安敦誌


つまらない話など
by antonin
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おーら

自戒録 by hito von Frizburg : 【かなり】 オラオーラ 【しょぼい】

より。
やってみました。

オラオーラ

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ま、そんなところですかね。

ついでにやってみた。

おしゃれタトゥー

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「あじたま」と読むべきか「ミギョク」と読むべきか、はたまた「またじあ」と読むべきか。
個人的には「あじたま」が好き。あじたまにあ~な。
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by antonin | 2007-12-28 23:44 | Trackback(1) | Comments(3)

屈折率

光やら電磁波やらを透過するものには、屈折率というものがある。

屈折率が高いということは、光の速度が遅いということと同じである。

光の速度は常に一定だが、それは真空中の話であって、物質中ではそうではない。

屈折率の高い物質は誘電率と透磁率の積が大きい。

すると光の速度が落ち、屈折率の変わり目では光が屈折する。

人間にも屈折率はあるだろうか。

屈折率の高い人間を通過する情報は、速度が遅くなる。

屈折率の高い人間は、情報について考えたり影響を受けたりする傾向が高い。

すると情報の通過速度が落ち、屈折率の高い人間を通過する情報は屈折する。

屈折率の低い人間は、情報に流されやすく見えるが、実は情報を軽く受け流している。

そんな屈折率の低い社会を流れてきた情報が、屈折率の高い人間に当たって屈折する。

屈折した情報は、散乱されて拡散して霧散する。

ただ、屈折率の高い物質を磨き上げてレンズにすれば、その先に光は像を結ぶ。

屈折率の高い人間も、珠のように磨き上げれば、やはりその先に情報の像を結ぶだろうか。

何かグダグダと情報を透過しているが、それが意味を持つには磨き方が重要なのか。

などとブツブツと考えていると、ますます屈折率が上がっていく。
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by antonin | 2007-12-28 02:49 | Trackback | Comments(5)

明るい未来

基本的に、未来というものに希望を持っていない。けれども、基本的に未来というのはそれほど絶望的なものでもないという感覚もどこかにある。

キリスト教の初期には、救済者イエスの登場以降世界に終末が訪れ、全ての人間は生前の善悪に応じて神によって裁かれるという終末思想があったという。いわゆる「最後の審判」であるが、これは現在もまだ訪れていない。現代のキリスト教徒はこれをあまり気にしていないようであるが、イエス処刑の記憶もまだ生々しかった時代には、最後の審判がなかなか訪れないという「終末遅延問題」が、無視できない大問題であったという。

初期のキリスト教徒は、伝統的なユダヤ教徒からも、国家システムの支配者であるローマ帝国からも受け入れられない部分を多分に持っていたので、自分たちは正しく、まもなく神による裁きが自分たちの正しさを証明してくれるという願望を抱いていたのだろう。しかしそうした終末は訪れない。将来に対する漠然とした不安の中で、初期のキリスト教信者は暮らしていたのだろう。

ところが、個人の生涯というレベルに比べれば長い時間が必要とされたものの、最終的にキリスト教はローマ帝国によって公認され、次いで国教に指定され、ついにはヨーロッパ世界全土に広まり、本家ユダヤ教を凌ぐ勢力となって今日に至る。最後の審判はなかったが、これは決して悪くない「将来」像といえるだろう。

現在の日本や地球から読み取れる科学的なデータは、あまり楽観的な将来を予想させないものの、それを乗り切るような人類の知恵、ないしは火事場の馬鹿力のようなものが発揮されるであろうことも、歴史を見ればある程度の確度で予想される。

未来は決して明るくないが、期待しないで待っていれば、それほど悪くない未来がやってくる確率は決して低くない。同じ未来が到来しても、期待しすぎるよりは期待しすぎないほうが、心理的には平穏なものになるのが人間の脳の生理なので、陰鬱になって思考回路が回らなくなってしまわない程度には、控えめな将来予測の中で生きるのがいいのだろう。

今日のメモ:
未来に待っている“ひもじさ” / SAFETY JAPAN [書評] / 日経BP社
(読者登録しないと表示されないかもしれません)

未来を予測する現状データは厳しい。が、悲観論と楽観論の間に答えがある可能性は常に高い。来年も今年程度に良い年でありますように。
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by antonin | 2007-12-25 10:09 | Trackback | Comments(5)

携帯電話とか

こんな事情や、今日もAmazonの配送状況を確認しようと思ってサイトにアクセスすると、携帯サイトを画像なしで読み込んだにもかかわらず「容量オーバー」で読み込みが中断してしまうなどという末期的な状況もあって、今日、子守をしながらいろいろと資料を読んで検討してみた。結論として、N905iμを来年の春に購入するということでほぼ決定した。

この機種の最大の売り文句とされている「エレガントなデザイン」とかそのあたりは比較的どうでもいいのだけれども、カーナビ代わりとは言わないまでも、紙地図の補完機能としてGPSは欲しい。そしてワンセグテレビ受信は不要、重量は100g以内に抑えたいというと、これが唯一の解だった。そして、一番気になっていたT9入力もサポートされているらしく、また英文でもT9を利用可能(というか本来こちらが元祖なのだが)ということで、機種選定としては決定的になった。

