安敦誌


つまらない話など
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誰の肉を食べるのか

痛いニュース(ノ∀`):「元気に育ってね」 園児がアイガモ40羽放す 秋には園児に食べさせる予定

YouTube - 命の授業900日 豚のPちゃんと32人の小学生①

命を食らうということに関しては、自分でもかつて似たようなことを考えたし、関連することは最近も考えている。

安敦誌 : 肉食是か非か
安敦誌 : 聖と俗

けれども、こと教育に関して言えば、ほぼ的確な答えが出ているのが面白い。「名前を付けたらだめだろう」というやつである。鶏の首を絞めて肉にするのを知っている世代ならごく自然に感じることができた感覚なのだろう。肉食の何が問題なのかといえば、突き詰めると身内と外部の区別なのだろうと思う。

モラルのうち最も原始的なものは、「殺してはならない」だろう。しかし、人類は常に戦争とともに生きてきた。これは矛盾なのか。おそらくは、矛盾ではない。これをはっきりさせなければ、上のドキュメンタリーのような話になってしまうのだろう。

日本の遺跡を掘り返すと、縄文文化の遺跡では、原形を留めた配置で犬の骨が見つかる。しかし、弥生文化の遺跡では、バラバラの配置になった犬の骨が見つかる。考古学とは実証科学とロマンティックな文学がしばしば溶け合う危険な研究領域なので安易に鵜呑みにすべきではないが、これは当時の「日本人」の犬に対する価値観を反映したものなのだという。

つまり、狩猟生活を送っていた縄文人のとっての犬とは、山に分け入り野生生物と対峙するときに、互いに互いの命を支えあう相棒、あるいは「戦友」のような間柄にあったのだという解釈がある。だから縄文人は、連れていた犬が死ねば仲間の死としてそれを受け取り、手厚く葬ったのだという。

一方の弥生人にとっての犬とは、稲を栽培する農業生活を営む生活の慰みとする存在であり、農業と対になる牧畜の延長線上にある存在だったという解釈ができる。この場合、飢饉になれば犬は重要な食料となる。したがって、犬は焼かれて食肉となり、骨はゴミとして乱雑に捨てられる。

私は相対論者なので、倫理的に見てこのどちらが「より正しいか」などという問題を論じるのは愚かだと思っている。具体的に言うと、それぞれの文脈においてどちらも正しい行為であったと考える。稲作文化の住人なら、牛ならば決して食べたりはしなかっただろう。なぜなら、彼らにとって牛は田畑を耕すという重労働を助けてくれる大切な仲間であったからだ。縄文人にとっての犬と同じ位置を、弥生人にとっては牛が占めていたとすれば、である。

実際には、日本で牛を使った耕作が始まったのはもっと時代が下ってからかもしれない。しかし、仏教が盛んだった時代の日本人が兎や鹿や猪は食っても牛や馬を食わなかったのは、そういう心理が働いていたように思う。室町幕府が滅亡して戦国の世になってから生まれた世代は、あるいは馬でも食ったかもしれない。明治維新のあとに生まれた世代なら牛も抵抗なく食ったかもしれないが、それらの動物を養い共に働いた世代にとっては、それはやはり野蛮な行為と映っただろう。

まともな人間なら、愛情を込めて育てた子供を、育てた末に殺して食べたりはしない。まともな人間なら、隣に住む人間を殺して食べたりはしない。一方で、小さな魚ならおいしそうと言って食べる。鶏でも羊でも豚でも牛でも、特に宗教的な戒律がなければ同様に食べる。この両者を隔てる境界は何か。

「利己的な遺伝子」を読んでネオ・ダーウィニズムに目覚めた年頃には、そうした違いは遺伝学的な距離によって生じるものだと考えたし、今でも原理的にはそういうところに根差しているとは思っている。つまり、自分以外で最も保護すべき存在といえば親、子、きょうだいである。次に親戚、そして同じ集落の住人、同じ地域の人間、同じ人種、人類、霊長類、陸上哺乳類、哺乳類、脊椎動物、動物、植物、多細胞生物、というように、その距離が近いほど守るべき存在となり、逆に遠いほど守る価値のない存在となる。

