安敦誌


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いわゆるITの話

森首相がITを「イット」と読んだとか読まなかったとか、そんな話は遠い昔の話のような気がする。もうITという言葉はすっかり定着し、逆に陳腐化してしまっている。

ITというのは"Information Technology"の頭文字を取ったもので、まともに日本語で言えば情報技術というような言葉になる。これをなぜ「アイティー」と言わなくてはならないのか理解できないが、たぶんこの分野の最新動向のほとんどが米国発だからだろう。

それはともかく、ITとか情報処理とかいう技術分野は、今では猛烈に広大な分野となってしまった。それでも、ざっと二つの方向性がある。ひとつは、低級とかハード寄りとか言われる分野であり、LSIの論理設計から組み込み開発、PC用デバイスドライバというあたりまでがだいたいこの分野になる。この分野はまだ、小さいことや処理時間が短いことが正義というプログラミングが生き残っている。

もうひとつの方向とは、高級とかアプリケーション寄りとか言われる分野であり、PCアプリケーションからwebサービス、ネットワーク分散処理など、性能的な細かいことはいいから、「いつまでに」「何ができるか」が問われる分野になる。ここではハードウェアを買い足せば実効性能が上がるようなソフトウェアが要求される。

前者は、比較的トランジスタの動作が見える世界であり、後者は、それが全く見えない世界であるように思う。

ハードウェア寄りのコードを書いていると、論理ゲートやレジスタや割り込み信号などを伝っていくビットの様子が、昔ほどではないにしても、うっすらと見える。これは組み込みならワンチップマイコンのフラッシュメモリと少ないDRAMをどうバランスさせて使おうかとか、Pentium4だったらどうやって深いパイプラインのインストラクションストリームを壊さないようにループを回そうかだとか、AMD64だったらどうやって狭い二次キャッシュから落ちないようにデータを確保しようかとか、デバイスドライバなら起動時のシーケンスの順番やタイミングを考慮しないとチップが応答してくれないから、IOのどの端子の信号を何ミリ秒のウェイトで変化させてやれば一番安定するかとか、そんな心配をしながらコードを書かなくてはいけない。実際に回路にアナライザのプローブを当てるケースもあるだろう。

それが同じプログラミングでも、アプリケーションやネットワーク寄りになると別の心配をしなくてはいけない。大規模なデータベースマネージャやコンパイラやインタープリタやライブラリやテンプレートや仮想マシンやブラウザ環境などが前提として与えられていて、ハードウェアの仕様は多重に隠蔽されている。その代わりに、そうした環境を利用するために幾重にも設定された「約束事」の上に立って、いかにその文化を吸収し、そうしたツール群に受け入れてもらえるコードを記述するかということが重要になる。プログラミングというより文書作成のほうに内容としては近づいてくる。文字通りのドキュメンテーションも仕事としてウェイトが高まる。関わる人員も多く、「コードを読め」では済まない世界になってくる。

法律の世界には司法書士や行政書士という資格があるが、アプリケーションやネットワーク関連のプログラマも、前提とするルールが法令ではなくプロトコルや言語仕様にはなるものの、結局そうした人為的なルールにいかに適応して、実際は文書では表しきれない「判例」のような現実解も逐一視野に入れながら、いかに業務を記述するかというところに力点が置かれる。これは、機械を相手にしているようで、実は人間を相手にしている作業のように思われる。役所が受け入れる公文書や有印私文書の作成と、JVMやRDBMが受け入れるコードやトランザクションの作成は、案外似ているように思う。

IT技術者というと、この「電子書士」のことを指すのが一般的になっているようである。組み込み系や制御系の技術者はあまりIT技術者とは呼ばないような気がする。これだけ違うとやはり、個人的な適性にも違いが出てくるように思う。今回プログラマへと、転社ではなく文字通りの転職をしたのだけれども、制御系や組み込み系ではなかったが、運よくパフォーマンス重視のライブラリ構築のお手伝いというところから新しいキャリアを始められそうで安心した。

俗に言うx64インストラクションセットではどういうアドレッシングをしているのかまだ勉強が足りないのだけれども、8080から8086へのスムーズな移行を実現したセグメンテーションが、おそらく今ではメモリ保護という本来の目的に活用されているのだろう。ポインタを16進表示したときの前半がおそらくセグメントアドレスで、後半がオフセットアドレスになっているのだろう。

webプログラミングなども実に華やかなのだけれども、こういう泥臭いコーディングのほうが性に合っているようで、時間が経つのを忘れる。早く帰って子供たちを風呂に入れないと苦情が来るのではあるけれども、それはそれで幸せなので良しとしたい。
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by antonin | 2007-08-30 05:14 | Trackback | Comments(2)

衒学のための夜想曲

いや、誤変換ではなく。
衒学セレナーデ。

最近異様な文章が続いていますが、日常生活は平穏です。
不穏でも平穏でも同じような文章を書くということが判明しました。
まぁそんなもんかな。

ずっと放置していましたが、スウィート・バジルは10株が生き残り、旬のトマトとともに連日食卓を飾っております。
b0004933_213433.jpg

こんな感じ。

この写真を撮ったときは1ヶ月ほど前だったのですが、この頃までは種収穫用は花を咲かせて、残りは葉収穫用に花芽を摘んで、なんてやってました。でも次から次から出てきてきりがないので、今は咲くに任せています。秋にはタネがたくさん採れるでしょう。
ちなみに定植直後の写真はこちら。

安敦誌 : 花開く

ベランダのほうでは風船かずらが大当たりで、百個近くタネが取れました。去年は風船が2個しかできなかったので、大豊作です。ひとつの風船から3個のタネが取れる「当たり」もけっこうありました。虫が来てくれたからかな。風船の収穫が楽しいらしく、ムスメがはさみを持ち出して茶色くなったのを手当たり次第に切り取っていました。一部は実家におすそ分け。

朝顔は鉢が小さすぎて、途中で花芽を枯らしてしまい、葉っぱばっかり目立ってます。一日で最大6輪くらいは開きましたけれども。

あとはいろいろ植えたり枯らしたりしました。
結局東京の風土に合わないのは枯れますね。

てな感じで。
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by antonin | 2007-08-28 02:27 | Trackback | Comments(0)

生きていることに客観的な意味はない

最近どうもメンドクサイ内容が続いていますけれども、頭の中に溜まっていたものが威勢良く吹き出てきたというような感じなので、もうちょっと放置しておいていただけると幸いです。

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「生きていることに、客観的な意味はない」

厳密に一字一句合っているかどうかは確信が無いのだけれども、このような言葉を聞いたのは、車を運転中に何気なく流していた深夜ラジオだったように思う。いつも退屈潰しに東京FMの番組を聞きながら日曜の夜に東京から宇都宮へ車を走らせていた頃があったけれども、その日はちょっといつもより遅くなってしまい、普段聞く番組が終わり次の番組が始まってしまった。

確かエヴァンゲリオンがどうしたこうしたという時期だったように思う。アニメの声優が、少女の声で低く悲観的に上の言葉を語っていた。心に何かしら鬱屈したものを抱えた人間であれば、ふっと同意してしまいたくなるような内容だろう。

ところが、よくよくこの言葉の意味を吟味してみると、なかなか興味深いことがわかった。この言葉自体が、たいして「意味はない」のである。

「意味」という言葉の辞書的な意味は、たとえば広辞苑によると二種類ある。
(1)記号・表現によって表される内容またはメッセージ。
(2)物事が他との関連において持つ価値や重要さ。

