安敦誌


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スリム幻想とか

今日はどうしても平日の昼間に潰さなくてはいけない用事が溜まってきたので、半休を取ってそれを片付けてきた。予定より早く終わったので駄文を書いてみる。例によって推敲までしているヒマはない。これぞ素人の書き物。

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「レコーディング・ダイエット」というのが流行しているらしい。だいたいこの手の流行というのは1、2年の周期でどんどんと新しいものが生まれ、古いものは記憶のかなたに流れ去っていくものなので、「レコーディング・ダイエット」もあと2年もすれば「ビリーズ・ブートキャンプ」や「ごはんダイエット」などと並んで流行ダイエットの歴史書を飾る存在になっているだろう。

まぁレコーディング・ダイエットそのものの評価としてはダイエット手法の中でも実効性の高い部類には入ると思うけれども、ある種の努力性向や几帳面さという性格に依存しているだけに、それほど汎用性がないという意味では過去のダイエット法と大きな違いがないだろう。効果がないのではなく、「やっぱり続かない」という人が多数を占めるという意味で、過去のダイエット法と共通しているように見える。

それはそうと、減量法が必要とされるのはあくまでも肥満体の持ち主であって、すでに個人的なベスト体重にある人が減量すると、あるいは外見的なメリットがあるのかもしれないにしても、全体的に見ればやはり何らかのリスクも一緒になって付いてくるのだろうと思う。どちらかというと肥満体の人が減量する場合にも似たようなリスクは存在するのだけれども、減量によるメリットがリスクを上回っているから、そこに価値があるということなのだろう。

それにも関わらず、多くの女性には疫学的な理想体重よりも何割か少ない体重を理想体重としている。その理由の大きな部分は、ほとんどの「かわいい」服が細身の体形に合わせてデザインされているからだろう。裸になって肉感的な美しさを持つ体形でそれらの服を着ると、服のデザインを崩してしまって「かわいくない」ということになる。一方で、裸になれば骨や血管があらわになって見ていられないような体形の女性がそれらの服を着ると、とても美しく「かわいく」見える。

デザイナーが服をデザインする際に描かれるデッサンを見ると、それを着ている女性というのはかなりデフォルメされた体形をしている。それを現実の女性が着られる程度にアレンジすると実際の服が出来上がるのだけれども、それでもやはり「現実的な」体形よりは「理想的な」体形に合うようになってしまうのは避けられない。あるいは一般女性が身に着けた状態よりも、店頭のハンガーに吊るされた状態でより美しく見える衣類だけが生き残るという、市場における淘汰が生み出した現象なのかもしれない。家庭で見ると目が痛くなるが、店頭で見ると美しい液晶テレビなどにも似たような現象が生じている。

競争が激しくなると、競争を支配する単極的なパラメータが発生することが多い。そこに現実的なメリットがある場合もあれば、共同幻想や自己目的化によって価値を発揮し始める場合がある。女性が健康な体形より痩せるということもそれに当たるし、孔雀の羽が大きく美しいというのもそれに当たる。一度ある傾向が良いものだと認められると、それはいろいろなものを巻き込みながら暴走を始める場合がある、というようなことが先日読み終えた「盲目の時計職人」に書いてあり、なるほど現代社会にもそれはあるな、と思った。

そういう現象は流行に敏感な若い女性の中にあるだけではなく、似たようなことは経済社会の中にもある。例えば、企業は無駄の排除により経営をスリム化し、経営効率を極限まで高めることで競争力を維持するということが現代では必須と思われている。けれども、そういう流れに対して「ホントかよ」というような気分もある。もちろん、銀行の投資判断を決定する指標などにすでにそういうパラメータが組み込まれてしまっているので、経営のスリム化には経済社会での実効的な力があるが、それは「痩せればかわいい服が着られる」というものに似て、ある意味で仮想的な価値に見える。

例えばトヨタ自動車が在庫を最大限に排除して在庫に関わるコストを排除すると、そこから膨大な利益が生まれる。そして大手企業がそれを真似る。そこまではいいだろう。問題は、そういう成功例が中小企業にまで波及するということだ。大企業というのは、ほっとくとすぐに余剰資本が蓄積してしまうような「肥満体質」なので、資本を減らしていくという方向はほとんど全ての場合に「改善」方向にある。

