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金を稼ぐということ

金を儲ける方法など、調べればいくらでもある、というようなことを言ったら、「じゃあやってよ」などとヨメに言われた。もっともである。

本来、カネというのは労働や品物の価値に対する対価であるので、貴重なものを持っていたり、勤勉に人の喜ぶ労働をしない限り、カネというものは入ってこないはずだった。けれども現代ではそうとも限らない。

市場の規模が大きくなり、貨幣の価値を担保していた貴金属などとの交換本位制度が、肝心な貴金属資源の有限性などにより終焉を迎えて、国家政府などの信用本位の通貨制度になってからしばらく経っている。紙幣という紙で買い物ができるのは、それが金(キン)と交換可能な、文字通りの金券であったからというのがその発祥ではあるけれども、今ではそうはなっていない。貴金属とカネの交換レートも変動相場制となっている。

カネは物質と等価なものから、次第に純粋に抽象的な数字に向かって変化を続けてきた。単なる数値である金銭が、それでもある種の均衡を保ちながら流通しているのは、そこに人間の「欲」が存在しているからだ。預けたカネは返して欲しい、物やサービスの価値に見合ったカネしか払いたくない、物やサービスを提供した側ならば、価値に見合ったカネを確実に回収したい、などといった人間の欲望が通貨という数値を厳しく監視しているために、実質的に単なる数値になった今でも、通貨はある程度合理的に取引されている。

とはいえ、そこは所詮抽象的な数値であるから、数字に強い人間が数字に弱い人間を煙に巻いて、合理的な範囲を超えるカネを集めることも、不可能ではない。しかもカネは人間の欲望に直結しているから、集めたカネの一部を的確に使うことによって、人間をコントロールすることさえ可能になる。これが格差社会の本質であろうと思う。

過去には、権力は一部の特権階級にあり、彼らがカネの魅力に溺れれば国家は腐敗したし、逆に彼らがカネの力に溺れずに民衆の怒りに耳を貸したりすれば、カネの亡者は権力によって駆逐された。ただ近現代では、高い教養と、生活の心配をしなくて済むだけの資産を持った特権階級をおおむね駆逐してしまったから、カネに溺れない権力者というものを産み出しにくい組織構造の国家が多くなってしまった。

崩壊した社会主義国家もだいたい似たような具合だったが、少なくとも建前上は私有財産を否定するほどの平準主義者たちだったから、彼らと対抗する勢力も、あまり相手の批判を許すような政策を取ることはできないという効果があったように思う。しかし共産主義もすっかり息を潜めるようになり、社会はマルクス前夜に戻ってしまった。今の社会に育った人材が国家の中心的年齢層になるまでは、おそらくこの傾向が続くだろう。そのときにどのような社会になるのかというのは、全く見当がつかないけれども。

ただ、これはある意味面白い時代でもある。戦乱の時代が、勤勉な庶民の生活を蹂躙する圧倒的に不幸な時代であるのと同時に、人間の知力体力が極限まで磨かれ、固定化した社会階層がリセットされて優れた人間が人々の上に立つまたとない機会でもある。戦乱で社会が乱れれば地道に働く正直者が馬鹿を見るのは事実だが、あまりに平穏な治世でも、無難につつがなく過ごす人間ばかりが報われ、正義を唱えたり新しいことに挑戦して価値を創出する者が報われずに馬鹿を見るという意味では、どちらもそう大差がないとも言える。

今、一部の、数字に強くマネーゲームを得意とする人間が、世界中からカネを巻き上げている。市場に流通するカネのうち、無視できない部分を集めてしまえば、ある程度合法的にカネを増やし続けることができる。いわゆる雪だるま式である。今アメリカではサブプライムローンが焦げ付き、一部の企業は損失を出しているけれども、それを見て、彼らの多くが本当にカネを失ったと考えるのは甘い。

例え話になるけれども、帆船というものは、もちろん追い風のときに最も速く航行することができる。順風満帆であれば船が速いというのは、素人にもわかる。しかし、優れた装備と船乗りを乗せた帆船は、風上に向かってでも風を利用して航行することができる。正面から風が吹き付けていれば、帆を風に対してななめに向けて風を左に曲げてやる。すると、船は右に向かって押し出される。この力を利用して船を右前方に進めて、ある程度進んだら今度は帆の向きと船首の向きを変えて、風に向かって左斜め前方に進む。これを繰り返せば、もちろん順風の場合よりはずっと遅いが、とにかく風上に向かって進むことができる。

金融商品の取引も同様であり、価格変動の少ない「凪」の状態ではどうしようもないが、価格が急落する場面は、価格が急騰する場面同様に、稼ぎ時となる。株の空売り(信用取引)などがこうしたテクニックのひとつと言える。実際に大きな資金を運用している連中は信用取引のようなことはしないが、原理は似たようなものである。ただ、彼らはその豊富な資金量から市場で非常に目立つので、自分の起こした波を増幅させてそれに乗るような荒業も持っているように見える。

まず、何かほんの小さな材料のある商品を、徐々に買い付ける。例えば、バイオ燃料として注目され始めているトウモロコシなど。すると、個人とは違い、市場規模に対して資金力の大きい買い手が継続的に買いに走ると、相場が上昇する。しかも彼らは情報も集約していると思われているから、嗅覚の良いトレーダーがこれに追随し、加速度的に相場が上昇する。早い段階で食いついたトレーダーは、ある程度相場が上昇した段階で売り抜けるので、「追い風」効果で利益を上げる。この間、仕掛けた資本はまだ買いを続ける。

すると、利益を上げた嗅覚の良いトレーダーが、儲け話を始める。まだ儲かると。そこでようやく、嗅覚の鈍い一般客たちが市場に群がり始め、相場は天井に達する。ここでようやく、最初に事を仕掛けた資本が売りに回り、鈍い客から利益を上げる。ここでバイオ燃料などはどうでもよくなる。しかし、ここで相場の高騰を見て農園を燃料転換に適したトウモロコシ園に乗り換えるような農園が増えて、供給側も流量が増えてくる。このあたりで嗅覚の鋭いトレーダーは空売りを始める。仕掛け側の資本がもう十分利益を上げたと判断すれば、一気に売り抜き、相場を暴落させる。

そもそも相場が上がってから買いに回った鈍い客たちは一様に大損をするが、この向かい風の場面でも技術のある船乗りたちはしっかりと利益を上げる。彼らにとって重要なのは上がるか下がるかではなく、激しく変動することである。この変動はある程度仕掛けられたものと言えるが、特段にインサイダー情報のようなものを利用したわけでもなく、偽情報を流布したというわけでもない。ただ単に心理的な操作をしただけであるので、特に法に抵触することはない。