「生きていること」は何かのメッセージを伝えるための記号や表現などではないから、ひとつめの『意味』で使われているのではない。『』でくくった部分も、この意味の「意味」だ。辞書や事典で生きることの意味を引いても載っていない。

意図的なメッセージではなくても、ある情報から別の情報を引き出せるときにも「意味」という単語を使うが、この場合は「意味がある」ではなく「意味する」という言い回しを使う。広辞苑にはこの項目が無いが、明鏡国語辞典では次のように説明されている。
(1)記号(特に、ことば)がある内容を表す。表し示す。
(2)物事がそうした解釈を許すに足る十分の内容を持っている。

一つ目の意味は先ほどのものと同じだが、二つ目の意味がここで言っているほうの意味の「意味する」になる。これで考えれば、生きていることについてはたとえば次のような事がいえる。

「生きているということは、そこには空気と水と食料がある、ということを意味する」
「生きているということは、少なくとも遺伝的には父親と母親が存在した、ことを意味する」

などなど。しかしこの用法でもないだろう。当然広辞苑のほうの二番目の意味の「意味」が正しい。この用法をもう少し掘り下げると、「価値」や「重要さ」というところが要点となる。この用法での「意味がない」という言葉の使い方を考えてみると、

「どんなに良い成績を残しても、勝たなければ意味がない」
「いまさらそんな事を言ったって意味がない」

などが挙げられるが、それぞれに「勝つことが何より重要」であるとか、「事前にそういうことを言うことには何らかの価値があった」ということが背景にある。言い換えると、「勝つこと」とか、おそらく失敗してしまったであろう「何らかの目的」があったとも考えられる。このような価値とか目的とかいうものは、個人的視点や国家的視点や地球的視点ではあるいは意味があるかもしれない。けれども、地球が見えなくなるくらいに大局的な視点にさがると、もはや意味があるとはいえない。

「客観的な意味はない」とはそういう、極端に利害から離れた第三者的な見方をすると、というようなことを指すのだろう。家族や友人がいれば、生きていることにはそれだけである程度客観的な意味がある。そうした価値をとりあえず脇に置くくらい客観的になると、もはや生きていることにも意味がなくなる。

逆に言うと、そこまで客観的になって、まだ意味があるようなことは何かあるだろうか。生きていることに意味がないほどの客観的立場に立てば、あらゆるものが無目的で、中立的な価値を持つ。そこではあらゆることに「意味はない」ということになる。変な例を挙げれば、

「この壁を白く塗ることに客観的な意味はない」
「この石の存在には客観的な意味はない」
「そば屋でカツ丼を食べることに客観的な意味はない」

など、もうなんでも入る。そういう言葉は、論理学の世界では「自明」ということになり、言っても意味がないのでわざわざ言わないほうがいいということになっている。

ただ、ルネ・デカルトさんが世間で信じられていることのほとんどが疑いうるということに端を発して、全てを懐疑的に見たら「我思う、故に我在り」というところまで行き着いてようやく疑い得ないところにぶつかり、そこから逆にいろいろなことが信じられるようになった、というような展開をしたのだと木田元さんの本には書いてあった。最終的には神の存在証明まで行ったらしい。

同じように、掲題の言葉を聞いて「だから主観的な価値や目的を見つけて意味のある人生を送ろう」という肯定的な考え方ができるのであれば、この言葉にも意味があるということになる。自明のことでも気づきにくいことはある。

まあその程度なら害はないのだが、同じような理屈はなかなか見抜きにくく、トリッキーな使われ方をするし、ひどい場合には自分自身が言葉に騙されてしまうこともある。その例が過去の記事にある。私もこの失敗をやらかした。

安敦誌 : ピタゴラス一致

「[定理2] (削除)」となっているやつがそれである。あとで自分で気付いて削除したが、一応最後のほうにメモを残してある。

トリッキーな使われ方をするほうを探すと、「フットバスでデトックス」というのもありうる。

フットバス デトックス - Google イメージ検索

これでだいたい見覚えのある画像が出てくると思うが、果たしてこの吹っ飛ばす、もといフットバス、足を浸けないで30分通電したらどうなるのか。あるいは、「デトックス」というと「毒」を意味する"tox"を取り去るので"detox"というような言葉なのだろうが、ただ汗をかいて塩分に反応しているだけではないのか。ただの薄い食塩水ならどうなのか。そのあたりの説明は全くない。

昔のスキンケア用品で、乳液のようなものを顔に塗って手でこすると、白いカスがポロポロと落ちてくるものがあったが、あれは実は木工用ボンドを薄めて香料を入れたようなものなのではないか。接着剤だから角質がいくらか取れるのだろうが、ただ風呂場で顔を手でこすった場合に比べて優位性はあるのか。「ポロポロ感が楽しい」というだけではないのか。

「マイナスイオン」ブームもあったが、確かにコロナ放電で作り出したイオンを含んだ空気は静電気除去などの効果があり産業的にも使われているが、それが滝や森の雰囲気などと同じリラックス効果を生むかどうかは知らない。どちらかというと副作用的に発生するオゾン(O3)の毒性のほうが気になる。そもそも「マイナスイオン」がなにものであるかの説明も各社各様で、ひどいときにはトルマリンという石を持っているだけでOKというものもあった。

トルマリンの結晶には圧電効果があって、強い力で打ちつけると放電に利用できたりする(これとは物質が違うが、電子ライターの点火装置などがその原理)というだけであって、ただ石を持っていてもしょうがない。

この手の商売は多いし、たいていは数千円程度のものだが、時には法外な値段を吹っかけるものもあるし、引っかかった客へエスカレートする要求を継続的に突きつける悪質な業者もある。相手が商売なら懐疑心も持てるし、たいていは見破れるだろうが、相手が真面目な学者風情だったり本気の学者や医者だったりすると、こちらも信じてしまいやすくなる。これには自分自身も含めて注意したい。

というわけで、嘘とは言い切れないが意味はないということはたくさんあるし、それを利用して結局嘘をついている人間もたくさんいる。そして知らず知らず自分も嘘を言ってしまうことがある。十分注意したい。

まあ人間なので、ときどき間違えるくらいで正常だとは思うけれども。
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by antonin | 2007-08-28 00:54 | Trackback | Comments(4)

豊かさとは何か

結論から言うと、単純に生活に困らないことだと思う。

文明化が進んだ地域、特に都市部では金銭を使えば食料でも衣料でもサービスでも何でも受けることができるし、逆に言うと金銭がなければ家に住み最低限の食料を得ることもできない可能性もある。豊かさとは金銭を多く持っていることと等しい。

けれども、仮に金銭を一切持たず、収入が一切なくても、生活に困らないような環境があれば、そこでの暮らしは豊かな暮らしと言えるだろう。

ある人は美しい服がなければ生活に困るし、ある人はうまい酒がないと生活に困るし、ある人はパワフルな自動車がなければ生活に困る。しかし、広い土地に自然があり、あとは知恵があれば生活には決して困らないという人もいる。豊かさには人それぞれ、いろいろな方向がありうる。

それが、金銭という「数値」を使って高度に抽象化された豊かさの指標が現れると、この数値を多く集めることに一番の喜びを覚える人が現れる。現れるというより、こうした傾向は多くの人間に備わっていることではないかと思う。

