安敦誌


つまらない話など
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妖怪の99.9%は仮説

最近になって、いろいろな現象を合理的に説明するのが上手くなったような気がする。一見わかりにくいような現象も、自分なりの見方で斬り付け、整然と合理的に説明ができるようになった。それを他人に説明できるように表現するのは難しいのだけれども、少なくとも自分の頭の中ではすっきりと説明され、より多くの事態が合理的な現象として納まりが付くようになった。

そして、ネット上にあふれる他人の言論を見て、そこはそうじゃない、ここはこうするともっとよく説明できる、などと思うようになり、時には自分なりの説明を文章にして書いてみたりもする。しかし、「それも面白い見方だが・・・」といった、一定の距離の受け止められ方で終わることが多い。この理由を少し考えていた。

日経BPのサイトにこういう文章(「江戸時代」に学ぶということ)があって、以前から持っていた持論などもぶつけてみたのだけれども、まぁだいたいいつもどおりの様子になっている。ここでぶつけた持論は経済学的な視点のほうだったのだけれども、元記事には他にもいくつかの観点があって、そのひとつが「科学は全てを解明しようとする病気に取り付かれているのではないか」というものだった。

江戸時代には夜の明かりが現代と違って乏しく、その薄ら明かりと闇の効果が人々の目に妖怪変化を浮かび上がらせ、そうした存在を受け入れた人々の心は現代の人々よりも豊かな想像力と創造性にあふれていたのではないか、というような指摘に読めた。

けれども私は相対主義者だし唯物論者だしヘソマガリなので、素直にそのようには受け取らなかった。以前も書いたけれども、現代にも「スカラー波」だの「マイナスイオン」だのという妖怪は事欠かないではないか、と思っている。それに、我々の時代にあって「電磁波の害」とか「血液ドロドロ」という概念を見るのと同じ程度のリアリティと合理性を、江戸時代の人々が「河童」や「破れ提灯」という概念に見ていたのはほぼ間違いがないと思う。

人間は、認識可能なものしか認識できない。トートロジーなのだけれども、何らかの説明が可能なものしか意識することができないということを言いたい。「言葉では説明できない」とか「人間にはわからない」というのもそうした「説明」の一種なのであって、「そこには人間には理解できない畏怖すべき存在がある」と認識できれば、そういう認識方法によって人間は対象を認識可能になる。そういった説明すらもできない対象については、その存在を想像することさえできない。

さて、上記が私にとって最善の「妖怪に関する解釈」なのだけれども、これは子供の頃から工学系の図鑑や宇宙もののドキュメンタリー番組、あるいは電子玩具などに親しんで育ち、大学に入ってから哲学をかじった人間にとって最適という解釈に過ぎない。多くの恋愛小説を読み、多くの恋愛映画を見て、多くの恋愛経験を経たが、科学的論法には興味も示さなかった人間にとっても最善の解釈だとは思わない。私の知識経験、言い換えると現在の私の脳の状態に対して、最も親和性の高い解釈ということでしかない。

私と似たような文脈にいる人間には、「水は答えを知っている」は滑稽だったり醜悪だったりするが、別の文脈にいる人間にはやはり「水はなんにも知らないよ」のほうが愚かで、人の優しさを理解できない無粋な本ということになるのだろう。毎日病気の恐怖と健康の大切さについて説く情報娯楽番組を見ていれば、眉唾ものの健康法でも、圧倒的なリアリティと強力な効能がそこに見えてくるのに違いない。

同じように江戸時代にあっては、現代の科学的な考え方というのは蘭学としてごく一部の研究者が握っていたに過ぎず、一般の人々はごく常識的な因果関係と、それを仏教的な哲学を土台にして来世や前世にまで延長した因果応報の世界観の中に生きていた。国学の発展と西欧的な国粋主義に触発された国家神道と仏教の分離運動が起こるまでは、仏教哲学の世界観と自然崇拝的な神道の宗教観はこの国では地続きになっていて、明確な境界は無かった。

そういう常識、共通感覚を持っている人々の暮らしの中で、説明しにくいもの、奇異なものに対する解釈として、既存の感覚に最も親和性が高く、したがって最も合理的な説明というのが、妖怪であり、怨霊であり、呪詛だったのだろうと思う。今ではそれはおおかた迷信と片付けられてしまったし、江戸時代当時にあっても同じように考えていた人は一部にはいただろうが、大衆はそうではなかっただろう。

当時の人々の生活では、神道、仏教、儒教を程よく混ぜ合わせた世界観が認識の基礎を作っていて、それは現代人の、地動説が正しいとしか信じられない、太陽が平凡な恒星のひとつであり、それが明るく大きいのは単に距離が近いからでしかないとしか信じられない、という時代固有の認識スタイルとは大きく違う。

