安敦誌


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迫るマーズ

今日、会社帰りに大先輩と一緒に温泉に寄ってきました。今週末に車を東京に移動するので、これが恐らく(会社帰りとしては)最後の機会となります。

梅雨ではありますが、雲の切れ間から月がのぞき、あと3日ほどで満月か、という程度でございました。その月に寄り添うように、明るい、赤い星が光っているのを大先輩が見つけました。あの明るさで、地平線に近ければ明らかに宵の明星、金星なのですが、月よりも若干高い。そして、何より赤い。あれは火星ではないのか。

調べますと、前回の大接近が2005年8月であり、通常の接近は2年2カ月おきであるとのこと。

参考:「【特集】2005年火星大接近

すると、そろそろ次の接近が近く、夜空で目立つ赤い星になっていてもおかしくない頃合ではありませんか。あぁ、あれはやはり火星でありましたか。

日没後、月が見えたら、その少し左上を探して御覧なさい。赤い、妖しい光が燈っているではありませんか。(まぁ月齢によって相対位置は変わりますけれども、明日あたりは大して変わらんでしょう)
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by antonin | 2007-06-28 01:27 | Trackback | Comments(4)

天皇制の話

まぁ、今まではっきりとは言及してきませんでしたが、現行憲法の肝は決して第9条ではなく、第1~第8条であると思っています。

日本人は信教の自由が許されているけれども、国家には特定宗教に与することが許されていない。許されてはいないのだけれども、その「国体」(国民体育大会ではないほう)の根幹は天皇制なのであって、国民の象徴だ何だといっても、結局生きた神の「皇統」によってこの国は成り立っているんだということを、ここ数年で実感した。

これは諸手を挙げて天皇制を支持し、復古主義に傾倒するという話ではない。現実問題として、超自然的な意味を除いてなお、「天皇を中心とする神の国」と言った森元総理の発言はあながち嘘ではないな、と思わされ、考えさせられる場面がたくさんあった。

日本は細木数子の占いの本が世界一売れてギネスブックに載る国であり、「水からの伝言」とかいう疑似科学本が教育現場でありがたがられ、挙句まともな学会にこの手の研究報告が出てきてしまうという、呪術の伝統を色濃く残した国でもある。アフリカで西洋医学が適用されている横で、呪術師のまじないが並行されているというが、これは日本人にとっては笑えない話であって、伝統的な厄除けから新興の宗教法人まで実に幅広く、特に弱った人は藁にもすがる気持ちで呪術的な施術を受ける。

最近プラチナ微粒子をカプセルにして飲むというCMをテレビで見かけるが、「さびないプラチナ」とはつまり、化学的にほとんど何の反応もしないということであって、それがナノ微粒子であろうと、大した効果は期待できない。しかし、原料が高価なことは確かであって、したがって製品が高価になることも妥当である。だからといって効果が高いとは限らないのであるが、そんなことはきっとどうでもいいのだろう。

そうした民族的な、体に染み付いた呪術的信仰の頂点に、天皇陛下が鎮座ましますのである。これは、男女同権がどうだといったレベルの話ではない。万世一系、男系男子でないと困るのである。土俵に女が上がっては穢れるというのと同じ世界である。

旧竹田宮家の誰かが「女系天皇は、法隆寺を補修するヒノキがないからといって、鉄筋コンクリートに変えてしまうようなものだ」ということを言って、なるほどうまい理屈を考えるものだなぁと感じ入ったことがあったが、結局のところ、そういう理屈は後付けに過ぎないということもじきに分かった。とにかく、信仰上は万世一系が大事なのであって、Y染色体などどうでもいいのである。

私はそうした呪術めいたものに失望した経験を持ってから、そうした信仰に距離を置いているのだけれども、そうしたものを意識するにせよ無意識的にせよ、結果として呪術的なものにすがる人というのは多い。多いというよりも、大部分を占めているのではないだろうか。迷信を遠ざける人でも、一軒家を建てるとなれば地鎮祭くらいは執り行うはずだ。たとえ神主さんが日ごろどんな生活を送っていようと、白装束でしかるべき祝詞をあげてもらわなければ、大工さんたちの士気にも影響するというものであって、やはりそうした呪術的儀式を避けて通ることはできない。

