安敦誌


つまらない話など
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狂気の淵

なんだか色々と面倒なことを考えつつも、楽しく生きていきたい。

学問やら芸術やらで高い独創性を発揮した人の中には、自殺によってその生涯を閉じたり、あるいは発狂して隔離されながら記録のない晩年を過ごした人も多い。ニーチェであるとか、ファン・ゴッホであるとか、フォン・ノイマンであるとか、そうした変調を迎えた人を数えだすときりがない。自殺も発狂もしていないが、優れた業績を挙げながら私的な決闘で斃れたガロワなどもこの部類に入るかもしれない。

彼らの業績の多くは早くから高く評価されていたけれども、それは純粋に業績面での評価であって、周辺人物のプライベートな聞き取りなどから人物的な評価を調べると、どうにも不評であることが多い。死後には業績だけが残り、人物評は次第に忘れ去られていくため、不遇の天才として評価が徐々に高まることになる。

良識的な人はその不評に対して、彼らの天才的な発想を周囲が理解できなかったのだろう、などと肯定的に評価するだろうが、実際に友人や同僚として接しても同じ意見を持つことができるかというと、大いに怪しい。同じように天才的業績を上げた人物でも、温厚柔和で、生前から高い評価のまま、発狂などすることもなく平穏な老後を過ごす人も、同じように多い。

優れた業績の中でも、常識的な発想をより高い水準で実行したために、正常な帰結として高い業績を残す人は、人物的にも問題が少ないような印象がある。一方、常識を鮮やかに覆すことによって画期的な想像力を発揮するような人は、実生活においてもしばしば常識を覆し、周囲に疎まれるような印象がある。このタイプの違いは、ある種の脳の性質の違いで、相当程度に生来的なものだと思う。そして、冒頭に挙げたような不幸な晩年を迎えるのも、常識を覆すタイプの天才に多いような印象がある。このあたり全て印象論で根拠はないのであるが。

この生来的な違いが、晩年の発狂と同根であるような、遺伝的、器質的要因があるのか、あるいは常識的に考えるように、周囲の無理解によるストレスが原因というような説明が付くのか、そのあたりはわからない。どちらもあって、それらが複合的に作用しているということもあるかもしれない。

鋭すぎる洞察力や直感、平均的な人物には不可能なほどの常識からの乖離など、天才的発想と人物的な付き合いにくさという2面に関しては、かなりの確率で同根であると考えることができるだろう。ただ、繰り返せば、温厚な常識人であり、かつ天才的業績を残した人もまた歴史に多いのであり、そうした人は比較的ゴシップ・ネタにならないので、世間の印象に残りにくいという影響も多いのだと思われる。

時代的に近いところでは、派手なパフォーマンスをするワトソンの隣で静かに思考している印象のあるクリックであるとか、モークリーの奔放な発想を堅実な工学的知識と技術で実現に導いたエッカートなどを思い出す。量子の波動性がより本質的な姿であるとの信念を正常進化させて波動関数を導いたシュレディンガーなども、やはり同じような印象がある。彼の波動関数が粒子存在の確率分布関数の平方根であるなどという解釈が主流になると、彼はそれに馴染めずに生物学の世界に移った。アインシュタインのEPR論文のように、シュレディンガーも有名な「猫」のパラドックスでコペンハーゲン学派に挑んだこともあったが、戦い続けるよりはただ去ることを選んだあたりに人柄を感じる。

歴史に名を残すのは王侯貴族や聖人偉人、それに学術芸術の天才たちだけだから、非常識人は皆優れた人と考えがちであるけれども、彼らは秀才であり、かつ変人だったので天才と呼ばれるのであって、凡人であり、かつ変人という救われない人も世には多いだろう。

しかし、そこにも世間一般の常識との不整合はあり、人物評の低さだけは天才と同じか、業績的な評価がないだけに却って、天才以上の不評が周囲から与えられることだろう。神経衰弱による自殺や、認知の不整合による発狂などのリスクだけは、歴史上の不幸な天才たちと同じように背負っていることになる。器質的な問題であるにせよ、周囲の無理解という環境的な問題であるにせよ、どちらにしてもそうした非常識人は、天才と同じような狂気の淵に立っていることになる。

天才的な仕事とは、学問であっても芸術であっても、創作者の手を離れて世界にとどろくことができる。時間をも越えて死後に評価を受けることもできる。けれども一般的な凡人の仕事は、顔の見える人に貢献する範囲でのみ評価されることがほとんどなのだから、人物評の低さを越えて業績だけが評価されることは、極めて少ない。もとより平凡な凡人的業績は、変人であることによって一段と低く評価される。そして、どこかで淵から狂気へと落ちる。

とまあ、なんだか色々と面倒なことを考えつつも、楽しく生きていきたいものだと思った。
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by antonin | 2007-12-01 00:44 | Trackback | Comments(1)
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Commented by antonin at 2008-06-16 12:47
自己レス。

ここでは「淵(ふち)」と「縁(ふち)」を誤って混同して書いています。ここで書かれている「狂気の淵」は全て「狂気の縁」を指しています。ただ言い訳を許してもらうならば、川のうねる外側には流れの速い部分があり、その陸側では土がえぐられて崖が立ち、水側では川底が深くえぐられます。その深みが「淵」であり、陸との境が「縁」なのです。そういうイメージで、縁に立って淵に臨んでいる場面を想定していただけましたら幸いです。
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