勉強の成果を点数で評価されると、好きでもない勉強を一生懸命頑張った人もいるだろうし、ゲームの中に経験値で評価される部分があると、ストーリーの進行に関係なく経験値アップに頑張ってしまった人もいるだろう。博打も含めて、数字を増やすというのは多くの人にとって依存性の高い娯楽となりうる。

同様に仕事の成果を給与の金額で評価したりすると、その数字を高めることに喜びを覚え、尋常でない意欲を持って金を稼ぐことに執念を燃やす人が現れる。ある人は給与を上げることに意欲を燃やし、またある人は起業して給与生活以上の収入を目指し、ある人は株取引などの博打に近い取引によって金銭を得ようとする。そして極端には詐欺や強盗などの犯罪行為によって多額の金銭を求める人も現れる。

金銭には商品やサービスの取引の対価として、言い換えると他人の労働に対して支払われる対価という合理的で本来的な役割があるが、それとは違った視点で数値遊びをするいわゆる「マネーゲーム」も市場では可能になっている。

極端に言えば、自分では金を持っていなくともマネーゲームはできる。金を増やすアイデアさえ持っていれば、金を持っている人から金を借りて、利子を付けて返済する代わりに、仮に返せない場合もそのリスクは貸し手に取らせるというリスクヘッジを使い、首尾よく行けば金を増やすことができる。

実際に金銭を増やす方法は、実業の起業であってもいいし、金融商品取引であってもいいし、あるいは貸し手さえ許せば覚せい剤取引などの犯罪であってもいい。一般に貸し倒れのリスクが高いほど金利が高くなるというルールがある。貸し手は多くの借り手に対し貸し出すだけの資金力があれば、全体でプラスの利益を得るような利率を設定すれば、一定の割合までは貸し倒れを受け入れることが可能になる。これはある意味、生命保険をはじめとする保険制度にも似た、統計を利用した合理的な仕組みになっている。

このルールで言えば、金利が高いことはそれ自体は悪ではない。悪いのは、金利に見合った貸し倒れリスクを受容せず、返済不能になった借り手を再起不能なまでに追い詰める点にある。あるいは利子により返済不能になることが明らかな相手にまで貸し出すことにある。借りる必要のない相手に借金を勧めるのも余計なお世話だ。

ノーベル賞に、一般には経済学賞として知られるカテゴリーがあるが、その受賞者の中には先進的な金融商品を考案したり開発した学者が含まれる。そうしたもののひとつに先物取引があるが、これは本来、農作物のようにある年の気候変動などによって生産量が大きく変化し、それによって価格が大きく変化することで、売り手も買い手も大きな損害をこうむるという問題を、商品が収穫される前に取引することで、価格変動を安定化させて保護するという実利的な役割から生まれた。

しかし、この先物取引を使って、たとえば天候変動などの予測情報を買い込み、不作に陥ることがあらかじめ予想される農作物を先物取引によって比較的安いうちに大量購入し、実際に値上がりしてから取引権を転売するということが行われるようになった。そして、その行為をファンドという商品にして再販売し、投資家から資金を集め、リスクを投資家に負わせた上でマネーゲームを楽しむ人間が現れた。これが過剰な資金によって集中的に行われることにより、先物市場は本来の目的とは逆に乱高下することになる。

そういう方法によって得られた金銭であっても、それは法的に犯罪と規定されていなければ合法ということになり、その金銭によって物を買うこともできるし、サービスを受けることもできるようになる。実際には更に高度な金融商品が無数にあり、その中には巧妙に偽装されながらも公正でない取引が紛れ込んでいる。しかしその高度性から、法整備はつねに後手に回っている。

アメリカや日本などでは立法府の人間を代議士というが、代議士の活動に一番必要なものが金銭であるにもかかわらず、代議士が金銭を得る方法というのは非常に制限されている。金銭が必要というのは有権者を買収するという意味ではなく、政策研究にも政策を有権者に広報するにも自由になる金銭が必要という意味である。

代議士が金銭を得る方法が厳しく規制されるのは、彼らが権力に直結しているからであり、その権力を一部勢力に有利となるように利用するのを防ぐという合理的な理由があるのだが、結果的に金銭の出入りをいかに巧妙に隠すかというテクニックばかりが発達するという結果となった。そうした巧妙さに最も長けているのがファンドを販売するプロのトレーダーであり、彼らが法律的に不利にならないように金銭の一部を「投資」することも十分可能である。

トレーダーでなくとも、多額の金銭を持ったものなら自らを有利にするためにその金銭を使う方法を考えるだろう。代議士への献金を禁止するより、自由化する代わりにその全てを公表することを義務化し、それぞれの議員の立ち位置を情報として公開するほうがずっと公正であるように思う。それぞれが背景に抱える利権団体の意見を正々堂々と議論の場で戦わせるべきだろうと思う。

それはともかく、社会が高度化、複雑化している本来の理由は、人が生活に困らなくなるためであって、最初に定義した意味で人が豊かになるためだろうと思う。ただし、豊かさの基準としてあまりに便利で強力な金銭という基準が存在するために、本来の目的が見えにくくなっているようにも思う。

たとえば国に莫大な債務があっても、生活保護水準以下の収入しか得られない世帯が多数あっても、それでも誰も生活に困っていないのならば、それはそれで豊かな世界であるということを忘れがちなのだろうと思う。しかし実際にはそこまで劇的な思考の切り替えは難しいのであり、やはり金銭の力を適切に使って豊かな社会を取り戻す必要があるだろう。

年間3万人が自殺する社会というのは決して豊かではない。年間30万件の人工妊娠中絶が行われる社会というのは決して豊かではない。物質を消費することは豊かさの要因のひとつではあるけれども、消費すれば消費するほど豊かであるというわけでもない。

「美しい国」というスローガン自体は決して悪いものではない。国民が生活に困らず、自然を上手に利用し、伝統と先進のバランスが取れた文化芸術などが発達する国は、美しい国といえるだろう。しかし大前提はつねに生活に困らない豊かさにあると思う。そこに誇りも生まれ、国を愛する心も生まれるだろう。

それは決して法令などで強制されるものではない。ひとつの方向に集約することを強制すべきではない。結果だけを追い求めると、自然と無理が生じるだろう。桃李ものいわざれども、その下自ずと蹊(みち)を成す。「成蹊」という名前を持つ大学を出た首相には、その言葉の意味を改めて味わってほしい。

来年は今年より豊かな年になっているといいと思う。
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by antonin | 2007-08-25 21:42 | Trackback | Comments(0)

いろは歌考

いろはにほへとちにぬるを
わかよたれそつねならむ
うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみしゑひもせす

子供の頃、この「いろは47文字」のような呪文を昔の日本人はよく覚えたものだと感心していた。感心していたというよりもむしろ、「あいうえお かきくけこ」のように整然とシステマティックに作られた音順で覚えられなかった昔は効率の悪い時代だったのだなぁなどと思っていた。

それが決して非効率などではないと知ったのは、高等学校に上がってからだった。いろは歌は単なる仮名の羅列ではなく、言葉としてそれなりに意味の通る歌であると授業で習ったからだ。
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見し酔ひもせず

全体を通すと、意味がわかったようなわからないような、哲学的ですらある響きだけれども、局所的には日本語としてしっかりと意味の通る節になっている。こういうのを統計の世界ではマルコフ過程と呼ぶ。