数ヶ月前に書店で芥川龍之介の「或る奉教人の死」という文庫を買った。奉教人とはいわゆるキリシタンのことであって、江戸幕府の宗教統制が始まる以前のカトリック教徒の話である。文学には蒙いので最近まで知らなかったけれども、芥川さんには「ばてれんもの」という一連の中世キリスト教徒が出てくる作品があるらしい。実は読みたかったのは掲題の作品ではなくて、「神々の微笑」という作品だった。芥川さんの短編の中でも、いっそう短いが、不思議で強烈な余韻を残す作品だった。

つまり、現代日本のキリスト教式結婚式も、型どおりの地鎮祭と何も変わらない、実に日本的で呪術的な儀式でしかないという現実を当時すでに喝破したような作品だった。私も妻の意向で神の名のもとに永遠の愛を誓い合ったが、神とは実はヤハウェーではなくアマテラスだったのかもしれない。現に妻はプロテスタント系の学校で教育を受けたにもかかわらず、そこここの神社で厄払いだのお守りだのにそれなりの出費をしている。当人は無宗教のつもりでいるらしいが。

日本国憲法の第7条には天皇の執り行うべき国事行為が列記されており、その十節の最後が「儀式を行ふこと」となっている。実はこれが天皇の存在する理由であり、国事の根幹であり、日本が存在する陰の恵みと信じられているところの行為なのだろうと思う。

イギリスのエリザベス女王同様、日本の天皇も分刻みで休みのない過酷なスケジュールで国務を果たされている。しかしながら、そのかなりの部分が実は神道にまつわる伝統的かつ宗教的かつ呪術的な行事であって、必ずしも無宗教であったり合理的であったりはしない。天皇陛下が長靴をはいて田植えをされるのは、単に農民の真似事を体験しているのではなく、日本各地における稲作の豊穣と、日本の繁栄を願っている呪術的儀式なのだろうと思う。

以前はこうした非合理に嫌悪感を抱いていたが、最近では、そうやって社会は回っているんだということに少しずつ気が付き始めている。人間は常に理性的ではいられない。

呪術というのは、形はいろいろだけれども、結局のところ、人間とは切って離せないところにある。まともなキリスト教徒が十字を切るのも、似たようなものだろうと思う。イスラム教徒が豚肉を食べないのはコーランにある神の言葉に従っているからだといえば理性的に聞こえるが、結局のところ日本人の「穢れ」の感覚からそう遠いところにはないように思う。

ということで、日本には天皇制が、それも男系男子の天皇が必要です。外交における権威と国賓との親交という実利はあるにせよ、それ以上に大切な役割が、実は今でもあるということをこの数年で肌に感じました。まぁ、触らぬ神に祟りなしであります。クワバラ、クワバラ。
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by antonin | 2007-06-26 01:04 | Trackback | Comments(6)

単なる雑談

いきなり引用から。
ゆるしてJASRAC。

男の子と違う 女の子って
好きと嫌いだけで 普通がないの
でも好きになったら
いくつかの 魔法を見せるわ
本当よ
ついでにもう一発。
お化粧なんかは しなくても
あなたは私にもう夢中
真珠の涙を浮かべたら
男の子なんて いちころよ


とまぁ、なんといいますか、「鬼も十八、番茶も出ばな」と申しまして、男は30まで童貞でいると魔法が使えるそうですが、女性は誰しも若くして恋に落ちれば魔法を使えるわけです。しかもかなり強力で実効性の高いやつを。

こうした魔法に悩まされることもなく、平穏な日々を暮らしてもう何年も経ちますが、若い頃にはやはりこの手の攻撃系や召還系の魔法にやられたこともずいぶんありました。今では魔法の対象ではなくなったとともに、魔法に対する防御能力もかなりアップしたこともあり、この手の攻撃によるダメージはすっかりなくなりました。

一方で、コドモたちからはいろんな魔法をかけられてまたまた悩み多き日々ではありますが、それはそれで幸せなもので、満足しております。

ただ、ムスメなんかが上記のような魔法を使い出すとまた違う意味で悩むのだろうなぁ、などと、鬼の笑うような心配をしております。

わたくしごとですが、先週末は久しぶりに、また季節外れに扁桃腺を腫らしてしまい、39度を行ったり来たりの高熱を2日半にわたり発症し、寝込んでおりました。コメントに間が空いてしまいましたが、そういった事情でございましたので、なにとぞご了承ください。
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by antonin | 2007-06-19 07:07 | Trackback | Comments(7)

