安敦誌


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空想と科学

以前勤めていた会社の食堂に、社員が持ち寄った本を並べた本棚があって、そこに「空想科学読本」が置いてあった。そこそこ有名で評判もいい本だったので、あるとき手にとって読んでみたが、そこに書かれていたのは非常に残念な内容だった。かなり以前に出版された本だし、世間には「と学会」の山本さんをはじめ、多くの批判言説があふれているので、いまさら私がどうこう言う価値はないのだけれども、「と学会」式のツッコミと私の「残念な感じ」はまた少し違うので、そのあたりをいまさらだけれど書いてみようと思う。

「空想科学読本」を食堂で読んだのはもう数年前のことになるけれども、その序文あたりで、どこかの大学の教授に読ませたら「夢がない」というような言葉をもらったと書かれていたように思う。私もこの意見と同じ感想を持った。検証内容に実に夢が無く、おしなべて非建設的なのだ。

ただまぁ、結局は娯楽番組を科学的に検証した内容の本なので、否定的な結論に落ち着くのもひとつの成果ではある。だけれども、この本に書かれていた内容は、「空想科学読本」というタイトルとは裏腹に、その矛盾指摘の根拠とされている理論が、科学理論的な制約ではなく、多分に工学的制約を用いている点もまた、非常に残念なのである。

例えば山本弘さんによるツッコミサイトを読んでも、空想科学読本の手法と同じ目線に降りて、その理論展開に誤りがあったり、見落としている科学理論があるから、むしろそちらに抵触するのではないか、というような論法で批判されている。でも私としては、科学論文でもない読み物なので、理論的な厳密性に突っ込むのはむしろ無粋だと思う。そうではなくて、空想科学読本には、「科学する」楽しさがないところに問題があるのだと思う。

科学の世界は、特に空想科学の世界は、空想科学読本が指摘するような「あれも無理、これも無理」というような窮屈な世界ではなく、「こうすればあれもできるし、こうすればこれもできるかもしれない」というような発想を受け入れる余地のある、非常に楽しい世界なのだ。ただ、現実の実験データはその信頼度の限界内で事実として受容するとか、従来の理論のうち、実験データを説明しきれない部分に限ってそれを「仮に」否定して理論を拡張するとか、科学には科学のお作法というものがある。

ニュートン力学は長い年月にわたり、多くの物理現象を高い精度で説明する美しい理論であったが、それでも観測技術の進歩により、水星の近日点移動などの一部現象に対しては、実験誤差の推論値を超えるほどの誤差が生じてしまい、理論の限界が指摘されるということが生じた。無論、多くの人はニュートンの運動方程式の正しさを知っていたが、その正しさを破壊しないように、なおかつその方程式を拡張する理論を追い求めていた。

それに対する答えの候補のひとつだったのが、アインシュタインの相対性理論だった。これは、ニュートンの力学より新しい理論であった電磁気学の方程式を認め、逆にニュートンがその理論のバックボーンに据えていたデカルト的な絶対座標という概念のほうを一旦放棄するという手順で、時間と空間自体のほうを相対的なものと考えて、方程式のほうを絶対普遍な基準としてしまうと、各種の実験データをうまく説明できるという仮説だった。この仮説から理論的に導かれるのが大きな天体による重力レンズ効果で光の起動が曲がるという現象で、この理論的な「予想」が実験的に観測されて実証されたことで、相対性理論はより強力な理論として認められるに至った。

現在では相対性理論は多くの実測データに裏付けられ、またディラック方程式のように量子論とも組み合わせられて、多くの実験条件の設定とデータの解析に不可欠かつ有効な理論として定着しているが、アインシュタインが論文を書いた時点では、すでにあった実験データをベースとしていたとはいえ、単なる仮説に過ぎなかった。そこにあったのは、目の前にある事象をまず認めることから始めて、既存の理論をうまく利用し、そして既存の理論の一部を意図的にぶち壊してみることで新しい理論を創造するという、非常にエキサイティングで、ある意味「とんでも」精神にあふれる活動だったように思う。