単純に47音の並びが何通りあるかというと、これは数学で言う順列という計算になり、47!(47の階乗)という式で表される。これをざっと計算すると2.5862x1059という数字になる。これを漢数字で表すと、二百五十八阿僧祇(にひゃくごじゅうはちあそうぎ)というような数字になる。1052である恒河沙(ごうがしゃ)から先は位取りのルールが億単位に変わるという説もあるので定かではないが、全ての単位が万単位で繰り上がるとすると、このような呼び方になる。

この阿僧祇の世界の順列から唯一の歌を選んだ人は人間ではないようにも思えるが、いろは歌が歌であるというのは奇跡であると同時にひとつの限定でもあるので、可能性の空間はもう少し狭まる。「いろは」というならびは「色は」という大和ことばと解釈できるけれども、「はろい」は大和ことばとは考えにくい。ありえないとは言い切れないにせよ、より不自然な並びである。こうして不自然な並びを除いて組み合わせていくとなると、順列の数字はずっと小さくなる。こうした制限のある文字の並び、面倒な言い方をすれば事象の系列をマルコフ過程という。

しかし、47の仮名を並べ、ひとつの重複もないという組み合わせを選び出すのはやはり困難な作業である。私は大和ことばの詳細を知らないので具体的な数字を求めることができないが、なんにせよ膨大な組み合わせがありうるだろう。そのいろは歌から七音ずつ末尾の仮名を取って並べると「とかなくてしす」となり、濁音を適当に加えれば「罪(とが)無くて死す」と読めるという。

そこから不遇に遭った菅原道真の作であるという説もあるが、いろは歌の作者がそこまで考えていたかどうかは怪しい。怪しいのではあるけれども、仮にいろは歌が千年にわたり詠み伝えられたとすれば、「百年に一人の逸材」というような天才が十人は生まれては死んでいく年月であるともいえる。

そうした逸材が、ある朝に考えてその晩に書き記したのかもしれないし、あるいは執念深く一生を捧げて撰択した歌であるのかもしれない。ただ単なる全音アナグラム以上の意味があったとしても、単純に否定することはできない。それが道真公の怨念であったかどうかは別として。

太平洋戦争後の日本語では「ゐ」と「ゑ」の仮名は絶えてしまったし、"m"と読む「む」やハ行の活用形としての「へ」なども使われなくなってしまったので、それまでの日本人と同じ感覚でいろは歌を味わうことはできないのだけれども、こうした歌で文字を覚えた時代の日本人はなかなか風雅であったと思う。調べると他にもこういったものがあるという。

手習い歌 - Wikipedia

昔は良かったという気はさらさら無いのだけれども、教育にもこういう遊び心はあってもいいように思う。
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by antonin | 2007-08-25 00:46 | Trackback | Comments(4)

マナーとマンネリ

「物理」という熟語を漢文とみなして読み下すと、「もののことわり」と読める。「人情」という熟語も同様にすると、「ひとのなさけ」と読める。似たような構文になっている。両者とも哲学の対象として永遠のテーマではあるけれども、ある種対照的なテーマでもある。

私は学校の成績で言えば物理が得意ということは無かったのだけれども、人情に比べたらはるかに理解しやすいと思っている。もちろんこれとは逆の傾向を持つ人もいて、そうした人からは薄情だとか精神病質だとかいろいろな言われようである。しかしながら、そうした傾向は持って生まれた先天的な器質による部分が大きいのではないかと思っている。肌の色や顔の形とそう違わない由来だと思っている。

互いに足りないところを補って協調することで、人間は繁栄してきたし、互いに理解できないことを否定するために戦争なども起こしてきた。ただ、どんな人間もある程度の物理を理解しているし、どんな人間もある種の人情を持っている。これは普遍的なことで、通常言うまでもないことなので意識に上ることは少ないのかもしれない。

そうしたことをふまえたうえで、やはり私は人情の理解に苦しむ。自分自身の感情も含めて、「相手の身になって考えてみればわかる」などと言葉で言うほど簡単には思わない。これにはある種の教育や訓練の成果もあるのだろうが、やはり先天的に若干の器質の違いがあり、人情を理解しやすい人というのはあるのだろうと思う。

そもそも人間の感情というのはある人の内側で起こっていることであり、クオリアの問題なども考えてみればわかるとおり、外側から正確に知ることは難しい。難しいのだけれども、人間という種はひとつのホモ・サピエンスという種であって、人間自身が感じているほどの差は無く、各人の脳の構造や働きは人種を越えて似たようになっている。そこで、大体の部分は自分の感情の起こり方と同じであろうと推し量ることが可能なのではあるけれども、細かい部分では決して同じではないので、そこが面倒なのである。

そのあたりの、「人情の機微」というやつを正確に把握してコントロールできる人格者もいれば、人間誰しも同じであって、差があるとすれば家庭や社会などの環境だけに原因があるとする人もいる。私はどちらにも属さず、人間のありようは多々あると理解しているが、個々の人の感情を理解することも、自己の感情のコントロールすることも苦手という類の人間であるように思う。一番面倒なタイプではあるだろう。本人がそれに気づかなければ幸せであるけれども、認識だけはしているのでやや不幸である。

自分の理解できないことは自分では理解できない。当たり前である。当たり前であるけれども、このことは当たり前すぎて逆に理解することが難しい。何が言いたいのかというと、他人も自分と同じように考えたり行動したりするのが当たり前だというようなことを述べる人が多いのだけれども、それは思うほど簡単ではないのではないかということが言いたい。

最近の話で恥ずかしいのだけれども、「マンネリ」ということばが、日本語ではなく外来語であるということを知った。「マンネリズム」という言葉があるけれども、こちらが「真似」あたりと同語源の「マンネリ」という日本語と、"-ism"という語尾で出来上がった和製英語だとばかり思っていたら、実は"mannerism"というヨーロッパ語から来ているのだった。これを常識としている人からすれば、「そんなことも知らないのか」という感じがするだろう。

"mannerism"は必ずしも英語とは限らず、フランス語やドイツ語の語彙としても存在するようだけれども、あえて英語読みすると「マナリズム」という具合になる。"mannerism"から、主義や特徴といった意味の接尾語である"-ism"を取り去ると、"manner"、すなわち「マナー」となる。「マナー」には作法という良い意味もあれば、「決まりきった形式」というやや否定的な意味合いもあるようだ。

ドイツ語に近い発音をすると「マネリスム」になり、フランス語に近い発音をすると「マニエリスム」となるようだ。マニエリスムというと、イタリアで写実的なルネサンス様式が興り、その後を受けた美術様式の一つも表す外来語となっている。

ルネサンス美術の巨匠ミケランジェロは、写実的な彫刻作品を得意としたが、必ずしも現実の人間のコピーを作るのが美しい造形ではなく、人が仰ぎ見たときにより美しい形状があることを知っていたという。そしてそのミケランジェロが壁画や天井画を描くとき、人物の手足や首は、現実の人間を普通に写真に収めたときとは違う形をしていて、具体的にはやや首が伸びていたり、回したほうの手が長くなっていたりすることがしばしば見られるのだという。

後世にマニエリスムと呼ばれた画風は、今では再評価されているけれども、名付けられた当時としては、ミケランジェロの技法を誇張した、同じようでつまらない画風との評価を受けていたらしい。現代人の目で見ると、つまらないという評価も理解できるし、技法を極めた美しさとしても理解できるのが面白い。