最近のNTT DoCoMoの奇々怪々な戦略には不快感を持っていたので、そもそもDoCoMoとの契約を継続すべきかどうかというレベルからも検討してみたが、キャリア移転の場合の手続きの面倒さに見合うほどのメリットもないということで、DoCoMoでの機種変更ということで落ち着いた。旧機種なども検討してみたが、時期的にソフトバンクショックの頃に開発された機種は間に合わせ的な完成度の低さが目立ち、結局905i世代のほうが良いということになった。

905i世代ということでは、来年に発売される予定の705iシリーズのスペックやデザインもすでに発表されているが、機能的にアンバランスな部分が目立ち、よほどのコストメリットがない限りはこちらを選択することはないだろう。そもそも新料金プランでは分割払いがメインとなっているので、「持ち帰り0円」を越えるインパクトはあまり出しにくい。個人的にはどうせ現金払いかカード決済で購入することになると思うのだけれども、コスト基準がはっきりするようになって買いやすくはなったと思う。

今度の料金プランではNTT DoCoMoからの価格引き締めが強いらしく、また現状では端末の出荷数量をかなり絞っているという情報もあって、店舗による価格の差は出にくいらしい。このあたり、独占的卸売業者による店頭販売価格の拘束ということになり、ちょっと法的にどうなの、という疑問も出ている。ともかく、おそらく705iシリーズが発売されて冬モデルの目新しさが抜けた頃には、905iシリーズの販売価格も少なくとも現金販売に関しては多少軟化してくるだろうから、年度変わり商戦の流れなどを見て購入時期を決めればいい。もう4年も待ったのだから、いまさら買い替えを急ぐ理由は何もない。

ただ、ひとつだけ気に障っているのが「mova→FOMA切り替え」と「現有機種利用期間24ヶ月以上」というふたつの割引条項が、新料金プランでは事実上無効になっていること。私はこのどちらにも該当する。新機種の販売では、12ヶ月以上の機種利用期間があれば割引額は一律になってしまっている。これを避けるためには、904i世代までの機種を購入し、旧料金プランを適用する必要がある。

そうなると、GPS搭載で113gのN904iあたりも選択肢には入ってくるのだけれども、なんだかいまひとつ魅力を感じない。些細なことではあるのだけれども、VGAフォントが利用できないモードが残されているなど、気になる情報がある。そういう感覚的な部分というのは案外重要だと思う。でなければT9入力などでNEC端末に縛られるなどということも無かっただろう。

DoCoMoの新料金プランである「バリュープラン」では基本料が1600+消費税だけ割引されるのだけれども、ややこしいことに「いちねん割引」等の基本料割引によって、この割引自身も割引されてしまう。基本料半額の状態ではバリュープランの「バリュー」も半分になるので、実際には毎月800+消費税分の割引にしかならない。それでもこれを2年間適用するとすれば¥19,200になり、これに加えて最大3ヶ月間の基本料が無料になるから、SSプランの場合は¥3,000弱が加算されて、¥22,000程度のコストメリットになる。実際には2年よりも長く使用することになるだろうから、N905iμの実質購入コストは¥25,000程度ということになる。これより極端に安くなければ、古い機種を旧料金プランで購入するメリットはないということになる。

元々この「バリュープラン」という、ソフトバンクの価格・料金プランを真似た方式は、機種を長く使う人と頻繫に買い換える人の不公平感を解消するのが目的ということにはなっていた。しかし、一般的には端末を頻繁に買い替えるような人は携帯電話のヘビーユーザーでもある傾向にあり、毎月の利用料金の平均も高い。なので、私のように安い機種を長年使い続けるユーザーであっても、各種割引を最大限に利用し、なおかつ変動費の安いパケットではなく高い従量コストの発生する他社への通話などを無料通話の範囲内で多用するユーザーは、キャリアにとって決して「おいしい」顧客とは言えない。

ただ、利用者拡大期の名残で新規加入者の端末購入代金が異常に安く抑えられており、これを利用して買い替えのたびにキャリアを移り変わるようなユーザーの端末購入コストまで継続利用者が負担していたというのは、確かに問題があった。新料金プランではこの手の格差は全廃されたので、これに限っては良いことだと思う。

どちらにしても確かなのは、携帯電話が文字通り日進月歩で進化し、半年ごとに端末の機能が劇的に進化した時代は間もなく終わるということだろう。それに加えて、携帯電話の国内契約総数もまだ純増しているとはいえ、その勢いはすでに終息している。となると、我が家から最寄の駅前にも、歩いて2分ほどの範囲に4件もの携帯電話販売専業店に加えて各キャリアのサービスショップがひしめいているが、そういう時代も間もなく終わるということになる。

どこの駅前も似たような状況だろうから、これからそうした小規模な携帯電話端末販売専業店舗は地区あたり1,2軒に集約され、駅前に狭小店舗の空きが数多く発生するだろう。そうした中途半端な不動産資源の再利用の問題も含め、専業店主のスムーズな転業をサポートできれば大きなビジネスになるに違いない。