ある偉そうな男の話

とまぁ、結局私自身の話であるわけですが。

以前は自己言及は精神的に不安定になる原因でもあるのでなるべく避けて通ってきたんですが、最近元気がついてきまして、少しなら耐えられるようなってきたので、少しだけ自己言及してみたいと思います。

mixiで知り合った「マイミク」から「紹介文」というのを頂いたわけですが、その中に、次の一節がありました。
僕に安敦の足の爪先程度でも見識が有れば、
僕も他人に対して偉そうな素振りを
みせるでしょう。

ここで大変重要なのは、「僕」という助詞1文字でありまして、これはやんわりと「安敦は他人に対して偉そうな素振りをしている」とたしなめられていると解釈できるのであります。

まぁ薄々了解している事項ではあるのですが、なにしろ自らを省みる心理的余裕がないので、見て見ない振りを通してきた部分でもあります。

「偉そう」というのは、言っていることは立派だが、行動は立派でない、ということであって、たとえば、「他人を幸せにすることが自分の幸せにつながる」と書いておいて、実際は全然他人を幸せにしていないどころか、傷つけているというあたりから導かれたものだと思います。このあたりは確かに自覚があって、mixiで「偽善者」のコミュニティに登録しているのはこの部分を暗示しているつもりでした。

つまり、他人を騙すために善を装っているのではなく、善でありたいと公言しておきながら、不善を成しているので、結果的に他人を騙す偽善者となっているのです。このあたり、「不言実行」のちょうど逆を行っているのであります。

ただ、私もムスメに負けず劣らず言い訳の達人ではあるので、ひとこと言わせていただければ、「自分の幸せが周囲の幸せにつながる」という循環があって、単刀直入に言えば、仕事がつまらなかった。人間関係はまずまずだったが、とにかく仕事が退屈だった。一人暮らしの退屈も身にしみた。当初からその鬱憤を晴らすためにブログを書き散らしているようなところがあって、「ナイフみたいに尖っては、触るものみな傷つけた」という部分がありました。

「わかってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか」とまで書くとJASRACに怒られそうですが、とにかくそういう鬱憤があった。その負の連鎖を断ち切るために、まずは大切な友人とは一時的にしても断交するなり、接触を控えるなりしてもやむなしと考えた。距離を置くというのは、他人を傷つけない方法のうち、ましではないが、まあ有効な方法のひとつだろうと思った。

そして、鬱憤の根本を絶つために、転職を決めた。もう来月には単身赴任状態は終わることが決定している。仕事の内容も、給料は安いが目いっぱい楽しそうなのを選んだ。今後に期待してください、としか今は言えません。

同じことを言うのでも言い方というものがあるが、そこまで気を回すには精神的な余裕がやはり必要なのであって、言葉にトゲがある第一要因が受け手にある場合もあれば、全く関係ない場合もある。私の場合はあくまで私自身の問題でした。その点、皆様にはご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。検索で飛び込んでくる人は関係ないでしょうけどね。

「偽善者」とか「境界性人格障害」とか色々と言われましたが、そのあたりは自分が一番良く認識している部分でもあって、ではどのように対処すればよいか、というのが答えの見えない回廊でした。

ともかく、改善には努めておりますので、今は「生暖かく」見守っていただけましたら幸いです。

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ふぁぜろどの、エキブロがシステムダウン寸前の中、たくさんのコメントをありがとう。夕方には返事を書きますからね。

(追記:2007/6/13 夜)
「僕は」に変更してくれました。ありがとう。
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by antonin | 2007-06-13 08:02 | Trackback | Comments(8)

SETIは可能か

本日4本目。もういい。そういう日もある。

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SETIという計画がある。"Search for ExtraTerrestrial Intelligence"という言葉の略称で、直訳すると「地球外知性の探索」となり、地球外に友人を探そうという計画らしい。具体的には、宇宙からやってくる電磁波の中から、「意味のある」信号を検索しようというもので、それをインターネット上のPCをボランティアとして分散処理する"SETI@home"はタンパク質解析か何かのボランティアと並んで、一時期流行していた記憶がある方もあるだろう。