それはともかく、「マナー」と「マンネリ」が表裏一体であることがわかって、最近のマナーブームに対する違和感のようなものが少し理解できたような気がする。人間誰しも自分と同じであり、決まりきった形式を守る「マナー」が重要で、マナーを守らないやつはけしからんという言いようが目立つが、時代が変われば作法も変わるのであり、古い作法を持ち出して正統と騒いでみても、それが必ずしも人間を快適にしないということがわかる。

その一方で、ある種の作法が生じたのにはそれなりの理由があるのであって、ただその型を真似るのではなく、その作法が表す意味のようなものを読み取る必要があるのだと思う。例えば、畳の縁を踏んではいけないという作法があったとすると、そこには死者を運び出すときに畳の縁を踏んでも仕方が無いという決まりがあり、人の死を連想させて人を不快にするから自然と忌み避けるようになったとか、あるいは昔の住宅では畳の縁を踏むと畳がずれたり傷んだりしたなどという実利的な問題もあったのかもしれない。

それはわからないが、作法を守らないことを不快に思う人がいることは確かであり、そうした人への配慮は大切だろう。作法の向こうにある感情的な背景を理解することはもっと大事だろう。同様に、作法を守らない人が、なぜ守らないのか、作法を守れと言われてなぜ不快に思うのか、そうしたことへの配慮も必要だろう。

ただそこにマナーがあり、黙って守れといわれれば、黙って守る人と反発してかえって守らない人が出るだろう。ただし、マナーの背景にある意味を理解できれば、結果的にマナーは守られるに違いない。他人に何事かを理解させるのは面倒だし、他人を理解するのもまた面倒だけれども、そういう覚悟が無ければマナーを語ることはできないのではないかとも思う。一方的に自分にとって快適なマナーを他人に押し付けることは、それもまた一種のわがままだろうとも思う。

「もののことわり」と違って「ひとのなさけ」を理解することは難しいが、なんとか考えていかなくてはいけないものなのだろうと思う。
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by antonin | 2007-08-24 05:48 | Trackback | Comments(0)

2454335.09664日の日記

ガイウス・ユリウス・カエサルという人がいた。古代ローマを共和制から帝政に大転換させた人物であるが、こういう人は政治や戦争だけでなく、いろいろな業績を残す。そのうちのひとつが、ユリウス暦だろう。

現在日本で使われている暦は、年号に関しては和暦と西暦の二種類があるが、月日に関しては西暦に統一されている。この暦は一般にグレゴリオ暦と呼ばれているもので、ローマ教皇グレゴリウス(グレゴリオ)13世によって発布された暦ということになっている。4年に1回の閏年と、100年に1回の例外年と、400年に1回の例外の例外を導入した暦で、太陽年、つまり、遠方の天体が作る天球に対して太陽の位置が一周する期間に対して、3000年に1日程度のずれに収まるという。

このくらいの精度になると、何をもって1年とするかの定義が大変ややこしくなり、地球から見て同じ時刻に同じ位置に同じ恒星が見える周期である恒星年と、太陽が天球上で同じ位置を通過する周期である太陽年では地球の自転と公転の関係により一年で約24時間の差がある(註)。太陽系の他の惑星から受ける重力の効果で地球の公転速度が変動する摂動効果や、月と地球の海洋が作り出す潮汐力などによる地球自転速度の揺らぎなどにより、一年の長さというのは微妙に変化を続けている。

こうした変化は遠方の天体が発する電波の長距離干渉やその他の天体観測などによりミリ秒以下の単位で計測されている。現在では世界に散在する原子時計の相互補正により国際原子時という固定した時間が定められており、それとは別に、観測される太陽の位置に合わせた補正を行う閏秒の挿入などにより、グレゴリオ暦は現在も発布当時と同じルールで太陽暦としての体面を保ち続けている。

これに対してユリウス暦は、4年に一度だけの閏年を定めた太陽暦で、現実の太陽年に対して130年余りで1日のずれが生じる計算になる。これはたいしたことが無い誤差のように思えるが、文書の蓄積により厳密に日月の記録を残すようになったヨーロッパ世界では、ユリウス・カエサルが暦を改定したとされる紀元前45年から、教皇グレゴリウスが暦を改定した1582年までの1626年の間には、12日あまりの誤差が蓄積していた計算になる。

おそらく冬至や春分などの祝祭日と天体観測上の観測値のずれが改暦の動機となったわけだが、同じことがユリウス暦の発布当時にも発生していた。

当時の地中海世界で抜群に高度な文書記録と数学算術知識と天文学が発達していた文明といえば、間違いなくエジプトであった。当時、領土拡大政策というより、たまたま優れたシステムが他を焼き尽くしたというような感じで地中海世界に広まったローマ世界であったが、それを更に高度な帝政に仕立て上げて千年帝国にしたのがユリウス・カエサルだった。

ユリウス・カエサルはラテン名のドイツ式発音で、イングランド式に言うならジュリアス・シーザーになる。塩野七生さんによれば当時のラテン語の発音はもっと現代イタリア語に近かっただろうというが、録音が残っているわけではないのでこのあたりは誰にも証明できない。それはどうでもいいが、ジュリアス・シーザーといえばウィリアム・シェイクスピアの戯曲でも有名なとおり(註)、エジプト遠征の際の、プトレマイオス朝エジプトのうら若き王女クレオパトラとのロマンスが語り継がれている。

そして、この野心家の王女に興味を持ったシーザーは、エジプトでしばらく文物を見聞しながら、クレオパトラとともにナイル川クルージングを楽しんだという。のちに同様にクレオパトラと交わったアントニー(マルクス・アントニウス)が完全に恋に落ちたのに対し、シーザーはナイル・クルーズの最中でも、エジプトやローマのための法案などを記述していたらしい。

そこで纏め上げられた法案のひとつが、太陽信仰の国エジプトで実施されていた太陽暦を広くローマ帝国の共通暦とすることだった。ここで、ユリウス・カエサルとクレオパトラの物語が、現在の太陽暦、それも閏年を持った太陽暦に結びついてくる。

ユリウス暦発布以前の地中海世界では、主に海洋民族であるギリシャ人が使っていた、月齢をもとにする太陰暦が使われていたのだという。初期のローマもこれに従っていたが、ローマが確固とした国家制度を整備するに従い、文書として厳密に記録され運用された暦と、現実の冬至や春分などの祝祭日と合わなくなっていることが次第に明らかになり、その差は最終的に3ヶ月近くに及んでいたという。

ローマの太陰暦は王政時代の紀元前7世紀、ローマ王ヌマが定めたもので、月齢による12ヶ月を刻み、ときどき閏月を挿入するというものだった。それ以前にも太陰暦が使われていたようだが、詳細はわからない。ともかく、太陽暦を導入しつつ、積算した誤差を取り戻すため、紀元前46年のローマ暦は15ヶ月を刻んだのだという。ちなみにユリウス暦からグレゴリオ暦への移行では、10日が差し引かれ、10月4日の翌日が10月15日になったのだという。

