安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
検索
最新の記事
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
自分のアタマで考えざるを得な..
at 2015-03-06 03:57
折り合い
at 2015-03-01 00:19
C++とC#
at 2015-02-07 02:10
浮世離れ補正
at 2015-01-25 01:21
記事ランキング
タグ
(294)
(146)
(120)
(94)
(76)
(64)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

饒舌について

大学生だった頃、初めて買って読んだ岩波文庫の本のタイトルがそんなものであった記憶がある。もしかすると、英語の授業でテキストとされていた"Pragmatism"の和訳を覗き見るために買った「プラグマティズム」のほうだったかもしれない。これを読んで、英語が難しいから理解できないと思っていた文章が、実は日本語に訳してみたところで、結局さっぱりわからないのだということがわかった。

しかしそんな難解な本の中でも、その冒頭の話題は印象に残った。切り株の横にリスがいる。その反対側に人がいる。人がリスのほうへ行こうとすると、リスは逃げてまた反対側へ回る。そういう状況のとき、リスは切り株の周りを回っているのか、それとも人間の周りを回っているのか。果たしてどちらなのだろう、という侃侃諤諤の議論を繰り広げている哲学者たちがいる。それを見てプラグマティストが一言で切りつける。「それは回るという言葉の定義の問題だ」

この痛快さが気に入った。議論を始めるにあたっては、まず用語の定義など、議論の前提を統一して、同じ土俵に上がるという手続きから入らなくてはならない。そして、どの土俵に上がるのかということを決定するに当たっては、議論によってどのような問題をどのような方向へと解決するのかという、当事者の意識を整理して統一する手続きから入らなくてはならない。その実務的な考え方に痺れた。

もちろん、こういう考え方に痺れるための土台として、そもそも果てしない議論になりがちな問題が気になってしまうという前提がある。そもそもそういう議論自体に興味がない人にとっては、おそらくプラグマティズムの切れ味もこれといった役には立たないだろう。しかし、水のように流れて落ち着かない議論に疲れると、このプラグマティズムという妙薬の苦味と効き目に惹かれる。

そんな入り口があって、いくつかの哲学書を(和訳で)読もうとして、図書館でいくつか有名な本を漁り、例えば「純粋理性批判」のページなどをパラパラと繰ってみたのだけれども、何を言っているのかさっぱりわからなかった。プラグマティズム以上にわからない。これを読むだけ時間の無駄だと思い、別の本を探した。

背教者ユリアヌス」という本を高校2年の夏休みに読んだことがあって、この物語のせいで古代ローマ側から見たキリスト教会の気味の悪さというものを植えつけられてしまい、その後にずいぶんと自身の偏見に苦しんだ記憶がある。塩野七生さんなどはこの感覚をしばしば文章の上に載せてくるのだけれども、今ではいくらか自然にキリスト教やイスラム教などの一神教に接することができるようになったと思う。

それはさておき、この本の主人公であるフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスという人は、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認してからテオドシウス帝がキリスト教を国教化するまでの狭間に誕生した、最後のローマ人らしいローマ皇帝だとされるようだ。「ローマ人の物語」のほうではまだユリアヌスの代まで読み進めていないので詳しくはわからないが、この人はマルクス・アウレリウス・アントニヌスに似た、ギリシャ人の下で哲学を修めた哲人皇帝であったらしい。

小説の中で、このユリアヌスが少年時代に小脇に抱えていた羊皮紙製本(コデックス)の書物が、マルクス・アウレリウス帝の自書であり、古代ギリシャの哲学書ということになっていた。そこで私は、図書館に収蔵されていたプラトンの対話編などをいくつかめくってみた。そこにあるのは確かに世の中の本質に迫る議論ではあったが、基本的におじさんと少年の会話文なのである。それは極めて読みやすかった。

次いで、当時はまだ書店に並んでいた「饒舌について」という本を買ってみた。そこにはプルタルコスという理屈っぽいおじさんの文句がひたすら垂れ流されていて、読んでいて楽しかった。人間の饒舌、つまり多弁すぎることの害を、実に饒舌に語っている本だった。プルタルコスという人は本来、ローマ史とギリシャ史を並列して学ぶための基礎とされた「対比列伝」という書物を書き残した人として有名だったらしい。

