安敦誌


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可逆と不可逆の科学

ちょっと早口言葉なタイトルにしてみました。

カオスから見た時間の矢」という、本棚に眠っていたブルーバックスの本を読み返しているのだけれども、読み終えられない。中盤までは順調に読み進めていたのだけれども、結論に達するあたりで何度も読み返していて先へ進めない。

実はこのあたり、時間論の根幹ということで決定論などと並んで非常に哲学的なテーマでもあるし、したがって理論としての妥当性のキワキワの部分に、「納得の壁」という、常識との折り合いがつくかどうかという問題が常に潜んでいるように思う。

内容は、だいたい理解できる。統計熱力学とカオス理論の最先端が理解できるというのではなく、ブルーバックスの編集方針にのっとってアホな学生でもラクラク読めちゃうように極力噛み砕いて書かれた内容が理解できると言うのに過ぎない。そうなのだけれども、そういう科学的、あるいは数学的なあれこれの説明と、著者(とその師匠である「おそれイリヤの」プリゴジン先生)が主張するところの結論が、論理的に結びつかないのだ。
「不可逆性を、我々が"完全な"知識を得たときには消えてしまう単なる見せかけのものと見なすわけにはいかないのである」

というプリゴジン師匠の言葉が載っていて、これに沿う方向で本書は結論付けられるのだけれども、私としてはどうも本書に挙げられている全ての証拠が、
不可逆現象は自然現象ではなく我々が粗っぽく見ることで起こるとまで極論できることになる。

というのが極論でもなんでもなく、正当な事実であると感じさせるもののように見えてしまう。
一方向的に熱平衡状態へ向かう変化は、じつは、ボルツマンが弁解したようにせいぜい確率的な意味でしか、いいかえると逆の過程はほとんど起こらないという意味でしか起こらないのだろうか?

という問いに、はっきりと"Yes"と答えられるような事実に満ちているように読めてしまう。個人的な感想では、20世紀末にもなってこんな解説書が書かれてしまうようでは、ボルツマン先生の不幸な末路もむべなるかな、という感じがした。

もちろん、著者の田崎秀一さんは京大のドクター卒で早大理工の助教授(当時)だから、私などのような素人よりも格段に深く統計熱力学理論に親しんでいる。両者の意見が対立したならば、間違っているのは十中八九は私のほうだろう。けれども、読んでいてなんだか辻褄が合わないのだ。誠実な物理学者の著す書物だけに、実験や理論の説明は非常に整然としている。そして図を多用しているのでわかった気になりやすい。けれども、それが結論と論理的に整合していないように見えるのだ。

もしも、統計熱力学の難しい理論を空気のように理解している人にとって、逆に思い込みの壁のようなものが生じているのだとしたら、私にも少しは分があるかもしれない。否定的文脈の中ではあるが、次のような文章もある。
現象を観察するとき、どこまで詳細に見るかは、観測者の問題である。したがって、仮に粗っぽい見方が不可逆性の原因であるとすれば、観測精度をどんどん高くしていくと、不可逆だった現象が途中から可逆に見えてしまうことになる。観測のしかたによって、見えてくるものが変わるのである。

相対性理論も量子論も、観測者しだいで現象の見え方は変化し、その見え方の変化というのは決して観測者の不手際によるものではなく、それこそ世界が持つ性質の不可思議で深遠な本質なのだと主張している。こういった考え方は、20世紀からこちらの物理学ではむしろ常識であるような気さえする。観測精度の程度によって、日常レベルの不可逆性が原子分子レベルの可逆性に還元されるというのは、むしろ本書の提示する疑問に出された、もっともすっきりとした答えのように見える。

本書の最初のほうで、気体分子の運動速度分布を示すマックスウェル分布というものが出てくるのだけれども、熱力学が要請するのはこの「分布」が熱平衡状態を表すということだけだ。統計における分布というものは、算数か数学の授業でヒストグラムを書いたときに思い出せばわかるとおり、ある一定の幅を持ったランクを用意し、そこに入った要素の個数だけを足し合わせて作るものだ。こういった、個別要素の詳細情報をまとめあげ、より少ない情報に集約する作業が統計処理であり、分布というのは統計値が作る関数であって、系がもつ全ての情報を表すものではない。

単独の気体分子は、並進とか振動とか回転とかの自由度に応じた運動量を持っており、それが持つエネルギーを他分子との衝突の際にいくらかずつ交換する。断熱された閉鎖系であれば、エネルギー保存則から全分子が持つエネルギーの総和は一定値だし、各分子の衝突前後の運動は基本的には可逆過程になる。けれども、各分子あたりでも数個の実数値を使わなければその運動を完全に表現することができず、また各分子の運動を完全に記述しなければ、可逆過程を理論的に計算することはできない。

つまり、可逆過程とは理論計算に必要な情報が全て使えることが前提で生じているのであり、不可逆過程とは可逆過程の計算に必要な情報の一部が欠落し、統計量だけが見えている状態を指しているのだろう。つまり、微視的に全く異なる複数の状態を巨視的に同値と見なすことこそ、不可逆過程を生み出す基本原理であると考えるのが、私にとってはむしろ自然に思える。