ちょうどそうしたタイミングで地上波およびBSアナログテレビの停波などが予定されていて、アナログテレビの後釜となるメディアには、地上波・BSディジタルテレビ放送の他に、CS放送、ケーブルテレビ、光ファイバIP配信、光ファイバ非IP配信などの各種ディジタルメディアが立候補する百家争鳴の状態となっている。そうした状況では必ず利用者の混迷が深まるだろう。選択肢が増えるのはいいことだが、全ての消費者が一斉かつ強制的に選択を迫られるのは、あまりいいことではない。

携帯電話端末販売事業者の情報通信に対する知識感覚などを考えれば、そうした各種メディアの特性を理解し、混乱した一般消費者に対してコンサルティング営業をする、放送通信メディア事業者の代理店事業には適性があると思われる。接続に必要な端末の販売、各種サービスの提供、何より詳細な情報の提供という意味で、携帯電話端末販売のノウハウは十分に活かせると思う。かつて電電公社だったNTTの固定電話契約が携帯電話やIP電話に食われたように、そのうちNHKの受信契約が有線映像メディアに食われるようになるかもしれない。

ポスト停波の時期には、同様に市場構造の変化という問題が発生することは目に見えているが、そうした波乗りをこなす適性も彼らは持っているだろう。私自身がそうしたビジネスをしようとは思わないが、きっと誰かが実行するだろう。そのあたりの情報を追いかけてみると、少し面白いのではないかと思っている。


とかそんなことよりも、端末買い替え資金となる来年の夏のボーナスをしっかりもらえるように精勤しよう。完。
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by antonin | 2007-12-16 01:56 | Trackback | Comments(0)

ガッツ味噌カツ

タイトルに意味はありません。

--

最近ちょっと政治やら経済やらといったメンドウなことから関心が離れつつあって、ややケセラセラな感じで「痛いニュース」などをゆるく流し読みしていたりする。

日経BP社のサイトなども昼休みなどに軽く目を通しているのだけれども、こちらも年金がどうしたとか少子化がどうしたとか国の借金がどうしたとかいうことは、だんだんとどうでも良くなってきていて、コラムなどをゆるく流し読みしている。

以前にも書いたけれども、カネとは人間の信用と欲を数値化したものであり、どんなに借金が増えようとも、それは詰まるところ抽象的な数字でしかない。そんなものは「信用」という無形の財産を犠牲にすれば、いくらでも反故にすることができる。国家が簡単にそんなことをするべきではないとは思うけれども、戦争で人が大量に死ぬような事態になるよりは、ハイパーインフレでもデフォルトでも起こして、恥をかいてやり直すという選択肢は常に残されていると考えたほうがいい。国は破れても山河は在る。

--

そんなわけで、またぞろ下らない事ばかり考えては駄文を吐き続けている。日経BPのサイトに面白いコラムがあって、タイトルが特にいい。

思索の副作用

内容も面白いのだけれども、「思索の副作用」とは、まさに自分自身のことのようで、非常に楽しい。もう最近などは

p[*p++] = ++p[*p--];

っていうくらい強烈な副作用に満ち満ちているので、もう何が正常な作用か見当がつかないくらいである。たまには長湯に浸かって、ストーブで干し芋を炙ったりしながら、風にでも当たったほうがいいのかもしれない。

--

名作小説などに全く興味も無かったが、有名な一節が気になって、もう著作権も切れた小説を文庫本で購入した。
 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

知恵を働かせて、理屈でものを割り切った発言したり行動したりすれば、人の感情に合わずに角が立つというもの。一方で人の感情を理解してそれを考慮すれば、どこまででも流されて道理も何もあったものではなくなる。どこかに落としどころを見つけて、それを通そうとすれば、今度は理屈を言う人からも人情を訴える人からも文句が出て、窮屈な思いをする。とかくに人の世は住みにくい。

こんな文章を小中学生が読んでみてもまず実感できるところはないだろう。ところがこの歳になると気になり始めて、読書感想文の課題図書でもないのに読んでみようという気になる。どうせ読み終わるのは来年だか再来年だかになるのだろうけれども、そこは締め切りのない大人の読書であるから、悠々としていればいい。

Amazon.co.jp: 草枕 (新潮文庫): 本: 夏目 漱石
青空文庫:草枕

--

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」

というのが辞世の句であると知って驚いた。まさに二の句が継げないとはこのことだが、さらに驚いたことにこの句には二の句が継がれていて、

 「すみなすものは 心なりけり」

と続くのだそうだ。

まあWikipwdiaなどによれば、これが本当に辞世の間際に詠まれたのかどうかは怪しいらしいが、とにかくこういう言葉は面白いし、しかも腹の底では何を考えているのか今ひとつ探りづらい幕末の志士であればなおさらだ。

実際のところ、個人的な感想では、この世の中は面白いことが充満しすぎていて、最近少し麻痺が進んでいるというような感じなのだけれども、いろいろなことを知ったり考えたりしたところで、「だから何」という澱のようなものは確かにある。

ここにこう書いて見せることで8割方は満足するし、ときどきコメントをもらえたりするとまた満足するのだけれども、何かいまひとつ、カテコールアミン類の分泌に訴えかけるものが少ないような感じもしている。

