滑に動く。ただ、やはりそこには一定の決め事は存在しないのであって、それをマナーと呼ぶのは無理があるように思う。

ただ、思いやりにもやはり一定の「型」はあるのであって、それはある人の中で、あるいはある集団の中で、「不文律」というマナーに仕立てられていることが多い。こうした、自分が所属する集団の中での不文律をマナーと呼ぶ機会が増えているのだと思う。

電車の中での携帯電話の使用はどのようにすべきかということについては、当初はルールもマナーもなく、個人的な配慮に全て依存していたのだけれども、それではトラブルが多発するということになった。そこで鉄道各社が「列車内ではマナーモードに設定し通話はしない、優先席付近では心臓ペースメーカー等の誤動作に配慮し、電源を切る」という決め事を策定するに至った。これは絶対的なルールとまでは言えず、個人の配慮に依存する思いやりでもなく、明らかに「マナー」と言える。

日本たばこ(JT)も似たように喫煙マナーを策定、普及させようとしているように見える。本来、タバコの吸殻を路上に投げ捨ててゴミにしてはいけないというのは罰則はないものの法に定められたルールの水準だし、歩きタバコで周囲の人に煙を吸わせたりしないというのは周囲への思いやりの範疇に入ることがらなのだけれども、タバコの煙が喫煙者以外にとってどれほど不愉快なものなのかということがなかなか喫煙者にはわからないということもあって、トラブルは絶えなかった。

その結果として、路上喫煙禁止条例だとか、健康増進法による屋内公共施設での喫煙所を除く禁煙などの、ルール強化が進められてきた。健康増進というのは建前であって、やはり場所をわきまえずに喫煙する一部の喫煙者が文字通りにも比喩的にも煙たがられた結果だろうと思う。ただの迷惑では法律にできないので、受動喫煙による健康被害防止ということで健康増進法ということになった。

ただ、こうしてルールが強化されてがんじがらめになると、JTとして売り上げに響くということもあるが、それ以前に嗜好品としてのタバコを嗜むという文化が壊滅的な影響を受けることになる。タバコを単なる依存性薬物としてではなく、文化的な嗜好品に高めたいと思うなら、やはりそこには社会と共存するための喫煙マナーの確立が必要になる。現在は「日本喫煙者協会」というような権威ある喫煙者団体などは存在しないので、代わりにJTがその旗振り役を務めているのだと思う。

喫煙マナーは、あくまで自主的に守るべきマナーであるべきであって、またそれは誰でも守れるように形式化され、「お作法」となり、広く知られる必要がある。そうしたマナーが存在しなければ、社会でトラブルを引き起こし、結果として喫煙者コミュニティの外部から与えられたルールによって規制されるということになる。だから、ここには確かにマナーの確立が欠かせない。

ただ、こうしたお作法としてのマナーは必要だけれども、マナーというのはしばしば肥大化し、複雑になり、結果として誰も完璧には守れなくなり、また人によって言っていることが違う、というようなことになりやすい。ルールであれば、あいまいな表現であるにしても文字として表現されていることが多いが、マナーでは「何々流作法」とでもまとめられていない限り、人々の意識の中に不文律として持たれているだけということが多く、そのために解釈が分かれ、かえってトラブルの原因になっているということも多いように見える。

昔は社会が狭かったので、不文律をマナーと言っても、おそらくそれほどの問題はなかった。けれども今では、昼間の生活圏と夜の生活圏とでは通勤通学のために数十km離れているということも珍しくない。出身地と居住地が数百km、場合によっては数千km離れているということも珍しくない。こういう社会では、マナーという場合にも、過去の社会とは違った考え方をしないといけないように思う。

つまり、自分の中でのマナーと、他人の中でのマナーは一致しないということを前提として考えなくてはいけないように思う。もし両者が一致するのであれば、自分が身に付けているマナーというのは、相手も当然に身に付けていなければいけないマナーであり、そこではルールとマナーの境界はあいまいになる。これは過去の狭い社会のスタイルである。しかし、現在ではそうした状況にはなく、出自の異なる人の間では、マナーも異なると考えたほうがいいように思う。

