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安敦誌


つまらない話など
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美とか価値とかそこらへん

新しい職場の若い人が、ある寿司屋の寿司が不味いと言う。それに誰かが賛意を示すと、「お、魚の味がわかりますね」などと言う。バカヤロウ。私はあの手ごろな値段の寿司が大好きだ。

かつて、ある有名人が「メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲が好きだ」と言うと、それを聞いた、梨園に籍も持つある大物俳優が「まだそんなものを聴いているのですか」などと応えたという。バカヤロウ。私はあの協奏曲の謡うような第二楽章が大好きだ。手垢の付いたドヴォルザークの音楽が今でも一番好きだ。理論の裏付けがないと聴けないような晦渋な音楽は大嫌いだ。

NHKでかつて大好きだった「世界美術館紀行」という番組が終わり、「美の壺」という番組に切り替わった。これから余暇を楽しむべき団塊の世代あたりに向けて、日本の美の「ツボ」を説明してくれる。これがわかればあなたも日本の美がわかりますよ、という具合だ。バカヤロウ。美とはセンス、つまり感覚であり、理屈で説明するほど野暮なものはない。

しかし、なんというか、私は魚の本当の味を噛み分ける舌も持たないし、演奏の味を聴き分ける耳も持たないし、美術品の価値を見分ける審美眼もない。そして、その先に何らかの世界があることも予想がついている。ただし、それは私には解らないものなのだ。そして、そういう「センスのない」人間は、今日も馬鹿にされ続けている。

美とは、醜と対を成す概念であり、美とは快楽であり、醜とは不快なのである。そこには良いものと悪いものという厳格な序列があり、なおかつそれは極めて感覚的なものなのである。しかしそれでもなお、美とは理論によって構築可能なものでもある。凡庸な感覚だけに頼った美的センスは、低俗なものとしてあしらわれる。これはなぜか。

発達心理学の世界では、赤ん坊には「快」と「不快」の二極の感情しかないのだという。「快」ならなにもしないが、「不快」なら泣く。この赤ん坊がいろいろなことを学習するに従い、「空腹」だとか、「眠い」だとか、「痛い」だとか、主に不快の感情からさまざまな分化が始まるのだという。これらの不快の原因が取り除かれると、「快」の感情が発生する。

赤ん坊が母親にいろいろな世話をされるだけの存在から、自分の体を動かして外界にいろいろな行動を起こすようになると、「快」と「不快」はそれぞれ枝を広げ、徐々に高度なものへと発展していく。人間は不快を避け、快を目指す性質がある。これを欲求という。欲求には5つの段階があり、下位の段階が満たされると次々に上位の欲求が現れるという説が提唱されていて、これが「マズローの欲求段階説」というものなのだという。

さて、欲求段階説の当否はここでは議論しないとして、今はこれを正しいとして思考を続ける。

餓死しそうなので飯を食いたいだとか、不眠で死にそうなので寝たいだとか、凍死しそうなので温まりたいだとか、そういう命に関わる「不快」を取り除こうというのが欲求の最初の段階である。そして、「空腹で死にそうだから」飯が食いたいのではなく、腹が減ったら確実に飯を食いたい、眠くなったら眠れる家が欲しい、寒くなる前に暖かな衣類が欲しい、というような欲求が出てくると、これは第2段階である。

この次に、便宜的に第2.5段階を置く。それは、「もっと美味いものを食いたい」という欲求である。食えりゃいいってもんじゃない、というのは、食えるだけで幸せというのよりはやや高い段階の欲求だろう。しかし、これはマズローの説にはない段階である。第3段階は、所属の欲求といって、家族なり地域社会なり職場なりの人間組織の一員として認めてもらいたいという、社会的生物である人間ならではの欲求が、ようやく出てくることになる。この段階では、「家族(仲間)と一緒に飯を食いたい」という段階になるだろう。

第4段階では、ただ組織の一員として在籍することが認められるだけではなく、組織の中で価値ある存在として認められたいという欲求が出てくる。「飯の味がわかる」というのは、この段階にある欲求であると言える。飯の味がわからないような無粋な奴よりも上位に立てるのである。これを突き抜けると、次は自己実現の欲求という最終段階がやってきて、「誰も知らない美味いものを探す」だとか、「世界で一番美味いものを見つける」だとか、そういう創造的な分野を目指したいというような、なんだかすごい欲求に至る。