この誤差の違いは、天体観測の精度の違いとも言い換えられるだろう。今ではこれが1秒以下の誤差となるように、閏秒の挿入により不定期に改暦されているとも言える。

参考:
ユリウス暦 - Wikipedia
グレゴリオ暦 - Wikipedia
ローマ暦 - Wikipedia
日本標準時プロジェクト」より「標準時・周波数標準のQ&A うるう秒に関するQ&A

カエサルの構築したローマ帝国は、分断や縮小はあったにせよ、結局1600年ほどを耐え抜いた。暦もこれに準じて継続された。一部地域ではグレゴリオ暦発布以降もユリウス暦やそれに順ずる暦が使われ続けたという。

西暦はこうした断絶をいくつか経過しているので、厳密に歴史を考察するとき、単純な年月日では比較が難しい場面がある。これに応じて、年月日という繰り上がりをやめて、全て連続した日数で数えるという方法が考案された。これがユリウス日(Julian Day)というものであるが、これはグレゴリオ暦発布以降の考案であり、ガイウス・ユリウス・カエサルとは直接の関係は無いという。

参考:ユリウス通日 - Wikipedia

その後、ユリウス日は歴史学より相対日数計算を多用する天文学の世界で便利に使われるようになり、1日の中の時間経過も時分秒という繰り上がりを避けて、小数を使ったユリウス日で表すようになった。ただし正式なユリウス日の定義はヨーロッパにおける正午を起点としていたため、日中に日にちをまたぐ形になり、使いにくかった。また、歴史を考証する目的から桁数も大きかったため、後のグリニッジ天文時の午前0時を起点とし、桁数が大きくなりすぎていたのを補正した準ユリウス日(Modified Julian Day)というものが天文学の世界では定着した。

表題はこの記事を書き始めた日時を正式な方のユリウス日で記述したものである。ちょうどロンドンあたりで昼過ぎであることがわかる。ユリウス日に地方時間(Local Time)はない。厳密に言うと特殊相対性理論の効果のため緯度によって時間の進む早さは異なるのだけれども、そのあたりがどのように調整されているかは知らない。上記のユリウス日は下記のページで計算した。

参考:「関東学院大学 - Kanto Gakuin University」より「西暦とユリウス日の換算

似たような記法がMicrosoftのExcelでも使われており、1900年1月1日午前0:00を0.0とした小数で日時が記録されている。つまり、Ctrl-:(コロン)で現在日時を記録すると時刻がセルに表示されるが、それを日付の表示形式にすると今日の日付に化ける。最終的にCtrl-~(ティルダ)で標準書式に直すと、実体の小数が現れる。単に日付を記録する場合には小数点以下が0となった値が記録される。日本語版のExcelには明治、大正、昭和、平成の境界日を認識した表示プログラムが仕込まれている。昭和64年1月7日に1を足してみると面白いだろう。

これも似たような記法で、UNIXの世界で使われるtime_tという変数の型がある。ほとんどの処理系ではこれはlong intのtypedef名になっていて、1970年1月1日午前0:00を起点として秒単位で数え上げた整数となっている。そしてその多くの実装は32bitとなっている。

これはそもそもUNIXのファイルにつけるタイムスタンプを記録するために作られた変数であり、今日これほど普及するものとは考えられていなかった。そのため、UNIXが開発された1970年初頭からある程度の期間を記述できれば問題が無かったので、1970年1月1日という日付が起点として用いられたのだろう。

この整数は現在広く、しかもシステムの深いところに眠っており、2038年には桁あふれが発生し、正しい日時を表示できなくなるという。しかも、将来のスケジュールを表現しようとすれば、それより早く影響が出るだろう。しかし、多くのPCやサーバマシンでは64bit化が進んでおり、2000年問題も乗り切った現状では実際に2038年問題が起こるとは考えにくいが、どちらにせよ多くのプログラムがメンテナンスの必要に迫られるのは確かだろう。


時間というものは考えれば考えるほど不思議なものだが、それに対応してきた人間の営みのほうもなかなか立派なものだと思える。百年後にはいったいどのような暦を使用しているのか、興味は尽きない。


註:太陽年と恒星年の差は25分程度だという。要調査。

註:シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」にはクレオパトラは出てこない? 要調査。
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by antonin | 2007-08-22 23:20 | Trackback | Comments(0)

Komatt Emacs

UNIXの世界でテキストエディタというと、viかemacsしか知らない。もちろんedもsedも知っているけれども、あれはちょっと世界が違う。で、私がUNIXに始めて触ったときにはすでにxemacsがあったので、viは覚える機会がなかった。(一応使ったことはあるけれども)

そんな事情もあり、貧乏だった学生時代にはDOS上で使っていたエディタも、有償のVZなどではなく、フリーのNIT Emacsというものだった。隠喩として「似てまっくす」と読めるらしく、こういう駄洒落が大好きだったのと、大学で使っていた端末と同じ操作系が自宅でも使えるということで愛用していた。

emacs LISPは使えなかったが、いくつかの便利なキーボードマクロは標準装備されていた。DOSの世界ではプロポーショナルフォントなどありえなかったが、それだけでなく一行はたいてい80文字(いわゆる半角)に固定されていた。その範囲内の適当な幅で、読みやすいように自動改行してくれるようなマクロは多用していた記憶がある。

なぜ今頃emacsの話かというと、新しい職場でRed Hat Linuxが走っているサーバを使うことになって、以前ハードルが高いと言っていたcygwinでXサーバを立ち上げてemacsを使うようになったからだ。実際使ってみると、全くハードルは高くなくなっていた。インストーラで難なくインストールできてしまう。逆に少し恐ろしい。Xの仕組みというのがまだ十分に理解できていない。

emacsも、もう10年以上使っていなかったのであらかた機能は忘れてしまったが、"M-x"コマンドの一部とか、"C-x C-c"(終了)だとか"C-x C-s"(保存)だとかの必須コマンドは指が覚えていた。それから"C-w"(カット)と"M-w"(コピー)、"C-y"(ペースト)、"C-_"(アンドゥ)あたりはすぐに思い出し、便利に使えた。残りの機能はマニュアル首っ引きの初心者に逆戻りである。この際だからemacs LISPも覚えてみようか。

ただ、ここで少し困ったことがあった。Windows環境に戻ったときにも、"C-w"だとか"C-y"だとかをやってしまうのだ。職場の端末も自宅のPCもWindowsだし、"C-c"と"C-v"への切り替えを脳から指へ明示的にアサインしてやらないと、指が勝手にemacsのキー操作をしてしまう。これではemacsを「初心者用」のモードにしないといけないのだろうか。どちらにしてもregionの選択に"C- "を使っている時点でもうだめなのだけれども。

何かいい方法はないだろうか。もうWindowsやめちゃうという手もないではないが、まだVistaも使い込んでいないし、いきなり捨てるには惜しい。どうしたものだろう。
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by antonin | 2007-08-19 13:51 | Trackback | Comments(9)

死して屍拾う者無し

<減量作戦>ジョギング中に男性課長が死亡 三重・伊勢 | エキサイトニュース

久しぶりに時事ニュースを。

メタボリック・シンドローム(直訳すると「代謝性症候群」)というのは最近話題のキーワードだけれども、これもやっぱりどうなんでしょう。

肥満は成人病のリスクを高めるという定説があって、こういう説はある高名な医者が突然言い出して流布するケースと、統計調査による疫学的検討の結果として推論されるケースの二つがある。たいていこうした疫学的調査というのは欧米で積極的に行われるが、「こういう関係が見られた」と客観的事実だけを示すことが多い。「これが原因で病気が増える(減る)」ということは、疫学の研究者はなかなか言わない。