けれども、中小企業というのはちょっと資本が削られると業務が回らなくなって死んでしまうような小さな個体なので、貪欲に資本を太らせるほうが「改善」方向に向いていることも少なくない。ひとくちに「無駄」といっても、状況によってそれが指すものは違うのだけれども、トヨタ自動車の輝かしい成功例を前にして、人間はけっこう無力なものである。

生命保険と宝くじという制度がある。これはどちらも、各個人には人生を変えるような影響を与えるイベントが確率的に発生するが、それを多数まとめれば大数法則によって予測可能な一定値に収束するという原理に基づいている。ひとりの人間にとって死亡保険金の数千万円という金額は非常にありがたく、貯蓄などではなかなか実現不可能なものではあるが、大きな組織にとっては通常業務として制御可能な経費として処理できる。ひとりの人間にとって数億円という当選金は人生を変えるほどの力を持っているが、大きな組織にとっての数億円は売り上げの数千億円に対して1パーセント未満のコストでしかない。

荒っぽく言ってしまうと、生命保険商品を購入するというのは自分が死ぬほうに掛け金を積むギャンブルであるとも言える。補償期間内に死ぬことができれば大金を手に入れられるが、死ねなければ保険料のほとんどを胴元である保険会社に持っていかれて終わりとなる。もちろん理屈的にはそうなのだけれども、実際には多くの個人が負担可能な小額を持ち寄り、良心的な組織がそれを管理、分配することで、個人では背負うことができないほどの損害を受けた人を助けるという相互扶助制度になっている。

逆に言えば、ギャンブルは多くの敗者が少数の勝者に払う賞金を負担するという逆保険になっている。「負け組」が「勝ち組」に寄付するという制度がギャンブルのもうひとつの見方で、株式市場などもそうなのだけれども、現代は社会全体が賭博場になりつつあるともいえる。「格差社会」というのは「格差が大きい状態」という評価ではなく「格差が増える状態」という変化率を評価しているのだろう。ジニ係数の大小を論じてもあまり意味が無いように思う。定常状態から過渡状態に入ったことが問題なのだろう。

こういう環境の中で、保険を捨ててギャンブルに移行したほうがより儲かるという状況が確かに目の前にある。ただし、ギャンブルのメリットが保険のメリットを確実に上回るのは、大数法則の成立する巨大組織だけだ。小さな組織が保険を捨ててギャンブルに移っても、組織が吸収できないようなリスクの大波に飲まれるだけだ。

保険というのは「いざというときのために備える」ということであり、「自分より大きなものに頼る」という事でもある。トヨタ自動車のような、自分自身が巨大すぎて自分より大きな存在を探すのに困るような組織は、「いざというときのために備える」なんていうことは自分自身で十分にできるのであり、それを各部各所がやるのではなくて組織全体が代表することで、リスクに備えるコストを最小化することができる。在庫を最小化したので、自然災害発生時には工場が簡単に操業停止してしまうが、工場が一時的に停止しても痛くも痒くもない規模を持っているからこそ、在庫を持つよりもコストを削減したほうがメリットが大きくなる。

小さな町工場が同じような在庫削減をするなら、そのリスクを吸収してくれるような協同組合を作って適切な保険機能をそこに持たせなければ、ちょっとした偶発的な事故で町工場はたちまち潰れてしまう。そういう機能を持った組織がないのなら、ある程度の在庫を持つということは町工場にとっては確かなメリットがある。もちろん、非営利の協同組合がリスクをプールしてくれればその方が当然コストは下がるが、あまりそういう間接業務を非営利でやってくれる組織というのはなくて、町工場よりも格段に利益率のいい大企業がそういう役回りをしたがるので話は面倒になる。

バリバリと仕事をこなしている風でもなく、かといって部下を能率的に動かしている風でもなく、なにかというと昔やった仕事の手柄話ばかりしている中間管理職はいかにも無駄な存在に見える。給与も馬鹿にならず、それを切るメリットは大きいように見える。そういう人は企業にとって「脂肪分」なのだ。けれども、それが職場環境を殺伐とした空気から守る「皮下脂肪」として働いていれば、そこにはしっかりと大局的なメリットがある。もちろん、組織の機能を低下させるような「内臓脂肪」みたいな人が多すぎれば当然それはデメリットのほうが多いのだけれども、そうした違いというのは体細胞に過ぎない平社員にはなかなか判断がつかない。

