安敦誌


つまらない話など
by antonin
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索
最新の記事
サンセット・セレナード
at 2017-04-12 23:17
水分子と日本人は似ている
at 2016-06-04 01:49
ほげ
at 2015-06-05 03:46
フリーランチハンター
at 2015-04-17 01:48
アメリカのプロテスタント的な部分
at 2015-04-08 02:23
卯月惚け
at 2015-04-01 02:22
光は本当に量子なのか
at 2015-03-17 23:48
自分のアタマで考えざるを得な..
at 2015-03-06 03:57
折り合い
at 2015-03-01 00:19
C++とC#
at 2015-02-07 02:10
記事ランキング
タグ
(295)
(146)
(120)
(95)
(76)
(64)
(59)
(54)
(45)
(40)
(40)
(39)
(32)
(31)
(28)
(27)
(25)
(24)
(22)
(15)
最新のコメント
>>通りすがり ソ..
by Appleは超絶ブラック企業 at 01:30
>デスクトップ級スマート..
by 通りすがり at 03:27
7年前に書いた駄文が、今..
by antonin at 02:20
助かりました。古典文学の..
by サボり気味の学生さん at 19:45
Appleから金でも貰っ..
by デスクトップ級スマートフォン at 22:10
以前の記事

<   2006年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧

単なる日記

古い記事にタグを付けてみました。「ニュース」と「散財」ばっかり増えてますが。昨日の長文のようなやつには「妄想」というタグを与えてみました。日経エレクトロニクスの記者が公式blogでこうした「聞きかじりゆえの奔放な夢や妄想」を書くと、現場で苦戦しているエンジニアたちからコメント欄でコテンパンに叩かれています。それでもコメント受付をやめようとしない姿勢が大好きです。

この週末は小旅行です。ムスコが熱を出しているのですが、ヨメがキャンセル料を嫌って強行しようとしているので心配です。大丈夫か?
[PR]
by antonin | 2006-09-30 00:33 | Trackback | Comments(14)

コンピューターの曲がり角に想う(3)

この記事は「コンピューターの曲がり角に想う(2)」の続きです。

長くなりましたが、ここからが本題です。

従来のRISCアーキテクチャーを応用したスーパースカラーなシングルコアプロセッサは限界に達し、PC陣営とゲーム機陣営の双方からマルチコアプロセッサという形でパワーアップ競争を続けるという展開が目の前で繰り広げられている。

ただ、Pentium4までは古いソフトでも新しいソフトでも、クロックパワーによってそれなりに高速に実行できるようになった。従来からサーバー機などではデュアルプロセッサが一般的だったこともあって、2コア程度までならこれまでのOSやアプリケーションでも使いこなせるだろう。特にエンコーダソフトなどではマルチコアをフル活用する態勢がすでに整っていて、そうした需要があってマルチコアプロセッサが売れている。

けれども、コアの数が4個とか8個とか、極端な話では100個とか、そういう風にプロセッサが進化しても、ソフトがそれに追いつくには時間がかかるだろう。80386が本格的なプロテクトモードを備えてからWindows95でなんとかマルチタスクが実現するまで5年くらいかかったし、まともなOSが普及するにはさらに5年ほどを要した。ソフトが必ずハードを追っていくというのは、現実として仕方が無いのかもしれない。

ただ、どうせソフトが後追いになるのであれば、もうちょっと面白いことをしてくれないかなぁ、という本音がある。つまり、これまでのプロセッサコアは複雑になりすぎたので、ちょっと簡単にした代わりに数を増やしてみました、というのではなく、もうちょっと斬新(かつ現実的)なアーキテクチャを盛り込んで欲しい。

たとえばIntelやMicrosoftが計画しているように、HDDにフラッシュメモリを併用して起動を早くするとかいうのは、感覚としては似ている。つまり、今のところボトルネックになっているのはプロセッサの処理速度ではないので、「一番細いところ」を集中的にやっつけてくれるものがいい。

プロセッサ周りでいうと、オフィスツールなんかは0.5GHzの古いプロセッサでも全く問題なく動く(メモリはたくさん欲しいが)。一方で、解像度の高い動画をMPEG4とかWMV9とかH.264とかにエンコードしようとすると、最新のプロセッサでもしばらく悶絶してこちらの世界に帰ってこなくなってしまう。我が家の非力なプロセッサでは、3Mbpsのストリーム動画再生すらできないことは過去にも書いた