ただ、結局人間の倫理観という水準になってしまうと、このような遺伝的関係だけで全てを説明することは難しくなってくるように思う。人間は進化の過程の必然から、爬虫類程度の距離の共通祖先あたりに起源を持つ、感情という情報処理システムを搭載している。肉が食えるかどうか、あるいは犬、猫、イルカの肉が食えるかどうかというのは、結局のところ感情の問題なのだと考える必要に迫られる。

この水準になると、遺伝的な距離という絶対的な指標は使い物にならなくなる。感情を左右する、後天的な学習を仮定しないと、結論が下せなくなる。それを仮定することで、「仲間を守る」という、社会的動物である人間の宿命に対して、論理的な解釈のようなものが可能になってくる。まず先に立つのが、「仲間とは何か」という問題である。言い換えると、「どこまでを仲間と認識できるか」という問題になる。

縄文人は、犬を仲間とみなした。だから、感情的に犬を食べることはできない。弥生人は、犬を仲間とみなさなかった。だから、犬を食べることに感情的な抵抗がない。私たちは犬を家族に近いペットとして認識しているから、感情的に犬を食べることはできない。しかし、牛や豚や羊や鶏は食料であって仲間ではないから、感情的な抵抗なしに食べることができる。

ただし、鯨やイルカなどではどうなのだろう。それを食料とみなして、仲間などと考えていない人は、抵抗なくその肉を食べることができる。しかし、同じ哺乳類であり、知性を持った仲間であると考えている人にとっては、その肉を食べることは人間の肉を食べるような感情的嫌悪を伴うはずだ。

人間の肉と書いたが、漢文で書かれた古い文献には人肉食の話がかなり登場するという。それは、多く女性の肉であったという。男社会の中にあって女性、特に被支配層の女性は決して仲間などではないと考えるならば、それは単に食料としての肉でしかない。現代に生きる私たちにはそうした感覚はないから、女性の肉を食うなどということはおぞましいものでしかない。


ここまで考えた上で「Pちゃん」の話を見直すと、結論は明らかだろう。ペットとして3年間もPちゃんを可愛がった果てに、それが実は食料だったなどと考えるのは、非常におぞましいものなのだ。最後に食料として見せるならば、最初から食料として扱うべきなのだ。その「畜産」の過程で、もしも食料としてのブタにも自分と同じ生命を感じることができるとするならば、それは大きな気付きに違いない。

畜産現場で働く人々というのは、牛や豚や鶏が人間と同じ動物であることを当然に知っている。しかし、食料として出荷する牛や豚や鶏はあくまで食料であり、仲間ではなく商品であることを知っている。そして、育てた仲間を肉とするために売り払うというおぞましさを避けるためには当然に、それらを近代的農業生産の対象として感情を移入することなく効率的に育てるシステムを利用している。

牛にしても豚にしても、多くは繁殖農家と肥育農家を別々にした分業体制となっている。畜産の過程を分割し、それぞれの過程に特化した専門農家が単一の過程を担当し、ライン生産のように効率的に食肉を生産している。そしてその成獣を捌いて食肉に加工するのも別工場が行っている。

これは食肉生産の効率を高めるシステムとなっているだけではなく、手塩にかけて育て上げた生き物が産み落とした、あまりにも無垢で可愛い子供を、再び手塩にかけて育てた挙句に殺して食肉にするという、感情的にあまりにもむごたらしい結果をもたらす感情移入から、実際の作業者を守るためのシステムでもある。

当然そこにはある種の矛盾がある。大人になる過程で、いつかはその矛盾に気付くべきだろう。しかし、12歳の子供が自分の人生のうちの3年間を捧げて育てた「仲間」を、最後に屠殺してしまったむごたらしさは尋常ではない。そこから強烈な原体験を得て奇特な人物に成長する人もあるかも知れない。しかし、これは教育として一般化してしまうには、あまりにむごたらしいやり方であるように思う。そこには社会が内包する真実の姿があるが、あまりにグロテスクに過ぎる。

確かに昔の社会は身の周りに命の危険があふれるような自然に近い世界だったから、大人になるまでには数人の身近な子供の死を体験する機会があっただろう。そしてそこから命のはかなさと大切さについて学んだだろう。しかし、それは偶発的な事故であったに違いない。教育のために大切な仲間をあえて殺すというのは、決して大人として子供に伝えたい内容ではない。仲間の肉を食うという体験が、何かの良い効果をもたらすとは思えない。