コンピューターで計算している以上、何かしらのアルゴリズムやら原理やらがあるのだろうが、SETI@homeの日本語サイトによると

SETI(地球外知性の探索)は、地球外の知的生命を検出することを目標とする、科学の一分野です。 このうち、radio SETI(電波によるSETI)として知られる手法では、電波望遠鏡を使って宇宙からの挟帯域電波信号に耳を傾けます。 このような挟帯域信号は自然に発生するものではなく、もし検出できたなら、地球外テクノロジの存在の証拠になるでしょう。

ということで、特定周波数で雑音とは異なる電磁波を検出したとき、それを地球外知的存在の証拠とみなすということらしい。

しかしこれは、20世紀にはもっともらしく聞こえた検出法だが、スペクトル拡散通信やタイムドメイン通信、それに何よりセキュリティ問題から発する日常的な暗号の利用など、21世紀的な通信の現状を考えに入れると、なんとも無理のある検出基準なのではないかと思うようになった。理想的に暗号化された変調波は、適切な復号の手段を持たない限り、信号を雑音と有意に区別することができない。

要するに、電磁波を通信手段に使う程度に高度な知性を持ち、なおかつ、暗号化やスペクトル拡散などの高度な通信技術を持たない程度に低レベルな知性を持つ生命体しか検出できないということになる。

地球が生まれてから人類が電磁波を使って通信を始めるまでに45億年と少々掛かったが、そこからスペクトル拡散通信を実用化するまでには100年ほどしか経過していない。それも、恒星間通信が可能なほどの信号強度の電磁波など、ほとんど発したことはないはずだ。そんなあり得そうもない信号の検出で、地球外生命の有無を判断していいものだろうか。言い換えると、そんなものの検出に世界中の計算機電力を浪費していいものだろうか。

まぁ、夢のある話で結構だけれども、イグアナの気持ちを理解する以上に、宇宙人の発する信号を検出するのは難しいような気がする。難しいからこそ挑戦する。そういう気持ちは確かに大切ではあるのだが。
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by antonin | 2007-06-11 22:45 | Trackback | Comments(2)

沈黙は金、ならば…

本日3本目。饒舌は危うさのしるし。大丈夫か、自分。

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沈黙は金というのはどの国の格言か知らないが、雄弁は銀という言葉が続くらしい。今はオリンピックが世界的な大イベントになっているので、何が何でも金という印象から、沈黙が最善というように解釈しがちだが、雄弁にも価値があるという格言でもあるらしい。

沈黙はあらゆる言葉による攻撃に耐え、それは確かに錆びることを知らない金に似ているのだけれど、金は希少で高価だ。いつも沈黙して生活できるほどの人は滅多にいない。時には雄弁も駆使しなければ、他人を動かすことはできない。時には、というよりも、雄弁を多くして、ここ一番に価値ある沈黙をせよという格言と読める。

しかし、銀も金ほどではないにせよ、高価だ。一番コストパフォーマンスが優れている金属は、やはり鉄だろう。鉄は、豊富で安く、しかも多様に変化する。

海洋微生物が初めて光合成を始めた際に吐き出した酸素が、海水中の鉄分と結びついて沈殿したものが、今日採掘される鉄鉱石だといわれている。そこから再び酸素を剥ぎ取って鉄とするために、純度の高い石炭、コークスを使う。これも樹木の化石だといわれている。取り出された鉄にある程度の炭素が練り込まれると、鉄"iron"は鋼"steel"と呼ばれる。鋼は「刃金」が語源だろうと思うが、非常に硬く、石で研げば鋭い刃物になる。

純度を上げて"iron"にすれば、錆びやすいが、ある程度硬くてかつ柔軟な構造材として使える。水分の多い条件に純鉄を置けば水酸化鉄を経て酸化第二鉄の赤錆になるが、これは密度が純鉄より低く、膨張して粉々になる。そして内部の純鉄がさらに酸素に触れて、最後は鉄鉱石と同じ赤錆の塊にまで朽ちてしまう。しかし、高熱で酸化第一鉄の黒錆を表面に形成すれば、緻密な皮膜となり、内部まで錆びるのを防ぐことができる。また、簡単にペンキなどの樹脂で被覆することもできる。亜鉛などのイオン化傾向の若干高い金属でメッキをして、電池効果で錆を防ぐこともできる。ニッケル、クロム、モリブデンなどを添加すれば、非常に錆びにくい合金を作ることもできる。いわゆる"stainless steel"である。