そうした状況で、もしも本当に守るべきことがらがあると考えるならば、それは不文律としてのマナーではなく、明文律としてのルールとして共有化すべきであり、そしてルールは誰かが一方的に立てるのではなく、社会として最低限必要な範囲を議論したうえで立てるのが本来のやり方ということになる。そして、決められたルールは極力厳密に守られなくてはならない。本音と建前というやりかたは、こういう社会では通用せず、もし通用してしまえば社会は大いに混乱する。

そして、いろいろな出自の人が集まった社会では、ルールの下に、鉄道会社やタバコ会社がしたように、公益的なマナーを徐々に作り上げていくという作業も必要になるだろう。そして、そこで確立されていったマナーも、あくまでそのマナーを作り上げた社会の中だけでしか通用しないお作法でしかないということを、忘れずに心に留めておく必要があるだろう。そして、できることならばマナーであってもどこかに明文化しておいたほうがいい。法律や定款ほど厳密な表現でなく、自動車教本の運転マナー程度の記述でいいから、だれでも参照できる資料があったほうがいい。

繰り返すけれども、昔の狭い社会ではルールとマナーはほとんど区別されなかったから、明文律より不文律を守ることのほうが大事であり、そしてそれを守ってさえいれば問題がなかった。しかし現在の日本はそういう社会ではない。不文律である業界マナーさえ守っていれば、法規というルールを少々破っても問題とはならなかった時代の社会とは違う。最近多発する企業告発は、こういう社会の移り変わりを反映したものだと思う。

古い社会なら、たとえ法規などで規制されていなくとも、常識を外れる行為をした業者には、業界内の他業者や、業界を牛耳る重鎮などによって制裁が加えられ、業界は自浄作用を発揮してきた。また、そうした自浄作用が働かない業界はとことん腐敗し、最終的に社会から放擲されるということが繰り返されてきた。

それが最近では、まず法令が整備され、その法令を遵守する、いわゆるコンプライアンスが確保されている範囲であれば、少々慣行を外れても業界内からの圧力というのは少なくなってきているのだと思う。そういう環境変化の中にあって、なお意識が改まらずに業界の慣習にべったりと依存している人たちも残っている。そういう過渡期にあって、事実上の業界のボスであった行政府が鉄槌を下しているという最後の姿が、今の食品業界や電器業界の摘発事件なのではないかという気がしている。

今後の社会では、ルールとして、広く社会で通用する当然に明文化された必要最小限の規制と、マナーとして、簡単に明文化されているが狭い社会でしか通用しない決め事と、最後にそれらをより有効に働かせるための思いやりの3段階が必要なように思う。ルールは統治であり、マナーは自治であり、思いやりはひとりの人を律するべきものなのだと思う。

今の日本では、本来周囲の人への思いやりに属すべきことがらも、マナーとして語られ、そしてまた、単なるお作法ではなく、当然に守られ、守られなければ罰せられることもあるルールであるというような意味合いで「マナー」という言葉が使われる機会も多いように思う。

マナーは自治、という考え方からすると、相手が自分と同じ社会、組織、コミュニティに属すると考えるならば、その相手にも、自治のためのルールであり定められたお作法であるマナーを要求することができるし、要求すべきだと思う。そしてマナーが身に付いていなければ、しっかりとそれを指摘し、教育してやる必要があるように思う。

ある大人が、ある若者を見て、彼にマナーが身に付いていないと考えるならば、若者が自分と同じコミュニティを構成する仲間であると認めているわけで、それならば大人がしっかりとコミュニティでの責任においてマナーがなっていないことを指摘し、教育してやる必要がある。もし相手が自分と違うコミュニティの人間であると考えるならば、マナーを教えてやる必要がない代わりに、自分とは違うマナーを持つコミュニティの人間なのだと考えて、その違いを認めるべきである。