そして、「空想科学読本」にはそうしたエキサイティングな挑戦の精神が全く感じられないのである。目の前の事象をなんとか説明してやろうという挑戦の精神がまったく無く、既存の理論で目の前の事象を否定するという非建設的な作業に終始していて、そこが非常に残念だと思ったのである。ところが、一般読者の評判は「目からうろこ」というような感じで、おおむね好評なのである。しかし私が感じるところでは、空想科学読本の考察は「現時点での地球人類が持つ工学的限界」でもって無理だと結論しているに過ぎず、科学理論はそんな限界は示さないよ、などと考えてしまう。

SF作品の楽しいところは、既存の理論や最新の仮説をふんだんに利用しつつ、従来の理論や工学的あるいは技術的な限界の一部を積極的に無視することによって、現実的な限界を乗り越えて基本理論から推論される常識破りな結論を自由に導き出し、またその推論が成立する世界の中ではどのような事象が起こりうるかを想像をたくましくしてシミュレートしてしまうところにある。その表現は控えめな学術論文的なものを大きく超えて、臨場感あふれる舞台装置に反映する仮想現実感を作ってしまうところに、SF作品の醍醐味がある。

そしてゴジラやウルトラマンといった作品は、比較的厳密な科学的考証がされたハードSFではなく、SF的要素を持った娯楽作品なのだから、陳腐な工学的経験則を当てはめて「無理だ、ありえない」というのではなく、あえて作品中の現象を「観測事実」であると仮定し、そして現在知られている物理法則は基本的に認めて、なおかつ作品に登場するロボットや怪獣が現在の人類が持つ工業技術的限界にとらわれる必要は全くないのだから、そこは積極的に無視することで、いったいどのような方法によればそうしたものが可能なのかという仮説を色々と立てて検証してみることが、より建設的で健全な科学的態度だろうと思う。

空想科学読本では、例えばウルトラマンが両手を広げて超音速で飛行するとき、頭部で発生する衝撃波が腕に当たって腕が落ちるなどという考察をしているが、自身の発生する衝撃波が自身に再衝突すると破壊するという現象は、軽量化のために必要最小限の機械強度しか与えられない現実の航空機における材料的な制約を前提とした限界であり、これは「科学的限界」ではなく、あくまで「工学的限界」である。それも、出版時点より少し古い時点での限界に過ぎない。今頃米軍ではそんな限界をとっくに超えてしまっている可能性すらあるのだ。

科学的な限界は、物理法則が宇宙のほとんどの領域で遍く有効であるという哲学的な前提に立てば、たとえ人間の作る機械であっても、ウルトラマンや宇宙怪獣の体であっても従うべき法則と考えることになるが、例えばボーイング社が現在の技術で現実的なコストの範囲で作る航空機の技術的な制限を、宇宙のかなたからやってきた超人的生命体という仮定をされているウルトラマンの体に対して盲目的に適用して「無理だ」というのは、あまりにも杜撰で非建設的な検証と言わざるをえない。

ウルトラマンの体は、地球大気程度の流体が作る衝撃波がぶつかったとしても、腕がもげてしまわない程度に強度が高いと仮定し、あの重量でそれなりの強度を発現するための機構を、現在知られている物理学の範囲内で仮説を立てて論じるほうが、はるかに科学的で良い考察と言える。

地球上に存在する物質は基本的に全て原子核の周りを電子雲が取り巻く原子構造をとっており、原子間結合は電磁気力のみによっている。しかし、中性子星では物資は原子核にあるような核子を中心に構成されていると考えられており、その凝集力には電磁気力だけではなく「強い力」と呼ばれる核力も作用する。ウルトラマンは体表面の裏側にそうした核子物質からなる骨格をもっていると考えれば、原子からなる物質では到底実現できないような強度さえ実現可能性を持ってくる。もちろん、核子物質は原子物質より桁違いに密度が高いから、重くなり過ぎない骨格構造も仮定する必要がある。