ところがその一方で、ソニーのちっちゃいビデオカメラなんかがハイビジョン映像を高圧縮フォーマットでリアルタイムにエンコードしてしまっている。しかも、電池を電源として。これは別に最新のハンディカムにCellが仕込まれているとかそういうことではない。だいいち、Cellのピーク消費電力は70Wにもなると言われていて、ビデオカメラは言うに及ばず、プラズマ陣営と省電力競争を繰り広げている大型液晶テレビでさえ、70Wも消費するCellは絶対に使わないと言い切られているらしい。

ではハンディカムはどうやっているかというと、ハイビジョン映像のエンコード専用にチップを開発し、エンコード処理の主要部分を全てハードウェアで実行している。そのようにすると、実行速度が速い上に消費電力も少なくなる。プロセッサのようにソフトウェアによってあらゆる処理を実行する柔軟性はないけれども、ビデオカメラにとってそんなことはどうでもいい。

こうしたものを、GPUのようにCPUに程近いところに配置してくれたら面白いのに、と思う。ビデオカメラに乗った専用エンコーダのようなものをPCに載せてしまうと、単一フォーマットにしか対応しないので、なんでもできるのが取り柄のPCにはふさわしくない。DSPプロセッサのようにプログラマブルなものが望ましいが、もうちょっと強力なものがいい。

ということで、FPGAとか、もうちょっと粒度を粗くしてcodecのアクセラレーションに特化したASSP寄りなもので、とにかく今のPCの弱いところをうまく補うようなPLDを搭載してくれないだろうか。

もちろん、PLDをプログラミングするにはHDLを書く必要があったりして、プロセッサ上のプログラミングより難しい、というよりも、かなり異質なスキルとセンスが要求される(らしい)。ただし、動的再構成のような激しい使い方をするのではなしに、あるときはH.264エンコーダ、あるときはWMV9デコーダと、タスク切り替えくらいの頻度で限られた機能を与える程度であれば、特定ベンダーが少数の優秀なLSI設計者を集めてライブラリを用意すれば、十分対応できるのではないか。

これにはちょっとした副産物を期待していて、面白いシステムがあると先天的にハックしたくなる青年たちが、PCにPLDが組み込まれることでそれに関心を持ち、HDL使いが増えてハードウェア設計者の層が厚くなったりすると面白いな、と思っている。

そこまで行かなくても、プロセッサとPLDが協調してPCの守備範囲を柔軟に広げてくれるというのは楽しい。しかも最小の電力で。プロセッサ周りだけでなく、IO付近にもPLDを置いておき、アプリケーションあるいはOSからプログラム可能にしておけば、USB 2.0のような汎用シリアルポートが、さらに汎用的なものになるかもしれない。


と、妄想は続くわけですけれども、今日は眠いのでこの辺にしておきます。
略語を多用したので、近いうちに用語解説へのリンクを追加する予定です
(2006/10/18追記:やっぱりやめました。わかる人はわかるし、わからない人は自分で調べるだろうし、興味ない人はリンクしても読まないだろうから。)
参照ページもたくさんあるのですが、また今度にします。

お付き合いいただきありがとうございました。

--

安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(1)
安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(2)
安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(3)
[PR]
by antonin | 2006-09-29 01:28 | Trackback(1) | Comments(0)

コンピューターの曲がり角に想う(2)

この記事は「コンピューターの曲がり角に想う(1)」の続きです。

さて、マルチコアというと連想するのがPLAYSTATION3のプロセッサである、通称"Cell"だが、あれは、果たしてどうなんでしょう。SCEIの久夛良木さんは、PLAYSTATIOM3は「ゲーム機」ではなくて「エンターテイメントコンピューター」であると言っている。

たしかPlayStation2のときも似たようなことを言っていた記憶があるけれども、PS2に搭載された"Emotion Engine"というプロセッサは、PSXなど一部のソニー製品に搭載されたものの期待された売り上げを得られず、事実上ゲーム専用プロセッサとしてその役割を終えようとしている。

Cellは確かに非常に強力なプロセッサであり、潜在能力としては申し分ないのだが、PS3がゲーム機の枠を越えたコンピュータになり、Cellがゲーム機のプロセッサを超えてネットワークのいたるところに遍在するという久夛良木さんの野望はというと、ちょっと実現が危ないと思う。ただし、ソニーグループはこのCellとPS3に5千億円ともいわれる大投資をしているので、失敗は許されないのだが、大丈夫だろうか。