大人として子供に教えたいことは、一緒に成長する時間を過ごしてきた仲間の肉でさえも、必要とあらば食べることができたという体験では決してない。時として仲間を肉として売り払うことができたという体験では決してない。本当に教えたいのは、日常無意識に食べている肉や野菜やパンでさえ、そのそれぞれが実は立派な生命に由来してるということだろう。そしてそれに感謝し、仲間の命を奪おうとするものから全力で仲間を守ろうとする精神だろう。


自他の境界をどこに引くか。自分が全てなのか。家族が全てなのか。会社が全てなのか。故郷が全てなのか。祖国が全てなのか。人類が全てなのか。哺乳類が全てなのか。動物が全てなのか。遺伝子を持つ全てなのか。地球の全てなのか。宇宙の全てなのか。この線引き次第で人はしばしば殺し合いをしてきたし、殺したことについて罵り合ってきた。

「悪の枢軸」の兵士は殺しても良いのか。「神の敵」なら殺しても良いのか。鯨はどうか、イルカはどうか。活きたイセエビを捌くのは高度な調理法なのか残酷な仕打ちなのか。犬を飼育して食料とするのは残忍なのかどうか。牛を飼育して食料とするのは残忍なのかどうか。鮪を飼育して食料とするのは残忍なのかどうか。

そういう判断は、おそらく簡単ではない。あるいは答えなどないのかもしれない。しかし、そういう議論を避けてこれからの世界を生きることなどできない。ならば、その判断材料となるような体験を、教育は与えるべきだろう。特定の意見に固執せざるを得ないような強烈な原体験は、新たなる戦いの火種にしかならないのではないだろうか。

ただし、これは自己矛盾した意見に見えるかもしれないが、そういうむごたらしい原体験を経た人間というのは、社会にとっては必要な存在だ。たったひとつの視点から一貫した意見を発し続ける人間は、社会にとって大変有用だ。そしてまた、それとは全く別の、そしてやはりたったひとつの視点から一貫した意見を発し続ける人間も、社会にとって大変有用だ。


私は相対論者である。ある立場に立てばある意見が正しい。また別の立場に立てば、また別の意見が正しい。しかし人間の体はたったひとつしかないのであり、有限の立場を選ばざるを得ない。そして、ひとつの立場に立ったときには、全ての意見が無矛盾でなければ、そこから新しい意見を生み出すことはできない。

意見に矛盾があるときには「ダブル・スタンダード」という状態になり、あらゆる意見を否定することができない、なんでもありの状況になってしまう。一般に、たったひとつの立場に立つことに慣れきった人間から見ると、相対論者の意見はダブル・スタンダードに見える。相対論者は複数の立場を行き来するからだ。しかし、正しい相対論者は、自分が立ちうる中から議論の水準が一致するような立場を選び議論する。そしてそのような立場が見つからなかった場合には、議論そのものを放棄する。

私は明日もウシやブタの肉を食べ続ける。私は牛や豚が愛らしい姿で生まれ、やがて殺されて店先に並ぶ過程を意識しながらその肉を食べたくはない。しかしあらゆる人間と、人間の生活空間に共生するペットたちは仲間であり、その肉は絶対に食べない。これが私の立っている、日常的な立場である。しかし私は相対論者であるから、この立ち位置を保ったまま、他の立場にも思いを馳せる。

そして、社会全体を見渡し、社会が永続する百年単位の世界に思いを馳せるとき、そこには、両極端の意見を狂信的に叫ぶわずかな勢力と、その中間で思い悩みながらも平凡な日常生活を送る大多数の市民がいるという、正規分布的な「中庸」に社会の理想を見る。ただし自分の立ち位置としては、あくまでそうした意見の中にある個別的な合理性に理解を示しながらも、今日も明日も調理された畜肉を美味いと思って食べる、平凡な一市民である。この立ち位置の中では、自己矛盾はない。


