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安敦誌


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時間論とか

子供の時間と、大人の時間というものがある。

「もう子供の時間は終わりよ、寝なさい」

なんてことを子供の頃に言われた記憶があるが、今回はそういう話ではない。またいつもの面倒な妄想だ。

いつぞや友人と久しぶりに再会して話をしたとき、お互い歳を取ったな、最近は時間が経つのが早いな、などという話をした。これからもっと歳を取ると、もっと時間は早く流れていくのかね、なんて話になり、勢いに任せていくつかの仮説を挙げてみたが、雑談だったのでそれ以上は発展しなかった。今日はこの辺りを書いてみようと思う。

人間の意識が感じる体感時間というのは面白いもので、現代では時計という物理時間を正確に知る道具があるから、体感時間と物理時間の間の不規則な揺らぎのようなものを誰しも経験することができる。楽しいことをしているときは一日があっという間に終わるし、退屈な一日は耐えられないほどに長い。ちょっと物思いにふけって、遠い国へ出かけて帰ってきたような空想をすることがある。物思いから我に返って、いかんいかん、さぞかし時間を無駄にしただろうと思えば、時計を見るとものの5分ほどしか経過していないということもある。

そういう短期的な体感時間の変動とは別に、誰に聞いてもだいたい同じような意見が返ってくるのが、歳を取るほど時間の進みが早くなり、一年が短く感じられるようになるという変化だ。自分自身の記憶をたどっても、小学校一年生から二年生に上がるまでの一年間は、一年前のことが遠い過去のことと思えるほどに長かった。小学校五年生の頃に組んだ3年定期預金を中学二年生になって満期解約で受け取ったときには、永遠に思えた3年間も、やはり終わりを迎える時が来るのだなという、今から思えば相当に大げさな感慨にふけった記憶がある。

それがいまや、1年などは生活の身近な1サイクルに過ぎないし、3年というのも感覚的に扱い易い手ごろな時間単位でしかなくなった。この違いを生む原因というか、1日や1年を短く感じさせる理由の説明を色々と聞くが、その全てが同じようなモデルに基づいているというわけでもない。ちょっと比較してみよう。

一番よく聞くのは、それまでに生きてきた年数を基準としてと目の前の時間の長さを判断するという説明だ。つまり、6歳の子供にとっての1年とは、人生の1/6、百分率なら16.7%程度の期間に相当する。これは36歳の私にとっては6年に相当する時間である。物心が付く4歳あたりを基点とすれば、当時の1年は人生の50%であり、現在の私にとっての16年に相当する。同様に18歳当時の私にとっての7年に等しいということになる。こちらのほうが経験的な感覚に近い比率と言える。

このモデルでは、一年の長さはほぼ年齢の逆数に比例する。私が72歳になった頃には、1年が今の半年と同じ程度に感じられる計算になる。まだまだ時間は早くなっていくが、その変化の度合いはだんだんと緩やかになっていくはずである。

他の説明も可能である。それは、スケーリング法則によるものである。哺乳類の心臓の鼓動の早さ、心拍数というのは大まかに言って体重の-1/4乗に比例するのだということが、名著「ゾウの時間 ネズミの時間」に書かれている。生体の時間の進みというのは体が大きくなるほどゆっくりになり、結果として寿命が伸びたりする。一方で物理時間のほうは(静止系ならば)一定の速度で進むから、相対的に体感時間はどんどん短くなり、時間は早く流れるように感じられるようになるかもしれない。

この本の結論の面白いところは、一生のうちに心臓が打つ心拍数の累計が約40億回程度の固定値になるということだった。これは、流体力学でのレイノルズ数のように、分母と分子のディメンジョンが一致してしまうことにより、単位の取り方によらない定数として意味を持つという意味であり、哺乳類の体重に影響を受けない、寿命推定のための指標になるという説だった。

人間も含めた哺乳類の体には、心拍というクロックパルスがあり、それに対する相対時間で時間感覚がきまるというモデルも立てることができる。荒っぽく体重の-1/4乗に比例する係数を掛けると、小学校入学時の体重がたしか18kgぐらい、今はその3.5倍くらいの64kgだから、1年の長さは当時の73%程度に縮んでいることになる。これは感覚の変化に対してかなり小さすぎる変化率と言える。

しかも、身長としての成長は18歳辺りでほぼ終わっているから、その後はほとんど体感時間に差はないということになる。高校卒業時の体重が57kg程度だったから、そこからの18年で体重は12%あまり増加しているが、そこから計算される体感時間はわずか3%程度しか短縮されていない。これは感覚に全く一致しない。

