安敦誌


つまらない話など
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信仰とか

私自身のことを言えば、世間一般でいうところの「無宗教」に該当するとは思うのだけれども、厳密に言うと「科学の徒」なんだろうと思う。つまり、通常の宗教に分類されるものを信仰している人の考えのうちで、宗教が説く教えに相当する部分の多くを、私の場合は科学理論が埋めている。そのため、私にとっては科学が信仰の対象であり、宗教であるといえる。

けれども科学というのは、従来の宗教が広く備えていた特徴のいくつかが欠落しているし、なんといっても科学を信奉する人は科学が説く教えが唯一絶対普遍の真理と信じて疑わない傾向が強いので、科学が数ある宗教と同じような性質を持っていることを感じ取ることができず、それを認めることができないのだと思う。

科学に何が欠けているかと言うと、それは「超越者」である神とか仏の存在、あるいは「死後の世界」の存在などを前面に出すといった特徴である。科学はそれを認めなかったり、あるいは積極的に否定したりするので、宗教ではないように見えるし、宗教ではないと信じている人も多い。ただ、中世キリスト教が近世の哲学にその絶対的権威を突き崩されるときの話などを読んでいると、当時のキリスト者が信仰していたものと現在の科学の徒が信奉しているものには多くの共通点があるようにも見える。

キリスト教の教義の中で育った人間にとっては、その教義とは世界を矛盾なく説明するものであり、それは信じるとか信じないというレベルは遠い昔に解決された問題であり、キリスト教の教義というのは、世界の真理そのものであったように見える。信じるも何も、世界はそうなっているのであり、あとはそれが理解できるかどうか、多くの説話を知っているか、あるいは無知であるかという違いだけでしかなかった。

ところが現代においては、科学的理論こそが世界を矛盾なく説明できる世界の真理そのものであると信じられており、大学の理工系で教鞭を執っている人々と市井の研究者でその理論解釈に食い違いなどはあるにしても、科学理論が究極の真実を語っていると素朴に信じている人は実に多い。そしてそういう視点から見れば、ありとあらゆる現象は科学によって説明されるべきだし、ちょっと怪しげなものにも科学的な説明を与えることによって、科学の威光にすがることが可能になる。

科学研究を仕事にしようというような人であれば当然、科学的手法に対する信頼度は高いし、そこから多くの「真理」を見出すことができるということは信じている。けれども、科学に対する理解が深まれば深まるほど、それが単なる道具に過ぎず、科学的手法を使って多くの自然法則を見つけ出したところで、それは「真理の大海を前にして、その波打ち際でひときわ美しい貝殻を見つけては喜んでいるだけの少年」のようなものでしかないという実感を抱くだろう。

逆に、科学に対して素朴な全能感を抱いているのは、案外に科学を知らない世間一般の人々であり、科学理論の危うさを知らない人々であったりする。そしてそのような人々は、神学の世界で戦わされてきた、神の全能性を疑う強力な論駁の数々を知らないような素朴なキリスト者のように、ほんのちょっとした「奇跡」によって科学への素朴かつ強烈な信仰をたちまちにして失ってしまったりする。可愛さ余って憎さ百倍という感じである。

私は科学的な世界観を信奉しているので、「全知全能にして世界の創造者である唯一神」の存在を信じない。しかし、「存在することを信じていない」のであって、「存在していないことを信じている」のではない。存在するとも存在しないとも信じていないのであり、どちらでも私には関係のないことだと思っている、というのが正しい。

ところが、たとえばドーキンスのように、神と神の子イエスの神性を当然のように信じる社会で育った人間が「神の存在を信じる」ということを中断するには、非常に大きな心理的ショックが発生する。そのあまりにも大きなショックのために、彼らはしばしば「無神論者」、つまり、神が存在しないということを積極的に信じようとする姿勢にまで劇的に変化してしまう傾向が見られる。

しかし、私にとって神とは、町ごとの神社に祭られている存在であったり、時としてそれは如来や観音が姿を変えて現れた「権現」であったりする。そういう八百万の神の潜在性が否定されたからといって、それほどに大きなショックはない。なので、「神が存在することを信じない」ということが、すなわち「神が存在しないことを信じる」というところまで大振れしてしまうことはない。

そうした「無神論者」と似たような現象が、科学に素朴な万能感を抱いていた人にも起こりうるのだろう。そこでは、「科学で世界の全てを説明することはできない」という、ごく当たり前の話を聞いただけで、一気に科学の全てを否定するような立場に転向させてしまうのだが、これは無神論者と同じような大振れなのではないかと思う。