ただ問題なのは、欲求の第4段階というのは、「俺は味がわかるようになった、大満足」という自己満足を目指す欲求ではなく、社会的関係の中での地位向上を目指すという性質の欲求なので、「お前は飯の味がわかるな」などといった、他人からの評価を得ることを目標とした欲求なのである。これがクセモノである。

どの段階の欲求も、「不快」を退けて「快」に至ろうとするものであることには差がない。ただ、何をもって「不快」として、何をもって「快」とするかが、だんだんと複雑で高度になっているだけだ。結局のところ、「死ぬほど空腹でつらい」だとか、「空腹を我慢することがあって大変」だとか、「仲間と一緒に飯が食えなくてつらい」だとか、「飯の味もわからないやつだといわれて悔しい」だとか、「世界にはもっと美味いものがあるはずなのに、それを食わずして死ぬのは我慢ならない」だとか、そういう不快を退けようとして頑張っているだけなのだ。

初めてこの世に生まれてきて「おぎゃー」と泣いたときには、そういう複雑さがない。それが、いろいろな経験を積むことで、「おむつの中でうんちをもらす」だとか、「宿題を忘れて先生に叱られる」だとか、より多様な事象が「不快」の中枢を刺激するように学習されるようになる。それに伴って、「トイレでうんちをする」だとか、「宿題をやってきて先生に褒められる」といった事象が「快」の中枢を刺激するように神経ネットワークの論理的伝達経路が形成される。そういう過程が進むことで、人間の欲求がどんどんと複雑化していくのである。

そして、第5段階の欲求として、己れ自身を拠り所として「美味いもの」であるとか「美しいもの」を追及している人は、その人の中で感覚的判断として「美味い」と「不味い」を確かに識別しているはずだし、「美しい」と「醜い」を確かに識別しているはずである。他人がなんと言おうと、彼にとっての美の基準は確かに存在するのであり、その基準とは単に論理的なものではなく、かれの「快」の中枢を刺激することによって、確かな「悦び」が存在しているはずなのだ。

つまり、どんなに高度な美学の産物も、それを真に理解する人間は、その産物によって直接に快楽中枢を刺激されている。その美学は高度なものかもしれないが、それは凡庸な人間が平凡な感覚でわかりやすい作品に感動を覚えているのと、最終的にはなんら変わらないものなのだ。ただ、人生経験で歩んできた道のりの違いによって、何が快楽中枢を刺激するのかが異なっているという、ただそれだけの違いなのである。平凡に満足できるのか、できなくなってしまったのか、という違いなのである。

ただし、やはり第5段階へ突き抜けた人間の欲求の産物というのは、並の人間には到達不可能な素晴らしさというものがある。これは認めなくてはならない。その一方で、やっぱり凡人には理解不能の部分も残される。ここで顔を出すのが「欲求の第3段階」と「欲求の第4段階」である。これがクセモノなのである。

欲求の第3段階とは、帰属の欲求である。「みんながDS持ってるんだから、僕にも買って」という欲求である。持ってないと仲間はずれにされちゃう、という危機感である。みんなが美しいと評価する絵を、自分だけ「なんだかつまんねー絵だな」と思っていても、それを言うと仲間はずれにされてしまうかもしれない。仲良しグループから追放されてしまうかもしれない。保身のために「いい絵だね」と言ってしまう。

この欲求がクリアされたとしよう。「つまんねー絵だな」と言っても、別に仲間から追放されない立場を確保したとしよう。しかし、「お前は絵のわからないやつだな」と言って軽蔑される。追放はされないが、軽く見られてしまう。「この布は、賢い者にしか見えないのですよ」と言われて、「いや、俺には見えないね」と言えずに、「おお、なんと素晴らしい布だろう」と言いたくなってしまうのが、欲求の第4段階の罠なのである。