何かきっかけがあれば、どっと流れるようなものは蓄積されてきているようには思うので、ひとつひとつの事柄に面白がって生きていれば、今のところはいいのだろうと思う。

--

歴史手帳(2008)」と『 「懲役」と「担当さん」の365日』を発注。

エジプトのアレキサンドリア図書館が隆盛を誇っていた時期には、港に出入りする全ての文書は没収され、写しが返却されたという。もちろん当時は人間が複写していたので、本当にそんなことをしていたらかえってアレクサンドリアに書物が入ってこなくなるだろうと思うのだが、気持ちとしてはわからなくもない。

「その気になればいつでも読める」という状態は愉悦なのだけれども、「その気にならなければいつまでも読まない」という現象もまた顕在化しているので、このあたりも考え直さなくてはならない。本当に1年くらい読書に充ててみたいが、それをやってしまったらまた退屈するのだろう。

--

と、なんともまぁ、頭の中がマルチスレッドで、これでは大成しないのも道理。
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by antonin | 2007-12-11 01:46 | Trackback | Comments(3)

我が家のケイタイ事情

今使っている携帯電話の機種を曝すと、NTT DoCoMoのN251iSというヤツなのであります。

MOVA N251iS - Specifications
ディスプレイ 65,536色表示 1.9型TFTカラー液晶 132×176ドット
利用可能なサービス iモードメール、iショット
着信メロディ 最大40和音
登録メロディ曲名 Mickey Mouse March、亜麻色の髪の乙女、空も飛べるはず、津軽じょんがら節など
内蔵カメラ 最大11万画素
その他 メモリカードなし

利用可能でない機能の例
ディスプレイ サブディスプレイの常時表示
利用不可能なサービス フルオーディオの再生およびダウンロード、GPSサービス、ワンセグ受信、アプリの実行およびダウンロード
カメラ QRコードの読み取り

買った当時ですら機能限定版の廉価版だったのだけれども、購入したのが2003年11月だったから、もう5年目に突入した。ARPUは大きく引き下げているが、端末販売奨励金は消費していないので、かなり優等ユーザーだったように思う。そうでもないか。

ヨメはこの点で非常に「保守的」なユーザーで、愛用のN251i("S"が付かない先行モデル)をまだまだ使う気満々でいるのだが、「まだ使えるのに買い換えるのはもったいない」という意見で、それを言われるとつらい。電池パックの無料交換サービスを受けて以来、もう家族内での連絡以外に使い道のないこのケイタイは、電池もまだまだ元気なことこのうえない。一度の充電で1週間は楽勝で使える。

DoCoMoの料金プランも、入ったその日から(2年契約か何かで)基本料半額とかになってから、長年加入し続けてきたユーザーのメリットなどは全て消し飛んでしまった。いわゆる「ドコモに移転ゼロ」キャンペーンを打ってからのこの会社は、仮にもトップシェアを走るものとして血迷っているとしか思えない。しかしそれはそれとして、そもそも我が家には携帯電話端末の買い替えという気配が全くない。

「バリュープラン」という、総務省の熱いプッシュにより誕生した新料金プランによって、保守派の財務省(我が家の)を説得したいのだが、交渉は難航している。しかし一方で、我が家には携帯電話キャリア各社の高機能携帯電話端末が大挙して押し寄せている。
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WILLCOMあり、auのWINなワンセグケイタイあり、SoftBankの薄型ケイタイもある。そしてこの撮影以降にDoCoMoの900シリーズなども追加されている。しかし、これは近所のケイタイショップで「お子様のおもちゃにどうぞ」と配られていた、型落ちの店頭サンプルなのだった。

これまで禁欲的にしていたのだが、コドモ向けのおもちゃのために予定外に父親の物欲に火が付いてしまって困っている。携帯電話など通話とメールができればそれで十分なのだが、毎月1,680円も端末販売奨励金を払っているのかと思うと、どうせならそれで端末を買い換えたいと思ってしまうあたりがDoCoMoあるいは総務省の思うツボである。

個人的にはT9中毒なのでNECの端末以外に選択肢はないのだが、今でもこの入力方法はサポートされているのだろうか。ネット上に情報が全くないので不安だが、それも買い換えるということになってからの不安でしかない。現状では来年のボーナス時期まで待つことになる可能性が高く、取らぬ狸の皮算用的な心配である。

ちなみに現在使っている機種の前は、カメラなし、モノクロ液晶、iモード使用不可、必然的に着メロダウンロード不可、デジタル1.5Gなので一部エリア以外は通話不可というような状況だった。その前は漢字も扱えなかった。その前はポケベルだった。今度買い換えたら、本当に10年くらい使い続けることになりそうだ。長い付き合いになりそうなので、半年くらいかけてじっくりと検討することとしよう…。
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by antonin | 2007-12-10 02:22 | Trackback | Comments(2)

ソフトウェアなんかのあれこれ

一応この歳で職業プログラマに転身したので、プログラミングの勉強などもしている。C++を勉強することになるのかRTOSを勉強することになるのか、などと転職期間中には考えていたのだが、どうやらC++を勉強したほうがよいということになった。これはこれで勉強するとして、最近になってLISP系言語に興味を持ち始めている。

私はソフトウェアが産業としてそれほど大きくなる前に学生時代を過ごしたので、授業などでは多くの古い言語を習う機会があった。個人ではMicrosoft系のBASICインタープリタを使っていたし、当時パソコン用のプログラム開発環境として驚異的なパフォーマンスを示していたTurbo Pascalを前提として書かれた3D-CGのテキストなども読んだ。授業では科学計算の授業でFORTRAN-77を使ったし、Motif widgetなども授業で少し習ったことがあった。8086のアセンブリ言語も一応触った。