この本は日本では伝統的に「プルターク英雄伝」と訳された。プルタークとは、プラトンをプラトーと呼ぶのと同じで、プルタルコスを英語読みしたものだという。英語ではアリストテレスはアーリスタートルだし、プトレマイオスはタレミーというような音になってしまうので、こういう読み方を多用した時代の訳文には、ギリシャ人の名前はギリシャ語で発音すべしという原音主義で教育を受けてきた世代には少し面食らう人名表記が多い。しかしどういうわけか、論理幾何学の祖であるエウクレイデスだけは、今でも英語読みしたユークリッドのほうが通用する。

そしてそのプルタルコスによれば、饒舌というのは百害あって一利のないものであるという。言葉の多い人間というものは他人の言葉については左の耳から右の耳に抜けていくのだという。その饒舌というものは割れた甕から水が漏れるようなもので、人の知恵を表すものでは全くないのだという。饒舌の害を説くプルタルコスが実に饒舌なのは楽しい。言葉であれこれ言う奴は良くないが、静かに文章をしたためるならば良いのかもしれない。

古代の中国には孔子という人がいて、「子」というのは立派な人を表す尊称であるから、「孔先生」というような意味になる。孔先生の下の名前は丘という。仲尼というあざなもあるので、孔丘仲尼という人を歴史上特に敬って孔子と呼ぶ。ただこの人は、ソクラテスと似て弟子と交わした多くの対話文を残しているが、あまり重要な役職には就いた経験はないらしい。

孔子はたくさんの立派な言葉を残し多くの弟子に慕われたが、役人として政治に参加するという孔先生本人の希望はかなわず、浪人として弟子を取って政治学を教える私塾のようなものを開いていた人らしい。そして大量の言葉が残された。言葉というものは強力なものである。旧約聖書、新約聖書、クルアーン。場合によってはタルムード、マハーバーラタ、大蔵経。そのように残された言葉は、人々に読まれ、永遠に再評価を受け続ける。これら聖典の言葉は、時代が過ぎても誰かが顧みて再び読み返される。

どのような宗教的な聖典にしても、諸子百家の言葉が乱舞した時代の経典にしても、書かれていることは右も左も赤も青もいろいろとあるが、とにかくよくよく読めば素晴らしいことが書かれている。一見ひどいことを言っているようでも、更にひどい現実に揉まれるうちにその本質の素晴らしさに気づかされることが度々ある。また、そうした素晴らしさを持たない文書は古代にも大量にあったはずだが、そういうものは誰にも顧みられることなく、したがって現代には伝わっていない。そういう経代の試練を越えてきた言葉が古典というものである。

一方で現実を見回すと、立派なことを言う人が、必ずしも立派には振舞わないということを目にする。また一方で、特に何も言わず、特にわかったようなところを見せない人が、実に立派な振る舞いを見せることがある。千年の未来まで轟く言葉を残す偉人は、実に声の大きい饒舌家であるが、一方で現実世界を支えているのは、いつも物言わぬ実務家である。

それで饒舌家にその価値が無いのかといえばもちろんそんなことはなく、物言わぬ実務家ほど古典を読み親しんでいたり、あるいは古典を読み親しんでいた人の薫陶を受けて育ったりしている。古代の饒舌家の言葉には確かな力がある。ただし現実世界にあっては、立派なことを言う人よりも、物言わぬ人の抑制された仕事のほうが素晴らしい成果を現す場面のほうが圧倒的に多い。

多くの言葉を知っていて、しかし真実を言葉ではなく行動で示す人が最も素晴らしい。立派な言葉を多く吐く人というのは、真実を行動ではなく言葉で示すことしかできない哀れな人である。そして、真実を知り真実を行動で示す人は、真実を言葉で示す哀れな人に対して、いつも優しく接するだけの素晴らしささえも備えている。

饒舌に物言う人は、馬に船に光ファイバーに乗せて千里の先へも声を届ける。饒舌に物言う人は、石に紙にハードディスクに文字を刻んで千年の先へも声を届ける。しかし、今この場所にある生活を支えている人というのは、いつも物言わぬ賢人なのだろう。そうした賢人というのは地味な商売を親の代から続けているような汚い商店の店先などにも立っていて、実に見出すことが難しい。

饒舌というのは、利もあるが害も多い。そういうことをふと思い、そして今日も饒舌に言葉を書き残す。
[PR]
by antonin | 2008-09-20 05:22 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://antonin.exblog.jp/tb/9528066
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< 山本夏彦ってどんな人だろう よにめでたきものは・・・ >>


お気に入りブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル