安敦誌


つまらない話など
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以前の記事

死刑制度廃止に賛成してみるテスト

先週末に、また「ゆる友」と飲んだ。今回、図らずも食いすぎてしまった。ちょっぴり予算もオーバー。まぁいいじゃないか。楽しいひとときでした。そしてその後はムスメを連れて流れるプールに行ったり、花火を見たり。疲れる。まぁいいじゃないか。

--

死刑制度廃止に賛成の論を打ってみる。強い確信はないのだけれども、少しずつ考えはまとまりつつある。まず最初に断っておくと、これは死刑制度反対の論ではない。現行の死刑制度は完成された法体系の一部であり、これはこれで正しく運用されるべきである。ただ将来の課題として、死刑に代わる刑罰による刑法体系ができたらいいだろうな、という程度の論であって、今すぐ死刑囚を釈放しろとか、そういう論ではない。

まず最初に考えておくと、死刑制度は合理的な制度である。ある種の人格の崩れを引き起こした人を、完全に更正させるのは難しい。したがって、凶悪事件を起こした犯人が凶悪事件を起こす再犯を防ぐためには、無期禁固や自由の拘束などにより社会から隔絶するほうが良いが、その究極が「この世」から排除することである。これはある意味で「安上がり」な方法でもある。

また、被害者や世間一般の市民感情も、溜飲の下がる気持ちがいくらかあるかもしれない。そして、死刑制度の存在が凶悪犯罪から遠ざける抑止力になるかもしれない。理性的な人間にとっては。

けれども、そういった一般に考えられている合理性以上に、死刑制度の廃止には大きな犯罪抑止効果があるのではないかというような気もしている。

以前もに、こんなことを書いたことがある。
モラルのうち最も原始的なものは、「殺してはならない」だろう。しかし、人類は常に戦争とともに生きてきた。これは矛盾なのか。おそらくは、矛盾ではない
安敦誌 : 誰の肉を食べるのか

殺してはいけないのは、自分たちの「仲間」であり、逆に言えば、「仲間」でないものは殺してもかまわない。極端なケースでは、この「自他」の区別なしには動植物を問わず生き物の細胞に由来する食物を食べることすらできない。もっと微妙なケースでは、「敵なら殺してもいいのか」という判断につながる。そしてここでは、「殺人者は死刑という形で殺してもいいのか」という議論になる。

現在、日本の死刑制度では、「殺意を持って」「複数の人間を」殺したときに限って死刑判決が出ているように思う。過去には国家の存続を脅かすような罪にも適用されていたようだが、現在ではそういうものは見ない。私たちの仲間であるところの市民を殺したような人間は、もはや「仲間」などではないので、殺しても良い。むしろ敵なのだから、積極的に殺すべきなのだ。これが現代の厳罰論の基本的な原理だと思う。

それはそれで一定の真理がある。それは認めたうえで、私は死刑制度の廃止を訴えたい。

前世紀に、人類は二度の世界大戦を経験した。人類の歴史は戦争の歴史でもあるから、20世紀だけが特殊であるということはない。確かにそうなのだけれども、20世紀というのは情報の世紀でもあって、「敵」の姿や声がよく見えてよく聞こえてくるような時代でもあった。それ以前の世界では「仲間」と「敵」の対立が非常にはっきりとしていて、「敵の意見にも一理ある」という見方ができる人間は非常に限られていた。けれども20世紀には、大義のもとに戦って勝利を収めたあとでさえ、敗者の地獄絵図や敗者の高潔を目にする機会が多々あり、世界は構造主義や相対主義へと傾いていった。

そこで善悪の基準まで曖昧になってしまった反動が現代の状況ではあろうと思うのだけれども、ともかく、ちょっとした対立から生まれた敵意が、あまりにも悲惨な結果を引き起こすということを一度ならず人類は体験してきたし、自分がいつ「仲間」から「敵」にされるかわからないということも体験してきた。

