安敦誌


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by antonin
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ぽろりぽろりと井戸の水

井戸の底は深く、そこにはいつも水が満ちている。その水は無限ではなく、あまりに急いで汲めば、底を打つ。しかし、放っておけばいずれまた水が満ちる。その水はどこから来るのかといえば、井戸の壁から染み出てくるのである。

地層には透水性の砂礫層と、非透水性の粘土層がある。粘土層は火山の大噴火などで供給されるもので、その粘土層の上に河川の氾濫などに由来する砂礫層が乗ると、粘土層で堰き止められた水分が砂礫層に含浸して蓄えられ、地下水となる。

地下水の由来の主な部分は雨水であるけれども、場合によっては河川の河床から染み出して周囲の地層に流れることもある。現代では平野部の河川は護岸工事が施されているが、都心部の一部を除けばこうした水の融通は残されていると思う。一方都心部では、河川はコンクリート製の樋になってしまっており、地面の大方はアスファルト張りになっている。地中には水道管が張り巡らされているが、この水道管は送水を目的として圧力が掛けられている。これは同時に水道管に亀裂が生じた際に地下水が水道水を汚染しないように陽圧を保つという効果も持っている。クリーンルームの気圧が環境気圧より若干高めに調整されているのと同じである。

ただ、古い水道管が都市部に地下水を供給しているかどうかはわからない。面ではなく、点から注がれた水は流量に対して流速が早く、砂礫層の砂を洗い流してしまう。そのため、水漏れ箇所の周囲は徐々に空洞化し、その上の路面が陥没するということも発生する。水道局ならば、実際に使用量として計測された水量と、浄水場の放出量から求まる損失率を知っているかもしれない。もっとも、全ての水道水が課金の対象となっているわけではないので、消費水量の100%が計測されているのではないのかもしれない。

そんな話はどうでもいいのだけれども、井戸の水が枯れないのは、その水に必ず由来があるからで、結局のところ、それは過去に降った雨か雪に違いない。海と太陽が作り出した蒸留水以外に、大量の淡水源はない。井戸は単なる出口であって、水の流れをたどれば地中奥深くでどこかにつながっている。

人の言葉も同じようなものだろうと思う。人の口は単なる出口であって、その言葉は枯れることを知らないかもしれないが、その言葉の奥を探れば、たいていは誰か他の人間の言葉や経験につながる。ある時代のある地域に広く広がった地下水のように、情報というものもまたある時代のある地域に広く広がっている。

人は皆それぞれの経験というフィルターを持っているから、それぞれの口から発せられた言葉にはやはり人それぞれの色があるが、そもそもの情報がどこから来ているのかといえば、やはり先人が積み上げてきた言葉を元に、ある時代のある地域に含浸している情報に源を発しているのに違いない。切り口が違うだけで、元は同じであるともいえる。

そういう意味で、人の言葉は井戸水である。火山などが近ければ温泉になり人を楽しませることもあるだろうが、基本は同じである。鉄を含んで臭いものもあるだろうし、澄んで清いものもあるだろう。汲まれたときにだけ水を出すものもあれば、年中水が湧き出しているものもある。けれども、元をたどれば全ては雨か雪なのである。

ものを言うときには、ときどきそういうことを振り返って、自分の口がただの穴であることに気付かされることがある。けれども、それを気にしても仕方がなく、何も言わない枯れ井戸になるよりは、何かを言っていたほうがまだマシであると開き直ることにしている。
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by antonin | 2007-10-31 00:30 | Trackback | Comments(2)

「ルール」と「マナー」と「思いやり」、それから哲学

最近、世間で「マナー」という言葉をよく目にする。安敦誌でも以前にマナーについて書いたことがある。

安敦誌 : マナーとマンネリ

ただ、マナーという言葉が"manner"から借りた外来語であり、日本語に訳すと「作法」となることを考えると、今日本語で言われている「マナー」という言葉が、かなり拡大解釈されたものになっていることがわかる。世の中の人々はとかくマナーにうるさくなっているが、それがお作法にうるさくなっているのかというと、そうでもなく、いわゆる「空気読め」という物言いにも通じる内容になっていることに気付く。

本来のマナーというのはお作法であり、例えば「テーブル・マナー」などというものが本来的な意味でのマナーに相当するように思う。ナイフとフォークが三列でテーブルに並べられていたとき、外側から使っていくというのは決まりごとであり、マナーである。別に守らなくても重大な不都合はないが、守ったほうが順調に事は運ぶし、しかるべき教養のある人と見られるということにもなる。割り箸は横に向けて割れというのは、武家の娘が学ぶ作法を指導する小笠原流かどこかでは確かに定められたマナーなのだと思う。

一方、赤信号では止まり、青信号になったら進むというのは、マナーではなくて「ルール」である。社会が正常かつ円滑に進むためには、原則的に守らなくてはいけない決まりごとがルールである。最近ではこのルールの範疇に入ることがらも、一部でマナーと呼ばれることがあるように思う。喫煙が禁止されている場所ではタバコを吸わないというのはルールだから、マナーよりも一段強い意味がある。

もうひとつ、最近では本来「思いやり」に属する範囲のことがらまでも、「マナー」という言葉で語られる機会が増えているような気がする。周りに誰もいなくても守ることが義務付けられているルールでもなく、人との関わりの中である程度厳密に定められているお作法でもないが、周りの人の心情を考えたときの配慮から生まれるのが、思いやりのある行動である。これはマナーから比べると一段ゆるい意味がある。

周囲への配慮というのは、一般にルール化されていないし、形式的なマナーとしても定められていないが、周囲の人々の心情を察知して臨機応変に対応することで、社会はより円滑に動く。ただ、やはりそこには一定の決め事は存在しないのであって、それをマナーと呼ぶのは無理があるように思う。