ここで、欲求の第4段階がクリアされているとしよう。ある人物がすでに絵に対する審美眼以外の能力で仲間から十分評価されており、絵の価値がわからないくらいで評価が下がることがないくらいの実力を確保しているとしよう。彼はこういうだろう「どこがいいんだか解らないね」と。ここで馬鹿にされて決別する場合もあるだろうが、「これほどの男ならいずれ理解できるに違いない」と評価されている場合、展開は少し違ってくる。

欲求の第5段階に突き抜けていて、確かな感覚として美を見抜いている人間はもう、何が美で何が醜なのかは感覚的に身に付けている。ただし、それを他人に説明するときには、言葉や作例を使って、論理的に説明しないといけない。こういった、感覚的な信念に基づいた説明、別の言葉で言うと「説得」を受けると、なおかつ相手に対して悪感情を持たない場合は、徐々に「そう言われればそういう気がしてきたなぁ」ということになる。

説得に使われた論理が正しいとか誤っているとか、そういうことは比較的どうでもいい。ただ、度重なる熱心な説得を受けるうちに、「なんだか理解できる」という学習効果が現れるケースは少なくない。こうなると、説得する側が持っていた美醜の「感覚」が、説得される側にも発現する。こうして彼もまた「絵がわかる」人間になったことになる。

困ったことに、この二人が「美しい」と理解し、ただ理解するだけではなく美しいと「感じる」ところの、まさに同じ対象について、別のある人は「醜い」という感覚を抱く場合があるのだ。それも、理解できない高尚なるやり取りに対する単なる反発などではなく、欲求の第5段階に突き抜けることによって、この二人とはまったく別の「どこか」に到達した人がこういうことを言うのである。この人もやはり他人の説得に成功しているとすれば、感覚を共有したこのグループは、先の二人、あるいは先の二人に説得された人々からなるグループと、感覚を共有できないがための、果てのない対立へと発展してしまうだろう。

だから、どちらの感覚も持たない傍観者は言うのである。絶対的な美などない、と。たしかにそうなのだけれども、無いのは「絶対的な」美、あるいは「客観的な」美なのであって、「主観的な」美は確かに存在するのである。ただ、それが無数にありうるということなのである。

この感情的な相互理解不能性による果てのない対立は、宗教対立とよく似ている。こういう結論の出せない不毛な論争を「神学論争」と比喩的に呼ぶ。しかし、傍観者にはどうでも良さそうな議論でも、感覚的な実感を伴った価値基準を持っている人々にとっては、おそろしく重要な問題なのである。何しろ欲求の最高段階である自己実現レベルの信念に関わる問題である。場合によってそれは、自分自身の命よりもはるかに重要な問題となりうるのである。

「美しい」と「醜い」と「別になんとも思わない」。「神を信じる」と「神などいない」と「別になんとも思わない」の、三者三様の深い溝。これらは皆、この世に生れ落ちてからさまざまな経験を積む段階で、どんなものが快楽中枢に結び付けられたかという、ある人の人生そのものの表れなのである。経験を共有していない他人がどんなに言ってみても、この信念を覆すことは簡単ではない。

何が人の快楽中枢に特定の事象を結びつけるのか。それは、やはり快楽中枢の仕業である。

ご飯を食べた。満足した。その満腹感という快楽経験は、食べたご飯の種類や付け合せの種類を「快」に結びつくものとして記憶する。そしてそれは繰り返しによって強化される。同時にご飯を食べた食器の種類や部屋の調度品、そのときたまたま見えた外の風景、本来無関係な風のにおいなど、どうでもいいようなことまでが、ゆるやかに「快」に結びつく情報として記憶される。

逆もまた真なりで、不快な思いをしたときには、それと同時に体験したものまで「不快」に結びつく情報として記憶される。ワグナーの音楽がどんなに美しく響いても、ナチスに迫害されたユダヤ人にとっては、どんなに美しい旋律も和声も、ワグナー自身の発言やヒトラー個人の音楽趣味を連想させる以上、決して美しくは感じ取れなくなってしまうのである。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのである。