ほかに考えられる要因としては、単純なプロセッサ・クロックの問題である。小学校六年生の頃には複雑な計算問題を手計算で手際よく解いていたし、中学生の頃は弾幕乱れ飛ぶシューティングゲームでジョイスティックを華麗にさばきつつ、弾道を推測しながら瞬時に動くべき道を計算することができた。それが今では、色々な知識や経験は積みあがったものの、反射神経を要求されるゲームではかつて足元にも及ばなかった妹に打ち倒されてしまう体たらくである。

脳の処理速度が低下しつつあるのならば、相対的に外界の時間経過が早く感じられ、結果として一年が短くなっていくという現象も理解できる。このモデルの悲観的なところは、「脳トレ」やそれに類する訓練を続けない限り、今後ますます脳の「クロックスピード」が低下を続けることも予想されるという部分である。高齢者の総合判断力や判断速度の低下は、高齢者による自動車運転などを見ていても明らかである。

もちろん個人差や脳の使い方などによる差があるにしても、72歳になった自分にとっての1年とは、今の半年分どころではなく、3ヶ月か1ヶ月かというように、加速度的に短くなって矢の如き光陰は衰えることなく加速していく可能性があるということである。72歳の自分は今の自分よりおそらく賢いだろうが、発想は単調になり判断も鈍いというのは容易に想像できる。これは成長期と老衰期に感覚時間の加速が集中し、壮年期ではあまり大きくは変化しないというモデルになるだろう。

まだ説明の方法はある。クロック・スピード・モデルに近いが、1年の長さを測る指標となるのは、1年というのが現在に対してどれぐらい過去の出来事と感じるかということにも関連している。1年前を昨日のことのように思えれば1年は短いし、遠い過去のように感じるならば1年は長いということになる。これには、1年前の出来事がどれだけ印象に残っているかという要素もあるが、1年前が何ステップくらい前の出来事かという、記憶量の問題ではないかとも考えることができる。

つまり、昨日が今日より過去であることを記憶している。おとといは昨日に比べて過去であることを記憶している。その前はおとといより過去である。こういう積み重ねを体感時間の長さと考えるならば、夕方に今朝のことを思い出すのに10ステップほどを要するほど記憶力旺盛な子供であれば、1日は長いだろう。それが、午後は仕事をした。昼は飯を食った。午前中も仕事だった。という3ステップ程度で済んでしまう大人は、これだけで1日の長さが30%に短縮されてしまう。これを1年365日に拡張しても似たような説明は可能だろう。

落ち着きがなく、勉強も1日に6教科も学ぶ上にその合間の休み時間には色々な遊びもして、家に帰る前に習い事をして、家では宿題とゲームをして寝るという子供と、通勤、1週間スパンの仕事と無駄な会議で1日が終わってしまって、帰ったら飯、風呂、寝る、週末は体を休めるのと子供の世話で終了、という大人とであれば、1日当たりの記憶の累積数というのは大きく異なる。その積み重なった記憶の厚みが1年の長さになるとすれば、子供や若者の1年は実に長くて当然ということになる。

このモデルによれば、老人になって、単調な毎日を坦々と生きていれば1年はいくらでも短くなるし、逆に多くの友人に囲まれて1時間ごとに新しい遊びを探して走り回る好奇心があれば、多分大学生などと変わらないくらいに遠い1年前を思い起こすことができるということになる。

さて、現実に一番近い加齢と体感時間との関係を説明可能なモデルは一体どれであろうか。感覚を定量化できないのが痛いところだが、そのうちこの辺りのモデルも高い確度で特定できるようになるんじゃないかなどという期待を持っている。70歳まで生きたいなどと思うとはかつて想像だにしなかったが、心の欲するところに従っても矩をこえないのだとか、高音域が今以上に聞こえなくなるのだとか、視野テストをすると確実に狭まっているのだとか、そういう加齢現象を自分自身をテストデバイスとして観測してみるというのはなんだか面白そうだ。


意識は脳というデバイスに乗っているのであり、意識が検出する時間というのは物理時間だけではなく脳の処理速度というベースタイムの影響を受ける。私たちは時計を見るという物理時間の観測が可能なので、脳の処理速度だけを時間の基準にしないで済んでいるというだけのことだ。

コンピュータ・ソフトウェアは自分自身の実行に関わる時間経過を、命令をいくつ実行したかという単位で計測することができるが、この単位はプロセッサに供給されるクロックスピードでいくらでも変わるうえ、マルチスレッドやマルチタスク環境では実行時間以外は時間が停止しているから、スレッドごとの時間経過は、それらの優先度やキャッシュヒット率などの影響を受けて不均一になる。そして物理時間との関係ともなると、水晶振動子を使ったタイマとのI/Oが利用できなければ、物理時間を知ることさえできなくなる。そういう状況におけるソフトウェア水準での時間とは、命令実行の回数でしか指し計ることができない。