ただ、思いやりにもやはり一定の「型」はあるのであって、それはある人の中で、あるいはある集団の中で、「不文律」というマナーに仕立てられていることが多い。こうした、自分が所属する集団の中での不文律をマナーと呼ぶ機会が増えているのだと思う。

電車の中での携帯電話の使用はどのようにすべきかということについては、当初はルールもマナーもなく、個人的な配慮に全て依存していたのだけれども、それではトラブルが多発するということになった。そこで鉄道各社が「列車内ではマナーモードに設定し通話はしない、優先席付近では心臓ペースメーカー等の誤動作に配慮し、電源を切る」という決め事を策定するに至った。これは絶対的なルールとまでは言えず、個人の配慮に依存する思いやりでもなく、明らかに「マナー」と言える。

日本たばこ(JT)も似たように喫煙マナーを策定、普及させようとしているように見える。本来、タバコの吸殻を路上に投げ捨ててゴミにしてはいけないというのは罰則はないものの法に定められたルールの水準だし、歩きタバコで周囲の人に煙を吸わせたりしないというのは周囲への思いやりの範疇に入ることがらなのだけれども、タバコの煙が喫煙者以外にとってどれほど不愉快なものなのかということがなかなか喫煙者にはわからないということもあって、トラブルは絶えなかった。

その結果として、路上喫煙禁止条例だとか、健康増進法による屋内公共施設での喫煙所を除く禁煙などの、ルール強化が進められてきた。健康増進というのは建前であって、やはり場所をわきまえずに喫煙する一部の喫煙者が文字通りにも比喩的にも煙たがられた結果だろうと思う。ただの迷惑では法律にできないので、受動喫煙による健康被害防止ということで健康増進法ということになった。

ただ、こうしてルールが強化されてがんじがらめになると、JTとして売り上げに響くということもあるが、それ以前に嗜好品としてのタバコを嗜むという文化が壊滅的な影響を受けることになる。タバコを単なる依存性薬物としてではなく、文化的な嗜好品に高めたいと思うなら、やはりそこには社会と共存するための喫煙マナーの確立が必要になる。現在は「日本喫煙者協会」というような権威ある喫煙者団体などは存在しないので、代わりにJTがその旗振り役を務めているのだと思う。

喫煙マナーは、あくまで自主的に守るべきマナーであるべきであって、またそれは誰でも守れるように形式化され、「お作法」となり、広く知られる必要がある。そうしたマナーが存在しなければ、社会でトラブルを引き起こし、結果として喫煙者コミュニティの外部から与えられたルールによって規制されるということになる。だから、ここには確かにマナーの確立が欠かせない。

ただ、こうしたお作法としてのマナーは必要だけれども、マナーというのはしばしば肥大化し、複雑になり、結果として誰も完璧には守れなくなり、また人によって言っていることが違う、というようなことになりやすい。ルールであれば、あいまいな表現であるにしても文字として表現されていることが多いが、マナーでは「何々流作法」とでもまとめられていない限り、人々の意識の中に不文律として持たれているだけということが多く、そのために解釈が分かれ、かえってトラブルの原因になっているということも多いように見える。

昔は社会が狭かったので、不文律をマナーと言っても、おそらくそれほどの問題はなかった。けれども今では、昼間の生活圏と夜の生活圏とでは通勤通学のために数十km離れているということも珍しくない。出身地と居住地が数百km、場合によっては数千km離れているということも珍しくない。こういう社会では、マナーという場合にも、過去の社会とは違った考え方をしないといけないように思う。

つまり、自分の中でのマナーと、他人の中でのマナーは一致しないということを前提として考えなくてはいけないように思う。もし両者が一致するのであれば、自分が身に付けているマナーというのは、相手も当然に身に付けていなければいけないマナーであり、そこではルールとマナーの境界はあいまいになる。これは過去の狭い社会のスタイルである。しかし、現在ではそうした状況にはなく、出自の異なる人の間では、マナーも異なると考えたほうがいいように思う。

そうした状況で、もしも本当に守るべきことがらがあると考えるならば、それは不文律としてのマナーではなく、明文律としてのルールとして共有化すべきであり、そしてルールは誰かが一方的に立てるのではなく、社会として最低限必要な範囲を議論したうえで立てるのが本来のやり方ということになる。そして、決められたルールは極力厳密に守られなくてはならない。本音と建前というやりかたは、こういう社会では通用せず、もし通用してしまえば社会は大いに混乱する。

そして、いろいろな出自の人が集まった社会では、ルールの下に、鉄道会社やタバコ会社がしたように、公益的なマナーを徐々に作り上げていくという作業も必要になるだろう。そして、そこで確立されていったマナーも、あくまでそのマナーを作り上げた社会の中だけでしか通用しないお作法でしかないということを、忘れずに心に留めておく必要があるだろう。そして、できることならばマナーであってもどこかに明文化しておいたほうがいい。法律や定款ほど厳密な表現でなく、自動車教本の運転マナー程度の記述でいいから、だれでも参照できる資料があったほうがいい。

繰り返すけれども、昔の狭い社会ではルールとマナーはほとんど区別されなかったから、明文律より不文律を守ることのほうが大事であり、そしてそれを守ってさえいれば問題がなかった。しかし現在の日本はそういう社会ではない。不文律である業界マナーさえ守っていれば、法規というルールを少々破っても問題とはならなかった時代の社会とは違う。最近多発する企業告発は、こういう社会の移り変わりを反映したものだと思う。

古い社会なら、たとえ法規などで規制されていなくとも、常識を外れる行為をした業者には、業界内の他業者や、業界を牛耳る重鎮などによって制裁が加えられ、業界は自浄作用を発揮してきた。また、そうした自浄作用が働かない業界はとことん腐敗し、最終的に社会から放擲されるということが繰り返されてきた。