PS3の発売が遅れに遅れている上に、ゲーム機として4万円前後の値段が予想されていた中、廉価グレードでさえ税込み62,790円という価格発表で記者会見場が凍りついた挙句、発売前に値下げ断行という前代未聞の事態になった。

SCEIは(というより久夛良木さんが)IBMと東芝のエンジニアを集めて独自のアーキテクチャを持つ非対称マルチコアのプロセッサを作ったが、そこにつぎ込んだ投資額の前提は全て、「1000万台は楽に超える」というPS2の量産原理に基づいている。たとえ野望は「エンターテイメントコンピューター」であっても、初期の市場立ち上げはゲーム機プラスアルファで進めるべきだろう。

PS2の時は、当時普及していたPS1のソフトが使えて、次世代のPS2のソフトも遊べて、なおかつ当時はまだ高かったDVDプレーヤーがおまけで付いてきて、なおかつ手ごろな値段ということがあって、PS2専用ソフトが充実する前からそれなりにPS2本体は普及していた。ところがPS3の場合、PS2のソフトはエミュレーションで遊べるが、PS3専用ソフトが出揃うまでの間をつなぐ「おまけ」が、得体の知れない「ブルーレイディスク」プレーヤーになった。

こいつはPS2のときのDVDプレーヤー機能が果たした役割を当然期待されているのと同時に、結局統一規格をまとめられなかった、もう一方の次世代DVDである"HD DVD"をやり込めるための飛び道具という役割も持っているため、ソニーグループとしては絶対に外せない機能なのだろう。(結局こいつがPS3に2度目の発売延期を余儀なくさせた原因になっているらしいのだが、それはまた別の話)

また、「PS3不発説」でよく語られる理由のひとつに、PS3の性能(と価格)に見合った豪華絢爛さが当然のように要求されるPS3専用ゲームの開発コストが危険なほど高騰するだろう、という話があげられる。その影で密かに語られるもうひとつの理由として、Cellの「斬新さ」がある。

PS2のアーキテクチャにしても、それまでのゲーム機ともPCとも違う特殊なものだったので、初期にはゲームプログラマを随分と悩ましたらしいが、PS3の、特にCellの構造は、従来のプロセッサと根本的に違う独自のものだ。IBMのPower Processor互換命令を実行するPPEはともかく、小さなローカルメモリを抱えてリングバスにつながれたSPEという名の「7人の小人さんたち」の扱いには、PS2で鍛えられた精鋭プログラマでも相当苦労するらしい。という以前に、ゲームメーカー向けに開発環境そのものを開発するSCEIの開発部隊が、一番苦戦しているらしい。

こうした状況下で、果たしてPS3とCellは世界中の家庭に普及するのか。ゲーム機の枠を越えて、パソコンの次に君臨するべき「エンターテイメントコンピューター」の座を射止めることができるのか。もしそれが実現したら、それはそれで楽しい世の中なのだが、せっかくの混乱期なので、もうちょっと別の可能性も想像してみたくなった。

以下、次項。

--

安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(1)
安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(2)
安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(3)
[PR]
by antonin | 2006-09-29 00:29 | Trackback(2) | Comments(0)

コンピューターの曲がり角に想う(1)

最近、プロセッサ(パソコンのCPUなど)の進化の様子がどんどん変化していて面白い。

従来は、ムーアの法則といって、2年だか1年半だかでICチップの集積度(面積あたりのトランジスタ数)が2倍になるという、法則というかロードマップのようなものに乗って、プロセッサもどんどん大規模になっていった。この法則自体はもうしばらく続いていくようだけれども、これまではただ集積度が上がって大規模になるだけではなくて、高速になる(クロック周波数が上がる)、同じ機能ならチップ面積が小さくなってコストも下がるし消費電力も小さくなるなど、とにかくいいことばかりだった。生産技術的には難しくなっても、見返りはそれ以上に大きかった。

ムーアの法則に乗り続けてきた約30年間は、必ずしも平坦な道のりではなかった。たとえばプロセスルールが1ミクロンを切るときなどに、このあたりが微細化の限界なんじゃないかと言われていた。けれども当時は、これ以上の微細化は技術的に難しすぎて、ムーアの法則から外れるんじゃないかという懸念だった。結局世界の半導体業界はなんとか新技術を開発して、そうした危機を乗り切ってムーアの法則を守り通してきた。ところが最近は、これまで気にならなかった微細化のデメリットが目立つようになってきた。