これを日本国内のような狭い土俵でやってしまったら、公正取引委員会のようなところに指導されて潰されてしまうのだろうが、合衆国の自由な市場であればそれほど細かいことは指摘されないし、相当に危うい場面でもロビー活動を有利に展開することによって法的なお墨付きが得られたりもする。日本でも、例えばかつての消費者金融業界であるとか、今ならパチンコ業界などが、それに近い活動をしているのがテレビCMなどを見ているとよくわかるだろう。

市場原理というのは、プレイヤーのレベルが皆それなりであるうちは確かに健全に働く。けれども、一部のスーパープレイヤーが日々新しい手を研究して、一般人には理解不能の手を打ち出すようになると、良心的な経済学の前提がいろいろと崩れてくる。日本のデフレであるとか、アジアの通貨危機なども、そうしたスーパープレイヤーの影を感じる。日本からノーベル経済学賞の受賞者はまだ一人も出ていないが、それでも層の厚さで言えば通貨危機に陥った各国よりはまだマシだったということだろう。


真面目に生きている人からカネを騙し取る人間は下劣だけれども、ある程度の嗅覚を磨いて、大切な人々をカネの亡者から守るくらいの力を身につける必要はあるのかもしれない。カネの力は人を醜くもするけれども、良いことをするのにも力は必要なのであって、本物のカネを使わずに嗅覚を磨くシミュレーションができないかというようなことも考え始めている。手始めとしては、マンキューのテキスト片手に次のようなサイトで遊んでみても面白いかもしれない。

野村のバーチャル株式投資倶楽部

もちろん、株式などの金融商品であっても、本気で儲けようと思えば通常の勤務業務と同等以上の気力体力を割く必要があり、いくら給料が安いといっても給与所得以上の利益を上げる取引をするというのは難しい。実際には、こういうシミュレーションでカネを使わずにカネに対する嗅覚を磨き、その嗅覚を利用して実業に励むほうが、現実的には利得が大きいだろう。

--

新しい職場でしばらく五月病のように中だるみしていたけれども、「昼間からコーディングし放題という喜び」が徐々に板についてきたような気がする。この仕事はこの仕事で大切にしたい。好きなことで生活を支えられるというのは、やはり大きな喜びだと思う。
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by antonin | 2007-11-29 01:26 | Trackback | Comments(0)

泉筆

万年筆を英語で言うと"Fountain Pen"となり、fountainというのは泉とか噴水とかそういう意味だから、タイトルはそんな感じで直訳。

最近、会社で正式な記録以外のメモ書きに万年筆を使っている。別にモンブランの立派なペンを持っているとかではなく、パーカーのソネットという一番安いグレードの、それもすでに廃番になってペン先の交換もできないようなものを使っている。

学生時代に結構好んで万年筆を使っていた時期があって、それもパイロットの手帳用ステンレス製ミゼットペンなんかを使っていて、恐ろしいことにそれらのペンは今でも立派に使用できる。ボールペンならインクがなくなりリフィルが無くなれば、ペン本体がどんなに立派であってもそれまでなのだけれども、万年筆は構造が単純なため、そもそも壊れにくいのに加えて、少々具合が悪くなっても自分で直すこともできる。物を捨てるのが苦手なので、結局我が家にはヨメが使わなくなったものも含めて4本の万年筆がある。

それではもったいないので、職場に遊びをこっそりと導入するという目的も兼ねて、インクが乾いて固まっていたパーカーのペンを復旧させて職場で使用することにした。最初はインクがかすれて書き味が悪かったし、ペン先から床に落下させてしまってペン先を曲げてしまったりしたのだけれども、相手は所詮18金なので、定規で押し戻したらきれいに直った。このあたりの適当な感じが原始的な道具の良さだ。

万年筆のインクカートリッジはメーカーによって全て形式が異なるが、逆にいえば1社につき1種類しかないので、ペンそのものが廃番になっても、カートリッジの供給が止まるということは今のところない。しかも、ペンに付属しているピストン式のカートリッジに浸けペン用のインクを吸わせれば、仮にカートリッジ供給が止まってもインク瓶さえあれば使い続けることができる。そもそも使用量に対してインクの在庫が膨大にあるので、買い足すところまで行かないのが実際である。

水道に付いている浄水器から出た水を、飲み終わったドリンク剤の小さな褐色のガラス瓶に詰めて机に置いてある。人間が元気がないときにはドリンク剤を飲ませて元気を出すが、万年筆に元気がなくなった場合には、この小瓶の水をペン先から少し吸わせて元気を出す。万年筆の使用ペースが遅いと、紙に書いてインクが減るより早く、水分の蒸発でインクが煮詰まってしまう。ピストン式のカートリッジであれば、水をカートリッジに吸い込んでインクを薄め戻して簡単に回復するのだが、プラスチック製の使い捨てカートリッジではなかなかそういうことができない。そこで浸けペンの真似事をして水分を補給する。

万年筆の使用を再開してからしばらくは、水分が少し飛んで濃くなってしまった、使い捨てカートリッジのパーマネント・ブラック・インクを使っていたが、最近ようやくカートリッジが空になり、ピストン式のカートリッジに替えた。ペンに溜まった濃縮インクが流れ落ちるまで、カートリッジには少量の水を吸わせることにしたが、カートリッジのほうにもパーマネント・ブルーブラック・インクが干からびて残っていたらしく、水に溶けて薄い色が付いている。けれども実際にペン先が引く線は今のところ黒のままで、水を得たペンは書き味がずっと良くなった。

こういう使い方をしていると、道具を大切にしないと叱られるだろうし、たぶんそのとおりなのだけれども、なんとなくこうして壊したり直したりしながら使うほどに、物への愛着が増すという性分なので、ここはこれでいいということにしておきたい。

パーカーの使い捨てインクカートリッジの在庫が尽きたら、ヨメのウォーターマンとか、パイロットのミゼットペンとかも使ってみたい。パイロットのペンには繰り返し使用のカートリッジが付属していなかったので、これは使い捨てインクをうまく使うほかに方法がない。当時1本500円だか700円だかで買った記憶がある。

そんな異常に安いペンで、プラスチックとステンレスでできた安物ではあったが、書き味はなかなか実用的ないい感じで、いかにも日本製というコストパフォーマンスの高さだった。スタイルもとにかく小さく、非常にシンプルそのもののデザインで、全く万年筆に見えないところなどもとても気に入っていた。大学時代のある時期には、授業ノートをほとんどこのペンで書いていたこともあった。プラスチック部がグレーの物とブルーの物を持っていたので、インクもそれに合わせて、ブルーブラックではなくブルーとブラックをそれぞれ買って持っていた。困ったことに、それが今も残っている。

パーカーとウォーターマンについてはインクボトルもそれぞれ残っていて、中身もほとんど減っていない。今のペースならあと10年以上は書き続けることができるのではないか。ネットでこんな駄文を打ち散らかしていないで、独りでひっそりと日記帳に万年筆で書き付けたりしていれば、もう少し減りも早いのだろうけれども。