それが最近では、まず法令が整備され、その法令を遵守する、いわゆるコンプライアンスが確保されている範囲であれば、少々慣行を外れても業界内からの圧力というのは少なくなってきているのだと思う。そういう環境変化の中にあって、なお意識が改まらずに業界の慣習にべったりと依存している人たちも残っている。そういう過渡期にあって、事実上の業界のボスであった行政府が鉄槌を下しているという最後の姿が、今の食品業界や電器業界の摘発事件なのではないかという気がしている。

今後の社会では、ルールとして、広く社会で通用する当然に明文化された必要最小限の規制と、マナーとして、簡単に明文化されているが狭い社会でしか通用しない決め事と、最後にそれらをより有効に働かせるための思いやりの3段階が必要なように思う。ルールは統治であり、マナーは自治であり、思いやりはひとりの人を律するべきものなのだと思う。

今の日本では、本来周囲の人への思いやりに属すべきことがらも、マナーとして語られ、そしてまた、単なるお作法ではなく、当然に守られ、守られなければ罰せられることもあるルールであるというような意味合いで「マナー」という言葉が使われる機会も多いように思う。

マナーは自治、という考え方からすると、相手が自分と同じ社会、組織、コミュニティに属すると考えるならば、その相手にも、自治のためのルールであり定められたお作法であるマナーを要求することができるし、要求すべきだと思う。そしてマナーが身に付いていなければ、しっかりとそれを指摘し、教育してやる必要があるように思う。

ある大人が、ある若者を見て、彼にマナーが身に付いていないと考えるならば、若者が自分と同じコミュニティを構成する仲間であると認めているわけで、それならば大人がしっかりとコミュニティでの責任においてマナーがなっていないことを指摘し、教育してやる必要がある。もし相手が自分と違うコミュニティの人間であると考えるならば、マナーを教えてやる必要がない代わりに、自分とは違うマナーを持つコミュニティの人間なのだと考えて、その違いを認めるべきである。

ある大人が、ある若者を見て、自分と同じ社会に住む仲間だと考え、もしもマナーに不備があれば、なるべくその場で指摘する。影で愚痴るのは、それは精神衛生上は必要だろうけれども、あまり美しい姿ではない。もしその若者が、自分の家族ではないから自分が指導する義務がないと考えるのならば、その若者は自分の家族というコミュニティとは違うコミュニティに属する人間と考えているわけだから、マナーにも違いがあるのだろうと認識し、その違いについて積極的に認めるように自分の考え方を改めるべきだろう。

同じ社会に住む者としてその違いを認められないならば、すでに述べたように自分の責任でマナーを指導すべきだろうと思う。そしてその場合は、できれば怒ってはいけない。叱ってもいいが、怒るのは得策ではない。相手はマナーを知っていて守らないのかもしれないが、あるいはマナー自体を知らないのかもしれないし、知っていても納得していないのかもしれない。であれば、マナーの内容、そしてそれを守らなくてはいけない理由をしっかりと説明しなくてはいけない。理由はない、という場合もあるだろうが、その場合は相手がマナーを受け入れるまでしつこく言い続けるしか方法はない。少なくとも、好感の持てる相手の意見のほうが受け入れやすいという人間の性質については知っておいて損はないと思う。

そして最後に、思いやりの気持ちも大切になる。ルールやマナーだけではカバーしきれないいろいろな判断が、生活の中で必要になる。そこには個人個人の信念にもとづく思いやりの気持ちで、相手にとって何が必要かを推測して行動する。これには何も決め事がないので、非常に難しい。古い社会であれば、宗教的な規範があったので、他人を思いやるにもどのように考えたらいいかという、やはりコミュニティで共通した考え方の訓練があった。またそうした社会では、相手の行動を見ても、その奥にある思いやりの心にも気付きやすかった。

思いやりをもって人に接するというのは当然に美徳であって、現代でも多くの人がそうしてくれたらいいだろうな、というのは当然に思うのだけれども、自分に思いやりの心を求めることはとても美しい考え方だと思う反面、他人にもそれを当然のように要求するのは、それもまたある意味で思いやりのない考え方のように感じる。思いやりを持つことは自分に対してのみ求め、相手には多くを求めないという考え方がいいように思う。もちろん、相手が子供なら、そうした気持ちを持つようにそのつど教えてあげるといいだろう。

とはいえ、自分に厳しく他人に優しくあるのは徳のある人の常だけれども、またそうした人が少ないのも常なのであって、これは難しい問題だと思う。そして、難しい問題に対しては、誰かがわかりやすい答えを出すことが重要だろうと思う。


狭い社会の中では思いやりに当たる部分はマナーとは区別されずに教育されただろうし、いくらか広くなった社会では、近世近代の日本なら寺子屋や学校教育による儒教・朱子学教育がそれに該当しただろう。西欧社会なら学校教育のほかに教会の日曜礼拝での説教などがそれに相当しただろう。私は神や仏という超越的な存在そのものは信仰しないが、宗教が果たしてきたこうした役割というのは非常に重要だと認めている。そして現代の日本にはそうした共通の宗教的基盤がなく、それが「思いやり」の範疇での共通基盤崩壊につながり、それが人の心をギスギスとさせている原因だと考えている。

これを改めるのに、安倍さんは国家や「公」への帰依という、大日本帝国的な手法を導入しようとしたようだが、それもひとつの方法だろう。しかし、現在のように情報網が発達した時代に、そうした画一的な道徳の流布というのは難しいように思う。それよりは、いくつかの主要な宗教団体あるいは思想家の組織があり、それらが互いに妥協点を探ることで、結果的に国民の中である程度共通した規範が出来上がるのが望ましいように思う。けれどもこれに成功している国家というのは世界を見渡してもあまり多いとは言えず、今世紀に生きる人間が等しく考えていかなくてはいけない大問題なのだろうと思う。