現在の量産レベルで最先端にあたる90ナノメートルのプロセスルールあたりから、微細化にともなうメリットがどんどん無くなってきているらしい。たとえば、微細化してもゲートあたりの消費電力が下がらないとか、発熱密度が上がりすぎて冷却できないとか、マスクコストが高くなりすぎて相当な生産量が出ないとコストが下がらないとか、トランジスタの動作可能な周波数は上がっているのに配線遅延の影響が大きくなりすぎて同期の取れる範囲が小さくなっているとか、他にも閾値電圧のばらつき、パッケージコスト、低速な外部配線など、たくさんの問題が噴出してきているらしい。

つまり、今後もこれまでのような微細化は可能だけれども、必ずしもこれまでと同じメリットを生まなくなってきている。腕時計からスーパーコンピュータまで、みんな同じ目標に向かって走ってきた時代から、用途によって、皆それぞれの道を歩く時代に変わっていくのだと思う。上記はプロセッサを含むロジック回路の話であって、メモリとかはまだまだ微細化の価値があるらしいのだけれども、とにかく、進む道が分かれていくのは確かだろう。

そういった素子のレベルの話だけではなくて、身近なパソコンのプロセッサでも進化の様子が変化している。PC用プロセッサが32bitになった頃までは、Intelを先頭にAMDやCyrixなどが競い合っていたが、その頃からプロセッサの性能イコール動作周波数という認識が一般の消費者に広まって、クロック競争が始まった。IntelはPentium IIIのあとがまとしてPentium4を開発したけれども、これは処理能力はともかくクロックだけは抜群に速いという設計であった。これが功を奏して、一時期はIntel以外の高機能プロセッサメーカは絶滅するかという勢いだった。

日本ではいまだにその状態が続いているのだけれど、アメリカなどでは、今ではデスクトップPCの半数以上がAMDのプロセッサを積んでいるのだという。これは現在の話なので皆さんご存知だと思うけれども、Pentium4のクロック周波数うなぎ登り計画は、当初開発者が20GHzまではいけると豪語していたにもかかわらず、4GHz手前で終わってしまった。理由は周知のとおり、電力消費とその結果である発熱が消費者の我慢の限界を超えてしまったからだ。

AMDはPentium4の路線を追いかけることをしないで、クロックあたりの処理能力を高める方向で地道に挽回の日を待っていた。この間にAMDは、64bit命令への拡張だとか、マルチコアの採用だとか、今注目されている機能を着実に積み重ねていた。どちらも、結局Intelが後追いをすることになった。

で、早くもIntelは4コアチップの開発を発表していたり、将来は100コアを目指すとかまた極端なことを言っているのだけれども、とにかく最近の高機能プロセッサの主流はマルチコアということで落ち着いている。

長くなったので項を改めます。

--

安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(1)
安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(2)
安敦誌 : コンピューターの曲がり角に想う(3)
[PR]
by antonin | 2006-09-28 23:45 | Trackback | Comments(2)

父と子

b0004933_2050486.jpg

なるべく似ているのを選んでみました。
[PR]
by antonin | 2006-09-19 20:50 | Trackback | Comments(15)

教祖の死刑

<松本被告>死刑確定 最高裁、特別抗告棄却を決定 | エキサイトニュース

裁判の結論に関しては、これ以外ありえないだろうということしか言えない。

被害者の一部には、裁判が正常に行われず事実の解明が不十分に終わったことで憤る向きもあるが、これ以上判決を延期しても事実解明が進むとも思えず、あとはジャーナリズムなどに任せるしかないのではないかという気がしている。

さて、在来の宗教の改変でそれなりの勢力を持った新興宗教の教祖が、国家権力によって死刑に処せられる話というと、どうしてもキリストの「受難」を連想してしまう。教祖を死に追いやった(復活したことになっているが)処刑具であるところの十字架が、数百年後には当の宗教にとって聖なる象徴として重要視されるに至った。

現代のキリスト教は、様々な紛争の原因のひとつとなっている一方で、確かに人々の心を救済する、洗練された国際宗教になっていることも確かだと思う。けれども、その発生当初はあくまでカルトであったのだろうと私は考えている。在来のユダヤ教の教義にも反する部分があり、預言者、救済者などの神聖な役割を教祖が自認していて、結果的に在来の信徒の反感を被っていた。オウムのような殺人行為には及んでいないものの、時の国家権力と相容れずに教祖が死刑に処されている。