しかし、実際に自分で思うようにコーディングできたのは、当時ANSIの規格が成立したばかりのC言語だけだった。そしてこれがこの歳になって役に立つことになった。が、今一番興味があるのは、実はC++ではなくLISPである。C++も10年以上見ないうちにすっかり垢抜けたが、それでもどこか野暮ったいところがある。一方のLISP系言語は、学生時代に簡単なプログラム実習は受けたことがあるものの、文字列の連結とか反転とかいう、つまらないことしか習得できなかったため、「カッコが多いな」というありきたりの感想しか残っていなかった。

しかし業務でemacs系のエディタを久しぶりに使うことになり、emacs-LISPに興味が出てきた。"lambda notation"(ラムダ記法)というのがどうにも面白そうなのだが、まだ理解できていない。SICP第2版なども買ってみたが、ボリューム負けして、まだ読めていない。とりあえずもっとコンパクトな参照ページを見つけたので、とりあえずそちらから読もうかと思っている。

"WWW.SAMPOU.ORG"より「なぜ関数プログラミングは重要か

チューリングが提唱したチューリング・マシンも、条件ループを備えたCのような言語も、そして関数だけで書かれたLISPのような言語も、ある程度の基本命令を備えていれば「チューリング完全」ということになり、そのプログラム記述能力および実行能力は理論的には等しいのだという。

ものの考え方の幅が広がるのは楽しい。どんなに楽しかろうと、役に立たなければダメだというのは確かなのだけれども、まあそういうのは追い追い考えることにする。

ただなんというか、ソフトウェア系の本はデカいので、通勤電車で読むのには邪魔で困りますな。今はしばらく読むのが止まっていた「ローマ人の物語」を細々と再開中。2代皇帝ティベリウスがそろそろ亡くなるというところでストップしていたのだけれども、ブランクが長すぎてすっかり忘れてしまっていたので、ティベリウス帝の治世のはじめから読み直し、ようやくストップ地点まで戻ってきたところ。全編読み終えるのはいったいいつになることやら。

マサルさんの「国家の罠」が文庫化されていたりして誘惑は多いのだけれども、ほどほどにしたい。
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by antonin | 2007-12-05 00:36 | Trackback | Comments(0)

所沢のとなりのおばけ

先日、コドモたちの通う保育園で、日頃の保育の中で製作している作品の展覧会があった。単なる展覧会の範囲を越えて、各部屋がパビリオン状態になっていて、コドモたちは大喜び。

こういう製作をしてもらえると親はとても嬉しいのですが、先生は大変ですね。保育も大変なのだけれども、こういうイベントが発生すると、子供のいないところで残業などという事態になってしまっていることが容易に想像されるだけに、ちょっと申し訳ない気分に。

といいつつ、ムスメのクラスの製作である「トトロの森」にて記念撮影。
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先生方、ありがとうございました。
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by antonin | 2007-12-04 01:37 | Trackback | Comments(2)

続・常在ウィルス仮説

先日書いた「妄想」タグ付きの記事、「常在ウィルス仮説」にコメントを頂き、ありがとうございました。そのコメントの中で、非常に有益な指摘を受けたので、そこから展開した妄想を、またしても書くことにします。

--

あの記事を書いてから、「常在ウイルス」という言葉を検索してみた。すると、196件のヒットがあった。それほど一般的とはいえないものの、概念として存在しないような言葉でもないようだ。ただ、それが高等生物が積極的に利用しているものというような意見は、ざっと見たところでは存在せず、病原性が無いか、あるいは病原性が未発現の潜伏状態にある病原性ウィルスのことを指しているらしい。

私は、ウィルスを高等生物とは別の、単独の生命とみなすには無理があり、それは高等生物自身が備えた「未知の機能」であるのではないか、という仮説を主張していた。その主張を簡潔に表現するために、常在菌という言葉を借りて「常在ウィルス」という名前を付けてみた。

その記事に、有益なコメントを頂いたので、ここに引用させていただく。
Commented by 鬼港一輪 at 2007-11-27 10:03 x
私は、生命倫理の立場から、生命の定義を①染色体上の遺伝子(ゲノム)によって自己複製する存在である。②何らかの化学的エネルギーを活用しながら、自らの生命システムを用いてエネルギーを生産して存在している。③酵素(タンパク質)を用いて物質代謝を行うものである。

Commented by 鬼港一輪 at 2007-11-27 10:03 x
上記の内容に加えて④少なくとも物質透過性を有した膜状構造による表層系を持つ細胞を最小の単位とする生命体のこと。で生物の定義が完成すると考えています。

発生順には、ゲノム→生命→DNA→細胞生物と考えています。

で、遺伝情報には、進化・平行存続・淘汰の3種があり、人間では、
自己複製子レベルでの遺伝情報の変異には①細胞分裂時におこる、DNAの塩基配列における複製みす。②ウイルス、プラスミド、トランスポゾンなどが関与するDNAの塩基配列における置換変異や、挿入や欠失などに起因する変異。③呼吸時の活性酸素や日光中の紫外線などによるDNA塩基配列における欠失などの要因による変異があげられます。