万年筆は、字を書くのに最適な道具ではあるのだけれども、線画を描くこともできる。この点ではパーカーなどのペンは性能が良すぎて、線にあまり濃淡が付かないので面白くない。パイロットの安いペンでかくと、ペン先にインクがだぶつく傾向があり、ラインの最後にインクがどっぷりと残り、ペンを紙から離した付近だけが濃くなるという、いかにも万年筆という線を引くことができる。ペン先が平たくなったペンに薄いインクを吸わせたときのような大げさな濃淡もちょっといやらしいけれども、スケッチならば面白い効果になるときもある。

と、いろいろと計画はあるのだけれども、凝らない性分なのでまた中断してしまうかもしれない。コーヒー豆だけは順調に消化しているけれども、自宅で入れるカプチーノなどはすっかり遠のいてしまったし、前の職場で飲んでいたインスタントコーヒーも、紅茶も、緑茶も中国茶も、飲みかけがたくさんある。パイプ煙草も葉巻も喫みかけがたくさんあるし、本だって雑誌だって読みかけがたくさんある。HDDビデオレコーダには録り貯めたお気に入りの番組が、もう2年分以上未視聴になっている。マイコンボードもFPGAボードもLinuxノートも中途半端にして放ってある。ダイビング道具などは、ちょっともう諦めてしまっている。

非常にだらしがないのだけれども、そういえばまだあれがあったなぁ、などと時折思い出してはほじくり返すと思いのほか楽しいので、これはこれでありがたいことなのかもしれない。とりあえず当面は万年筆という、少しだけ余計な手の掛かる道具を楽しむことにしよう。
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by antonin | 2007-11-28 02:17 | Trackback | Comments(0)

ゆる友

今日は久しぶりに会社関係でない友人と酒を飲んだ。うまかった。

その友人との付き合いは、足掛けでもう15年ほどにもなるが、実際に会って酒を飲んだ機会はそう多くはない。けれども、会って酒を飲みながら話をすると、非常に落ち着く。こういう相手は、私の性格からすると大変珍しい。

彼は頭が良く、おおむね冷静に話をするが、かといって常に冷静沈着でジョークも通じないかというとそうでもなく、なおかつ私が時に見せる激情を華麗にスルーしてしまう。そして、アカデミックな世界で立派な経歴と肩書きを持っているにもかかわらず、そういった「先生」稼業に毒されて偉そうになることもない。

初めて知り合ったときから立派なヤツであったが、若いうちから留学に出てみたり一人で暮らしてみたり、精神的に鍛えられたところがある。そういう部分が私にはなかったので、「いやぁ、お前にそんな経験をさせてくれた親御さんは、実に立派だなぁ」などというひねくれた褒め方をしたこともあった。

歳もほぼ同じで、若い頃にはとことん遊んだけど、最近は日常生活に無理のない範囲で「ゆるく」付き合うのが快適だよな、とか、最近時間が経つのがどんどん早くなるけど、これからどうなるんだろうな、とか、そういう話もできて実に楽しい。ということで、彼は「ゆる友」認定である。

そんな友人であるが、実は視覚障害者でもある。その事実は彼の人生経験にいろいろと影響を与えてはいるとは思うが、上記のもろもろと視覚障害者という属性は、基本的に関係していない。「立派であり、かつ視覚障害者である」というのと、「視覚障害者だが(それにもかかわらず)立派である」というのとでは、意味的に全く違うということが、よく考えてみるとわかる。彼の印象は圧倒的に前者なのである。

普通に愉快で立派な友人が、同時に視覚障害者でもあるので、そうした事情について明に暗に教えてくれるという機会を与えてくれて感謝している。

というわけで、またそのうち飲もう。
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by antonin | 2007-11-27 00:39 | Trackback | Comments(4)

雨ニモ負ケズ

宮沢賢治の日記帳に書かれたというあの散文詩の結びは、「サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」となっている。これは、皆さんそういう人になりましょうね、というお説教では決してなく、そういう風にありたいが、そういう自分ではないという葛藤がおそらくそこにあるのであって、詩文の後ろのページに「南無妙法蓮華経」と書かれているのを見たりすると、一体どのような心情で書かれたのだろうと心を巡らしてしまう。

教育テレビあたりで狂言師が笑顔で言っているのを聞くとムカつくが、原文を自分自身で声に出さずに読むと、夏休みに訪れた土地で、よく手入れされた無人の田畑から渡ってくる風を受けているような気分になる。よくわからない表現ではあるけれども、気分なので仕方がない。

なりたい自分になるという願望は、なにも美しくなりたい女性に限ったものでもないだろう。たとえば町で鈴を鳴らしながら佇む僧侶も、一体どういう経緯があってそこに至ったのかなどに、やはり気を巡らさずにはいられない。どういう人になりたいのかは知らないが、何者かになりたいからこそああしているのだろうと思う。できればわずかな喜捨をして合掌したい気分なのだけれども、街中でなかなかそういうことをする度胸がなく、ひとり心の中で手を合わせて通り過ぎたりする。

聖徳太子が定めたとされる十七条憲法などを読むと、儒書からの引用と思われる言葉に混ざって、三宝を篤く敬え、三宝とは仏法僧なり、などと書かれていて、一万円札の肖像が聖徳太子から福沢諭吉に変わってしまったあたりからこの国は変なことになってしまったのかもしれないと、少しだけ思った。そんなことはないのだろうが。

古来「子は親の鏡」といって、幸いにして二面の鏡を手に入れることができたのだけれども、気難し屋の鏡を覗き込むたびに、いろいろと不安になる。まあ、なるようにしかならないのかな、とは思っているのだけれども。

最近の町内の神社では賽銭箱がカギの掛けられた扉の向こうに置かれていたりする世の中なのだけれども、その投げ銭用の穴から不敬にも中を覗き込むと、お神酒の後ろに祀られた御神体が丸見えであったりする。たいていそれは金属製の丸鏡であったりするのだけれども、古代の中華帝国に朝貢の遣いを発して授けられた宝物の中で、特に鏡をありがたがって御神体としたヤマトびとの心境は、果たして自己の姿を映し出す能力に驚いて神格化したのか、自己を観るという行為そのものに神を見たのか、今となっては知ることができない。

日々鏡を磨きながら、自らを省みて居住まいを正す、サウイフモノニ ワタシハ ナリタイのだけれども、現実は理想から程遠く、まあなんというかヘロヘロなのであります。
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by antonin | 2007-11-25 03:48 | Trackback | Comments(0)

常在ウィルス仮説

生物と無生物のあいだ」という新書を読んで、最初のうちは「文章がうまいなぁ」というような感想しかなかったのだけれども、最近どうも引っかかる部分が出てきた。ウィルスに関する話なのだけれども。そしてあることを思いつき、自分でも非常に驚いた。それが「常在ウィルス仮説」である。あるいは生物学界では常識なのかもしれないが、門外漢が独立に発想したということでご容赦願いたい。