ところが日本では、マスメディア、特にテレビが調子に乗って「断定口調で」「演出効果を交えて」「エンターテイメント性を高めて」こうしたデータを番組に利用する傾向があるから、専門的な教育を受けていない一般市民は、あたかも毒か薬かというように疫学的レポートを信じ込んでしまう傾向がある。

しかも、疫学のレポートは所詮統計処理の結果であって、ある信頼度の範囲内で「たまたま」そうした結果が出る可能性を排除することができない。ひどい場合には「ゲーム脳」のように恣意的なデータを取得している場合すらある。疫学が提示した仮説は、少し調査の条件を変えた追試であるとか、統計的ではなく生理学的な裏づけなどを取るまでは、確固とした学説とはならないのが普通だ。

けれども、「フランス人のパラドックス」の答えと言われた、赤ワイン中のポリフェノールが心臓疾患を予防するという説は、その後医学的定説として定着したという話は聞かないが、健康食品の売り文句としてはすっかり定着してしまった。そもそもポリフェノールという用語自体がフェノール性水酸基を持つ有機化合物群を指すものであり、何か特定の物質を指すものではなく、あまりにも該当物質の種類が多すぎる。だからカカオもブルーベリーもお茶もみんなポリフェノールで一緒くたにされてしまう。

例えば薬効成分であるサリチル酸メチルは消炎剤として有効だし、アセチルサリチル酸は解熱鎮痛剤として有効だが、サリチル酸を含んだエステル全般に薬事効果があるかといえば、そうとも限らないし、中には毒性を持つものだってあるだろう。大量投与すれば薬効成分でも毒になる。

奇形児をたくさん出してしまったサリドマイドという薬も、原料の光学異性体を十分に分離精製する技術があれば良い鎮痛剤だったという。組成も構造もほぼ同じで、光学活性が逆というだけでこれだけ違うのが生体作用の恐ろしいところだろう。チョコレートやブルーベリーに毒があるとは思えないが、何にせよ大量摂取は体に良くない。


メタボリック・シンドロームも似たような状況であって、アメリカ人のあの極端な肥満体形が成人病の元になっているという、疫学的にも生理学的にも裏づけの十分に取れた説がまずあった。それを日本に導入するのだが、ローレル指数であるとかBMI指数であるとか体脂肪率であるとか、そうした基準では成人病リスクが非常に高いといえるほどの肥満は日本人には少ない。

それでも肥満や成人病は増加傾向にあり、疫学的な調査を行ってみたら、一般に皮下脂肪と言われる体脂肪での肥満は成人病のリスクが比較的少なく、同じ体重でもMRIなどで筋肉の内側に着いた内臓脂肪の多い肥満に成人病リスクがむしろ高い傾向があるかもしれませんよ、という結果が出た。

体脂肪は成長期の食生活や遺伝的要因の影響が強く、なかなか落とせないのに対し、内臓脂肪はどちらかというとすぐに着いてすぐに落ちるらしい。かといって、1週間やそこらでは減らせないのであって、半年とか、1年とかの持続的な取り組みが必要になる。そして、減量の方法は体脂肪と同じで、カロリー制限とカロリー消費、つまり食事制限と適度な運動ということになる。

しかしながら、そもそもなぜ内蔵脂肪型の肥満が成人病につながるかといえば、血中の中性脂肪やコレステロールが増えて血管が詰まったり、血圧が上がり心臓に負担が掛かったりする、定常的な生理ストレスの影響だろうと考えられている。

そもそも内臓肥満の人はそういう生理的ストレスを抱えている状態なのに、この暑い時期にいきなり慣れないジョギングなどで心臓や血管に負担を与えたら、このニュースのような結果になるリスクは一気に高まる。プールウォーキングをするとか、階段を毎日歩いて上ってみるとか、その程度から始めないとかえって危険だろう。

本当かどうかは知らないが、ジョギング健康法の提唱者が、やはりジョギング中に死亡したという話を聞いたことがある。ジョギングでは、確かに減量できる。しかしそれは、ジョギング前とジョギング後で体重が変わっているというような話であって、その理由は汗で水分を失ったからだ。汗で体液中の水分とミネラルが急激に失われると、血圧のコントロールが難しくなる。これは水やスポーツドリンクを飲めばすぐに回復する。そして体重も元に戻る。

脂肪を減らすための運動法はもうすでにいろいろなデータが出揃っていて、よく聞く「有酸素運動」というのをすればいい。息が上がらず、軽く心拍数が上がる程度の運動を30分以上続けるようにすればいい。通勤通学で自転車や徒歩で少しペースを上げてみたり、家事で低いところにあるものを高いところに上げるような動きを繰り返せば十分で、あとはやはり食事の脂肪分、特に動物脂肪を減らすのが一番効果が高い。

有酸素運動の逆が無酸素運動で、肺からの酸素供給が筋肉での酸素消費に追いつかず、筋肉中の栄養物質を無酸素分解して乳酸が残るような反応が起こる。乳酸は筋肉痛の原因になるし、急な運動は筋肉や腱の怪我につながるし、体重に対して筋力が足りない状態でいきなりジョギングなどをすると、心臓だけでなく「ドスドス」と走ることで足腰の関節の軟骨などを痛めてしまう可能性もある。

とにかく、長い年月の生活「習慣」で体質に問題が出てしまった場合は、短期間の減量などではなく真の原因である生活習慣の改善をしないと、かえって体調が急変してしまう場合もあるだろう。

それから、今年のような猛暑に屋外で運動をするには水分とミネラル分をこまめに補給しないと、本当に命に関わる。アメリカのフーヴァー・ダムかどこかの建設作業員が、熱中症でずいぶん死んでしまい、それを研究した医師が、水分と塩分を摂取すると熱中症による死亡者がゼロになったか激減したか、とにかく明確な効果があったらしい。今回の事故でもそうした対策がとられていなかったのだろう。

気の毒な話だが、メタボリック「シンドローム」という病気を治療しようと思えば、それなりの知識が必要で、ただ体重が減ればいいという問題ではない。死者を出したこのプロジェクトの提唱者は十分反省して、これで減量に懲りるのではなく、安全な減量について一般広報活動を続けていくよう期待したい。

蛇足になるが、これもまだ確証が取れていない疫学調査として、日本人男性では従来の標準体重より、少し太めのほうが平均余命が長いという結果が出たらしい。そんな感じだから、糖尿や通風や脳梗塞や不整脈を起こす前に、食事を野菜と魚中心へゆっくりとシフトさせ、まずは一日10分くらいずつ軽快な足取りで歩いてみるという程度でいいんじゃなかろうか。そのうちもう少し歩きたくなるくらい足取りが軽くなるだろう。

「メタボ」などという流行語で商売をしたい人もいるんだろうが、蓋を開ければただの「生活習慣病」の潜在的患者というだけであって、特に新しいことは何も無い。テレビも新聞も、新しいネタ探しで実に忙しいことであるなと、また同じことをくり返し思ってしまったニュースだった。
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by antonin | 2007-08-18 01:42 | Trackback | Comments(0)