つまり、セントラルドグマという生命現象は、ウイルス祖系とプラスミド祖系とトランスポゾン祖系の関与なしには発生でいなかったのです。

私は、ウイルスとは嫌熱嫌酸の性質に適合した極寒の地域にかろうじて残存した可動性遺伝子が、生命体に寄生して増殖する術を体得した結果として今日に至っているのではなかろうかと推測しています。

Commented by 鬼港一輪 at 2007-11-28 23:18 x
生命誕生以前に、RNAワールドという時代があったものと推定されています。始めはどっちが鋳型jかわからない状態です。
しかし、そのうち、すくなくとも①遺伝情報の宿主としての「ゲノム」、②酵素としての「リボザイム」、③遺伝情報を写し取ってリボソーム祖型へと運ぶ「メッセンジャーRNA祖型」、④個々の遺伝情報に対応したアミノ酸をリボソーム祖型へと運ぶ「トランスファーRNA祖型」、⑤メッセンジャーRNA祖型が伝達した情報を基にトランスファーRNAが運んで来たアミノ酸を連結してタンパク質を合成する「リボソーム祖型」とのそれぞれ5つの役割を分担することによって原始生命システムは創造されました。

Commented by 鬼港一輪 at 2007-11-28 23:29 x
生命の根本原理は、「まず、核酸ありき。」であって、生命とは、自己複製子の安定した増殖のために創造されたシステムの1つであると言えます。
つまり、生命が誕生する以前から存在したRNAワールドの残影として、ゲノムに寄生する時以外は浮遊している「ウイルス」、細胞内に内在するにも拘わらず宿主ゲノムの近辺に外在する「プラスミド」、宿主ゲノムの中に内在し続ける「トランスポゾン」が存在しているのです。

ウイルスこそは、生命誕生の鍵を握る可動性遺伝子の末裔の1つなのです。

私は「セントラルドグマ」「プラスミド」「トランスポゾン」という単語を知らなかったので、ネットで調べてみると、wikipediaにかなり詳しい説明があったので参考になった。(上記単語に該当ページをリンクさせた)

私の解釈では、ウィルスは高等生物の一部ではなく、高等生物に寄生してはいるが、あくまで独立な原始生物であるという指摘に読めた。プラスミドやトランスポゾン、それにミトコンドリア独自のDNAの存在などを考えると、確かに説得力がある。

また、「RNAワールド」という言葉も知らなかった。この他にもwikipedia日本語サイトには分子遺伝学に関する多くの情報があり、非常に参考になる。例えば「遺伝子の水平伝播」の説明文中にある、次の内容などは、私の「常在ウィルス」仮説と同じような考えを持っている研究者がいることを示しているように読める。
高等動物においてもレトロウイルスの影響やDNAウイルスの取り込みなどでこの現象が起きる可能性が指摘されているが,水平伝播によって取り込まれ、その高等生物の機能に影響を及ぼしたことが確実な遺伝子はまだ見つかっていない。多細胞生物の場合、核遺伝子のそのような方法での書き換えがあったにせよ、それが生殖細胞に反映されない限りは子孫に伝わらないという縛りもある。

個体の体細胞には影響するが、世代を越える遺伝子を持った生殖細胞には影響しないとすれば、前回の記事で指摘したように、「静的ではなく動的な遺伝情報の移動」という仮説に合致する。ただ、その媒体としてのウィルスは、高等生物に由来する「部品」ではなく、あくまで共生関係にある独立の生物と解釈したほうが自然なのかもしれないと、追加情報を知った今では考え方を変えつつある。

過去に、世界初の実用電子計算機であるENIACを開発した研究者が独立起業したUNIVAC社と、ENIAC以前から実用的な電気式統計処理機械を販売していたIBM社との間で、電子計算機の特許性を争う裁判があった。客観的に見ればENIACこそがまともに動いた世界初の電子計算機であったことは間違いが無いが、裁判ではABC(アタナソフ・ベリー・コンピュータ)という、真空管式の小規模な演算回路が世界初の電子計算機であるということで結審した。

ただし、巨大な実働システムであったENIACも、いわゆるノイマン・アーキテクチャと呼ばれるプログラム内蔵方式ではなく、現代のコンピュータとは構造が異なる。プログラム内蔵方式では、データを処理するプログラムもまたデータとしてコンピュータに与えられ、今ではそれをソフトウェアと呼ぶ。これに対してENIACは回路ユニット間の配線を当時の電話交換台と同じようにコネクタ配線を差し替えることでプログラムをコンピュータに与える、ハードワイヤードロジックになっていた。現代のパソコンなどよりはむしろ、組込機器用のASICと呼ばれる集積回路と同じような構造をしている。

これに対し、ABCというのは確かに真空管を使ったスイッチングによるディジタル処理が可能な装置ではあったが、それはあまりにも小規模で、とてもではないがコンピュータと比べられるようなシステムではなかった。しかしまずいことに、ENIACの開発者の一人であったジョン・モークリーが、ENIACの構想段階でアタナソフの作った装置を見ていたということが、敗訴の原因となったらしい。