「生物と無生物のあいだ」には、分子生物学に関する基礎的な知識がいくつか描写されていたが、そのうちのいくつかは私の知らないものだった。そのうちのひとつが肺炎双球菌に関するもので、強い病原性を持つS型と、病原性を持たないR型があるという。そして、熱処理によって殺したS型菌を生きているR型菌に混ぜると、R型菌の一部がS型菌に変わり、肺炎を引き起こすようになるのだという。

この現象を本書では「S型菌はたとえ死んでいても、何らかの作用をもたらしR型菌をS型菌に変える能力を持つ」という表現をしている。この表現はDNAの発見以前の、遺伝物質が存在する状況証拠が徐々に明らかになる様子を説明したくだりであるので、物語の主役はDNAであり、これはこれで正しい表現だろうと思う。けれどもここで少し見方を変えると、「R型菌は、たとえ死んだS型菌からでも情報を取り出して利用する能力と持つ」とも言い換えることができる。

人間をはじめ、ミミズなどでもいいのだけれども、口から肛門まで続く、消化管を備えた生物は、他の生物由来の有機物を摂取して、自らの体を構成する有機物を調達する際にも、一度低分子レベルに分解してから再構成するという「無駄」なプロセスを経由しているし、このあたりの状況も本書に書かれている。これは、多種多様で偏りのある高分子材料の単位ではなく、100種類程度の基本的な低分子物質に分解することで、バランスの取りやすい汎用材料を調達するというメリットがあるというのが第一ではあると思う。けれどもそれだけではなく、タンパク質などに含まれている不必要な情報を丁寧に消去して生態内部に取り入れるという、生態情報セキュリティ上の問題も含んでいるように考えていた。

ところが、この双球菌の情報の取り込み方は、細胞の内部と外部を隔てる生態情報ファイヤーウォールの働きとして、あまりにも杜撰なように思えた。ただ死んだ細胞を混ぜただけなのに、生きた細胞の遺伝子が置き換えられてもいいものだろうか。もちろん、原始的な単細胞生物と、高度な多細胞生物では生存戦略が基本的に違うから、この手の違いはあって当然かもしれない。けれども、この点がどうにも心に引っかかっていた。生物は、もっとうまくできているはずだ。そうでなければ、人間が観察できるような旺盛な繁殖はできないはずだ。

そこで話をさらにややこしくするのが、ウィルスの話だ。DNAこそは生命の本質で、その本質とは自己複製能力にあるとされる。けれども、これも本書に書かれているとおり、自己複製能力はDNAの構造だけでは非常に貧弱であり、DNAによって符号化され、RNAを通じて複合化されるタンパク質の一種である酵素によって、積極的に複製や修復のプロセスを伴うことではじめて、人間のような高度な生物の存在が可能となっている。つまり、自己複製子としてのDNAは、DNAを複製したりDNAを復号してアミノ酸からタンパク質を合成するような酵素とセットになっていることが前提となる。

ウィルスの場合、DNAやRNAは存在するが、タンパク質などの系は細胞に侵入するための最小限のものしか持っておらず、DNAなどの遺伝情報の複製に必要な酵素は、そのほとんどを侵入先の細胞から借用する。そしてウィルスに侵入された細胞は、ウィルスを散々複製した挙句に機能不全に陥って死滅してしまう。この段階では、当初とは桁違いの数のウィルスが複製済みということになる。

本書の中でも著者の福岡さんは、「結論を端的にいえば、私は、ウイルスを生物であるとは定義しない」と述べている。けれども、その理由は自己複製に必要なシステムの一部しかもっていないという上記の理由ではなく、ウィルスの自己複製能力を認めた上で、「生命とは自己複製するシステムである、との定義は不十分だと考えるのである」としている。つまり、生命とはもっとダイナミックでなくてはならない、という趣旨であると思う。

根拠は異なるものの、私もウィルスを生命とは考えない。ただ、そうなると、「では何なのだ」という疑問が当然に沸いてくる。ウィルスは生物ではない。しかし、単なる物質ではない。それは一体何なのか。

鳥インフルエンザというのがしばらくマスコミを騒がせていたが、鶏がぐったりして死んでしまうことに何の問題があるのかということが、案外知られていないように思う。生物学や医学に一定の興味のある人なら知っているとは思うが、それは、鳥の間で感染力と病原性を持つウィルスは、わずかな変異で人間に対しても感染力と病原性を持つと考えられているからである。

そして、変異によって人間界に進出したウィルスについては、それに対する免疫力をもっている人間がほぼ存在しないという事情があり、ひとたび感染が始まれば、疫病として世界中に広がると考えられている。第一次世界大戦の最中に流行したインフルエンザである、スペイン風邪などもそうした突然変異種による大流行であると考えられている。鳥インフルエンザは、そうした世界的な疫病の前段階であり、慎重な追跡が必要であると考えられている。

ここで重要なのは、ウィルスは種の壁を越える可能性があるということだろう。世界で最初に構造が解明されたウィルスの名前は「タバコモザイクウィルス」というのだけれども、これは栽培中のタバコの葉がモザイク状に変色してしまう、「タバコモザイク病」という植物の伝染病の病原体として同定されたので、こうした名前になったのだということも、本書に書かれていた。つまり、植物にすらウィルスは存在する。

通常の遺伝では、単細胞生物では細胞が単に分裂して増殖するし、高等生物では同種の個体間で減数分裂した配偶子を出し合って胞子や受精卵を作り、次の代に遺伝情報を遺伝する。このプロセスでは、限られた種の中でしか、遺伝情報を伝えることができない。これに対して、ウィルスは、同種間での感染がほとんどではあるらしいのだけれども、必ずしもそれには限定されないようでもあるらしい。

ここで、「病原性」とは何だろうということを考えてみたい。私たちの消化管、わかりやすくいえば腸の中には、通常でも総重量にしてキログラム単位の常在菌が住んでいるのだという。たいていは役に立たない居候であり、一部は人間の食物の消化を助ける有益菌であり、ときどき毒を撒き散らす菌が入ってくると人間は病気になる。そういう悪さをする菌に限って「病原菌」と呼び、そういう性質を特に「病原性」と呼ぶ。

微生物が研究される動機は、ひとつは医学的な興味であり、これは当然に病原菌に限定される。病気の発生というわかりやすい現象を観察して区別しやすいという事情もあるだろう。もうひとつの動機は、純粋に分子生物学的な興味だろう。ここでは、特に人間や動物の体内環境との関係性を問われることは少なく、ある条件で数が増えたとか減ったとか、形がどうとか中身がどうとかということを専ら研究される。