科学とはつまり、算術による世界観なのではないかと思う。全ての関係を論理的に構築し、その関係を最も美しく記述できたとき、それは抽象の極みである数式として表される。そして算術の起源は、通商の発達にあるのだろうと思う。

古い世界では、人間は人間同士の関係と、人間と自然世界の関係という、二つの関係しか持たなかっただろう。そしてより理解しやすかったのは、人間同士の関係であっただろう。親が子を養い育て、時に叱り、時に褒め、時に怒り、時に愛し抱きしめる。そしてそういう親子関係の延長上に領主と領民の関係があり、そこには人間には理解しやすい多くの原理原則や、法則類が成立した。それは人間が家族、親類、類縁によって部族社会を形成して、厳しい自然の中で生きていくのに必要な法則だったのだろう。

そしてそういう法則を共有した組織が、人間と自然世界の関係を分析するのにもっとも簡便かつ有力な方法というのは、人間社会の法則を自然世界にも当てはめて理解することである。人間社会を理解する理論の延長として自然を理解することである。

自然現象というのは、どんなに力が強く、どんなに知恵が働き、どんなに信頼の置ける「人間の」統率者でも統御しきれないものであり、そこにはどんな人間よりも偉大な統率者が支配する世界があると考えるのが、もっとも理解しやすい。そしてその偉大な統率者は通常、神と呼ばれる。

ある分野の自然現象を説明するのには、それぞれの分野で独立した原理原則が必要であり、多くの地域ではそれらの分野にそれぞれ独立した神を配した。これが多神教の起こりだと思われる。しかし、荒れ野という均一な環境で羊という均一な食料資源を養うという、ひとつの分野で生計を立てる民族があり、そこでは唯一普遍の神が信じられた。これが一神教の起こりだと思われる。そしてどいういうわけか、今日では一神教が広く信じられるようになった。

擬人化された自然法則というのは、多くの人間にとって直感的な理解が簡単であり、非常に強い説得力を持っていた。自分を守ってくれる両親を敬う。両親を守ってくれる領主を敬う。そして人間を養ってくれる自然そのものである神を敬う。こういう自然な理論の拡張が行われる。

そして現代は科学の時代でもある。これは、一神教以上に単一原則的な信仰でもある。世界には数式で簡潔に記述できる因果関係があるとか、それ以上の「意思」が入り込む余地がないとか、そういうものである。その起源はどの辺りにあるのだろうか。

その前に、数式や数学というものの起源をたどると、それはやはり商業に至るのではないか。一匹の羊、一個のリンゴ、一粒の金、一袋の麦、一片の干し肉。そういうものを取引する中で、自分が損をしてしまわないように、そして相手に損をさせて怒らせてしまわないように、客観的な公正さを期するために生まれた技術というものが算術であり、数学とは算術を発展させたものなのだろうと思う。

現代の数学者が金銭的損得に対してそれほど貪欲ではない場合が多いにしても、とにかく数学の特徴というのは、客観的説得力の強さである。家族の中、親戚の中、部族の中では必要のない客観性が、他部族との通商では必要になってくる。そういう、信用の置けない外部との接触において、最大限の公正さを努力しようとして生まれたのが算術であり、その末裔が数学であり、客観性に最大限の重みを置くのが数理科学であるというのは、必ずしも偶然ではないように思う。

科学とは公正さに最大限の重みを置く。そして、公正さを約束できない部分には、信頼よりも懐疑的、批判的態度を置く。そしてその懐疑や批判を打ち倒すに十分な客観的説得力を持った結論だけを採用するのが科学である。それゆえに科学は、客観的に説明可能なもの以外には、いかなるものも説明しようとしない。神の存在も、神の非存在も、どちらも主張しない。それが公正であると考えるのが、科学である。そしてこの「最小限の説明」こそが、科学の強みであると信じている。これが私の「信仰」である。

ところが、この科学の「控えめな」性質のために、科学というものにはどうしようもない「救いの無さ」がある。「神はいるのか」という問いにも、「死後の世界はどんなものなのか」という問いにも、「絶対的正義とは何なのか」という問いにも、それぞれ「なんともいえない」としか答えられないのが科学なのである。自然現象の多くも説明できるし、人間の生活には役立つ道具も作れるが、人間の切実な問いの多くには強力な回答をしないのが科学なのである。

これは、科学万能の時代の人間が喪失してしまった重要な何かでもある。私は神も仏も信じないが、神や仏を信じることで人の心が安定し、そして誠実であったり力強く信頼できたりする人間を作り出すことも知っている。なので、科学と科学でない思想とが、お互いを補うような相補的関係で共存できれば、それは素晴らしいことであると考えている。