ただし、規模が小さいということは大きなシステムが備えている特徴のいくつかが不足しているために両者を同じものとして見ることはできないものの、基本機能としては共通している。ABCも、ENIACも、ソフトウェア内蔵方式を採用したEDVACも、全て論理回路は真空管の増幅機能を応用しているという意味では共通している。

そういう意味では、初めて自己複製を始めた世代の自己複製子は、特に酵素などを必要としなかったRNAワールドのポリヌクレオチドたちであって、それらはABCのようなものであったのかもしれない。そして、現存するRNAウィルスは、DIPやSOPといったパッケージに封止された個別論理回路部品などに相当するような存在なのかもしれない。それは、今や単独でシステムを構成するような作り方はされておらず、大きなシステムに寄り添うように利用され、大きなシステムの末端部を若干変更するだけの作用を持つ。

もちろん、自己複製が基本機能である生物と、演算処理が基本機能で自己増殖したりしないコンピュータではアナロジーに限界があるけれども、生物と物質の境界領域を考えるのに、コンピュータシステムと単なる電子回路の境界領域を考えることはある程度のヒントになるだろう。

生物もおそらく同じなのだろうと思うが、コンピュータシステムであっても、その「進化」は基本的にシステムが複雑化する方向に進むことが多い。そこでは、不要になった機能であっても、それによってコストが上昇するとか消費電力が増えるとかといった、システムに対するデメリットが大きくないような機能であれば、使わないにもかかわらず残り続けるということは、よく見られる。そして、一見役に立っていないようでも、そうした細かい機能が無くなってしまうと不具合が生じるようなことも多い。

複雑なシステムの典型のような人体にあっても、あいも変わらずウィルスに感染してウィルスを新たに撒き散らしてしまうような機能が残されているということは、そして人体にとって致命的な作用さえ与えるウィルスがあいも変わらず存在しているということは、ウィルスの発生が比較的最近の現象であり、人体からの排斥が十分に進んでいないか、あるいはウィルスを増殖させる機能が人体にとってなんらかの役に立っているかのどちらかだと考えられる。

ウィルスが人類よりあとに発生したとはとても考えられないので、ウィルスの増殖には、スペイン風邪の流行というようなデメリットにも見合う程度の、なんらかのメリットもまた、人体にとって存在するように思える。

というわけで、ウィルスが高等生物発祥という考え方は無理があると思うようになったのだけれども、高等生物の細胞に寄生するミトコンドリアが高等生物の細胞に必須の機能を果たしているように、ウィルスもまた、何かしら人体にとって有用な働きを持つものが存在するとの考えまでは、捨てなくても良いのだとも思っている。

生物は大型化するという定向進化説というものがあったが、実際には小型化するというケースもあるということで否定されたことになっている。しかし、環境が安定化して餌となる生物が増殖すれば、より大きな生物のほうが安定に存在するという選択傾向があるはずだから、生物は大型化するだろう。その一方で、安定な生体は変化が遅いので、急激な環境の変化についていけずに絶滅する確率も高い。また、小型の生物のほうが世代間のサイクルが短く、個体数も増やしやすいため、進化や分化のペースは早い。

これが、生物進化系統のはじめには個体が小さく、後に大型化するという理由だろう。生物が大型化する傾向があるというのは、地球環境は概ね安定しているが、ときどき急激な大異変が起こるという地球環境の性質が、それに適応するようにできている生物進化の歴史に写し取られているに過ぎないと考えることができる。

ウィルスが存在するということもまた、ウィルスが継続して存在できたという要因がどこかにあるはずだと思う。その一面は確かに当然爆発的な増殖能力と構造の壊れにくさにあるのだけれども、利用される側の高等生物の事情も何かしら関与しているように思う。ウィルスの感染症がこれほどの頻度で問題となるにも関わらず、それが放置されているというのは、ウィルスとその宿主の一群をひとつのシステムとして考えたとき、統計的な生存戦略評価的に見て、なんらかのポジティブな効果があったのだろう。

ただし、捕食者と被食者のように、特定の範囲で見るとゼロサムゲームの関係というのは確実にあるが、そこではたいてい、両者は同じような複雑さを持っている。だとすれば、ウィルスはそれと同等の複雑性を持っている、細胞体に固定されたゲノム群に対してゲームを仕掛けていることになる。だとすれば、生命発祥以来の因縁の対決ということになる。インフルエンザに罹患するのも、まさに「伝統の一戦」と言える。

高度に発達したかに見える人間社会にも、犯罪者というのは尽きない。そして、大事件となる犯罪もあれば、表沙汰にならないような「持ちつ持たれつ」というタイプの犯罪も多い。犯罪者が人間社会に必須の人材とは言いたくはないが、凶悪な犯罪が、常在する軽犯罪の発展したケースに過ぎないと見るならば、犯罪など決してなくならないように見える。人間の遺伝子となっている細胞核のDNA群が、自力で人体という複雑なシステムを運営して豊富な有機物を集める「裕福な実業家」であるとするならば、ウィルスは体ひとつで潜入し、多くを奪って去っていく泥棒か詐欺師である。