こういう学問の視野から半ば外れたところに常在菌がいるが、最近は病原菌を駆逐する勢力という意味で、常在菌が少しずつ注目され始めている。ところで、細菌学より歴史の浅いウィルス学では、どのような事情になっているだろうか。私は実際のウィルス学の状況を全く知らないのだけれども、細菌学の歴史をそのままなぞっていると仮定すれば、今はまだ病原性のウィルスや、その機構の純粋な研究の範疇にとどまっていると考えるほうが妥当だろう。

だとすれば、ウィルスにも、ただ増殖はするが無害であるという、人知れず感染と増殖を繰り返している、常在ウィルスというものがあってもいいのではないだろうか。今では、「あってもいいのではないか」という以上の確信を持って、そういうものがあるはずだと思い始めている。

なぜなら、ウィルスによって生命を脅かされるような目に遭っている高等生物が、なぜ単純な酵素でウィルスのDNA, RNAによる侵入を許してしまうのか。なぜR型菌はS型菌の遺伝情報を取り込んで利用してしまうのか。そこには、生命を脅かすような遺伝情報を持ったウィルスもあるが、そうではないような遺伝情報を持ったウィルスもまた存在するからなのではないか。

すでに述べたように、通常の繁殖プロセスでの遺伝情報のやり取りというのは、非常に限定的なものでしかない。そして、高等生物の寿命は非常に長い。本当に高等生物は、数ヶ月から数年に一度の遺伝情報交換だけで、高度な生命活動を維持しているのだろうか。遺伝による遺伝情報の伝達が静的(static)な情報交換だとすれば、体細胞の一部の遺伝情報だけを置き換えるウィルスは、動的(dynamic)な情報交換なのではないか。DNAによる「プロセス間通信」なのではないか。そのような便利なツールが存在するとすれば、生命がそれを利用していないと考えるほうに無理があるように思う。

これに加えて、ウィルスには通信に有利な特徴があまりにも多い。ひとつに、ウィルスは死なない。それは単なる物質であり、しかもすぐさま乾燥してしまい、遺伝情報が壊れにくい。DNAやRNAの断片は、丁寧にも結晶質の殻に包まれている。そしてウィルスはあまりにも小さく、風に乗ってどこまでも飛んでいく。そして時には生物種の壁も越えるから、渡り鳥の体内に仮の宿を借りて、海を越えて大陸を渡ってから繁殖することもできる。

これらの特徴から大胆に想像を膨らませば、日本人の体細胞は、渡り鳥を通じてシベリアのモンゴル人と年に一往復のウィルス通信をしている可能性もあることになる。そして、そうしたウィルスは「つつがなく」遺伝子の組み込みと自己複製を完了することができ、結果的に人間の意識には気付かれない「常在ウィルス」として活躍していると仮定できる。それならば、鳥と人間のウィルスの間に、ある程度の「互換性」があっても、なんら不思議ではないことになる。

ここで「コンピュータウィルス」の話を少し考えてみる。現代のいわゆる「ウィルス」は多様化しすぎて本物のウィルスとのアナロジーは崩壊してしまっているが、初期のプログラムコードに自己複製のためだけのコードを埋め込むタイプのプログラムは、寄生先のプログラムの機能を自己複製の前提としており、まさにウィルスと同じようなシステムとなっていた。

そうしたコンピュータウィルスは、当初は純粋に技術的な好奇心と、ちょっとしたいたずら心で作られていたため、自己複製するという以上の機能を持っていなかった。そして、期待外れにたいして増殖しなかったものもあれば、適度に増殖しつつ、誰にも気付かれないようなものもあった。しかし、一部のコンピュータウィルスは、貪欲に増殖しすぎたか、増殖に使うプロセスにエラー回避などの安全機能が省かれていたために、自己複製の「副作用として」寄生先のシステムに損害を与えることがあった。これは、病原性のコンピュータウィルスと考えることができる。

この、徐々に機能面で進化したコンピュータウィルスが、「副作用としての病原性」をまず最初に備えたという事実は、非常に興味深い考察材料となる。つまり、何か目的があって進化したわけではないウィルスにとって、病原性とはあくまでも「副作用」であったのではないか。もちろん今日ではそれに限られない可能性はある。それはそれとしても、「副作用のないウィルス」というものも、ひょっとしたら存在するのではないか。そしてもしかすると、「副作用のないウィルス」あるいは「副作用の少ないウィルス」は、インフルエンザのような病原性を持つウィルスより多数を占めるのではないか。そしてその先にある予想として、「病原性だけではなく、生体にとって有益性のあるウィルスも存在するのではないか」ということも考えられる。

ウィルスは、人類と独立した生物でも、単に自然界に存在する有害物質でもなく、人類のような高機能生命体が自らの必要によって作り出した、特殊な情報交換装置なのではないか。きわめて精巧にできた、ボトルメールなのではないか。ときどき怪文書が出回り被害を受けるが、本来はもっと有益な使われ方をしているのではないか。そして、ウィルスを受け入れるのは細胞側にあらかじめ組み込まれた基本機能のひとつなのではないか。そういう、本来高等生物が放出した情報交換装置だからこそ、生物的な技術を駆使しながらも単独では生物たり得ないのではないか。

こう考えれば、ウィルスにまつわるさまざまな不思議に、より納得できる説明が付くように思うが、どうか。ざっくばらんに言ってしまえば、「人間は、理由があって風邪をひいている」ということになる。

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こういう妄想を寝床で考え始めてしまって、BLOGに書き残すまでは眠れないという性分は困ったものだ。そしてそれが仕事に全く関係しないとなれば、なおさらのことだろう。もう寝よう。
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by antonin | 2007-11-24 01:42 | Trackback | Comments(10)

天界の音楽

三平方の定理で有名なピタゴラスは、その教えを門下の弟子の間だけの秘密としたという。これはギリシャ古来の秘儀を伴う宗教を背景としており、幾何学を極めた領域に世界の神秘を見出すというピタゴラスの一派は、ピタゴラス学派とも、あるいはピタゴラス教団とも呼ばれる。

こうした、神秘主義的な数学的世界観は、キリスト教の全盛期には異教の教義としてすっかりヨーロッパから消滅してしまったが、それを部分的に受け継いでいたイスラム社会との接触を基点として、ルネサンス以降のヨーロッパでは再びそうした考え方が見られるようになった。ケプラーの3法則を見出したヨハネス・ケプラーにも、先代の天文台長ティコ・ブラーエが書き残した惑星運行の無機質な観測データからあの美しい法則を見出した背景に、天界にはオクターブの音階と同じ「調和」が存在するはずだというインスピレーションがあったのだという。