我らが物質世界でも同じようなことは起きていて、素粒子がある状態からそれに続く状態に移行することで時間が経過する。慣性系、つまりひとまとまりの多数の粒子がみな同じ移動をしているとき、そこで進行する変化というのはどの粒子でも等しい。しかし、慣性系が異なると、つまり相対的な運動が大きくなると、それぞれの慣性系で時間の進み具合が変わってきてしまう。

粒子が移動するというのは、ある位置にいた粒子が消えて、少し移動した位置に新しい粒子が生まれるということである。これを繰り返すと粒子は空間を移動していく。これは「生物と無生物のあいだ」という本で福岡さんが言っていた「動的平衡」そのものである。

ある地点にあった粒子と、それが移動していった先の粒子では、構造は保持されているので同じ粒子だといえるが、その構造を構成している要素はごっそり入れ替わってしまっている可能性があり、そういう意味では同一とは言えない、ということである。福岡さんの定義によれば、素粒子もまた生きているといえるのだろうか。

飽和水蒸気圧にある空気と接している水は増えも減りもしないが、水面の水分子のいくつかは運動量の揺らぎによってときどき空気中へ飛び出していく。しかし、空気中に飛んでいる別の水分子のいくつかは、水面に衝突して液体に戻る。個々の水分子は絶えず振動したり移動したりしている。ただ、水は水分子の莫大な個数のあつまりなので、統計的スケールで見れば水は減りも増えもしない。減りも増えもしないが、個別の分子原子は次々に入れ替わっているのと差がない。平衡とは本来、微視的には動的なものが巨視的には釣り合って動かないように見える状態を指しているので、「動的平衡」というのは「頭痛が痛い」というのに似たおかしさを含んだ言葉である。

話がそれたが、素粒子が4時限時空を移動するにはそれ専用の工数が必要になるらしく、空間方向に高速で移動する粒子はその移動速度が大きくなるほど移動のために工数が食われてしまう。このため、粒子の状態を更新して時間軸方向に移動させるために割ける工数が減少してしまう。空間軸速度のために時間軸速度が変動してしまうことによりマクスウェル方程式はうまい具合に保存されるが、電磁波の媒質であるエーテルは見えなくなってしまう。物質が知ることのできる時間とは、マクスウェル方程式に沿って物質が変化した度合いでしか指し計ることができない。

そして、その背後に「物質を時間変化させたり、物質を空間移動させたりするための『工数』は一定である」という事実が浮かび上がってくる。現在私たちが慣れ親しんでいる時間というものは、ニュートンが想定したような客観的で普遍的な絶対時間だけれども、相対論的世界ではそれは否定されていて、物質そのものが時間を担っている。なおかつ、その時間の進みは相対的な運動量によって変化してしまう。

しかし、物質を空間的に移動させたり時間的に過去から未来に向かって変化させたりという一般的な物理原理が存在するならば、その原理の裏側では、私たちに観測可能な物質の4時限空間での移動を実現してる下位構造があり、そしてその「工数」が一定であることから、素粒子という単位が見えるよりも下位の世界では再びニュートン的絶対時間を想定することも、その可能性が現れてくる。もちろんその更に下位構造すら想定可能ではあるのだけれども。


私の思考は大脳前頭前野に現れる記号的神経興奮パターンの逐次的呼び出しによって実現されており、その速度というのはパターン間の連想記憶呼び出しの速度に支配されている。そしてその連想記憶呼び出し速度は、脳神経のインパルス密度やミエリン鞘に包まれた軸索をスキップ伝達する活動電位の伝達速度に依存している。そして脳神経のインパルス密度は細胞膜を挟んだ濃淡電池がイオンチャネルの開放によって一時的に反転する化学現象に依存している。

化学現象は量子電磁力学に依存しており、その運動は古典動力学と光子を媒体とした量子電磁気学のハイブリッドで説明される。神経細胞もまた分子やイオンが従う量子電磁力学に依存している。そして分子や原子を構成している素粒子の運動はディラック方程式のような相対論と量子論のハイブリッドで説明される。分子やイオンの振る舞いはこれらの量子化した引力と斥力に依存している。

そして、時間とは運動量と相関を持った可変値でしかない。ボーアは運動量と空間位置を独立に求めることはもはや放棄されるべきだと言った。時間もまたそれらの相補的な物理量の一側面を切り出したものでしかない。時間とは物質が持っている物理量の一種に過ぎない。そして、物質に時間や運動量や質量などの属性を与えている下位構造を想定するとき、そこには物質時間とは別の、よりシンプルな時間システムが潜んでいる可能性がある。