裕福な実業家である我らがDNAは、ただ単に防犯対策の不備からウィルスという犯罪者の侵入を許しているだけの愚か者なのか、あるいは、時には犯罪者として扱い免疫警察による摘発をちらつかせながら、一方でその侵入テクニックを利用して条件次第では情報の運び屋として活用するような狡猾な謀略家なのか。後者であるほうが、ストーリーとしては深みが増して面白い。「生物と無生物のあいだ」に続編が出るならば、今度はそのような良質なミステリー仕立てにしてもらえると、読み手としては非常に楽しい。
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by antonin | 2007-12-02 00:39 | Trackback | Comments(8)

狂気の淵

なんだか色々と面倒なことを考えつつも、楽しく生きていきたい。

学問やら芸術やらで高い独創性を発揮した人の中には、自殺によってその生涯を閉じたり、あるいは発狂して隔離されながら記録のない晩年を過ごした人も多い。ニーチェであるとか、ファン・ゴッホであるとか、フォン・ノイマンであるとか、そうした変調を迎えた人を数えだすときりがない。自殺も発狂もしていないが、優れた業績を挙げながら私的な決闘で斃れたガロワなどもこの部類に入るかもしれない。

彼らの業績の多くは早くから高く評価されていたけれども、それは純粋に業績面での評価であって、周辺人物のプライベートな聞き取りなどから人物的な評価を調べると、どうにも不評であることが多い。死後には業績だけが残り、人物評は次第に忘れ去られていくため、不遇の天才として評価が徐々に高まることになる。

良識的な人はその不評に対して、彼らの天才的な発想を周囲が理解できなかったのだろう、などと肯定的に評価するだろうが、実際に友人や同僚として接しても同じ意見を持つことができるかというと、大いに怪しい。同じように天才的業績を上げた人物でも、温厚柔和で、生前から高い評価のまま、発狂などすることもなく平穏な老後を過ごす人も、同じように多い。

優れた業績の中でも、常識的な発想をより高い水準で実行したために、正常な帰結として高い業績を残す人は、人物的にも問題が少ないような印象がある。一方、常識を鮮やかに覆すことによって画期的な想像力を発揮するような人は、実生活においてもしばしば常識を覆し、周囲に疎まれるような印象がある。このタイプの違いは、ある種の脳の性質の違いで、相当程度に生来的なものだと思う。そして、冒頭に挙げたような不幸な晩年を迎えるのも、常識を覆すタイプの天才に多いような印象がある。このあたり全て印象論で根拠はないのであるが。

この生来的な違いが、晩年の発狂と同根であるような、遺伝的、器質的要因があるのか、あるいは常識的に考えるように、周囲の無理解によるストレスが原因というような説明が付くのか、そのあたりはわからない。どちらもあって、それらが複合的に作用しているということもあるかもしれない。

鋭すぎる洞察力や直感、平均的な人物には不可能なほどの常識からの乖離など、天才的発想と人物的な付き合いにくさという2面に関しては、かなりの確率で同根であると考えることができるだろう。ただ、繰り返せば、温厚な常識人であり、かつ天才的業績を残した人もまた歴史に多いのであり、そうした人は比較的ゴシップ・ネタにならないので、世間の印象に残りにくいという影響も多いのだと思われる。

時代的に近いところでは、派手なパフォーマンスをするワトソンの隣で静かに思考している印象のあるクリックであるとか、モークリーの奔放な発想を堅実な工学的知識と技術で実現に導いたエッカートなどを思い出す。量子の波動性がより本質的な姿であるとの信念を正常進化させて波動関数を導いたシュレディンガーなども、やはり同じような印象がある。彼の波動関数が粒子存在の確率分布関数の平方根であるなどという解釈が主流になると、彼はそれに馴染めずに生物学の世界に移った。アインシュタインのEPR論文のように、シュレディンガーも有名な「猫」のパラドックスでコペンハーゲン学派に挑んだこともあったが、戦い続けるよりはただ去ることを選んだあたりに人柄を感じる。

歴史に名を残すのは王侯貴族や聖人偉人、それに学術芸術の天才たちだけだから、非常識人は皆優れた人と考えがちであるけれども、彼らは秀才であり、かつ変人だったので天才と呼ばれるのであって、凡人であり、かつ変人という救われない人も世には多いだろう。

しかし、そこにも世間一般の常識との不整合はあり、人物評の低さだけは天才と同じか、業績的な評価がないだけに却って、天才以上の不評が周囲から与えられることだろう。神経衰弱による自殺や、認知の不整合による発狂などのリスクだけは、歴史上の不幸な天才たちと同じように背負っていることになる。器質的な問題であるにせよ、周囲の無理解という環境的な問題であるにせよ、どちらにしてもそうした非常識人は、天才と同じような狂気の淵に立っていることになる。

天才的な仕事とは、学問であっても芸術であっても、創作者の手を離れて世界にとどろくことができる。時間をも越えて死後に評価を受けることもできる。けれども一般的な凡人の仕事は、顔の見える人に貢献する範囲でのみ評価されることがほとんどなのだから、人物評の低さを越えて業績だけが評価されることは、極めて少ない。もとより平凡な凡人的業績は、変人であることによって一段と低く評価される。そして、どこかで淵から狂気へと落ちる。

とまあ、なんだか色々と面倒なことを考えつつも、楽しく生きていきたいものだと思った。
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by antonin | 2007-12-01 00:44 | Trackback | Comments(1)


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