もちろん、誰もが死刑に値する凶悪犯罪者になる可能性がある、などということは言わない。やはり大量殺人に走る人間は、たとえそれが平凡な人間に過ぎないとはいっても、やはり例外的なレアケースではあるだろう。そうではなく、凶悪犯罪者という人間を自分たちの「仲間」から排除することで、一般市民が「敵」を殺すということに抵抗を持たなくなるということに、やはり底知れない恐ろしいものを感じるのだ。

たとえ畜肉を食べるとしても、動物を殺して血を見ることに平然とするのは、何か危ういものを感じる。もちろん、血を見ないことで肉を食べることに何の疑問を持たないのも問題だろうが、ともかく「殺す」ということに疑問を持たなくなるということが、しかもそれが異端ではなく正統となることが、やはり非常に危ういという思いがある。

「凶悪殺人犯」は、人間ではあるが、仲間ではない。したがって、極刑によって「殺すべきだ」と言うことができる。しかし、こういうことを平然と言えてしまう心理は、あまり正統なものにはすべきではないようにも思う。死刑は存続するかもしれない。しかしそれは、社会秩序を守る正義ではなく、人類の叡智の限界による必要悪なのだ、という遠慮が欲しい。そういう遠慮がなくなると、自他の区別が生じた際の、「他」への攻撃性が徐々に拡大していくのではないか。

自分は私企業に勤めるから、公務員は「仲間」ではない。だから、自分は解雇されたくはないが、公務員は解雇しろと言える。自分は給与を下げられたくないが、公務員は給与を下げろといえる。代議士も官僚もマスコミの記者も自分の「仲間」ではないから、それを吊るし上げるのに遠慮がない。

自分は団塊ジュニアであるから、ゆとり世代もバブル世代も団塊世代も戦中・戦前派も「仲間」ではない。だから、新人を平気で叩けるし、先輩世代もリタイヤ世代も平気で叩ける。自分が団塊世代だったら、いまだに幅を利かせている先輩世代も、得体の知れないネット世代も平気で批判できる。

自分は日本人であるから、アメリカ人も中国人も韓国人もイラク人も「仲間」ではない。だから、批判するのに遠慮はないし、その国民が死のうとどうなろうと、知ったことではない。チベット人は仏教徒らしいから「仲間」であり、それを弾圧する中国人は「敵」だから、粗悪品ばかり作る低脳と批判してしまえる。

人間は、結局のところ何らかのカテゴリーに自分を収め、帰属意識の中で暮らすことしかできない。「世界は一家、人類皆兄弟」とは思わない。しかし、一家でも兄弟でもない他者を、安易に批判できる心理の果てにどのような悲惨があるかというのは、前世紀にも今世紀にもたっぷりと見てきたはずだ。

そういう、「他者」への攻撃を許してしまう心理への第一歩というのは、案外につまらないものなのであり、そうしたもののひとつが、「死刑制度」という公的な殺人制度のようなものなのではないかと思う。それが必要悪から正義に変わってしまうときに、大衆心理の「窓」が一枚割れてしまうのではないか。それも、非常に目立つ位置にある窓が。そして次第に、窓が割れているということに対して市民がどんどんと鈍感になっていく。その果てにあるものは、重大犯罪に対する厳罰化のメリットよりも、はるかにひどいものなのではないかと予想する。

「コンプライアンス不況」という言葉があるけれども、法律というものの理想は天網恢恢、必要最小限度の法律で最大の効果があるものなのではないだろうか。「何があっても大丈夫なように、盛りだくさんのルールを作りました。ちょっと大袈裟なようですが、これさえあれば大丈夫、みなさんどんどんルールを増やして守りましょう!」。こういうものに限って現実性がなく、ルールを作った時点で満足してしまい、守ろうにも複雑すぎて守れないものである。

