安敦誌


つまらない話など
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理性とか

よくわかる。理性というものは最も複雑な感情である。
よくわからない。理性という感情は何によって生じるのか。

文藝春秋の1年前の読み残し最新号などを読んでいる。「日本の師弟89人」という特集がある。よく、特定の人を指して「師匠」と呼ぶ人がいるが、私にはそういう人がいない。直接学んで師と慕う人もいないし、書籍などを読んで勝手に師と仰ぐ人もいない。かといって尊敬している人がいないとか学ぶに値する人がいないなどということは思わない。自分以外のほとんどの全ての人は尊敬できる部分を持っているし、自分以外のほとんどすべての人は学びうる何かを持っている。けれども、特別の一人を挙げて師と呼べる人がいない。

両親であるとか、病院の医師であるとか、学校の教師であるとか、一般に尊敬でき感謝すべき人は多い。プルタルコスであるとか、リチャード・ドーキンスであるとか、塩野七生であるとか、その文章と考えに唸らされた人は多い。けれども彼らが私の師匠であるかというとそんなことはなく、私は弟子に値しない。彼らの文章を少しばかり読んで影響を受けただけだ。

文春の特集で、松下電産会長の中村邦夫さんが松下幸之助さんを師として文を寄せている。
 そして、社長を務めた六年間、社員とともに数々の改革を行ってきた。未曾有の困難や折々に重要な決断に迫られ、自ら考えに考え抜いても迷いが払拭されないとき、必ず「松下幸之助創業者であったらどうされるだろうか?」と自問した。

この箇所を読んで、どうも見覚えがあると感じた。確か、"El Sabio"マルクス・アウレリウス帝が、やはり困難に接したときに「先帝ならどのようにされただろうか」という言葉を残していたような記憶がある。手許にある「自省録」の文庫本を見てもそういう文句は見つからない。「ローマ人の物語」のどこかの巻か、あるいは「背教者ユリアヌス」あたりで読んだのか。

中村さんがマルクス・アウレリウス帝を意識したかどうかはわからないけれども、イエス受難後の使徒たちにしても、ガウタマ入滅後の結集で語ったアーナンダにしても、とにかく強烈に尊敬できる師を持った人というのは、その後の人生を師の言葉に従いながらに生きていけるものなのかもしれない。

私に師はないけれども、それがある種の弱さの原因であるのかもしれない。師というのは特定の人物であってもいいし、あるいは神のように普遍的な存在であってもいいのだけれども、感情的なものから自分を遠ざけなくてはならないときに、その苦心を誰も褒めてはくれないが、自分の心と共にある師だけは自分を褒めてくれる。宗教者やそれに似た人々の強さというのは、往々にしてこういうところに源流を発しているように思う。

私の信奉する科学というものには、これといった答えがない。もちろん、確固たる法則や手法は数多くあるが、それは決して普遍的なものではなく、ある前提に対しては正しく、また別の前提に対しては正しくない。目の前の複雑極まりない問題に対して、一定の方法と一定の答えを教えてくれるが、それが正しいかどうかは実証する必要があり、そこで確かめられた答えとは、次に否定されるまでの仮の答えでしかない。

理性が打ち勝つべき相手は感情であるのだけれども、恒常的な理性が場当たり的な感情に打ち勝つために必要な原動力というのもまた、善く在りたいという欲求であり、善く在った人に近づきたいという欲求であり、これもまた感情である。限りなく親しんだ存在に認められたいという欲求の感情が、存在の喪失後に必然的に内在化したものである。師や神が目の前に居ればこまごま問えばいいが、そうはいかない状況であれば、自分の裡にある「その人」の言動を思い浮かべることしかできない。これが自律の源流なのだろう。

他人の評価のために振舞うのは偽善であったり虚栄であったり阿諛追従であったりする。しかし、自分の中にしか存在しない人の評価を受けるために振舞うのであれば、それは克己心であったり矜持であったりするように見える。成熟した宗教の良いところは、既に歴史の中にある人や、天界にあって触れることのできない神を心の中に投影して活き活きと語るところにあるように思う。成員が皆同じ存在を仰ぎ見ていれば、そこに協調可能な自律分散システムが成立する。

あるときまで、この国の最高額面紙幣には聖徳太子の肖像があった。和を以って貴しと為す。あるときから、この国の最高額面紙幣には福沢諭吉の肖像がある。天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。この国の中枢には慶応義塾の思想がある。この思想は行き渡っているか。この人は慕われているか。
 人の世を渡る有様を見るに、心に思うより案外に悪をなし、心に思うよりも案外に愚を働き、心に企つるよりも案外に功を成さざるものなり。如何なる悪人にても生涯の間勉強して悪事のみをなさんと思う者はなけれども、物に当り事に接して不図悪念を生じ、我身躬(みず)から悪と知りながら色々に身勝手なる説を付けて、強いて自ら慰むる者あり。また或いは物事に当って行うときは決してこれを悪事と思わず、毫も心に恥ずるところなきのみならず、一心一向に善き事と信じて、他人の異見などあれば却ってこれを怒りこれを怨む程にありしことにても、年月を経て後に考うれば大いに我不行届にて心に恥入ることあり。

耳が痛くて血が出そうだが、ともかく、このあたりに合わせておけば、昨今の日本人としてはまずまずというところか。他人の評価に頼らず、もはやここには居ない誰かを慕うことで、その辺りの誰彼と、まずまず自律分散しながら協調して生きていけるのか。

学問とは、結局のところ何なのだろう。
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by antonin | 2008-08-26 01:14 | Trackback | Comments(0)
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