死後の世界はどういうものか。私は「そんなものはない」と信じているが、それは科学的な態度ではない。科学的態度では、それを実証できなければならないのである。しかし、複数の手法によって死後の世界の実在を示す報告は無く、そもそもそんなものは無理だろうと思われるが、そんなものは無理だと言い切ってしまうことさえ、科学的ではないのである。それは実証されなければならない。

とはいえ、神経電位の法則を示す数式や、膜電位の変化を伝達するシナプスの動作や、そしてそれらに影響する神経伝達物質という生理化学的なシステムを理解していれば、人間の意識、もっとそれらしい言葉を使うなら、人間の「魂」とは、脳という物理機構によって実現される情報処理を「内側から」観測したものに過ぎないと、コンピュータのハードウェアとソフトウェアとの関係と、脳と意識との関係の類似性から推測することができる。

このアナロジーが客観的数理関係として成立することはまだ実証されておらず、したがって単なる仮説以前の空想の段階でしかないのだが、私自身にとってはかなりもっともらしい解釈として感じられている。科学としては成立しないが、信仰としては成立しているのである。この信仰によれば、人間の死後は、その「ハードウェア」としての脳組織が崩壊することで、そこで実現されている機能、あるいは「ソフトウェア」としての意識は、どこか別のところに移動するのではなく、単にまとまりを失ってランダムノイズの中に消えると考えられる。

けれども、このあまりにも即物的な「魂」の解釈は、現実の「魂」あるいは「精神」の苦悩に対して、あまり救いとはならないばかりか、逆に苦悩の種とさえなる。特に、若くして死亡率の高い病気に罹患したり、あるいは単に老化で死が近いような人にとって、不安ばかりを与える解釈でしかない。

「魂」がすっかり消えてしまうだけの死後を、私はほぼ「真実」であると理解しているけれども、その真実があまりに毒気が強いこともまた理解している。養老孟司さんが著書の「唯脳論」の中で、脳が「形」であり、意識はその「機能」であって、それは一つの物を二つの側面から見たものに過ぎないということを述べていて、確かにそのとおりだと思ったのだけれども、同時に述べられていた、若い頃は心身一元論を説いていた学者が、晩年に二元論に傾いたことを批判した文章では、それはちょっと厳しすぎるのではないか、という感覚も同時に抱いた。

私も、「サンタはいない」ということを真顔で子供に言おうとは思わないし、同様に、死が近づいていることを気に病んでいる人に向かって、「魂は死後消滅する」などということを得意げに言おうとは思わない。それは、真実がどのようなものであるかという信念とはまったく別のものだ。

私自身は神が存在するとは信じていなくても、ある人が神は人間の善行と不善を常に見守っていると信じており、またそれらは死後の裁きで必ず認められると信じており、それによってその人が世間の不条理に対して心を強く保ち続けることができるのならば、それを積極的に認める。その価値は、おそらく真実を知るという価値を超える。

死後の世界が存在しないとするならば、人間は現世で全ての利益を受ける必要がある。死後もない、来世もないなら、そう考えるしかない。たとえダーウィニストでも、自分の遺伝子を伝える子供たちや、自分と多くの遺伝子を共有する人類の永続のために捨て身の献身さえできるけれども、それでも死後の世界で厳格無比の神による裁きが自分自身の善行に正しく報いてくれると考えるほうが、はるかに強い気持ちで献身ができるだろう。これは人間の尊敬を集める偉大な行動として現れやすい。

ただ、我々のような自称無信仰の人間が従来型の宗教を嫌う理由の一つは、彼らが自分たちの信仰を絶対に正しいと信じて我々に押し付けてくるという点にある。彼らは彼らの信仰が絶対的に正しいと「信じている」のであって、その正しさを広く認めさせたいと考えるのは当然かもしれない。私たちだって、科学教育にもっと力を入れろと主張することがあるし、それは「科学の徒」の勢力を拡大せよ、科学の正しさを遍く広めよ、という主張に他ならない。それと同じことを、他からされるのは嫌だといっているのであり、身勝手な傲慢でもある。

そして、我々のような自称無信仰の人間が従来型の宗教を嫌う理由のもう一つは、信仰を持つ人々の誠実さと献身が、信仰を説く側の人間の現世利益を実現するための道具として利用されるように見えることが、非常に頻繁に見られるからでもある。