時が下って、当初の生々しさが薄れるとともに、残された信徒による教義の洗練や教祖に関する伝聞の神話化などによって、徐々に有力な宗教としての素地を固める。そして、ローマ国教となることでヨーロッパ圏での影響力を確立するに至り、ギリシャ哲学の組み込みや古典的王政から民主制への移行に対応する改革などを経て、現在に至っている。

今回、オウムの教祖が国家によって罪に問われて死刑確定となったけれども、教団自体は名前や形を若干変えながら存続している。彼らは教祖の死刑をどのように受け止めるのか。単純に、過去の罪を悔恨するだけという結論は考えにくい。罪は罪、罰は罰として、そこになんらかの宗教的な意義のようなものを付け加えて教義に繰り込むとも考えられる。周囲が厳しく当たれば当たるほど、結果的に彼らが結束するという心理もあるかもしれない。

オウムは使用している用語などからして、基本的に原始仏教の思想に倣っているようだけれども、キリスト教やイスラム教などの存在もオウムの基本的な教義に矛盾しない程度に組み込んでいるらしい。キリスト教の教祖の結末と、自分たちの教祖の結末に共通点を見て、それを利用すると言うことも十分考えられる。

数世紀ののちに、絞首刑のためのロープを象徴として崇める人々が大勢を占めているような国家が誕生しているとは考えすぎだと思うけれども、近くに予想される「死刑」という出来事の影響が、過激な方向に進まないことを心から願う。

参考:"wad's"より、書評「キリスト教の揺籃期

--
[PR]
by antonin | 2006-09-15 19:00 | Trackback | Comments(0)

午睡

b0004933_2101072.jpg


週末は癒されますね。
[PR]
by antonin | 2006-09-11 02:10 | Trackback | Comments(4)

数字にだまされない

先日、月の写真を掲載した際に、コメントに地震の話を頂いた。

あとになって調べてみると、月と地震の発生に関係を見出す人がかなりいるらしいことがわかった。中でも月の満ち欠けに関連があると見る人が多い。確かに月は地球に最も近い天体であり、私たちの住む地殻が、マントルという粘性液体の上に乗った薄皮であるというプレート説によれば、月による潮汐力が地震の引き金となる可能性も十分考えられる。

それにしても、考慮されるのは月の位置ではなく月の満ち欠け、言い換えると、地球上の地震発生箇所と月の位置関係ではなく、地球と太陽と月の三者の位置関係であることが多いようである。特に、新月であるとか満月であるとか、三者が一直線上に並んだ状態を重要視する指摘が多い。ここまでは、検証してみるに値する仮説というか、科学的好奇心の出発点としては妥当な気がする。結論の当否は別として、データをもとにした議論に期待したい。


それはそうと、こうした検証の難しい仮説というのは、期待に反して、データの扱いを得意としない人々によって論じられ、なにやらオカルト的な結論だけが世を跋扈するようなことになることが多いようである。

震度7の建築経済学:満月の夜に大地が動く - 企業・経営 - nikkeibp.jp

タイトルは詩的で結構なのだけれど、「満月の夜に大地が動く」との考えを裏付ける、冒頭のデータがいけない。

 「満月の夜が怖い」とはっきり思うようになったのは、阪神大震災のときからだ。

 1900年以降で、死者が1000人を超えた地震は7回ある。そのうち、満月や新月のころに発生したのは、北丹後地震、三河地震、南海地震、阪神大震災の4回だ。すべての大地震が満月や新月に合わせて起きるわけではないが、7回のうち4回というのはかなり高い確率だ。

関東大震災(1923年) 月齢19.7
北丹後地震(1927年) 月齢 3.3、新月の3日後
鳥取地震 (1943年) 月齢10.3
三河地震 (1945年) 月齢28.5、新月の前日
南海地震 (1946年) 月齢27.4、新月の2日前
福井地震 (1948年) 月齢20.6
阪神大震災(1995年) 月齢15.7、満月


阪神大震災が満月の夜が明ける頃だったというのは、まあいい。問題はその次で、「7回のうち4回というのはかなり高い確率だ」と言っているが、表を見ると新月の前後3日まで数に数えている。すると、新月満月に対してそれぞれ当日±3日の範囲を見ていることになり、計14日に網を打っていることになる。これに対し、月の満ち欠けの周期を都合30日とすると、30日中14日が「満月や新月のころ」と考えられ、地震が月の満ち欠けと無関係にランダムに発生するとしても、それが「満月や新月のころ」に発生する確率は2分の1弱ということになる。