または、ウルトラマンが超音速で飛行するときには空気を押しのけて飛行するので、必然的に衝撃波が発生するという想定自体が、常識にとらわれた誤った思い込みである可能性もある。ウルトラマンが飛び去ったあとに衝撃波の到着に伴う爆音が聞こえるような映像がないのであれば、ウルトラマンはたとえ超音速の対地速度で飛行しても、衝撃波を発生しないような仕組みを備えていると仮定してみることも有効だろう。

この場合に、具体的にいくつかの可能性を検証してみる。まず、現在人類が実現可能な超音速機は、ジェット推進またはロケット推進によって反作用を得て、機体で周囲の空気を切り裂くような飛び方しかできない。しかし、ウルトラマンの頭が直接周囲の空気に衝突するのではなく、周囲の空気を体の周囲に巻きつけるように動かすような、何らかの遠隔力をウルトラマンが発しているとすれば、ウルトラマンの頭部が大気に対して超音速で直接衝突するという現象を避けることができるから、衝撃波は発生しなくなる。となれば、ウルトラマンが飛び去った後に衝撃波の到着による爆音が聞かれないということも同時に説明可能となる。

飛行中のウルトラマンの周囲には、ジェット気流のように中心部ではウルトラマンの移動速度に近く、中心から周囲に遠ざかるにつれて徐々に遅くなるような層流を生じていると仮定してみる。すると、もしそうした層流がウルトラマンの飛行中に発生しているとしても、その流体速度分布が滑らかに変化しているとすれば、それは光学的には観測しにくくなるので、画面上では目に見えるような現象は観測されないはずであり、作品中の映像とも矛盾しなくなる。これがひとつの仮説である。

もうひとつの仮説としては、ウルトラマンの体は気流を通さないはずだ、という暗黙の仮定を疑ってみることも可能である。つまり、ウルトラマンの体には超音速の気流が衝突しているが、その大部分はウルトラマンの体の中をすり抜けている、ということも仮定することが出来る。なにしろ相手は宇宙人なのだ。地上の物質と同じ性質を持っているとの前提に縛られる必要はない。

少し比喩を使うと、ウルトラマンの体表面は微細なレベルではメッシュ状になっており、固体との衝突に対しては抗力を発生するが、空気のような流体に対しては抗力を発生せず、ウルトラマンの体内に侵入していくと仮定することにする。すると、超音速の気流がウルトラマンの体内を通過するときの減速が音速を超えなければ、単一面の衝撃波は発生しなくなる。なおかつ、気流とウルトラマンの衝突のエネルギーを、複雑な過程を通じて熱エネルギーのようなランダムなものに転換できるような構造をウルトラマンの体内が備えているとすれば、大気とウルトラマンの衝突によって発生するエネルギーは、爆音という形ではなくノイズのような拡散スペクトルの形で発生する可能性もある。

もしもそのようになっていれば、ウルトラマンが飛び去ったあとにはノイズ性の音にドップラーシフトを伴った「シューー」というような音が聞こえるはずである。しかし作品中ではそうした「観測事実」は得られていないから、この仮説は第一の仮説に比べると、やや現象の説明としては弱みをもっていることがわかる。もちろん、そのようなノイズ音が人間の可聴域である20kHz以下の領域ではなく超音波領域に分布しているようであれば、可聴域にノイズが観測されないとしても観測された現象には矛盾しないことになる。

こういうような感じに、目の前にある現象が理論に合わない場合には、現象のほうが間違っているはずだと騒ぐのではなく、目の前の現象が理論的に説明可能になるような仮説をいくつも提案し、その仮説が成立するならば同時に観測されると推論される現象、つまりは理論から帰結される「予想」が現象として観測可能かどうかという検証方法を適用することができる。こういう思考のほうが、空想科学読本の態度よりもはるかに建設的であるように思う。