募金を集め、それに自己の稼ぎから幾許かを添えて、災害や病気に苦しんでいる人の救済のために使う、大変崇高な活動をする宗教家がいる。その一方で、病気や人間関係におけるトラブルの原因を霊的なもので説明し、それを解決するために多額の金品を要求し、それを拒否すれば、地獄へ落ちるだの末代まで不幸になるだのと悪質な脅しを繰り返す団体を多く目にしてきたからでもある。

もちろん、それらはまったく別のものであることも多い。しかし我々をより混乱させるのは、上層部が悪徳でも、下層部の活動家は全く以って純真で、あまりにも無垢であることもまた多いという事実である。そういう現象のために、目の前の、信心深く誠実で、我々の悩みに対して熱心に耳を傾ける人に対して心を開く前に、その背後にある悪徳に怯えてしまうのである。

そして最後に、我々は家父長的な優しさと厳しさを兼ね備えた統率者を頂点とする同族的社会の温かみに親しみを覚える一方で、その頂点がアブラハムやモーセやイエスやムハンマドに直接啓示を下した唯一神であるという考えに全く同意できないのである。念仏を唱えるだけで阿弥陀如来が西方浄土に導いてくれるという考えに全く同意できないのである。御霊となって社に宿るという考えに全く同意できないのである。

生活面での精神のあり方を論じる前に、この相違はどうしても無視できない。全く不幸な死に方をした人々が、死後に報われて幸せに暮らしているのだとすれば、今に生きる我々の気持ちも確かに安らぐ。しかしそういった説明のどれを取っても私としては信用することができない。

科学を信じる者としては、自分自身としてはそういうどうにも救いようのない世界観を持ちながらも、死に向かう人に向かって「死後の世界は存在しないだろう」などという気の利かない押し付けをするようなことだけは避けるべきである。そういうことを、科学の徒は良心的自戒として持たなければならないのだろう。信仰は自ら抱くものであって、人に押し付けるべきものではないのではないかとも考えている。
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by antonin | 2008-05-26 01:54 | Trackback(1) | Comments(4)
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Tracked from 心と生き方を磨く名言 at 2008-05-26 04:28
タイトル : 心と生き方を磨く名言
心と生き方を磨く名言... more
Commented by fazero at 2008-05-26 17:58 x
こころ の よわい ひと、 わがまま な ひと わ、 しうきおー だいすき に なる みたいや
と とーちゃん に ゆーたったら
「あほか、いまごろ そんなこと ゆーてるのか、 とっくに わかっとらな あかん ことや。 おまえ かて いまからでも しうきおー はじめられるん やで。 ぜーきん やすいので おーもーけ」 と ゆわれた
ぼく の かみさま わ かえる の かみさま やので、 きらく やよ
かみさま むし が とんでるお
ぱくっ
Commented by antonin at 2008-05-26 20:27
きゃーあっ、悪徳よーーーっ!!

まぁ、科学が通商の次男なら、経済は長男だからなぁ。科学が宗教という文脈なら、拝金教も立派な宗教だよなぁ。

神だろうと仏だろうとカネだろうとスパゲティ・モンスターだろうと、強い確信がある人は実際強いよねぇ。

わたしゃ心が弱いので科学にすがっております。ありがたや、ありがたや、南無量子統計大菩薩。かえるはミュー・ニュートリノの本地垂迹なりよ。
Commented by 一般法則論者 at 2008-05-27 03:03 x
 天然自然の存在の創造主である神について
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
  一般法則論
Commented by antonin at 2008-05-27 12:48
コメントありがとうございます。
トラックバックとかもありがとうございます。

奇しくも現代日本の精神思想のありかたがくっきりと現れたわけなんですけれども、科学理論の限界の向こう側にあるもの、つまり物理法則が存在するのはなぜかとか、公理系のさらに前提を論じるような世界では、科学は宗教思想に勝ち目がないんです。実証しようがないんですから。でも、心の問題はもっと身近なものであるはずです。

そして、科学的世界観を認めた上で、先人の警句を短く切り出して引用するというのもよく行われています。しかし、先人がその宗教的あるいは思想的な世界観から生み出した警句を、そうした文脈を断ち切って現代にカットアンドペーストするのは、なんだか失礼なような気がするんですよね。それに、有機的に結合していない教訓は再生産性にも乏しい。

そうではなくて、創造主や先祖霊ではなしに私たちが信用する物理法則を出発点としながら、なおかつ人間味あふれる教父さんやお坊さんの言葉のような生活レベルの法則に落としこめるような成熟が、現代科学には欲しいなと思うんですよね。意識もまた物理現象であると言うなら、そういう落とし前もつける必要はあると思うのです。
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