ある鉄道のある路線が赤字を垂れ流している。そこで、乗車率の低い日中の運転を中止してみた。電力消費がいくらか減り、列車の運転距離も短くなるのでメンテナンス費用もいくらか減る。一方で朝晩は利用客が多く運転本数は減らせないので、列車台数は減らさず、人員はパートタイムを多用してむしろ増員する。これで朝晩の混雑が緩和し、乗客が増えるだろう。

しかし、その後この路線は廃線になる。なぜか。通勤や通学に鉄道を使っていた人は、そのほとんどが朝晩のラッシュ時の列車を使っていただろう。しかし何かの事情があって午後から出勤したい人や、試験や何かで昼過ぎに授業が終わる学生は、昼間の列車を利用する。朝晩に混んだ列車をあえて利用するのは、コスト的な問題も当然あるけれども、昼間でもそれなりに利用できるという見えにくい前提条件があったからに他ならない。

いくら通常利用する朝晩の列車が増便されても、座席に座って済むほどに混雑が解消するわけでもない。一方で、列車で出かけてしまえば、昼間には帰ってくることができなくなってしまう。ほとんどは列車で用事が済むのに、こういう「いざというとき」の不便のために、少なくない人が自家用車などの代替手段を選び始める。すると朝晩の利便性が増したにもかかわらず、その時間帯の利用客は減り始める。代替交通のほうは利用者が増えるに従い資金が豊富になり、ますます利便性が高まる。そして鉄道路線は廃線となる。

無駄を排除するのはいいことだ。しかし、それが本当に「無駄」なのかどうなのかを判断するというのは、簡単なことではない。「当たり前に存在するものを廃止する」というリスクを定量するためには、常識を疑って論理的想像力を働かせる必要がある。逆に、「当たり前に存在するものを廃止する」ということに、常識では考えられないほどの大きなメリットが潜んでいる場合もある。

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とはいえ、常識とはそれ自体がひとつの巨大なシステムであり、環境であり、公理系でもある。それをひっくり返すというのは簡単なことではなく、今すぐ若い女性に過剰なダイエットをやめさせることはできないし、かわいい服の売れ筋をマネキン向けからミロのヴィーナス向けに今すぐ変えることもできない。やせている子がかわいく見えるという人の意識を変えることは、もっと難しい。若い男性が眉を剃ることにどれほどの意味があるかは別として、それ自体がひとつの環境要因であって、それはそれとして受け入れるのがおそらく正しい。

常識をひっくり返していろいろな景色を見るのは楽しいが、それを現実世界に結晶化させるほどにはカエサルでもピカソでもないというのは重々承知している。そういう、頭でっかちで脂肪分で中途半端な知性に育った30代後半としては、無駄の効能というものを考えるのは結構切実な生活問題なのである。宇宙から見れば人間の営みなどちっぽけなものだが、どのような存在にとっても「等身大」の事象が一番切実で、それを大きく外れる事象というのはどうでもいい、というか、どうしようもないのである。

私は、太陽の寿命があと50億年余りしかないという問題についても、肝臓にある細胞のひとつで酵素の生産効率が徐々に低下しているという問題についても、あまりにも無力だ。太陽やひとつの細胞にとっては等身大の問題であり切実な問題なのだろうが、私にはどうしようもないし、どうでもいい。ボーナス前にある妹の結婚式の資金繰りをどうしようかというのは私にとって切実な問題だが、例えばあのイケてる評論家にとってはどうでもいい、あるいはどうしようもない問題だろう。そういう問題が、多次元空間で少しずつ重なり合いながらグラデーションを作っているようなイメージが脳内にあって、ちょっと頭おかしいんじゃないかという気もしている。

中島聡さんが「プチ変人」なるものを擁護しているが、"petit"だろうが"grand"だろうが、現実の変人というのはおそらくもっと面倒で厄介な存在である。むしろ「プチ」なだけに救いようがないかもしれない。「健全」で「常識的」で「偉大」な「変人」には、そのあたりの切実さは少ないのだろう。

Life is beautiful: 「普通そういうことしないよ」という言葉の暴力

安敦誌 : 狂気の淵

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というわけで出社の時間と相成りました。行ってきます。
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by antonin | 2008-05-22 12:08 | Trackback | Comments(0)
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