話が逸れたが、とにかく、鉄は安くて豊富にあるから、日常は鉄を使うのが一番なのであって、これは格言に戻ればおそらく「労働は鉄」となるのだろう。価値が低いというのではなく、基礎を作るのに一番適しているという意味で。

金、銀と来れば次はやはり銅なのだろうが、もうあまり意味のあるアナロジーは思いつかないので、「遊興は銅」とでもしておこう。たくさんの労働、それなりの遊興、わずかな雄弁、とっておきの沈黙。なんだか序列としてはもっともらしいじゃないか。

鉄という仕事に活かせるクロムやモリブデン、銅という遊興に含ませれば白銅となり高価ではないが硬貨になるニッケル、電球や蛍光灯のフィラメントになって光を発するタングステン、液状になって便利だが毒性の高い水銀など、アナロジーの浮かびそうな金属は他にもたくさんあるが、もうこのあたりでやめておこう。最後にまとめて並べてみる。

今日の格言:
「沈黙は金、雄弁は銀、遊興は銅、労働は鉄」

結局一番大事なのはバランスなのだろうというお話。
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by antonin | 2007-06-11 21:03 | Trackback | Comments(2)

日本を学べ

これは教育の話で、コドモたちには徹底して日本の歴史と文化を学ばせようと思っている。なぜかというと、18か22かそこらで、コドモたちには海外に出てもらうつもりでいるからだ。

海外に出れば、コドモたちは否応なく「日本人」というアイデンティティを得ることになる。そのとき、日本について無知であれば、相手の誤った意見に負けてしまったり、自分が何者かを見失ってしまったりしてしまうだろうからだ。まず自分自身とその出自を知り、その上で相手の文化に溶け込めばいい。

若いうちに異文化に接すると、あるいは日本嫌いになってしまうかもしれない。典型的な日本人像を父親に見て、嫌悪されてしまうかもしれない。でもまぁ、それはそれでいいと思っている。

日本にはある意味どうしようもない無力感を覚えるが、地球にはまだ力が残っているように感じる。アメリカ合衆国は今ひどい国になっているように見えるが、それでもおよそ半分はつねに民主党勢力なのであって、マイノリティを集めるとマジョリティになってしまうのが、あの合衆国という国なのだ。

何もアメリカに全てを学べとは考えないが、具合のいいことに、アメリカの大学には世界中の愉快な学生が集まっているところがある。街はどうか知らないが、自治と知性と情熱を併せ持った場所が、アメリカ中の大学を探せばどこかに必ずある。井戸の底で悶々と暮らす必要もないのではないだろうか、若いうちは。

英語の早期教育を与える気持ちは今のところないが、ある時点で海外に放り出すということはつねづね言って聞かせるつもりだ。それが冗談ではないと気づいた時点で、何語かは知らないが、とにかく勉強は始めるだろう。何事も自発的にやったほうが飲み込みがいいはずだ。

幸か不幸か、我が家の周りには中国人も韓国人もフィリピン人もタイ人もたくさんいるし、殺されて土に埋められてしまった女性英語講師が勤めていた英会話教室も歩いて5分のところにある。別に海外が怖いということもないだろう。地元とそうたいして変わらないか、あるいは学術都市のほうが治安がいいかもしれない。

日本にこだわる必要はない。だからこそ、日本人であることに明確な自覚を持って欲しい。

コドモたちよ、日本を学べ。
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by antonin | 2007-06-11 19:38 | Trackback | Comments(11)

個性の話

「五体不満足」の乙武さんが、僕のは「特徴」とは言ったが、皆が言うような「個性」だとは言っていないというような旨のことを言っていた。

確かに「特徴」といえば顔つきとか外見的なものを想像させるが、「個性」といってしまえば性格といった内面的なものを想像させる。体の障害は、その人の外見の特徴の延長線上にあるが、たとえば乙武さんは、性格的にはその身体的特徴とはかなり関係なく、普通に早稲田卒の文人を想像させる冴えた個性の持ち主だ。