それでも単一の宗教や思想が国家を覆っている国というのはあり、その宗教の倫理観を理解できない人間にとってはその国家の国民は抑圧されていると見えるだろうが、案外そうした国家に住む国民は安寧としているように見える。どんなルールであれ、矛盾のないひとつのルールに従う生活というのは存外快適なものである。もちろん、その国家的な宗教や思想に馴染めない人というのは存在して、そういう人は不自由しているが、対応すべき相手が一定しているという意味では安定している。

日本にはかつて自然崇拝や先祖崇拝を基本とする原始神道があり、そして5~6世紀ごろに浸透した仏教思想があり、そして江戸幕府が推進した儒教教育があった。明治以降も、基本的には儒教思想をベースとした国家神道があった。それらはそれぞれ、時代に見合った広がりを持つ社会を統治するのに役立っていた。

しかし、国家神道を否定された第二次大戦以降の日本では、それに代わって立つ宗教的、あるいは思想的な柱が育たなかった。もちろん、国連的な人権主義というのは教育の場で主流であったけれども、それは在来の実社会とは必ずしも相容れないものであったし、ここへ来て感情的な反発に遭ったりもして、国民的な思想信条の基盤としてはすでに崩壊している。

現在の日本は人間の根本的な部分で非常に難しい問題に面していて、それはさまざまな思想信仰が入り乱れていて、それらがどれも調和していないというところにある。キリスト教の理念にもとづく西欧的なフェアネスと、儒教や仏教にもとづく東洋的な倫理観、そして風水やスピリチュアルのブームなどに見られるある意味土着的な呪術信仰、それに江戸期に発達した水戸学や国学に端を発する国家神道的な信仰も含めて、さまざまなものが同時並行的に存在している。

そうした状況の中で、創価学会や幸福の科学や統一教会やオウム真理教などといった新興の宗教団体が、簡単に勢力を広げることが可能な状況となっている。これは仏教の諸宗が日本に勃興した鎌倉末期の状況に似ていなくもない。

ただし、ピンチはチャンスでもあると考えるならば、もし現在の日本に横たわるこうした非常に難しい問題を解決するような、もっと言うならば西洋と東洋の思想を橋渡しして統合するような思想が組み立てられるならば、やはり東洋と西洋の文化が衝突する激流の中であがいているように見える中国大陸や、EUの辺縁で難しい立場に立たされているトルコや中東諸国などでも、あるいは適用可能となる重要な思想哲学が生まれる可能性もある。

難しいからこそ考える価値があり、またいろいろと意見を交換する価値もあるのだろうと思う。西暦2000年前後の日本というのは、この先100年を考える上で非常に重要な局面にあると思う。そしてどの既存宗教思想をそのまま採用してもおそらくはうまくいかず、それらを大胆に統合する、吉田松陰やアウグスティヌスのような思想家の登場が必要なのだと思う。正直、哲学科の皆さんはオタク文化などを悠長に論じている状況ではないように思うのだけれども、なんとかならないものだろうか。あるいはオタク文化が問題を解く答えなのだろうか。


ちょっと話が大きくなってしまったけれども、日本という国家の問題、あるいは今世紀の人類の大問題という、個人としてはなかなか手が出せない大問題が背景にあるとはいえ、それでも個人は何かを考えて生きていかなくてはいけないし、また生きていくことができると思う。

松蔭やアウグスティヌスに匹敵するような大思想家にはならなくとも、日常生活の中で常識が変化しつつあることを感じながら、自分はどのように行動すればいいのかを、ときには常識に縛られずに考えてみるといいと思う。それは多くの人にとって役に立つことだろうと思うし、そういうことを哲学とかphilosophyと呼ぶのだと思う。別にカントだとかデリダだとかの小難しい本を読まなくても、自分の持っている知識の中で哲学的なものの考え方をすることはできるし、なにより哲学を必要とする状況はもう目の前にあるのだと思う。
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by antonin | 2007-10-27 06:11 | Trackback | Comments(2)

空気読み力テスト

socioarc | 空気読み力テスト αver.

空気読み力: 7(Cクラス/重度KY(空気読めない))

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まあ、わかっていたことではあるが。
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by antonin | 2007-10-21 18:52 | Trackback | Comments(8)

乏しくても豊かな生活

第3回 巨大道路とコカ・コーラ、そして遊牧民(後編) - ECO JAPAN〈エコジャパン〉 - nikkei BPnet 環境ポータル

以前に書いたことがあるけれども、豊かであるということは生活に困らないということであって、生活に困っているとさえ感じていなければ、物質的には必ずしも豊富である必要はない。

けれども、広告文化というのは、すでに満ち足りている人に対して「あなたにはまだこれが足りない」という催眠を掛ける文化なのだから、そこで人々はどんどん欠乏感を増していき、結果として気分は貧しくなる。生活は十分に豊かなのだけれども、気分的に貧しいのでは意味がない。

私にはアフリカのマラウィという国に「隠し子」がいるのだけれども、そうはいってもアフリカの事情には詳しくない。その点で、冒頭に挙げたような文章と写真はとても参考になる。一般に貧しいとされる地域でも、そこに住む人々の生活は案外に豊かであったりする。物質的にははるかに豊かであるはずの日本で、気分的にはずっと貧しい生活を送っているということは珍しくない。

ところでこの島村菜津さんという方、「ノンフィクション作家」ということになっているが、作家にしてはずいぶんとユニークな日本語を操る。リンク先でも、1ページ目から「極楽非道」なんてやっている。ネット時代になって誤字にはずいぶんと寛容になったが、これは誤変換ではなくて素でやっている勘違いなのではないのか、あるいは高度なユーモアなのか。