人間の感覚入力は、五感をはじめとして様々なものを同時に受け止めているのに対し、それを価値判断する基準である快楽神経のほうは、たったひとつしかない。いろいろな神経回路が「快」と「不快」を同時に刺激すると、人間は「戸惑い」や「釈然としない」という感覚に陥る。しかし、どちらかがまさってしまえば、「快」や「不快」という一つの基準で、その場の全ての感覚を記憶してしまう。それらの積み重ねによって、人間のオートマチックな受容基準、センスや信念や信仰といったものが決まってくる。

であるので、人を説得する場合には、説得する言葉の中身ばかりではなく、人に「快楽」を与える技術が重要になる。薄汚く暗い面持ちのおっさんが話すよりも、姿麗しく礼儀正しく、表情に自信ある笑みを浮かべた紳士が話すほうが、同じ内容でもはるかに説得力を持つ。説得の場は暑すぎず寒すぎず、厳かな音楽が流れ、ほんのりと薫香が漂っているとなお良いだろう。「あなた方、選ばれた人々に、特別にお話しましょう」などといって第4段階の欲求をくすぐるのもいいかもしれない。

ただし、これは正攻法である。人間が最も強い快楽を感じる瞬間とは何か。それは、限界を越える不快から解放されたときである。死にそうにのどが渇いたときの水の美味さ。死にそうに腹が減ったときの握り飯の美味さ。瓦礫に押しつぶされて死を覚悟したときに見た救助隊員の声の力強さ。学校でイジメ抜かれていたときに見た同級生の笑顔のまぶしさ。まさに地獄に仏である。この仏に何をか言われたら、もう信じるしかないのである。

これは非常に有効な説得手法であるが、これを偶然ではなく人為的に作り出した状況で利用すると、それは説得を通り越して洗脳と呼ばれる。マインドコントロールというやつである。本質的にあらゆる説得と差はないのだが、あまりに強力である。オウムで使われて問題になった手法である。

ただ、こういうケースではどうだろう。子供に厳しい訓練を課す。泣き出してもやめさせない。肉体的にも精神的にもとことん叩きのめして訓練する。そして、最後にほんのちょっとした上達を褒める。ありったけの笑顔で、「やればできるじゃないか」と。手法としては確かに洗脳だが、目的が正しければそれはそれで悪いものではない。手法自体に善悪があるわけではない。子供は強靭な体力と精神力を持った大人になるだろう。

人為的に強烈な不快に追い込むほかにも、同様に人間の快楽中枢を強烈に刺激する方法はある。それは偶然に弱っている人を見つけ、救い出すことである。私も中学生の頃に入院していた病院で、退院後の診察を待つ待合室にひとり座っていると、品のいい中年女性に話しかけられた。ある集会に連れて行ってあげたいのだけれど、一緒に来ないかというような誘いを受けた。おそらくある種の宗教活動の勧誘だったのだろう。悪意ある誘いではなく、病気に苦しむ少年に救いをもたらそうという良心に基づく行動か、あるいは単に自身の宗教的欲求を満たすための行動だったのだろう。

ともかく、地獄に仏を演出したいならば、地獄を歩くことである。被災地で救援活動をするのもいいだろう。戦場で負傷者を治療するのもいいだろう。それが本物の善意から発しており、不幸な境遇に立たされた人々を文字通り救う活動だとしても、客観的には説得に最適な人がゴロゴロと転がっている環境なのである。

なんてバチ当たりな言い草だろう。私は良い死に方はしないかもしれない。しかし、私の人生経験では、これが最も快楽中枢を刺激する、最も美しい世界解釈なのである。感覚的に相容れないという人は多いだろう。そう、それは感覚的な違いに過ぎないのである。しかし、人間の意識にとっては感覚的実感というのはあまりに影響が強い。

客観的に正しいものなど、何もありはしない。けれども、主観的には厳然と存在するのである。そしてそれを他人と共有することは、実は大変難しい。強烈な主観的信念は人をして偉大な業績を成さしめるのだけれども、強烈な信念はそれに合致しないありとあらゆるものを薙ぎ倒す粗暴さもまた持っているのであって、評価は難しい。いや、客観的に見れば評価など不可能なのだ。主観的に、共感できるかできないか、ただそれだけなのだ。

こんな乱暴な意見に共感できる人間などいるものだろうか。
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by antonin | 2008-06-03 00:36 | Trackback | Comments(0)
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