そういう意味では、「と学会」のメンバーの一部が「トンデモ本」を批判する姿勢も、非建設的で目に余る場合がある。既存の科学的常識が絶対であって、その科学的常識の範疇から一歩も踏み出すことなく、「トンデモ本」が常識から逸脱している部分を微に入り細に入り執拗に批判しているだけで、読んでいて笑えるというよりも暗澹とした気分になってくるものがある。それよりも、「俺ならこんな仮説を立てるんだが」というような感じで、トンデモ本の著者とあえて同じ目線に立って遊んでみるほうが楽しそうである。

むしろ最先端の実験物理学が提供する観測データなどは、常識的に考えればありえないような不可思議なデータを多量に含んでいる。もちろんその中には実験の不備によって生じた適切でないデータも混ざってはいるが、複数グループによって追試が成功するような再現性のある信頼できるデータの中にも、やはり常識では説明しきれない不思議なものが残る。それを説明するためには、常識的発想や既存理論も積極的に疑ってみることも理論研究には必要とされる。これはまさにアインシュタインがニュートン力学を破壊せずに拡張した際の手法と同じであり、より建設的な科学的態度であるといえる。

もちろん、文字通りにウルトラマンやゴジラといった娯楽作品中の現象を実際に起きている現実と捉えるのは病的な解釈ではあるけれども、一見ありえないような現象でも、それを事実と捉えたうえでどこまで理論的に説明可能かを試してみるということは、科学的思考の訓練としては非常に有効なものとなる。しかも、無味乾燥な数値データについて検証するよりは、子供の頃に好んで見ていた娯楽作品のデータのほうが考えるのも楽しいし、そういった要素は訓練を楽しむためには重要な要素となる。これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かずなのである。

こうしたSF的思考をしてみる訓練は、なにも先端科学の理論的研究にだけ役立つというものではない。機械や電気やその他技術を使った一般的な工業製品の開発では、汎用的な理論は限定的にしか役に立たず、各論に適用できるような、こまごまとして雑多な理論を駆使していかなくてはならない。しかも、そうした理論は世界中の研究者がオープンな学会で発表しあいながら完成度を高めていくというものでは必ずしも無く、ある企業のある部署で、限られた人員とデータによって得られた、かなりの程度に不確かな理論を使う場面も多い。

そうした工業的な研究の場面でも、目の前に発生する不可思議な現象に対して、すでに知られている理論では説明しきれない場面というのはいくらでも発生する。そういう場合、まずは実験の不備を確かめてみるというのは健全な態度であるが、実験に不備がないと確かめられたならば、次は従来の理論を越える何かがそこに発生しており、手持ちの理論を拡張しなくてはならないという場面に直面する。ここで、ウルトラマンの衝撃波問題のときのような、頭をやわらかくして現象を説明するという訓練が有効に働くことになる。

たとえば、大型の貨物船を開発している場合を考えてみる。次世代の貨物船では、より高速化し、燃料消費は増やさず、なおかつ波の発生を抑えなくてはならないが、シミュレーションで設計した船体形状では、高速化と燃料消費は目標を達成するが、波の発生はどうしても大きくなってしまうという問題があるとしよう。

ここで、ウルトラマンの衝撃波問題で立てた第二仮説を応用してみることを考える。つまり、貨物船の船体が海水という流体を完全に押しのけるから波を発生してしまうのだと考え、海水が貨物船の船体を透過していき、その過程でエネルギーを分散し、大波ではなく小波や泡などの形で放出するという方式を考えてみる。

実は海水に対する衝突エネルギーを小波に転換するという手法はすでに存在していて、例えば漁船のような小型船舶の先頭部分にある段差は、船体が巻き上げた海水を横に飛ばしてしぶきにしてしまうことで、衝突波が大波ではなく泡や小波に分解されるようにしている。大型の貨物船では海水が巻き上がるような速度では航行できないからこうした手法は使えないが、喫水線を越えた海水を船体にいったん「飲み込む」ようにしてやり、その海水をジェットポンプで横方向に噴射してやれば、漁船のように大波のエネルギーを泡や小波にして海洋へ放出することが可能になる。