ともかく、こういう日本語を操る人であっても、書かれている内容というのは実に価値が高い。それは、ちゃんとした体験にもとづいているからなのだろう。物を書くにはこういう部分も大事なのだろうと思う。
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by antonin | 2007-10-21 07:44 | Trackback | Comments(0)

近所の公園の話

今日はムスメがエレクトーン教室に通う日だったので、お留守番のムスコを連れて、近所の公園まで遊ばせに行ってきた。週末の午後の公園だったので、親子連れがたくさん来ていた。中学生くらいの子供たちも群れて遊んでいたが、ベンチでダベっている、チョイワルだかなんだか、やはり公園にはお約束の連中もいた。

大体そういう連中は何もしない限り放っておくのだけれども、今日はタバコを吸っているやつがいたので、周りの大人が何もしないものだから、仕方がなくタバコを没収した。啖呵を切ってくると思ったが、案外素直にタバコを渡す。このあたりはまだまだ子供なのだろう。持っているのも全部買い取ってやるから出せというと、フラフラと便所のほうへ行ってしまった。

その子の仲間がまだ残っていたので、「なんでタバコを吸ったらいけないのか教えてくれる人はいないのか?」と言ったら、みんなで吸っていたらあまり口出しされないのだという。そこで変わり者のおじさんとして、体に悪いとかそういうことは別にどうでもよくて、吸いたければ吸えばいいが、人前であからさまに未成年のヤツがタバコなどを吸っていると、法律を守らないヤツだというのが傍目にもわかり、そのうち麻薬や覚せい剤の売人の食い物にされるからやめておきな、という自説をぶってやった。

「なに、おじさん、警察?」とか言っていたが、この程度の会話を警察官としかできないというのはいかにも気の毒だ。あんたたちの将来を心配してるんだよ。ご近所だしね。個人的に怖い顔をして怒るというのが苦手なので、エヘラエヘラと笑いながら、とりあえずタバコだけはやめとけということで没収して、あとは放っておいた。すると案の定また吸っているので、面倒だがまた没収する。また他愛もない話をする。さっき本人に質問できなかったので、同じ質問を投げると、「タバコを吸うと運動能力が低下して」云々と言っている。学校でそう教えられて、納得できないながらも記憶はしているのだろう。でも問題はそういうことじゃない。

また子供を遊ばせていると、今度はその男の子たちの連れの女の子たちがタバコを吸っている。非常に面倒だが、ひとりから没収した手前、こちらを放置するわけにもいかないので、3人から没収。今度は説教も面倒なので、さっき説教した子に「説明してやれよ」などと言って、近所のコンビにまでタバコの吸殻を捨てに行く。別に排水溝などに捨ててもよかったが、それだとちょっと教育的にどうなの、という気持ちもあり、コンビニのゴミ箱を借りることにした。いまどきの公園にはゴミ箱がない。悪い大人がいるから、治安上置けなくなったのだ。

監視カメラの設置がああだこうだ言う前に、ちゃんと子供の面倒くらいは見ておきたい。ナイフをちらつかせて、体躯も大人顔負けの相手にいきなり挑戦するのはちょっとなんだが、金髪で眉毛を剃っていても、明らかに子供というような相手なら、行くところまで行ってしまう前に声の一つもかけてやっていいんじゃないか。ワルになるにしても、極悪非道にはならないんじゃないのか。最初にタバコを没収された子が、酔っ払いにいきなりビンタされたなどと言っていたが、そういう大人との触れ合いばっかりじゃツムジもヘソも曲がるだろう。

エレクトーン教室が終わりの時間になったので、ムスコをベビーカーに乗せて帰ろうとすると、さっきの連中が「さようなら」とか言ってくる。そういう態度の使い分けで学校での管理教育を乗り切っているのだろうが、気の毒なことだ。「おうっ」などと言っておいたが、1週間くらいはそうした対話を覚えておいてくれるといいなと思う。
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by antonin | 2007-10-20 17:57 | Trackback | Comments(3)

鼻スイッチ

私の鼻の頭を、向かってちょっと右側から指で突付くと、軟骨がどこかに引っかかるのか、ポコ、ポコとクリック感のある沈み込みが得られる。これを称して「鼻スイッチ」と呼んでいる。

ムスメが、月に1回くらいのなんとも中途半端な間隔で、思い出したようにこの鼻スイッチを押したがる。そのタイミングで「ドカーン!!」などと大声を出すと、喜ぶ。ムスメ5才。いつ頃までこういう遊びを喜ぶのだろうか。そろそろ終わりというような気はしている。
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by antonin | 2007-10-20 04:14 | Trackback | Comments(0)

臨時収入

先日、日経BP社から3,000円分の図書カードが届いた。

何の事だかよく分からなかったが、同封されているカードには「原稿料」とかそんな文字が並んでいる。心当たりはない。だが、よくよく考えると実は心当たりのようなものはあって、最近日経BPの発行する技術誌のwebサイト、Tech-On!の中にあるTech-On! Annexという読者参加型システムに入り浸っている。そこで書いたネタが懸賞にでも当たったか? などと思ったのだが、そうではなかった。

ここ5年ほど定期購読している雑誌から、ときどき読者アンケートの依頼が来るのだけれども、そこに書いたコメントが「読者の声」として雑誌に載ったのだそうである。該当する号のページを開くと、確かに書いたような記憶のある、つまらないコメントが掲載されている。これに対する「謝礼」ということらしい。しかし、数えてみるとわずかに8行である。あまり意味はないが、換算してみると一行375円である。なんて太っ腹なんだろう、日経BP社。そもそもアンケートに答えただけで、確か1,000円分の謝礼は頂いているのである。

さて、何はともあれ淋しい懐に収入があったわけで、さっそく散財したい。明日にでも書店に本を予約しに行こう。今考えているのはこの本。

「数学ガール」 結城 浩 著¥1,890(税込)