「7回のうち4回」は2分の1強であり、標本数がわずか7個であることから考えると、30分の14と7分の4に有意差があるとは到底考えられず、「7回のうち4回というのはかなり高い確率だ」というのは単なる思い込みであることがわかる。同じ論法を使えば、こうも言えるだろう。「ほとんど全ての地震は、新月や満月の前後1週間以内に発生している」と。この法則に当てはまる現象が特に地震に限らないことも理解できるだろう。

まぁ、最後のほうで

 「満月あるいは新月、大地震、耐震基準改正」を繰り返してきた歴史の輪の中に、姉歯事件は「満月、建物取り壊し、耐震基準改正」という新たなパターンで強引に加わることになったのだ。この夜の満月も、阪神大震災、スマトラ沖地震のときと同じように、怪しい色で光っていたのだろうか。


などとあるので、軽いノリの読み物と見ればいいのかもしれない。当安敦誌においても、同様の地震にまつわるオカルト話は書いたことがある。ご興味のある方はどうぞ。

安敦誌 : 84年を越えて
[PR]
by antonin | 2006-09-06 23:16 | Trackback | Comments(14)

男児降誕

秋篠宮妃紀子さまが男児をご出産、皇位継承順位は第3位 | エキサイトニュース

まずは、ご出産おめでとうございます。

世間の耳目を集めた出産でしたが、予想通りの男の子でした。ここで気になるのは、これが単なる「予想通り」であるのか、あるいは密かな「予定通り」であるのか、という点です。

過去に立花隆さんが書いていました。

第23回 “女帝”誕生は是か否か! 皇位継承の原点から考える - 立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」 - nikkeibp.jp

 私は愛子さまのみで十分という立場に立つが、もし皇太子夫妻におかれて、第二子、第三子がどうしても欲しいとお思いになられるなら、早く高度生殖医療技術の利用に正々堂々と踏み切るべきだと思う。自然生殖以外は不自然と考える立場は、いまやアナクロ以外の何ものでもない。

 お二人は、自然生殖ですでに愛子さまを得た以上、それぞれの精子、卵子の授精能力、受胎能力は立証されているのだから、正々堂々の不妊治療に踏み切れば、体外受精で第二子目、第三子目を妊娠することはほとんど約束されているようなものだ。


今回のご出産は皇太子ご夫妻ではなく秋篠宮家においてでしたが、かえってそれだけに、「高度生殖医療技術の利用」があったかのかどうかという疑問がわいてきます。当然それは単なる不妊治療の範疇に入るような技術ではなく、公式には存在しないことになっている「産み分け」の技術を指します。宮内庁が、果たして39才の紀子妃殿下に確率50%の賭けをさせただろうか、という疑問もあります。

仮に、体外受精の技術を使って受精卵(胚)を得てから胎内に戻すまでの間に、培養中の胚の性別を識別することが可能であれば、男性の染色体を持つ胚を選別して着床させるようなこともできます。


世間では男の子が欲しいとか女の子が欲しいとかを本気で願っている人もあって、民間療法的な産み分け術も一部で行われているようですが、子供が欲しいという願いには不妊治療で応えても、男女の産み分けに関する要求に対しては、現代の医学倫理は拒否の回答を続けています。

もし仮に、男女同権ではない伝統を継承する天皇家において、秘密裡にこの一線を越えるような事実があったならば、今後の日本にどのような影響を与えるのか興味深く思います。


と、あくまで想像の域での話でありました。
[PR]
by antonin | 2006-09-06 19:32 | Trackback | Comments(4)

低い月

b0004933_0122415.jpg

これは東の空に上り始めた8月の月。

コンパクトカメラのプログラムAEをだましながら月面の模様が見えるような露出にするのは難しかった。比較的色合いは忠実になっている。元画像から原寸トリミング。

日差しは弱り、怒ったような昼の暑さは去り、大気の透視度も徐々に増してきた。新暦9月といえば中秋の名月だが、今年は10月6日になるとのこと。
[PR]
by antonin | 2006-09-04 00:33 | Trackback(2) | Comments(6)


フォロー中のブログ
外部リンク
外部リンク
ライフログ
ブログパーツ
Notesを使いこなす
ブログジャンル