バッハの有名な曲に「平均律クラヴィーア曲集」というものがあるけれども、現在作曲されるほとんどの曲の演奏に用いられている平均律が、鍵盤楽器の調律に使われ始めたのがこの曲集が作曲された時期に重なるのだという。では、それ以前は平均律ではない調律法が使われていたということで、それが何なのか、学生時代には知らなかった。もう8年ほど前になるけれども、友人の家で何気なく放送大学のテレビ放送を眺めていたら、ちょうどそのような内容の講義が放送されていた。

その放送の中で、唯一耳に残った「ウルフの音階」という言葉を検索してみると、次のページに行き当たった。

岡部 洋一 のトップページ」より「音階

なんとなく見覚えのあるような内容である。この岡部洋一さんは音楽の専門家かというとそうではなく、トップページのほうの出版目録などを見ると電子情報系の専門家であるらしい。「スキーの科学」「ハイキングの科学」などの著作もあり、なかなか楽しそうな先生だ。

この資料などを読むと、調律法に関する理論付けの起源はピタゴラスにあるらしい。もちろん、文書として残されている最古のものがピタゴラス教団の理論だというだけであって、調律法自体ははるかに昔から存在していたのだろう。けれども、そこに弦の長さの幾何学を導入して、音楽のような芸術の女神の領域にまで幾何学が適用できるという神秘を発見したのが、ピタゴラスをして幾何学に神を見せたのだろう。ルネサンス以降のヨーロッパでも、神がコンパスで天地を創造する「数学者としての神」という図像も描かれているという。

ところでピタゴラスの調律やその後進化を遂げた純正律などでは、特定の音階は非常にきれいな整数比の和音で調和するのに対し、それ以外の音階では平均律の不協和音よりひどく濁り、結果的に作曲法は非常に制約を受けたらしい。それが平均律の登場により、より作曲の自由度が増して今日に至ったのだという。

一方で平均律はどの音階もある程度きれいに調和する代わりに、どの二音も完全には調和しない。それがうなりを生じて、結果的には美しい響きに貢献するものの、完全な整数比で調和するピタゴラスの調律や、より自由度が高いながらも比較的単純な整数比の音階が得られる純正律などで調整された楽器による演奏にも、独特の美しさがあるのだという。平均律の普及以前に作曲された音楽については、本来こうした調律で演奏されるべきだという意見もある。

最近国内のあちこちにカリヨンと呼ばれる、西洋の釣鐘を組み合わせた固定楽器が設置されているが、あれを使って現代曲を演奏すると、妙な濁りのある和音を響かせることが多い。それはそれで普段聞きなれない音であって味わい深いのだけれども、おそらくそれは平均律以外の調律法で調整されているのだろう。カリヨンが調律を受けている、本来の音階に適した曲を演奏したならば、いったいどのような音楽になるのだろう。

ヴァイオリンなどのフレットを持たない弦楽器では、調律は演奏者の耳に依存するので、平均律で訓練された演奏者は平均律以外の調律で演奏するのは難しいと思うけれども、逆に言えば慣れさえすればどのような調律も指を置く位置しだいでいくらでも変更可能なはずで、そうした芸当が可能な演奏者もヨーロッパ辺りにはやはりいるのだろうか。


ローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したとき、それまでアナトリア地方などで文字通り地下に潜って暮らすなどしてきた初期キリスト教が、ローマ帝国の版図に広がるにつれ地域ごとに分裂を始めた。そうしてローマ正統派から距離を置いた一部の宗派はまだ北アフリカなどに現存しており、そういった地域で歌われる聖歌は、ドイツあたりの教会で歌われる聖歌などよりは、むしろアラビアやペルシアなどで朗詠されるイスラム教のアザーンなどに近い響きを持っているのを聴いて、不思議なものだと思った。

この相似は、イスラム教勢力の拡大以降、少数派として生きることになったキリスト教の聖歌が、イスラム教音楽の影響を受けて変遷したものとも言われているが、純正律や平均律のように理論的な研究が無い限りは、音楽というものは変化しにくいもののように思う。むしろ、地域的に見てどちらも地中海東岸に端を発する初期キリスト教と初期イスラム教が、古代のギリシアやペルシアなどに由来する、同じ調律によってそれぞれの宗教音楽を編み出したものと見るのが妥当であるように思う。

ピタゴラスは芸術に幾何学という理論を適用することで在来の常識を破ったけれども、工学理論全盛の時代に生きる人間にとっては、芸術分野であっても平均律という強力な理論にすっかり浸って暮らしているから、そうした強力な理論が生まれる以前の非力な理論を知ることで、かえって視野が広がる。現代人に求められるのは、案外に「天動説的転回」とでも言えるような発想なのかもしれない。

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今日の漂着地:"Chakuwiki"より「インド

インドア大陸」を検索していて漂着。
もちろんこれは「インド亜大陸」の誤変換なのだけれども、検索の上位に本気の誤変換が多く並んでいて戸惑う。Windows VistaのIMEには「亜大陸」という単語があるので問題ないが、そういえばXP標準のIMEでは変換できなかったかもしれない。

かつてのIMEは「貴社の記者は汽車で帰社した」を一発変換するように学習させると、助詞である「の」「は」「で」と組にして学習していたため、入力中の頻出単語でも続く助詞が変わると第一候補から転落してしまうという変な癖があったが、VistaのIMEではそのあたりが改善しているようだ。「貴社の記者は汽車で帰社した」などは一発変換であるが、文節単独では「貴社は」「貴社で」と変換されることから「貴社」が第一候補として使われており、「きしゃさん」「きしゃのはなし」などは「記者さん」「記者の話」となることから、より高度な推論規則が追加されているのだろう。「貴社が走る」はちょっとお馬鹿だけれども、これくらいでちょうどいいのかもしれない。
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by antonin | 2007-11-21 02:09 | Trackback | Comments(0)

BLOGから書籍化

安敦誌からもリンクを張っているBLOG、「ワンニャン物語プラス・アルファ」から「刑務所を考える」というテーマで書かれた連載が書籍化されたそうです。

「懲役」と「担当さん」の365日―刑務所心理職員の見た異次元世界 小澤 禧一 著

厳罰主義が吹き荒れる現代日本ですが、実地に即した現場の視点で書かれた、非常に濃密な考察です。私は通勤電車の中で始めから通して読みたいのと、身内に似たような職業に就いている者があるので機会があれば読んでほしいということもあって、書籍を購入したいと思います。

BLOGからの出版などは書籍の濫造という批判も受けていますが、玉石混淆の層の厚みの中からこそ、こういった地味だけれども価値の高い文章が出版物として生まれてくるのだと思います。私の場合書籍の体裁にはこだわりませんが、将来こういった文章が書けるような歳のとり方をしたいと思います。
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by antonin | 2007-11-20 23:43 | Trackback | Comments(2)