しかし、精神に環境的な要因と器質的な、つまり、脳みそという器のつくりに由来する要因があるとするなら、両者をひっくるめたものは個性であるけれども、器に由来するものも無視できないところであって、実はそれは身体的な特徴と同じものなんじゃないかと、子供の性格を見るようになってから深く納得するようになった。

同じ両親から生まれて、まずまず似たような顔をしている子供たちも、行動や反応が全く違う。もちろん、一人目の子供と二人目の子供では親の育児経験も違うわけで、特に我が家の場合では育児環境もいくら変わっているので、環境要因が全く同じというわけにはいかないけれども、それでもウチのコドモたちの性格はあまりに違っていて、それは教育などによる環境要因だとはどうしても考えられないのだった。

上の子は、はっきり言って素直でない。1歳ごろから保育園に預けられ、お遊戯や手遊び歌をたくさん教えてもらったが、先生の目の前でしか踊らない。音楽を流し、親が楽しみに見ていても、決して踊らない。そして言葉を覚えるようになると、親の質問や叱責に対して、実にもっともらしい理屈を言うのだった。往々にしてそれは自己弁護の嘘だったりするのだけれど、大人の目から見ても論理が通っていて、一見して矛盾がない。あとから物的証拠が出てきて破られたりすることはあったけれども。そこで我々両親は、ムスメを「言い訳の達人」と呼んでいた。

下の子は、かなり素直である。やはり1歳から保育園に預けられたが、姉があまり興味を示さなかったテレビ番組に釘付けになり、音楽に合わせて踊っている。上の子ではあり得なかった現象で、よくテレビ番組に出演してお遊戯をしている1歳くらいの子供たちを見ていたが、あれは特殊な才能の持ち主を選別しているのだと思っていた。まあ選別はしているのだろうが、ウチの下の子にもある程度の才能であって、別に特殊なものではないのだということをその時点で知った。確かにお遊戯会などを見ても、上手に踊っている子と、つまらなそうに立っている子の割合は半々くらいであった。ムスコは別に親が促さなくても、テレビを見て一人で勝手にお遊戯をやっているから不思議なものだと思った。

そういったわけで、人間の性格には、もちろん教育によるところも大きいのだけれど、それ以前の基礎基盤には、どうにも避けようのない器質的な特徴があり、それがいろんな人物や出来事と出会うことで、個性へと成長していくのだという確信を得た。裏を返すと、努力は確かにいろいろなことを可能にするし、重要な徳ではあるのだけれど、そのやり方というのは、やはり人の性格に潜む「特徴」を捉え、ふさわしいものを選ばなければ、結局成果とはならないのだと思った。

私が「やりたいことをやる」というのは、そうした育児の経験にも助けられて出てきた結論だった。確かに本田宗一郎さんの書いた「やりたいことをやれ」という本は私の聖典になったが、それは言ってみれば最後の一押しであって、もっと言ってしまえば、いわゆる社会の成功者である本田さんにあって、私と同じような器質的特徴があったのを読んで安心したということに過ぎないのかもしれない。自分の好きなことに向かって突き進んで幸せな人生を送った人もいた、ただそれを知っただけで十分だったのかもしれない。

同時に松下幸之助さんの本なども読んだが、こちらは、どうやら器質的に違う才能の持ち主らしい。人の能力を見抜き、その能力を極限まで使うなどということは、これもどうやら天賦の才であって、私がこれを目指しても、テクニックとして真似をするのが精々で、必ずアラが出るに違いない。私としては、則を超えさえしなければ好きなことに邁進する本田さん方式が器質的に合っているような気がしただけだ。ただし、そこで、違う才能を持った他人を尊敬し、信頼するという生き方の哲学は、ありがたく頂いておきたい。

子供の話に戻るけれども、最近早期教育がどうとうるさいが、早期教育で天才的大人になる子供などやはり一握りなのであって、そんなことよりも、自分の子供のどこが自分と似ていて、どこが自分と違うかなどをよく観察して見抜き、あとは本人に合ったものを適宜提供していくことで十分なのだと思った。学校に上がる前の子供に、なぜ他の子と同じことができないのだと叱っても、気持ちを萎縮させるだけで、早期教育どころか早期虐待にしかならないだろう。どんな内容が子供の器に合うのか見極めるというだけでいいのではないだろうか。その視点で見れば、子供の自由に遊ばせれば、たいていのことは分かるような気がする。