こういう見通しがあって、私は絶対空間や絶対時間というものを簡単には放棄したくない。もちろん現実は小説より奇なのであって、実際の絶対時間は私が想像するほどにはシンプルではないだろう。量子の世界がアインシュタインが想像するほどにはシンプルではなかったのと同じように。しかし、波動方程式で求まるのは粒子の存在「確率」でしかないなど、隠れたパラメータの見つかる余地はまだまだある。

ベルの不等式などで素朴な局所的パラメータの存在は実験的に否定されたが、局所性にこだわらないパラメータだとか、ベルの計算の前提に入っていた常識をほんの少し崩すことによって、量子の確率的現象をより個別確定的に説明する理論が見出される可能性はある。その段階で、物質時間を含めた物質世界の物理現象をドライブしている下位構造が予言されるかもしれない。そこには物質時間とは別に、均一な絶対時間のようなものがあってもかまわない。意識上の感覚時間から比べれば物質時間が絶対時間のように見えるのと同じように。

ハイデガーに「存在と時間」という著作があるそうだが、アウグスティヌスも考えたような「時間とは神の創造物である世界に与えられた属性の一つである」というアイデアは含まれていたのだろうか。科学知識を援用しない純粋思考的哲学は隔靴掻痒のもどかしさがあるのだけれども、「存在と時間」が発表された1927年というのは、1916年発表の一般相対性理論よりも10年以上も後の時期ではあるので、相対論や量子論の思考法なども直接伝聞ではなくとも間接伝聞としてハイデガーにも影響していたことだろう。

量子の振る舞いも、波動方程式に従う統計的振る舞いだけではなく、全く予測できないように見える個別の粒子的振る舞いを精密かつ大量に観測することで、ボーアが論じるべきではないと言っていた下位構造が、ひょっとすると少しずつ見えてくる可能性はあるのではないかと思っている。真空管の時代には周波数領域でしか議論できなかった高周波信号も、今では波形を直接観測できるようになり、時間領域での議論が可能になっている。ジッタやスキューはもはや個別に観測可能な事象なのであり、統計量に埋もれてしまうような事象ではなくなっている。観測技術の発達によって、科学的に議論可能な領域の限界というのは常に変化するものだ。

意識、クオリア、物質、運動量、質量、時間。これらは全て「情報」という単一要素に還元できるのではないかという強迫観念にとらわれている。数式で記述される全ての物理法則は、情報と情報の演算結果によるものと説明できる。

私たちが見ている景色は光子という情報の塊が視神経に起こした情報を、神経インパルスという形で脳に伝えた情報そのものだし、外界の全ては神経インパルスとしてしか私の意識の中には入ってこない。情報そのものである意識にとって、外来情報とは実在そのものである。物質もまた情報であり、情報だからこそ意識にとって観測可能なのである。

物質という情報を変化させる効果のある情報は、物質という概念から見れば立派に物質である。質量とはエネルギーと等価なものであり、エネルギーとは情報と等価なものである。ならば、質量すなわち物質が情報と等価なものと考えてもそれほど不可解ではない。ある粒子が陽子ではなく中性子であるというのは情報なのである。周囲の物質との相互作用の性質の違いという演算結果から物質を定義しているのである。そしてこの世界に情報が存在することを合理的に説明しうる下位構造が見えてくる時代が来るのではないか。

父なる人格としての神から、数式としての神へ。数式としての神から、演算処理装置としての神へ。

なぜ私には意識があるのだろうか。それは脳神経が神経電位インパルスを使って情報処理をしているからだ。なぜコンピュータはプログラムを実行するのだろうか。それはトランジスタで作られたオン・オフスイッチが電荷を堰き止めたり流したりを繰り返すことで他のトランジスタ式スイッチを操作し、またそのオン・オフ信号の流れはクロックパルスとラッチで同期させたりすることができるからなのだ。

なぜ物質は物理法則に沿って振舞うのだろうか。それは簡単なルールを恐ろしく大規模で繰り返し実行できる下位構造があるからなのだ。脳が神経細胞という比較的シンプルな装置の集積体であり、コンピュータがトランジスタという比較的シンプルな装置の集積体であるのと同じように。

その簡単なルールで刻々と更新される情報が物質であるのだ。その情報を私という情報塊から観測すると、自分自身を物質塊だと信じ込んでいる情報塊である私には、自分同様の物質としてしか見えないはずなのである。コンピュータ・プログラムから見たマップドメモリは、彼から見れば触れることのできる実在と感じられることだろう。


こういうことを考えるのは実に時間の無駄だ。けれども最高の楽しみでもある。競艇場で舟券を握り締めてボートの着順を予想してみるのと、ここで量子論的世界の先を予想した誰も読まない駄文を書き散らすのとでは、どうやら大差はないのだろう。それはそれで別にいいんじゃなかろうか。
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by antonin | 2008-05-30 01:18 | Trackback(1) | Comments(0)
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