来年の手帳

私はあまり手帳というものを活用しないので、今までは取引先からのもらい物で済ませていた。けれども職場が変わって来年はそうした入り物も無くなりそうな気配なので、久々に手帳を物色している。もちろん、機能重視の手帳なんぞを買っても、どうせ使いやしないのだから、どうせなら面白いものが良い。

というわけで数例。

地人書館:天文手帳 星座早見盤付天文ポケット年鑑

リアル中2の頃に使っていたこともある、中2病心理を精密に突く逸品。天文定数などが書いてあって面白かった。表紙裏に正座早見盤が付いているのは今も変わらないらしい。日々のスケジュール欄には、精密な月齢や惑星の衝や食などの天文イベントが発生する日時が記載してある。天体観察などはしないので別にどうでもいい情報ではあるのだが、なんとなく星空を眺めるのが楽しくなるのは確か。


吉川弘文館 歴史手帳

天文手帳とはかなり方向性は異なるが、性格としてはよく似ているように思う。こちらのほうが一見して大人が持っていてもおかしくないデザインになっているのはポイントが高い。仏像の見方などといった一部で流行の題材も扱われているようだ。江戸期の年号などは少し覚えてみたい。


文庫手帳 (ちくま文庫)

「ちくま文庫 ん1-21」という、作家イニシャル「ん」という文庫ナンバーが振られているあたりが、なかなかにマニアごころをくすぐるが、中身の方はどうなんでしょう。「予定を書くつもりが、ついつい余計なページを読み始めてしまって・・・」という餌がないと、結局持ち運ぶことすらしなくなる予感が。個人的には書籍に書き込みをするというのが大嫌いなので、文庫の紙質で手帳を作られると、まっさらなままで一年終わってしまいそう。


蛇足だけれども、世間で人気のアノ手帳だけは絶対に買わないだろう。手帳もサイトも元締も、全部苦手。デイリーポータルZあたりで手帳出してくれればいいのに。ふざけたやつ。
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by antonin | 2007-11-16 01:35 | Trackback | Comments(2)

雑記

もう10日ほど前になるけれども、久しぶりにパイプでタバコを吸った。

過去にタバコを乾燥させてしまい、その際には非常にマズい煙を吸うことになってしまったので、その後100円ショップで買った小さいなおかず用のタッパーに入れてタバコ葉を保存することにした。その当時は100円ショップ通いに凝っていて、やはり100円で購入した霧吹きを使ってタバコに水分を与えてみた。どういった水を与えるかちょっと迷ったのだけれども、普通に水道水を吹きかけてみた。栃木県の比較的きれいな水道水だったし、水分が馴染むまでの間に雑菌が繁殖したりしても嫌なので、ある程度の塩素はむしろ良い方向に働くだろうという考えからだった。結果としては良い選択だったようだ。

紙巻タバコの葉は非常に乾燥しているが、あれはそういうものなので仕方が無い。それでも以前は気が向くとときどき吸っていたが、今は喫煙の機会そのものが減っているので、紙巻タバコの出番は無くなってしまった。税金が上がる前に買ったセブンスターが一箱半(カートンではなく20本入りので)残っている。フィルターを切り落としてキセルで吸ったりすると、案外に味わいがある。葉を湿らせてみるとどういう味に変わるのか、少しだけ興味がある。

話を戻すと、先日パイプを吸ったのはベランダだったのだけれども、ムスメがそれを珍しがって、結局最後まで一緒にベランダでパイプ喫煙の「実演」を見物していた。結局1時間くらいはベランダにいたような気がする。ムスメはそれが気に入ったのか、翌週もパイプを吸って見せろと言っていたが、あまり体調が良くないので断った。今週末くらいにはまた吸ってみようか。

そういえば、火を消さずに最後まで吸いきることもできるようになったし、火を消すまいとして風を送りすぎて舌を薬傷するほどの濃い煙を吸うこともなくなった。パイプ本体が異常に熱を持つこともなくなった。いくらかパイプ喫煙が上達してきたか。もっとも、葉の水分が飛ばないように密閉保存できるようになった効果のほうが、喫煙技術の寄与より大きいような気はしているけれども。趣味に道具は重要なんです。それが100円ショップで買えるようなものであっても。

収入が上向いてきたらブライヤーパイプでも1本買ってみようか。喫煙パイプというと高級そうだけれども、変に凝ったものでなければ1万円以下で買えるし、コレクション趣味にさえ走らなければ、私の喫煙頻度であれば1本を一生使い続けることができる。形はシンプルなほどいいのだけれども、ベントタイプのほうが長く口にするのに若干優しいように思うので、おそらくこちらになると思う。ストレートタイプの端正な姿にも魅力を感じるのではあるけれども。


「嫌煙」も「嫌嫌煙」もあまりにやかましくて疎ましいのだけれども、どんな趣味も他人に嫌われないに越したことはない。煙草に限らずどんな趣味であっても他人に嫌われるやり方というのはありうるわけで、喫煙は現に嫌われているのだということを十分認識した上で、態度を改めて趣味として再評価されるといいと思う。

煙草というものは、極論するとニコチンの血中濃度を高めてアセチルコリン類似の神経物質としての作用を引き起こすのが目的で吸うものなのだろう。ただ、高頻度で長く喫煙を続けていると、アセチルコリンの自然な分泌が低下して、ニコチンに対する依存状態になるとも言われていて、これは難しい問題だと思う。覚醒剤のように常用すると統合失調症類似の幻覚が現れるといった致命的な害は無いものの、最も原始的な麻薬であることは間違いが無い。

もちろん1ヶ月に1度あるかないかというような喫煙では依存状態になる心配は無いし、パイプ煙草の強力な煙は肺に入れず、せいぜいときどき鼻に通す程度なので、肺がんの心配も無い。逆に言うとニコチンの作用というと毛細血管の収斂による軽いめまい程度しかなく、神経作用物質を補給したというようなメリットをあまり感じない。現状ではあくまで味や香りといった刺激を楽しむという程度にしかなっていない。喫煙者からも、何か喫煙のメリットに関する考察が出てもいいように思うのだけれども。

パイプの煙をくゆらしながら読書ができるくらいに自然な喫煙ができるようになれば、あるいは精神面でのメリットが見つかるのかもしれない。それまでに煙草が全面禁止になったりしていないといいな、と思う。
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by antonin | 2007-11-14 01:48 | Trackback | Comments(0)

書籍往来

最近読み終えた本。

算法少女 (ちくま学芸文庫): 遠藤 寛子 著

これは素晴らしかった。復刊要望は専ら数学の先生から出ていたようだけれども、文理を問わず楽しめるはず。そして老若を問わず楽しめるはず。算術にしてもなんにしても、楽しいから学ぶのだという原点を持つというのがひとつ。それに加えて、ただ楽しむためだけにあるのが学問ではないのだというのがもうひとつ。当たり前のようだけれども、なかなかそれが実感できない現代にあって、非常に強く訴えかけるものがありました。