数学を操る知的な女子高校生の話に萌えるような年齢でもないが、物語に使われている数学が「ガチ」であるという噂なので楽しみだ。「算法少女」と同じで、実際に読むのはいつになるのだかわからないのだけれども、こういう本には「所有する愉しみ」というものがあるではないか。数学は得意ではないが、決して嫌いではないのだ。数学を操る女性の本が続いたので、Augusta Ada Lovelaceの伝記なども探して読んでみたい。

なんだか未読の本が1万ページぐらいある。金さえあれば一年くらい読書に捧げてみたいものだ。実際は金がないので、そういう自堕落なことはできない。世の中というのはうまい具合にできているものだ。情報処理の試験が終わったら、少し数学問題に取り組んでみたい。mixiでやっている数理論理学の勉強会がほったらかしなのだ。目標はゲーデルによる2つの不完全性定理の証明を理解すること。まあ、目標は高いほうがいいに違いない。
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by antonin | 2007-10-20 02:42 | Trackback | Comments(0)

うんどうかい

先日の日曜日はコドモたちの通う保育園の運動会だった。

我が家にはハイビジョンの映るようなフラットパネルテレビはないが、ハイビジョン記録のできるビデオカメラだけはある。再生はいつでもできるが、記録は今しかできないというのもあるし、ハイビジョンテレビともなると最低40型は欲しいところだが、そうなると30万円くらいは身銭を切らないといけない。一方のビデオカメラは、新製品発表後の在庫処分を狙ったので、わずか8万円で購入することができた。あとで新製品も見てみたが、こちらは12万円程度するのに対して、機能面での向上は軽微なものだった。メーカーさんには悪いが、いい買い物をしたと思う。

記録メディアはテープと決めていた。ランダムアクセスはできないが、ビット容量で言えばDVD singleより大きく、外形もコンパクトで、本体価格もメディア価格も安い。そのうえ、過去のSD画質のminiDV映像資産の再生デッキとしても使える。HDD方式は便利そうだったが、データ保存のフォーマットが標準化されていないのと、カメラ落下時のデータ保護に不安があり、しかも価格が許容範囲外だったので却下した。

結婚前の話だが、近所の大型スーパーで一眼レフのカメラが安売りされていたので購入したことがある。それ以前はポケットカメラで満足していたのだけれども、イタリア旅行をした際にトレビの泉をまわるのが日没後になってしまい、ポケットカメラで記念撮影をしたら、背景にあるはずの見事な大理石彫刻群が、暗くて全く写っていなかった。これに不満を感じて、レンズ2本付きで安売りされていた一眼レフを買った。バッグ付きで4万円くらいだったか。都内散策などで無駄に写真を撮ってみたりして、夜景の美しさに満足はしたのだけれども、あまりに重過ぎて、結局その後の新婚旅行には持って行かないという結果に終わってしまった。

ムスメが生まれる前、当時ようやく3万円を切ったデジタルカメラを購入した。そして、フィルム交換なしで130枚撮影でき、うまく撮れた写真だけを1枚からプリントでき、ときどき短い動画なども残せ、しかも手振れさえ気をつければ夜景も結構きれいに写るというアドバンテージが次々と判明し、外出時にはデジカメは必携という状況の一方で、一眼レフのフィルムカメラは長くお蔵入りとなってしまった。当時住んでいた家の近所の写真屋さんには、写真データを焼いたCD-RWを持って足しげく通ったものだ。

その一眼レフカメラが不憫で、今回の運動会に持って行くことにした。2代目のデジカメは3倍望遠しかなく、それでも昼間の屋外で撮れば600万画素からトリミングすることで、小さく写っている子供の顔ははっきりと認識することができるのだけれども、望遠レンズを使ったほうがやはり対象を目で確認しながら撮れるので、シャッターチャンスにも強い。70 - 200mmの望遠レンズを取り付けて、ISO感度400で24枚取りの安いフィルムを1本収め、ビデオカメラとともに持ち出した。

結局、ビデオカメラ、デジタルカメラ、フィルム一眼レフカメラと、3台のカメラをぶら下げて会場入りすることになった。ビデオカメラは10倍ズームを使わないといけないので、三脚も持参した。将来大画面で見ることになると考えれば、多少カメラモニター上のコドモの映りが小さくとも、テレビ画面ではコドモの表情などは見えると考えられるのと、大画面に映す映像に船酔いするような画面の揺れは最小限に抑えたいという判断もあって、カメラを手に持って1mでも近くで撮影したほうが良かったSDビデオカメラ時代とは、少し撮影の戦略が変わったように思う。これを設置するのには、カメラを構えた親が群がる正面席ではなく、高倍率ズームを使って落ち着いてカメラワークのできる、観客の比較的少ない入場門付近の席を選んだ。

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結果としては、ムスメの玉入れのときにカメラワークまで完璧にやっていたのに、録画モードになっていなくて、そのシーンがごっそりと抜け落ちていたのを除けば、だいたいうまく行った。一眼レフも、一部の失敗ショットもあったけれども、なかなかいい写真が撮れた。

b0004933_23284158.jpg


上はヨメが撮った写真で、ムスコがかけっこのゴールで先生に迎えられているところだ。後方のボケ具合など、高倍率レンズならではの画像だと思う。このカメラもときどき使ってやらないとかわいそうだ。しかし現像料プリント料は1200円ほどになった。当日中に写真が手に入りびっくりしたが、やはり高くつく趣味だ。

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さて、Excite BLOGに買い手が見つからず崩壊するとすれば、これまでの記事の移転先を探さないといけないのだけれども、どこがいいだろうか。FC2か、あるいはサーバーを借りてCGIを走らせるか。どちらにしても面倒ではある。
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by antonin | 2007-10-18 23:47 | Trackback | Comments(0)