ある大人が、ある若者を見て、自分と同じ社会に住む仲間だと考え、もしもマナーに不備があれば、なるべくその場で指摘する。影で愚痴るのは、それは精神衛生上は必要だろうけれども、あまり美しい姿ではない。もしその若者が、自分の家族ではないから自分が指導する義務がないと考えるのならば、その若者は自分の家族というコミュニティとは違うコミュニティに属する人間と考えているわけだから、マナーにも違いがあるのだろうと認識し、その違いについて積極的に認めるように自分の考え方を改めるべきだろう。

同じ社会に住む者としてその違いを認められないならば、すでに述べたように自分の責任でマナーを指導すべきだろうと思う。そしてその場合は、できれば怒ってはいけない。叱ってもいいが、怒るのは得策ではない。相手はマナーを知っていて守らないのかもしれないが、あるいはマナー自体を知らないのかもしれないし、知っていても納得していないのかもしれない。であれば、マナーの内容、そしてそれを守らなくてはいけない理由をしっかりと説明しなくてはいけない。理由はない、という場合もあるだろうが、その場合は相手がマナーを受け入れるまでしつこく言い続けるしか方法はない。少なくとも、好感の持てる相手の意見のほうが受け入れやすいという人間の性質については知っておいて損はないと思う。

そして最後に、思いやりの気持ちも大切になる。ルールやマナーだけではカバーしきれないいろいろな判断が、生活の中で必要になる。そこには個人個人の信念にもとづく思いやりの気持ちで、相手にとって何が必要かを推測して行動する。これには何も決め事がないので、非常に難しい。古い社会であれば、宗教的な規範があったので、他人を思いやるにもどのように考えたらいいかという、やはりコミュニティで共通した考え方の訓練があった。またそうした社会では、相手の行動を見ても、その奥にある思いやりの心にも気付きやすかった。

思いやりをもって人に接するというのは当然に美徳であって、現代でも多くの人がそうしてくれたらいいだろうな、というのは当然に思うのだけれども、自分に思いやりの心を求めることはとても美しい考え方だと思う反面、他人にもそれを当然のように要求するのは、それもまたある意味で思いやりのない考え方のように感じる。思いやりを持つことは自分に対してのみ求め、相手には多くを求めないという考え方がいいように思う。もちろん、相手が子供なら、そうした気持ちを持つようにそのつど教えてあげるといいだろう。

とはいえ、自分に厳しく他人に優しくあるのは徳のある人の常だけれども、またそうした人が少ないのも常なのであって、これは難しい問題だと思う。そして、難しい問題に対しては、誰かがわかりやすい答えを出すことが重要だろうと思う。


狭い社会の中では思いやりに当たる部分はマナーとは区別されずに教育されただろうし、いくらか広くなった社会では、近世近代の日本なら寺子屋や学校教育による儒教・朱子学教育がそれに該当しただろう。西欧社会なら学校教育のほかに教会の日曜礼拝での説教などがそれに相当しただろう。私は神や仏という超越的な存在そのものは信仰しないが、宗教が果たしてきたこうした役割というのは非常に重要だと認めている。そして現代の日本にはそうした共通の宗教的基盤がなく、それが「思いやり」の範疇での共通基盤崩壊につながり、それが人の心をギスギスとさせている原因だと考えている。

これを改めるのに、安倍さんは国家や「公」への帰依という、大日本帝国的な手法を導入しようとしたようだが、それもひとつの方法だろう。しかし、現在のように情報網が発達した時代に、そうした画一的な道徳の流布というのは難しいように思う。それよりは、いくつかの主要な宗教団体あるいは思想家の組織があり、それらが互いに妥協点を探ることで、結果的に国民の中である程度共通した規範が出来上がるのが望ましいように思う。けれどもこれに成功している国家というのは世界を見渡してもあまり多いとは言えず、今世紀に生きる人間が等しく考えていかなくてはいけない大問題なのだろうと思う。