生物と無生物のあいだ (講談社現代新書): 福岡 伸一 著

出張先の待ち合わせ時間に立ち寄った書店で、平積みになっていたのをなんとなく購入。あとで調べてみると、かなりの売れ筋らしい。複雑系に関するハードな内容かと思ったらそうではなかった。純粋に分子生物学の研究者の自叙伝的エッセイだったのだけれども、なんだか過剰に文章がうまい。これは参った。しかも先端研究を実際にこなす一流の学者でもあるようだから、さらに参った。

内容については確かにAmazonでの批判も当たっているとは思う。出版業界誌の連載をまとめたものと言うこともあって、分子生物学については専門的でも先進的でもない内容だし、分子生物学以外の分野に関する記述には正確でなかったり過小評価していたりする部分は確かに認められる。しかしなんというか、そんなことは抜きにして名著だ。生物の物理と神秘は確かに表現されているし、なんと言ってもその表現は一流だ。参った。

ただ、自称文系の人は理系向けだと言っているし、自称理系の人は文系向けだと評しているのがちょっと微妙な位置付け。


レアメタル・パニック Rare Metal Panic (光文社ペーパーバックス): 中村 繁夫 著

この本も読み応えがあった。現在の先端技術は多様な稀少元素が必要なのも知っていたし、それらが埋蔵資源としては偏在しているということも知っていた。けれども、そんな通り一遍の知識を大きく凌駕する現場のリアリティを感じる内容。この本も貴重な資料として使えるのと同時に破天荒な著者の一代記として読めるあたりが秀逸。

「アーバン・マイン」あたりの発想は今後ますます重要になるでしょうね。RHoS指令は、理念としては良かったが、鉛をリストに入れてしまったのはちょっと失敗だと思う。今からでも遅くはないので、鉛の使用を解禁して、代わりに環境へのエミッションを規制するように修正すべし。水銀にしても、金属水銀とアマルガムと有機水銀の区別をしないような元素含有規制はちょっと荒削りすぎる。鉛は安くて性能も良くて、半田合金などは錫の資源化という意味も含めてリサイクルシステムを整備したほうがトータルでの環境汚染なども防げるのに、今の流れはなんとかならないものか。


そして、先日もらった図書カードで購入した2冊。


数学ガール: 結城 浩 著

これは未読。ちょっと紙の質が悪く、湿気を吸って早くも歪んでいる。まあいいか。


日本人をつくった教育―寺子屋・私塾・藩校 (日本を知る): 沖田 行司 著

明治期の日本は確かに優れていたが、それは結局のところ江戸期の日本の遺産だったように思う。昭和にもその残照があってほどほどにうまくいっていたが、日本の「伝統」とか「保守」とかを考えるときに、明治政府が採用した国学的な歴史観では説明しきれない部分が多くて、まずは江戸期を知る必要があると思い、購入。「算法少女」の影響ももちろんあるのだけれども、やはりたまたま手に取ったこの本を読んだ影響が大きい。杉浦日向子さんの作品を読もうと思ったのもこれを読んでから。

今回購入した本も非常に興味深い内容で、日本の教育史をなぞりながら、明治政府が学校制度を敷く以前の教育の特徴が広い視野で述べられる。本書の中に寛政元年(1789)に刊行された木版本にあるという「させる才力なくても童幼の師となる程の覚えあれば、其処に据え置きて、村里賤民まで物学びさせたる事なりし。已後世に村学蒙師と称するもの之なり。今の寺子屋と云もの此の類なり」という言葉があり、これを読むとますます寺子屋のようなものを営んでみたいという気持ちを強くした。

現在の学校に置き換わる存在ではなく、私設の学童保育所を形態として、ただ遊ばせるのではなく、落ち着いて学校の宿題をしたり、わからないところは質問でき、また特に興味のあるものがあれば進んで学んでみたり、あるいは騒いでみたり静かにしてみたり、ときどきつまみ食いなどしてみたり、そういうことが存分にできる場を提供できたらと思う。そうすると昼はこちらにとって空き時間となるから、そこで別に「本業」を持てば、寺子屋事業で多くの金銭を求める必要もなくなるように思う。

「教わる」ではなく、主体的に「学ぶ」という点を重視したい。わからなかったことがわかるようになるということは、誰にとっても楽しいことだし、その気持ちを学校に持ち帰れば、ただ押し付けられた学問より、一層多くを学べるように思う。そしてその学問はただの通過儀礼ではなく、いつかどこかで役立てなければいけないということも知っていて欲しい。

実際に学ぶのは、各人の個性興味によって、学校の科目と同じ分野でもいいし、外国語でもいいし、経済学や法学の基礎などもあっていいだろう。理科でも一般に科学と呼ばれる理学分野だけでなく、機械・電気・情報・医療生命などの工学分野の初歩が学べてもいいのではないかと思う。簡単な製図や電子回路の組み立て、顕微鏡観察、Full BASICドリトルなどのプログラミング言語などにも接することができれば、きっと面白いと思う子供もあるだろう。上記ならなんとかなるが、スポーツや芸術分野については優れた師に付いたほうがいいだろうから、これはどこかでボランティアを募ることになるのではないか。

もちろんただ楽しければいいというものではなく、基本的な躾や倫理的な部分も指導できなくてはならないが、「自分との付き合い方」がわかればあとはなんとかなるし、それ以上の部分については現代では不確定要素が大きすぎるから、あまり堅いことを言わないほうがいいだろう。究極的には子供が「楽しい」と感じることに尽きるように思う。楽しいことなら、たとえ大人が止めても子供たちは学ぼうとするはずだ。

一方で実際にこれを提供するというのは、そうした寺子屋授業を受けていない身にはやはり難しい。結局のところ、どこかで自分自身が学んでこなければ、実際に将来ある他人様の子供を預かることはできない。「文字による学問」だけでは不十分であることはデカルトも言っているし、確かにそのとおりだと思う。

自分自身の未熟もあるし、不惑までに実現しなくてもかまわないが、あまり余命が短くなる前に果たしておきたいという欲もある。論語にも「子曰 年四十而見惡焉 其終也已」という節があり、一般には「とし四十にして悪(にく)まるるは」という訳が付いているけれども、もっと素直に読むなら、「四十歳にもなって見どころが無い、そんなやつはもう終わってるね」というような感じになるように思う。5年後の目標の一つとして、この道は考えに入れておきたい。

とまぁ妄想は広がるのだけれども、果たしてどうなることやら。とりあえず法規制くらいはクリアするようなシステムを作りたい。対象はあくまで目の届く人数で。「本業」をどうするかというほうが大問題ではあるのだけれども。なんだかんだと言って、ローンの返済が最優先課題であったりして、現実はいつの世も厳しい。
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by antonin | 2007-11-10 04:51 | Trackback | Comments(2)


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