安敦誌


つまらない話など
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小人論

学而不思則罔、思而不学則殆。

まぁ、そうなのだけれども、考えてみると、論語というのは君子のあり方について語られた問答集であって、君子論なのだろう。君子のための学問であって、我々のような小人のための学問ではない。私たちのような小人がいろいろと思い悩んでみたところで、それは即ち殆(あやう)きところに留まるのが確実で、下手の考え休むに似たりなのだろう。やはり君子たりうる優れた人物が学び、また考えつくして咀嚼したものを与え、そして我々小人は、親鳥から与えられた吐瀉物を食べる雛鳥のように、学びて思わざるも、なお殆うからざる生活ができるような社会というのが理想像なのだろう。

ただ、そのためには、学と思と実を併せ持った、あるいは知と情と意を併せ持った君子が命を賭けた生存競争の果てに権力を握ることが必要なのであって、そんな名君が君臨した世界というのは、人類史の中でも数えるほどしか存在しない。確実に優れた人であっても、ちょっとした偶然で死んでしまう。確実に優れた人が淘汰によって生き残り、種族としての優性を発揮するためには、個体の生存寿命の数百倍から数万倍の時間を要する。寿命が長く、個体が優れて賢い生物種の弱点は、もっぱらここにある。

ついさっき受けたトラックバックの先が単なるニュースの集積blogだったので削除しそうになったが、残すことにした。冒頭文に書かれている内容が、私の求めているものに酷似していたから、という理由がひとつ。そして、大風呂敷を広げる割には内容がオカルトなものが多い中で、リンク先で述べられている分析内容が妥当に思えたという理由がもうひとつ。

学問というものが知のシステムであるのと同じように、宗教というのは情のシステムであると考えている。「分裂勘違い君劇場」でも指摘されているとおり、学問としての哲学というのは冷徹で、思考によって見えてくる現実というのは常に救いがない。デカルトもそうしたように、懐疑の井戸を降りきったら、やはり皮膚の温度が感じられる世界まで帰ってくるべきだろう。お釈迦さんなどはそれをやってのけたから、人々に慕われている。

かつてのヨーロッパを覆っていた中世は、アウグスティヌスの編み出した技巧的な新プラトン的解釈などを土台にして、学問と宗教の両者が完全に結びついていた。ところが、キリスト以前のローマが愛したギリシャの学問を継承していたイスラム勢力と十字軍で接触してから、ヨーロッパに本来のギリシャ的な学問が復活してしまった。

爾来数世紀、ヨーロッパでは学問と宗教の乖離が進んでしまい、信じるべき対象が分裂してしまうという困難に覆われている。東洋はそれに比べれば安定した状態にあるとは思うのだけれども、やはり物質的に最強だった西洋文明の波を受けて、そうした安定も揺らいでいる。修身学のあの優れたワンポイント実践哲学に覆われていた明治以降の日本人の安定も、そうした波に洗われて、すっかり侵食がひどくなっている。

ここで教育勅語を復活させて、外部からの情報を断ち切って修身の授業を復活させれば、それはそれで安定した社会が生まれそうな気がするが、この時代に鎖国などできるわけがない。やはりアブラハムの宗教や各種多神教、それらに加えて神を前提としない東洋思想まで、それぞれの独自性を失わずに飲み込むような、疎にして漏らさずの堅牢なプラットフォーム層を国際的な思想の土台に据える必要があるのだろう。そしてこれが一番厄介なのだけれども、そのプラットフォームは科学的知見と矛盾してはならない。これが難しい。

まぁ、そうした知的に困難な作業は君子様にやっていただくことにして、小人たる我ら庶民は、我が子に何を見せ、何を知らせるべきかということに集中し、よくよく学び、つくづく考えるしかないのだろうと思う。家族と友を失ってなお残るものなど、小人としての我々には何もありはしないし、そしてそれで正しいのだろうと思う。
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by antonin | 2008-12-07 12:46 | Trackback | Comments(3)
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Commented by クリントン大西 at 2008-12-07 18:29 x
初めまして───になるのでしょうか(苦笑)。クリントン大西です。

「学んで思わざれば即ち罔(くら)し。 思いて学ばざれば即ち殆(あやう)し」・・・ですか(たぶんそんな意味だったと思いますが、うろ覚えなので違うかも)。論語は不勉強なもので、あまりその真意にまでは思考が及ばず、我ながら歯がゆいわけですが・・・(苦笑)。

『君子(名君)』の出現を期待するシステムは、確かに非効率だと思います。それは、いわば釈迦やキリスト、ムハンマドの再来を期待するのにも似ていて、「コロリ転げた木の根っこ」・・・・無為無策というのと何ら変わらないのですから。

科学とは、本来その究極命題を「神の実在証明(真理の解明)」に定めていたという「過去」があり(あるいは現代でもそうかも知れませんが・・・)、その意味で『情』と『(冷徹な)理』は、長年融合努力を続けてきた、と見ることもできるかも知れません。夏目漱石ではありませんけども、理に拠っても、情に拠っても、その『偏り』は多くの場合、害悪を引き起こした・・・そんなように人類史を観察する次第です。

(文章が多すぎました。つづきます)
Commented by クリントン大西 at 2008-12-07 18:30 x
(つづき)


『────神を前提としない東洋思想まで、それぞれの独自性を失わずに飲み込むような、疎にして漏らさずの堅牢なプラットフォーム層』・・・それは突き詰めるに、日本の場合、『精霊信仰(八百万の神々)』になってしまうのでしょうか。あるいは、それを『物語』として相対化した上、『祖先崇拝』みたいなものに帰結するべきなのでしょうか。

確かに、わたしのような小人にはいささか難解に過ぎる問題ですね(苦笑)。「科学信仰」の次に来るものが何なのか? 正直、まったく分かりません。せめて、子供達に恥ずかしくない大人をこれからも(できれば)やせ我慢しつつも演じ続けたい・・・そう願うのみです。
Commented by antonin at 2008-12-07 22:40
>クリントン大西様

コメントでは不自由なので、別記事で返答いたします。
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