憲法はあるが、政府はこれを変えずに黙殺する。道路に通行速度制限はあるが、行政はこれを変えずに黙殺する。ルールはあるが、守っていたら生活できない。ルールは絶対であり軽々しく変えるべきものではないが、かといって守るべきものでもない。が、緊急事態が起これば眠っていたルールを叩き起こし、必要以上に厳しく適用して嵐が起こる。ルールがあったのになぜ守られなかったのかと、そのときだけ声を大にして騒ぐ。そしてすぐに忘れ去られる。

これが日本なのだ、という割り切りもあるのだろうけれども、ネット世代の罵詈雑言がひどいというときに、上記の考えを語りながら死刑制度を一時的にでも廃止してみるほうが、案外に効果が高いのではないだろうか。罪を憎んで人を憎まず。犯罪を大目に見るというのではなく、犯罪を厳しく罰しつつ、それでもなお人への優しさを自分に課す。これは難しいのだけれども、挑戦してみる価値はあるのではないだろうか。

まぁしばらく実現はしないのだろうが、一応そういったこともここに書いておこうと思う。

--

今日の異口同音:「酢味噌に餡は九分付かん」(4件)

参考:"Smithsonian: Museums"
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by antonin | 2008-07-31 00:36 | Trackback | Comments(4)
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Commented by アッサ at 2008-07-31 04:52 x
難しいところだなぁ。
僕は以前自分のブログにも書いたことがあるのだけれど、基本的に死刑は必要だと思ってる。でも君が書いてるように必要悪だという意識が強いかな。
犯罪者の人権がどうこう、という視点からの死刑廃止の議論にはどうも賛成しがたい何かを感じるのだけれど、君が書いてるような社会の意識として死刑があるべきではないと言うのにはそれなりに共感できるものがあるのも事実。
この手の話は、「結果として死刑がなくなった」という事実が重視されがちだけど、実際は「なぜ死刑がなくなったか」という経過がより重要なのかもしれない。

ところで先日はどうも。うまかったけど高かったね。まぁちょっとした必要悪ってことで。。。
Commented by ふぁぜろ at 2008-07-31 15:52 x
しけー わ やってもえーけど、
ぎじつてき に むずかし あるね
なぜならば
ほんまに その ひとが はんにん やったか どーか あやしー とき が あるから。
あとから あれわ はんにん ちゃうかった と いうても、 もー あうちに させてしもたから もどに もどらへん のが こまるある。
かせー に すめるよーに なたら、
わるいこと したんやから、 
ずーと そっちに いってて くなはい と いうのが いちばん えーねんけども。
Commented by antonin at 2008-08-01 00:24
コメントありがとうございます。

>アッサ

「僕は以前自分のブログにも書いたことがあるのだけれど、基本的に死刑は必要だと思ってる」

該当記事を読んでみました。
死刑について考える (ゴミ箱の中の雑記帳)
http://www.trashpot.org/scratch/2006/01/post_19.html

結論からすると逆にはなるのだけれども、考えているところはそう遠くないと思う。心神耗弱だとなぜ無罪なのかというのも含めて、やっぱり制度そのものよりも、それが生まれた過程についてよく考えてみる価値があるんじゃないか、という面に深く同意。

で、ハイペースで食べてしまって悪かったなぁ。これに懲りずに、また飲みに行こう。
Commented by antonin at 2008-08-01 00:33
>ふぁぜろ

個人的には、冤罪の問題は何も死刑に限ったことではなくて、痴漢で誤認逮捕した人を長期間拘留するということでさえ、とりかえしのつかない影響を残してしまうという意味では何も変わらないのであって、別に死刑だけが不可逆なんじゃないと思っている。

そうじゃなくて、悪者を責めるという娯楽というような感じが、どこか気持ち悪い気がしています。食品偽装報道とか。それと似た気味の悪さを厳罰主義に感じていて、つまりはそういうことです。

助さんと格さんが悪代官の手下をちぎっては投げ、力道山がシャープ兄弟を倒して、という程度で満足していたほうがいいんじゃないかなぁ、という。
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