私、恨みます

なぜエキサイト・ブログを利用しているのかというと、これを始めた当時、エキサイト・チャットを気に入っていたからだった。今ではチャットはしないけれども、当時は文字にけばけばしい色のつかない、シンプルでリアルタイム性が高い、パソコン通信時代と同じ操作性を持つチャットを気に入り、快適に使用していた。

3年ほど前になって、BLOGは始めたいけれども、当時はBLOGの何たるかもよくわかっていなかったし、CGIでBLOGを立ち上げるのは面倒と思っていたら、ExciteがBLOGサービスを正式公開したので、自分も始めてみた。

Excite BLOGは当時から今と同じようなそっけないほどシンプルなスタイルだったけれども、それなりに快適だった。ただ、広告など収益性の高そうな仕組みがほとんど存在せず、Amazonのアフィリエイト収入をExciteに上納する「ライフログ」の仕組みがあるだけだった。私も当初はこれを利用していたが、今では更新があまりに面倒なので中止してしまった。Amazon側で商品画像を用意していないような作品ばかり購入していたので、ライフログが空白だらけになってしまったというのも興醒めだった。

逆にこうした異常なまでのシンプルさや、scriptやembedなどのタグを否定する「悲観的な」管理ポリシーのため、うるさくなく落ち着いた印象のある良質なBLOGをたくさん集積するというような結果にもなった。これは、戦略的というよりも結果的ではあったけれども、Exciteの標榜する都会型アッパーミドル向けというセグメンテーションにマッチするような客層を集める結果になったのではないかと思っていた。

次はこの良質のBLOG群をいかにビジネスに結びつけるかという段階になると思うのだけれども、ここでExciteはコンテンツメーカーであるBLOG住民から「狂ったか?」と言われるようなクセ球を次々に繰り出すようになってしまった。

最初は「ネームカード」だっただろうか。これもコンセプト倒れに終わったが、とにかくインセンティブに使われた画像容量アップと簡易アクセス解析はある程度住民に受け入れられた。次にRyoomaとかいうアフィリエイト機能が追加されたが、これは全く非現実的な企画であり、常識的に考えれば住民には1円も入らないような仕組みになっていた。詳細は書かないが、まともなマーケティングをしたとは思えないような杜撰で詐欺的な内容だった。

次に、Exciteローカルの動画登録、つぶやき機能、キーワード広告などの瑣末な機能を追加し、しかもそのたびにシステムを不安定にしてしまっていた。しかも、そうした事態に悲鳴を上げる住民に対し、システム側はのらりくらり、つかみどころのない対応を繰り返すばかりだった。

この「効果」もあって、Excite BLOGのアクティブBLOG数はここ1年ほどでほぼ半減しているという。内容的にも、私のような情報価値の低い記事を書く人間だけが残り、集客能力の高い人ほど自由を求めてExcite BLOGを去ったに違いない。

きっと、Exciteの中枢で人的な損失が発生しているのだろうと思うが、その遠因を山村社長のBLOGに見出したような気がする。

エキサイト社長、山村幸広のインターネットブログ : 「正論」 10月5日

この記事では、次のように書かれている。
正論は、正論であって議論に用いる論理ではない。この「正論」が多い人は、実は会社では要注意人物です。

その一方で、同じ人の言葉とは思えない「正論」が同じ記事に書かれている。
企業には色々な考えの人がいて、色々な方向でものを見て考えている。そのような考えをリスペクトしていかないと、いい答えはでてこない。もちろん自分の信念を押し通す強い信念と執念も必要なのだが、そうであっても、その信念を相手にちゃんと伝えなくてはならないし、伝える義務がある。これがアカウンタビリティなのである。

この部分は、実に立派な正論である。

私は正論を否定しない。否定しないどころか、議論とはそもそも正論を求めるプロセスなのだと思う。本来なら、議論の前に「正論」などない。聞いただけでいきなり納得できればもちろんその時点で「正論」になるが、どうやら「正論」という言葉が曲解されているようだ。
「会社の為なんだ。」という正論の一言で、説明されたらどうであろうか?しらけるよね。それはある意味、「お国の為に死んでくれ。」という言葉に近い。それでは会社は機能しない。

「お国のために死んでくれ」を正論と思えるセンスの人間が現代日本にどれだけいるのかは別として、このような反論しにくい意見を「正論」と名付けて忌み嫌っているようでは、議論は成立しない。それを言うなら「きれいごと」とでもすればいい。もちろん企業経営はきれいごとだけでは成立しない。

もし本当に有効な議論をする気があるのであれば、その「正論」に対して「あなたの意見では真に会社のためにならないと思う。その理由は・・・」と切り返すべきで、それが上位役職者に求められるアカウンタビリティであると思う。社員は正しいと思うことを相当の勇気を持って上司に進言するのである。それを「正論だから言い返せない」とキレる上司がいたら、会社は機能しないのではないか。しかもこの人は社長だ。

最近のExcite BLOGの失態多発の舞台裏が見えるような気がする。Excite Japan から、社長の前で正論による諫言を唱えられる良質な人材が逃げ出しているのだろう。気は進まないが、私たちもそろそろ逃げ出す準備を始めよう。
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by antonin | 2007-10-18 00:19 | Trackback | Comments(0)

花はなぜ咲くのか

「何のために生まれて 何をして生きるのか
 わからないまま終わる そんなのはイヤだ!」

これはアンパンマンのテーマの一節で、作詞はやなせたかしさん自らなのだという。

そういうやなせさんも、絵本作家でありながら絵の技術には相当自信がなかったらしく、それでも絵の勉強を続け、「あんぱんまん」という、やや暗めのタッチの絵本からシリーズが続いて徐々に「大家」への道を進み始めたのは、相当にトウが立ってからだという。