ここへ来て我を省みると、好きなことはとことんやるし、嫌いなことはとことんやらない。しかもその好きなことはあっちこっちへと散っているときている。なかなか御しがたい性格ではあるけれども、とりあえず上機嫌で何かをやって、気が済んだら次へ進むのが性分に合っているし、周りにも迷惑を掛けずにすむような気がしている。そういう意味で、今までは迷惑を掛け続けてきた。これからは、得手に帆を挙げていきたい。風向きが変わったら、それはそのときの話である。私は無宗教、あるいは科学教徒だが、「これも何かの縁」という言葉は案外に好きだったりする。未来には無限の可能性があるが、実際に取りうる選択は常にたった一つしかないのだから。

この性格で、多くの人に迷惑を掛けてきたが、深く反省しているかといえば、そうでもなくて、浅く反省している。次はもっとましなやり方をしようとは思うが、あれはあれで自分の限界であって、仕方のない部分が大勢を占めていたと思っている。人間的に立派な人は身の回りにたくさんいるが、そうした人が哲学書や科学書に通ずる透徹した論理を持っているかというと必ずしもそうではなくて、私にもやはりないのだけれど、幾分ましだと感じることは多い。そうした部分で人様のお役に立てればと思う。

教育現場で「個性の尊重」という時代があったらしいが、性格や性分といった動物的なところが個々別々なのであって、個性はやはり教育をはじめとして、社会や自然といった環境と交わり染まることによって初めて生じるものなのだと思う。動物的で、器質的で、変えるのが難しい、あるいは、抑圧することくらいしかできない部分には鷹揚に接し、人間的で、後天的にプログラミングしていくことで生まれる「個性」は、少なくとも15歳くらいまでは未定のものとみなして積極的に育てたほうがいいような気がしている。このあたり、脳科学の進歩が待たれる。

ウチのムスメは私に似た性格をしている。ウチのムスコはヨメに似た性格をしている。けれども、家族4人、やはり全員違う性格をしている。これは、たぶん遺伝子の仕業だ。そんなことが、実感で分かるというだけでも子育ては面白い。
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by antonin | 2007-06-11 06:02 | Trackback | Comments(0)

ピタゴラス一致

前回の駄洒落検索にて「ピタゴラス一致」のニセ定義を書いたが、これは文科省定義で言う「三平方の定理」、古典的には「ピタゴラスの定理」で直角三角形の直角をはさむ二辺の整数比をヒントに書いてみた。でも、これは案外面白いかもしれない。

もう一度定義を書いてみよう。

[定義] 自然数x, xNと自然数y, yNの平方和x2+y2が平方数z2, zNであるとき、xyはピタゴラス一致である。

要するに、直角三角形の三辺の長さが自然数(1以上の整数)の場合について書いている。この定義を使うと、いろいろな関係がピタゴラス一致という用語で記述できる。
ユークリッド公理系において、以下の諸定理が成り立つ。

[定理1] 三角形の二辺の長さがピタゴラス一致するとき、その二辺に挟まれる角が直角であれば、他の一辺の長さは二辺の長さの平方和の平方根に等しい自然数である。(三平方の定理の限定)

[定理2] (削除)

[定理3] 長方形の隣り合う二辺の長さの比がピタゴラス一致するとき、その長方形は正方形ではない。

[定理3の中間定理] 等しい二数はピタゴラス一致しない。

などなど。内容は中学生レベルですが、「ピタゴラス一致」なる新概念を導入すると、なんだか高等数学みたいで面白いですね。

更に、ピタゴラス一致の概念を拡張すると、近年ようやく証明が完了した「フェルマーの最終定理(大定理)」も簡潔に表すことができます。

[定義] 自然数x, xNと自然数y, yNのm乗和xm+ymがm乗数zm, zNであるとき、xyはm次のピタゴラス一致である。

さぁ、ピタゴラス一致に次数の概念が拡張されました。これを使って、フェルマーの最終定理
[定理] xm+ym = zm
となる自然数x, y, zの組は、m≧3の場合には存在しない。