それでも単一の宗教や思想が国家を覆っている国というのはあり、その宗教の倫理観を理解できない人間にとってはその国家の国民は抑圧されていると見えるだろうが、案外そうした国家に住む国民は安寧としているように見える。どんなルールであれ、矛盾のないひとつのルールに従う生活というのは存外快適なものである。もちろん、その国家的な宗教や思想に馴染めない人というのは存在して、そういう人は不自由しているが、対応すべき相手が一定しているという意味では安定している。

日本にはかつて自然崇拝や先祖崇拝を基本とする原始神道があり、そして5~6世紀ごろに浸透した仏教思想があり、そして江戸幕府が推進した儒教教育があった。明治以降も、基本的には儒教思想をベースとした国家神道があった。それらはそれぞれ、時代に見合った広がりを持つ社会を統治するのに役立っていた。

しかし、国家神道を否定された第二次大戦以降の日本では、それに代わって立つ宗教的、あるいは思想的な柱が育たなかった。もちろん、国連的な人権主義というのは教育の場で主流であったけれども、それは在来の実社会とは必ずしも相容れないものであったし、ここへ来て感情的な反発に遭ったりもして、国民的な思想信条の基盤としてはすでに崩壊している。

現在の日本は人間の根本的な部分で非常に難しい問題に面していて、それはさまざまな思想信仰が入り乱れていて、それらがどれも調和していないというところにある。キリスト教の理念にもとづく西欧的なフェアネスと、儒教や仏教にもとづく東洋的な倫理観、そして風水やスピリチュアルのブームなどに見られるある意味土着的な呪術信仰、それに江戸期に発達した水戸学や国学に端を発する国家神道的な信仰も含めて、さまざまなものが同時並行的に存在している。

そうした状況の中で、創価学会や幸福の科学や統一教会やオウム真理教などといった新興の宗教団体が、簡単に勢力を広げることが可能な状況となっている。これは仏教の諸宗が日本に勃興した鎌倉末期の状況に似ていなくもない。

ただし、ピンチはチャンスでもあると考えるならば、もし現在の日本に横たわるこうした非常に難しい問題を解決するような、もっと言うならば西洋と東洋の思想を橋渡しして統合するような思想が組み立てられるならば、やはり東洋と西洋の文化が衝突する激流の中であがいているように見える中国大陸や、EUの辺縁で難しい立場に立たされているトルコや中東諸国などでも、あるいは適用可能となる重要な思想哲学が生まれる可能性もある。

難しいからこそ考える価値があり、またいろいろと意見を交換する価値もあるのだろうと思う。西暦2000年前後の日本というのは、この先100年を考える上で非常に重要な局面にあると思う。そしてどの既存宗教思想をそのまま採用してもおそらくはうまくいかず、それらを大胆に統合する、吉田松陰やアウグスティヌスのような思想家の登場が必要なのだと思う。正直、哲学科の皆さんはオタク文化などを悠長に論じている状況ではないように思うのだけれども、なんとかならないものだろうか。あるいはオタク文化が問題を解く答えなのだろうか。


ちょっと話が大きくなってしまったけれども、日本という国家の問題、あるいは今世紀の人類の大問題という、個人としてはなかなか手が出せない大問題が背景にあるとはいえ、それでも個人は何かを考えて生きていかなくてはいけないし、また生きていくことができると思う。

松蔭やアウグスティヌスに匹敵するような大思想家にはならなくとも、日常生活の中で常識が変化しつつあることを感じながら、自分はどのように行動すればいいのかを、ときには常識に縛られずに考えてみるといいと思う。それは多くの人にとって役に立つことだろうと思うし、そういうことを哲学とかphilosophyと呼ぶのだと思う。別にカントだとかデリダだとかの小難しい本を読まなくても、自分の持っている知識の中で哲学的なものの考え方をすることはできるし、なにより哲学を必要とする状況はもう目の前にあるのだと思う。
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by antonin | 2007-10-27 06:11 | Trackback | Comments(2)
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Commented at 2007-10-28 22:55 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by antonin at 2007-10-31 00:31
そうですね。
まぁ、当てにすると外れるんですが。
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