もちろんこれは単なる試論であって、こうした方法が積載量によって喫水線が大きく変化する貨物船で技術的に本当に実現可能なのかとか、コスト的にターゲット製品の予算に収まるのかとか、そういった現実論で検証する段階というものは必ず必要であり、そこでは空想科学読本にあるような批判的考察が有効となる。しかし、その段階で各論に落とし込んだ問題に否定的見解が出たとしても、そのレベルで再び解決策を模索し、小さな壁をひとつずつ乗り越えていくということもしないと、大きなブレークスルーを実現することは難しくなる。したがって、そこでも建設的な考察力というものが生きてくることになる。

楽観論だけでは失敗するが、悲観論だけでは大きな仕事はできない。両者のバランスが重要なのであり、そういう意味では空想科学読本に見られる「あれも無理、これも無理」というのは悲観的推論の例であり、科学技術の発展に必要な態度の一面は表していることになる。しかし、その限界を逆手にとって、否定的推論の前提となっているものをひとつひとつ潰していくことで、その限界を乗り越えていくような訓練も、同様に重要だということも忘れてはいけない。特に日本人は悲観的に考えがちな傾向が強いから、むしろ積極的に楽観的な考察をする訓練を積んだほうがいいように思う。繰り返すが、最終的には両者のバランスと使い分けが重要になる。

もしも若い人がSF的な作品を叩き台として科学的考察の訓練をするならば、悲観論よりは楽観論から始めて欲しいと思う。そういう意味において、空想科学読本はあまりにも夢がない。科学が夢を破壊していくよりは、科学が夢を現実に引き寄せてしまうような遊びかたのほうが、より楽しいじゃないかと思う。鉄腕アトムに刺激を受けてロボットを作ってしまうような技術者は、きっとそうした発想をして育ってきたのに違いない。開発現場の管理職ではなく教育者であるのならば、悲観的であるよりは楽観的である人のほうが、子供たちの目にはより魅力的に映るに違いない。
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by antonin | 2008-03-22 19:58 | Trackback | Comments(3)
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Commented by 空想主義者 at 2014-03-12 22:52 x
あなたはどうやら1巻しか読んでらっしゃらないようですけど、最近の空想科学読本は昔のものに比べれば大分夢のある内容になっていますよ。それから理科雄さんは一度も~は絶対に無理とは言いません。ああしていたということはこうしていたということである。というふうに、言っているので無理なんて一言もありません。空想科学読本に関して不満があるとすれば仮定のしかた甘いことでしょうか。例えば斬鉄剣で弾丸を斬っても体に当たってしまうというのにしても、どうして斬らずに叩き落としてるとは考えないのか不思議ですし、アニメならではの演出をよく理解していないの事実です。まあ、まだ1巻しかご覧になってないのでしたら、現在14巻まで出ているのでそれらを読めば少しは感じ方も変わるかと。
Commented by antonin at 2014-03-16 22:12
>空想主義者さま

ご明察。
「空想科学読本」の出版年が2006年7月、私がこれを書いたのが2008年3月、そして現在2014年3月ですが、今もって私は空想科学読本の続編を読んだことがありません。
しかし、足掛け8年間にそれだけの続編が出版されているということは、好んで読む読者がそれなりの規模で存在していて、一時のブームでは終わらなかったということなんですね。
Amazonで調べてみると、もう15巻目の予約受付を開始していました。6年ぶりにこうこう情報を頂けるのも、拙文をネットに晒し続けた甲斐があったというものです。
第1巻目のあとがきにも「夢がない」という批評について書かれていたくらいなので、著者ご本人もそのあたりは気にされていたのでしょう。機会があったら続編も手に取ってみたいと思います。
Commented by antonin at 2014-03-17 01:13
よく見たら、2006年のは「新装版」ですか。原著は1995年あたりでしょうか。息が長いですね。
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