現実の物理的エネルギーは、あるところまで小さく分けると必ず量子化し、また位置などの物理量と溶け合って演算子に化けてしまうので、運動量や運動エネルギーを数学的に純粋な意味での実数として解釈することはできないが、とにかくビーカーの中の気体分子程度であれば、分子運動が持つ全ての自由度において完全一致するような分子が2個現れるということはまずありえない。それらの運動量から総エネルギーを計算して平方根を取って平均運動量を得て、それをまた幅を持ったグループにまとめて階級化し、最後に各グループに入った分子の個数だけを数えるという複雑な統計処理をおこなって、ようやく熱平衡状態というものが現れる。

この考えは、本書の説明がメソスコピックなギブズ集団の考え方を援用しても、全く変わらなかった。ミクロスコープからメソスコープの段階で統計処理をするか、あるいはメソスコープからマクロスコープの段階で統計処理をするのかはギブズ集団の定義の仕方によって変わるが、とにかくそうした統計処理を施した瞬間に可逆過程が不可逆性を見せるように読めた。

可逆現象と不可逆現象を橋渡しするのに必須なのがカオス現象である、というのが本書のストーリーなのだけれども、これにも同意できない。カオスといってもそれは決定論的因果律の中での予測困難性をもった写像の性質であって、全ての情報と全ての法則を知っていれば、どれだけ先のことでも予測可能という意味では非カオスの可逆過程と本質的な差がない。

ただし、ちょっと情報を失えばたちまち乱数性が現れるという意味で、可逆過程をマクロに見ることによって不可逆過程に見えるようになるという収束は、カオス性を持った系ではずっと早くなるだろう。逆に言えば、カオス性にはその程度の意味しかないように読める。カオス性は、重要な情報を失いやすいという程度の性質でしかないように思える。

モンテカルロ法などの計算機科学の分野で有名な、線形合同法とかメルセンヌ・ツイスターなどのアルゴリズムをよく読むと面白い。乱数列が「擬似」乱数であるかどうかは、次の数値の出現確率を予測するのに必要な情報をどの程度持っているかによって左右される、シャノンの言う相互情報量そのものによって決まってくることがわかる。予測に必要な完全情報を持っていれば、どんな擬似乱数系列であっても、乱数でもなんでもない静的な数列にしかならない。

私が、ベルの不等式を知ってなお、アインシュタインの言うような「隠れたパラメータ」の存在を期待するのも、そういう「情報の欠如による乱数性」こそが量子の持つ非決定的振る舞いの根源だと思っているからだ。波動方程式のハミルトニアンでさえ、膨大な隠れパラメータから抽出された統計量でしかないのだと思いたい。

パイこね変換を使った説明も本書に出てくるのだけれども、これも少し胡散臭い部分がある。つまり、パイこね変換の可逆性というのは、ちょっと中途半端だと思うからだ。つまり、白黒に塗り分けた正方形にパイこね変換を続けると、最後には白黒比だけを保った「灰色のようなもの」になる。けれどもその「灰色のようなもの」を拡大していくと、ついには白と黒の縞模様が見える。そしてその縞模様の幅は、パイこね変換をおこなった回数をnとすると、正方形の一辺の長さに対してきっちり1/(2n)になるはずだ。

これが、パイこね変換後の図形に刻まれた「時間の矢」ということになるが、これでいいのか。これを対角線を軸に反転すると横じまから縦じまに変わるが、これに対してパイこね変換を続けると、元の図形に戻る。しかし、縦じまの図形に変換をかけると元の図形に戻すことができるが、横じまの図形をどんなに細工しても、パイこね変換によってもとの図形の戻すことはできない。1回の変換ごとに縞模様の本数は倍々に増え続け、決して連続した元の図形に戻ることはない。これは、パイこね変換が可逆過程というのではなくて、単に「逆パイこね変換」が存在すると言っているのに過ぎないのではないか。

このパイこね変換による説明にしても、結局最後には、無限に細かい縞模様を「灰色」と読み替えることによってしか不可逆性を説明できていない。パイこね変換を続けるごとに縞模様は増え続けて減ることがないから、この過程自体が不可逆であるのだけれども、もし可逆だとしても、限りなくランダムに見えて全て異なる模様の「ギブズ集団のようなもの」を、どれも灰色とみなした瞬間に初めて、これらの異なる状態を持つ要素は「同じもの」となり、これにより熱平衡状態への一方的な移行が説明できるようになる。

ボルツマンも語っているとおり、エントロピー増大則に反する現象の発生が単に「確率が低い」だけとはいっても、それは宇宙開闢から今日までの時間でもまだ桁違いに足りないような時間に1回あるかどうかという確率なのであり、それはもうエントロピー増大の法則を説明しきったと言って問題ないと個人的には思う。つまり、エントロピー増大則の根源は数学的な大数法則によるものだろう。けれども、それでは科学的に満足できる説明ではないのだと田崎さんは書く。

優れた科学者の書く解説を読んで多くのものを学びながら、その結論だけに同意できないというのは不思議な感覚がある。ともかくも、とても良い本だと思った。もう少し格闘してみたい。
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by antonin | 2008-08-07 03:16 | Trackback | Comments(0)
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