人間道、修羅道、畜生道などの六道があり、人はその輪廻の中で前世の業を背負いながら生きており、死者は生前に念仏を唱えていれば阿弥陀如来様が極楽浄土へ導いてくれて無事に成仏できるし、三途の川を渡るのに六文銭を持たせるのも団子に払う代金と同じだけの妥当性があったのだろう。この世に未練があれば化けて出るから、供養をして成仏させる。成仏しきれなかった怨霊や、より自然崇拝的な動物霊や祖先霊の作用というものが、そうした世界観では現実世界の吉凶に直結しているわけだから、お払いや供養読経などという対策を打つことで合理的に対処でき、人々は安心できるようになる。

もちろん、全ての祈祷がよい効果をもたらすわけではないが、それは心の持ちようが悪かったのだとか身内の誰それの行いがよくないからなのだとか、そういう追加的な説明がなされ、それに応じた対策が採られるという、現代の病院で見られるのと同じような合理的解釈と対応の循環があった。

結局のところ、人は分析的に世界を認識することが生業なのであり、結果的な体系として「ろくろ首」と「メタボ」という違いが生じただけで、それを産んだプロセスや結果に大きな違いはないように思う。江戸時代にあっても、一部の人は心から妖怪を信じて恐れていただろうし、また多くの人は子供を怖がらせてしつけるために上手く利用していたのだろうし、また一部の人は妖怪を絵に描いてみたり護符を売ることで商売をしていたのだろう。

江戸時代における妖怪とは、純粋宗教と全くの嘘の境界線に生じた微妙で多様な産物であり、それは現代の純粋科学と全くの嘘の境界線に生じた微妙で多様な産物である健康グッズとよく似た位置付けに見える。科学は現象的な部分はすっかり明るく照らしてしまったが、勧善懲悪の画一的で堅固な倫理観を構造主義や相対主義で解体してしまった部分もあり、そうした部分には江戸時代以上に薄暗い闇があふれている。そうした闇には、「人権」や「マナー」といった、魑魅魍魎の住まう領域が確かに存在する。

というわけで、上記が「現代人にとっての科学的説明と同じ程度に、江戸時代の人々にとって妖怪変化は合理的な説明であった」という説の開陳なのだけれども、上の説明というのは、あくまで私のこれまで三十数年の知的経験で積み上げてきた認識構造にとって最善の説明というのに過ぎないのではないか、ということが同じ推論から導かれたような気もする。つまり、自分にとってどんなにわかりやすく整然としていて合理的な説明であっても、私とは認識構造が異なっている他人にとっては、わかりにくく雑然としていて非合理的な説明になりうるのだろう、ということが私には認識できるようになった。

江戸の民衆における妖怪の合理性が私たちに認識しにくいのと同様に、私たちの科学的説明の合理性を江戸に持って行っても、理解を示すのは蘭学者だけだろう。これは時代を隔てていない同時代でも同じことであって、ここらで読んだ書籍によって思考パターンが固定化され、加えて文理問わない諸学問について、専修はしていないが一般向けの本程度なら読んだことがあるという程度の経験を共有しているような人物でもなければ、上記の説明が腑に落ちるように納得できるということはありえないだろう。

その上、「自分が他人と同じ立場だったら」と考えて行動すると90%失敗するような器質性中二病のような性格でもあるから、説明はより難しくなる。土台が違いすぎるのだ。合理的な説明というのは理に合った説明ということであって、その方法は土台となる「理」の数だけ存在する。自分に対して合理的な説明が、他人に対しても同様に合理的であるとは限らないし、自分にとって不合理極まりない説明が、別の人にとっては極めて合理的で経験を上手く説明するものになっている可能性も、同様にありうる。

私は相対論者なのでこのように考えるけれども、相対論と言っても「あれも正しい、これも正しい」とは考えず、「あの前提に立てばあれが正しく、この前提に立てばこれが正しい」のであり、かつ「一人の人間が立てる立場は限られており、有効な前提もまた限られる」とも考えている。結局は自分が正しいと思うように考え、行うしかなく、他人と折り合いが付かないのなら折り合いを付けずに放置するというのもまた、ひとつ上の水準で折り合いをつけるための有効な方法のひとつなのだろうとも思う。

なんでまた「黄金週間」にこんなことを考えなくてはならないのだろうかという気もしないではないが、こういう役に立たないことに時間を割いて考えるのが最大の娯楽でもあるので、これぞまさに大型連休ならではのレジャーと言えるかもしれない。と言いたい。と言わせて。寝る。
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by antonin | 2008-05-03 00:50 | Trackback | Comments(0)
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