個人的には「何のために生まれて」の部分は解決が済んでいて、人間といえども所詮は哺乳類であり、また多細胞の真核生物なのだから、自分の遺伝子を残してナンボという結論に達している。私自身もこの点ではある程度仕事を果たしたことになる。

もうひとつ、「何をして生きるのか」というのは結構難しい問題で、鳥類と哺乳類は子育てまでやることで生き延びるようなシステムになっており、マンボウみたいに億単位の卵を海中に放って、あとは運を天に任せるというのとは根本的に違う仕組みになっている。そうであるからには、子供ができればよし、ではなくて、子供を立派に育てて、孫の顔を見るあたりまでは安心して死ねないのである。そのためには、もうひと働きする必要があり、どのように働くかという問題を不惑までに解決しておきたいということは先日書いた。

ただ、子育てせざるは人に非ず、とも思わない。人間は言葉もあり知恵もある生き物なので、自分の遺伝子を直接残す以外にもいろいろとできることはある。ただそうは言っても、自分の遺伝子を直接残すのが一番手っ取り早いのは確かだ。その上でいろいろとできることもあるし、平凡な人間にはやはりこれに勝る手はない。

哺乳類である人間が子供を産み育てる以外に何ができるかというと、人生にパッとひと花咲かすことである。

花はなぜ咲くのか。それは、風にそよいだり虫をおびき寄せたりして、花粉を遠くへ運んでもらう必要があったからと考えられている。よりダーウィニズム的な表現をすると、風や虫という環境要因をうまく繁殖に利用するような形質を発現する遺伝子は、より増殖しやすい傾向にあるからだ。なぜ花粉を使った遺伝子交換を伴う生殖をしなくてはいけないのかという根本的な問題もあるのだけれども、その話は後回しにする。

現在存在する花は、基本的に繁殖能力があり、花が咲けば実が成る。その実からは芽が出て、次の世代の個体が生まれる。ただ、そうした花ばかりがあるわけではなく、例えばランやソメイヨシノのように、花は咲くが、そこから種が取れて次の世代が育つという仕組みにはなっていない花もある。

そうした花がなぜ立派に咲き続けるのかというと、それはまあ最初は偶然の結果だったのかもしれないけれども、そうしたものが生き残ったり、あるいは増殖したり、あるいは品種を増やしたりするのは、そこに花を愛でる人間がいたからであり、たとえ実は成らなくとも、花が美しければ、それだけで株を増やしたり慎重に交配させたりしてくれる、人間という環境要因があったからに他ならない。

特定のハチに選択的に受粉させるような花を咲かせることで代を重ねて進化してきた植物と、パッと咲いてパッと散る花を年に一度だけ見せることで、日本人に株分けをさせてきたソメイヨシノとでは、仕組みは大きく違うけれども、実はやっていることは同じなのである。人間もある種の生物に他ならないとすれば、自然淘汰と人為淘汰に本質的な差はないのである。

そもそも人間の遺伝子の99%以上は共通部分で、残りのわずかな違いが人種の違いや顔かたちの違いになって現れるというから、自分が直接遺伝子を残しておかなくても、同じ人類が生き残るのに有効な働きを残せば、かなり高い確率で自分と同じ遺伝子は存続するようにできている。そもそも、自分の子供を残したところで、本当に残せる遺伝子は半分だけなのである。

実はここに「なぜ遺伝子交換の伴う生殖が必要か」という理由の答えがあり、結局のところ、世代交代というのは遺伝子組み合わせ実験の試験場でしかない。どんな正常な人の子供にも、致死遺伝子のようなまずい組み合わせが生じる可能性はある程度存在する。その代わりに、私たちは実際に形質として発現する遺伝子以外にも隠れた遺伝子のキャリアとなっていて、その組み合わせの多様性によって、急激な環境変化に対して柔軟に適応できるような遺伝戦略を取れるようになっている。

人と類人猿、あるいは人とクジラやイルカなどを比較しても、遺伝子の総体としては、やはりそれほど変わらないのだという。だとすれば、イルカや動物の保護に血道を上げる人の行動もまた、たとえ人類が滅びようとも、哺乳類全体が生き残ればいいという「利己的な遺伝子」論に立脚した生存戦略の表れと考えることもできる。ゴキブリや原核生物の保護に乗り出す人がほとんど見られないのも、同様に説明が付いてしまう。

まあ、人間の感情とはそこまで単純に説明できるようなものではないだろうが、とにかく自分の子供を残さなくとも、自分と類似の遺伝子を持った人々の繁栄を支えるために人生にひと花咲かせるというのは、ネオ・ダーウィニストの私から見ても、それは十分に価値のある生き方ということになる。

少子高齢化というのは、この先50年ほどの短いスパンで考えれば生活を脅かす大問題だけれども、数万年のスパンで考えれば、別にたいした問題ではなくなる。50年というのはコドモたちにとって人生の大半を占める期間なので同情は禁じえないが、地球を出ろとまでは言わずとも、別に機能崩壊した日本に住み続けなくてはならないという理由もないので、少子化の問題など顕在化していないような地域でたくましく生きてくれればそれでいいように思う。もちろんそれに必要な教育は与える。

昔に「天下国家を語るのはちゃんちゃらおかしい」などと書かれたこともあるけれども、天下や国家に暮らしているのは私とその家族なのであり、その行く末を心配して、間接的に天下や国家を語らざるを得ないというのが正直偽らざるところである。理想の国家とは、空気のようになって誰からも語られないものなのだという。

将来コドモたちがどのように生きていくか想像もつかないが、ひと花咲かすもよし、実を鈴なりに結ぶもよし、それはある程度成り行きに任せるしかないのだと思う。
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by antonin | 2007-10-15 23:55 | Trackback | Comments(0)


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