Pちゃんと時を過ごした子供たちは、平凡な生涯を送るかもしれないし、数奇な生涯を送るかもしれない。それに関わらず、彼らはPちゃんと過ごした3年間から重要な何かを知っただろう。しかし、私は自分のコドモたちにこの教育を望まない。仲間を食べてはならない。食べ物にしてはならない。これが相対論者であり平凡な一市民である私の意見だ。
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by antonin | 2008-07-13 02:25 | Trackback | Comments(12)
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Commented by fazero at 2008-07-13 17:00 x
おにく お たべるのわ ばいきんぐ が もちこんだんやて
ろーまじん わ かしこかたので、 べじたりあん やてんて
ろーま の へーたい の あさごはん わ ほとけーき と にんにく やったらしー
あんぐろ・さくそん なんかの げるまん の やばんじん わ にく が ないと きょーぼー に なったので、 ろーまじん わ げるまん お せんりおー しても、 えらい くろー やったて

にく にく にくー ゆーてるのが、 いまわ せかい で おーきな かお して、わしらこそ ぶんめーじん や ゆーてる ので、 こまたあるね
そーゆーてる ぼくかて、 ふとった あかいぬ みると、 う、うまそーやなー おもーねんけど うふふ
あいした あいて お たべな あかん とき わ、 なきながら くーもんや て、 ばーちゃん が ゆーてたけど、 あんとにん の ゆーてること よんだら、 ほんまに そーやなー と おもたある
 
Commented at 2008-07-14 21:27 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by antonin at 2008-07-15 22:50
コメントありがとうございます。

>ふぁぜろ

そうそう。肉食はゲルマン文化だね。
まぁローマ人だって魚くらいは食ってたし、ギリシャ式に神殿で神に捧げた犠牲獣程度は食べていたらしいから、ベジタリアンというほどではないみたいだけどね。
なんというか、小麦なんかの良質の穀物が育たない寒冷地や乾燥地では、そこら辺の草を食べて乳製品や肉に変えてくれる動物がいないと生活できないって事情はあって、必ずしも肉食が野蛮ということもないと思うよ。ジャガイモがヨーロッパに入ったのって大航海時代だし。
「あいした あいて お たべな あかん とき」ってどんなときなんだろうなぁ。
Commented by antonin at 2008-07-15 22:57
>B様

なんというか、意見が「軽薄」とか「尊大」という言葉で始まるときは、静かに聞いているべきなのかな、と思っています。いろいろと大変そうだねぇ。

東京という所はまぁ、アレなのだけれども、こんな東京だって我々には無二の故郷なのであって、なんというか、帰れるところがあるってのはいいもんですよ。一時にしても故郷を出てみたのはいい経験だったと思う。
Commented at 2008-07-15 23:11 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by antonin at 2008-07-16 00:55
>B様

いい経験だった、というのは自分の話です、念のため。前職にあった頃は、職場にいる夢を見て、怒って何かを叫んで夜中に目を覚ましたことがありましたが、今では平穏です。行き詰ったときは別のアプローチ、というのは可能だと思います。前からその才能を局地に置くのは贅沢だと思っていたし、そろそろいいんではなかろうか。
Commented by ふぁぜろ at 2008-07-16 13:30 x
あいて お なくした かなしみ お わすれん ために たべてしまう とき (かなしみ わ すぐに わすれてしまう もの やから)
Commented at 2008-07-16 22:01 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by antonin at 2008-07-17 23:47
>ふぁぜろ

亡くした悲しみかぁ。
食べればひとつになれるからなぁ。

>B様

まずは、今夏に。
Commented by fazero at 2008-07-18 15:55 x
そあるね。
いだいな おーさま お たべてまう おはなし も そーやよ。
ちょーおーむかし の おーさま わ さいごにわ みなに こんがり やいて みなに くわれてまう ある。
それだけ みなわ かしこーなって りっぱに なるから やて。
おーさまにわ なりとーない は
www
Commented by antonin at 2008-07-19 01:46
いやまぁ、殺されて食われるんなら勘弁してほしいけど、まぁうつりそうもない病気で死んだんなら、死者の肉を振舞う葬式ってのもなかなかいいんじゃないかと。

太陽王ルイ14世は客人の前で食事もクソもしたって言うし、喜んで食ってくれるってんなら、宮廷料理人に指示して最高の「肉料理」を提供したような気もする。

いや、食うのは嫌だよ。でも食われるのは別にいいさ。
Commented by ふぁぜろ at 2008-07-19 17:42 x
そのとーり
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