実装基板光インターコネクトの試案

家庭のインターネット環境も、たかだか100Mbpsとはいえ、どんどん光ファイバー化が進んでいるし、これからはもっと短距離でも光通信が普及する分野は増えていくと期待したい。具体的には、PCのマザーボードのようなFR-4のPCBに光配線層を設けたら面白いように思う。

従来はシングルモードの石英ガラス光ファイバーで数キロという長距離伝送に光通信が使われていた。短距離通信もマルチモードの安い光ファイバーで、という流れも確かにあったが、結局は電子技術者が使い慣れた銅配線の性能向上にコストや開発リソースの面で追いつくことが無かった。100BASE-TXなんて、より線なんて原始的なものでしっかり安定した通信を実現している。

光ファイバーでの通信では、WDMのように波長で分割してチャネル数を増やす方式も一部で利用されているが、電磁波の変調という見方をすると、結局のところモールス信号と同じようなASKでしかなかった。

たとえば単一波長で40Gbpsの通信をすると、最大で20GHz乃至100GHzの信号波が乗っていることになるが、波長1マイクロメートルの近赤外線であっても、周波数というか振動数に直すと300THz(テラヘルツ)にもなる。信号波に対して1000倍以上も高い周波数の搬送波を使っていることになる。


ここでちょっと話題が変わって、技術の優位点ではなく、市場で普及する場合の現実性を考えて見たい。電気信号が全盛の短距離通信にあって、光通信が入り込む余地があるとすれば、電気では実現できない特性を何か持っていないといけない。さもなければ、電気で工夫したほうが使いやすいに決まっている。では光ならではの特性とは何かとなると、短絡的には高速通信ということになる。ベースバンド通信に比べたら百万倍も高い周波数を持っているのだから当たり前かもしれない。

しかし、ロジックの動作周波数がせいぜい2GHzあたりで頭打ちになってしまった昨今、たとえば40GHzの通信速度を引っさげて光通信が入ってきても、CMOSの汎用ロジックではそれについていくことができない。では2GHzのチップ内信号と同じ周波数でパッケージ間伝送ができれば、確かに現状のDDR2あたりの低速なシングルエンド通信に比べたら劇的な高速化になるかもしれない。

しかし、光回線が一本ではシングルエンド配線の束線にすら負けてしまって意味が無いので、光導波路を多数通すこととなる。しかしそうすると、量産技術が確立していないだけにコストの方も劇的にアップしてしまうだろう。それでは絶対に普及しない。電気の方だってXDR DRAMなどで使われている差動信号や低電圧信号、それに電流駆動型回路などの改良が目白押しで、半端な光回線では出る幕がない。

やはり、従来の銅配線のいいところは残しつつ、銅配線では実現できなかった部分を光通信が担うべきだろう。そこで、光が電気と違った特性を考えてみると、まずは非常に高い搬送波周波数がある。半導体レーザーであれば、かなりきれいな搬送波を出すことができる。もうひとつは、電波と同じで直交性と線形性があるところだろう。光路が途中で交わってしまっても、互いの信号が影響されることはない。交差配線が自由にできるというのは大きな特徴だろう。

もうひとつ重要なのが、簡単に遮蔽ができるということではないだろうか。黒いもので囲えば、赤外域だろうと可視域だろうと紫外域だろうと、ほとんどの光線を遮ることができる。このことには二つの利点がある。ひとつは、外光を遮蔽すれば、弱い電力の光信号であっても高いS/N比を確保できるということ。通信路容量は電力ではなくS/N比に左右されるので、ノイズを低減できればそれだけ、通信速度を高く保ったままの低電力化を図れる。

遮蔽できるという特徴のもうひとつのメリットは、EMIの問題をあまり考えなくてもいいということだろう。もし漏洩したところで、電波帯の周波数と違い、赤外線も可視光も、周囲に迷惑を掛ける可能性は少ない。紫外線は化学線とも呼ばれるだけあって、通常の電気信号で言うEMCとはまた違った問題を生じる可能性はあるが、要は低出力にしてカーボンなどに吸収させれば済む話だ。

これらの特徴をうまく利用すると、プリント基板における光通信層は、電気信号の頭で考えるように「線」で構成される必要は全くない。いくら直交してもクロストークが発生しないのだから、むしろきれいに交差できるように、均質な導波「面」にしてしまったほうがいいだろう。

すると、その面に光信号を導入する際に、ミラーである程度ビームを絞ってやれば、途中の信号を気にすることなく相手端子まで一直線に最短距離を進むことができる。複雑な多層配線などは一切必要が無くなる。

もっと言ってしまえば、それほど長距離で通信する必要が無ければ、コーンミラーで360°方向にブロードキャストしてしまえばいい。あるいは平面ミラーで90°くらいの放射にしてもいい。すると出力波は3次元空間ではなく2次元空間を拡散していくので、距離の1乗に比例して減衰する。実際にはコア層物質の吸光による減衰があるから、距離の2乗に比例して減衰するだろう。ビームを少し絞ったり、減衰率の小さいコア材料を使えば、減衰は距離の1乗に比例する程度で済むかもしれない。

それでは互いの信号が混ざって受信されてしまうことになるが、これにもうまい解決法がある。光信号をベースバンド信号ではなく変調波と考えれば、CDMAなどの直交信号にしてしまえばいい。どれくらいのチャネル数を用意するかにもよるだろうけれども、拡散符号を例えば1Gbpsくらいにすれば、チャネルあたり100Mbps程度のマルチアクセスが可能になる。

100Mbpsというとローカル通信にしては低速のような気がするが、便利なのは通信路が配線という「線」ではなく、導波面という「面」と端子という「点」で構成できることであって、設計も製造も格段に楽になる可能性を持っている。コストが安くならなければ電気には勝てないから、この程度がちょうどいいのではないか。

局部的に高周波のPLLを用意して拡散符号専用の小さな回路を用意すれば、さほど電力を食わずに信号速度を上げられるかもしれない。CDMA+光ASKだったら回路も簡単だろうから、シリコンのCMOS回路とオンチップレーザーなどで、案外実現可能なのではないだろうか。某社が持つCDMA関係の特許群が気になるところではあるが。

光は究極のブロードバンド搬送波なので、かなり搬送波を拡散しても、ちょっと波長を変えてやればそれだけで別のバンドを確保できる。伝送路が面であれば、各波長ごとに端子を用意すればいいだけの話になり、一本のファイバーに各波長を注ぎ込む現在のWDMのような苦労はしなくても済む。ただし受信側にもそれなりのバンドパスフィルタが必要になるので、これは少し難しいかもしれない。

それより簡便なのは、導波面を空間的に仕切ることである。導波面に黒い線を引けば、それを境界として区画が分かれてしまうから、それぞれの区画の中で通信をすればいい。他の区画との"EMC"は気にしなくて済む。このあたりが電気や電波に対する光のアドバンテージだろう。電波領域の電磁波を小さなシールドで遮蔽するのは難しいが、光なら1mmもあれば十分に遮蔽できる。あとは区画内の見通し距離であれば自由にバスが引ける。

性能アップとしてではなく、配線コストダウン手法としてのパッケージ間光通信導入試案でした。

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こんなアイデアはどうでしょう。
私は元材料屋の現ソフト屋なので、こんなんで特許を取る気もありませんし、単なるアイデア段階ですので、パブリックドメインということにしておきます。どこかの大学で研究してくれたら面白いのになぁ。
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by antonin | 2007-08-17 03:03 | Trackback(1) | Comments(0)


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