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宮沢賢治の日記帳に書かれたというあの散文詩の結びは、「サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」となっている。これは、皆さんそういう人になりましょうね、というお説教では決してなく、そういう風にありたいが、そういう自分ではないという葛藤がおそらくそこにあるのであって、詩文の後ろのページに「南無妙法蓮華経」と書かれているのを見たりすると、一体どのような心情で書かれたのだろうと心を巡らしてしまう。 教育テレビあたりで狂言師が笑顔で言っているのを聞くとムカつくが、原文を自分自身で声に出さずに読むと、夏休みに訪れた土地で、よく手入れされた無人の田畑から渡ってくる風を受けているような気分になる。よくわからない表現ではあるけれども、気分なので仕方がない。 なりたい自分になるという願望は、なにも美しくなりたい女性に限ったものでもないだろう。たとえば町で鈴を鳴らしながら佇む僧侶も、一体どういう経緯があってそこに至ったのかなどに、やはり気を巡らさずにはいられない。どういう人になりたいのかは知らないが、何者かになりたいからこそああしているのだろうと思う。できればわずかな喜捨をして合掌したい気分なのだけれども、街中でなかなかそういうことをする度胸がなく、ひとり心の中で手を合わせて通り過ぎたりする。 聖徳太子が定めたとされる十七条憲法などを読むと、儒書からの引用と思われる言葉に混ざって、三宝を篤く敬え、三宝とは仏法僧なり、などと書かれていて、一万円札の肖像が聖徳太子から福沢諭吉に変わってしまったあたりからこの国は変なことになってしまったのかもしれないと、少しだけ思った。そんなことはないのだろうが。 古来「子は親の鏡」といって、幸いにして二面の鏡を手に入れることができたのだけれども、気難し屋の鏡を覗き込むたびに、いろいろと不安になる。まあ、なるようにしかならないのかな、とは思っているのだけれども。 最近の町内の神社では賽銭箱がカギの掛けられた扉の向こうに置かれていたりする世の中なのだけれども、その投げ銭用の穴から不敬にも中を覗き込むと、お神酒の後ろに祀られた御神体が丸見えであったりする。たいていそれは金属製の丸鏡であったりするのだけれども、古代の中華帝国に朝貢の遣いを発して授けられた宝物の中で、特に鏡をありがたがって御神体としたヤマトびとの心境は、果たして自己の姿を映し出す能力に驚いて神格化したのか、自己を観るという行為そのものに神を見たのか、今となっては知ることができない。 日々鏡を磨きながら、自らを省みて居住まいを正す、サウイフモノニ ワタシハ ナリタイのだけれども、現実は理想から程遠く、まあなんというかヘロヘロなのであります。
by antonin
| 2007-11-25 03:48
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