という有名な定理が、ピタゴラス一致の定義を使って記述できます。
[定理] 3次以上でピタゴラス一致する二数は存在しない。

ほら簡潔。(笑)

(追記:2007/6/13)
定理2を削除しました。次のような内容でしたが、仮定が成立していなくても結論の命題が真になり、ピタゴラス一致の性質について何も意味を持っていませんでした。
三角形の二辺の長さがピタゴラス一致するとき、他の一辺の長さが二辺の長さの平方和の平方根より小さければ、二辺に挟まれる角は鋭角であり、他の一辺の長さが二辺の長さの平方和の平方根より大きければ、二辺に挟まれる角は鈍角である。

そういう意味では、ユークリッド公理系なんかに依存しない定理3の中間定理が一番キュートな定理であるような気がします。

面白いので証明してみよう。「等しい二数」というのはセンスが悪いので、「自分自身とピタゴラス一致する自然数は存在しない」に変えてからスタートします。
[命題] 自分自身とピタゴラス一致する自然数は存在しない
[証明] 自分自身とピタゴラス一致する自然数が存在すると仮定する。記号を用いて表現すれば、

m(mN∧Pyth(m,m))

となる。
ここでPyth(x,y)はxyがピタゴラス一致することを示す二項関係。

ピタゴラス一致の定義より、自然数x,yに対し、次の命題が成立する。

z(zNz=√(x2+y2))⇔Pyth(x,y)

すなわち、xyがピタゴラス一致するならば、xyの平方和の平方根に等しい自然数zが存在する。

このとき、仮定から、

n(nNn=√(2m2))

すなわち、mの平方和の2倍の平方根に等しい自然数nが存在する。

しかし、nmを使って次のように表される。

n=m√2

このとき、nは自然数と無理数の積となり、自然数ではない。

したがって、仮定は矛盾し、自分自身とピタゴラス一致する自然数は存在しない。

QED

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by antonin | 2007-06-08 11:01 | Trackback | Comments(0)

帰ってきた異口同音

最近、子供と一緒になってNHK教育テレビばかり見ている。「夕方クインテット」とかは楽しい。アキラさんは30年くらい言葉を発しないで番組を続け、最終回で初めてしゃべってから引退してほしい。そして「アキラさんがしゃべった」という自叙伝を書いてほしい。

まあそんなことはどうでもいいんですが、「ピタゴラスイッチ」の「ピタゴラ装置」は"YouTube"での著作権侵害などによって世界的にやや有名になりましたね。あれは立派な順序機械であって、制御や条件判断などがないものの、エンジンやコンピューターと基本的には同じ原理になっているので、侮れません。はじめに並べるビー玉の個数で結果が変わるようだと、制御の要素が入って面白いかもしれません。

そんなピタゴラスイッチに敬意を表して、久しぶりに今日の異口同音。

今日の異口同音:
ピタゴラス一致」(842件)
ソクラテスイッチ」(46件)
アルキメデスイッチ」(5件)
アリストテレスイッチ」(2件)
ゴルギアスイッチ」(1件)

「ピタゴラス一致」は数学用語っぽいですね。

[定義] 自然数x, xNと自然数y, yNの平方和x2+y2が平方数z2, zNであるとき、xyはピタゴラス一致である。

とかなんとか。嘘ですけど。

ついでなので、今日の孤立素材も。

今日の孤立素材:
エウクレイデスイッチ」(0件)
プロタゴラスイッチ」(0件)
パイドロスイッチ」(0件)
アレクサンドロスイッチ」(0件)
プトレマイオスイッチ」(0件)
セレウコスイッチ」(0件)
プルタルコスイッチ」(0件)
ホメロスイッチ」(0件)

以上、古代ギリシャ人を適当に選んでみました。ギリシャ神話の登場キャラクターとか、あるいは古代ローマ人とかドイツ人とかを挙げだすときりがないのでやめておきます。

でも面白いのでひとつだけ。

マルクス・アウレリウス・アントニヌスイッチ」(0件)

とてもストイックで自省的なスイッチ。

さてと、銀行でも行ってくるか。
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by antonin | 2007-06-07 13:01 | Trackback | Comments(8)


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