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安敦誌


つまらない話など
by antonin
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コドモたちの現実

ムスメのお遊戯会の衣装を着せられているムスコ。
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最近、ムスメの影響で「オバケのかお」をおぼえてしまう。
b0004933_1365386.jpg


ムスメのほうはこんな感じ。
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これはひどい。
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by antonin | 2008-03-30 01:39 | Trackback | Comments(5)

SafariがWinにやってきた

過去に冗談でこんなことを言った。

アップルさん、Windows版のSafari出してください。
無料なら使います。

Safariを普及させよう。(使ったことないけど)

安敦誌 : どうでもいい話

そしたら、2年以上たって忘れた頃に本当に出してきた。驚いた。

早速ダウンロードして使ってみたが、結構面白い。あらゆる文字がアンチエイリアスされている。ウィジェットというのかコントロールというのか、ウィンドウの部品がWindow標準のGUIじゃない。FirefoxだとJavascriptの実行が遅くて固まるようなページの表示が早い。

アンチエイリアスについては、IE7とかでもメイリオフォントでの表示を許可しているようなページではメイリオ特有のサブピクセルを使った解像度拡張が使われているが、safariの場合は正攻法のオーバーサンプリングによるアンチエイリアシングをしているらしく、X方向だけでなくY方向にもアンチエイリアスが利いている。しかもフォントフェイスにMS Pゴシックを使っているので、AAの幅が崩れるという「メイリオ病」も起きていない。これは面白い。

文字のアンチエイリアスというと、Acrobat (現Adobe) Viewerのように線が淡くて読みにくい印象があって敬遠していたが、safariのアンチエイリアスではあまりそういう印象がない。確かにボヤボヤした印象はあるが、比較的濃い黒が出ていて、さほど気にならない。しかもメイリオのClearTypeのようにX軸とY軸で解像度が異なるという気持ち悪い現象も起きていないので、より自然な感じがする。デフォルトで明朝体とかいうことがないのも好印象。

とまぁ、面白いのだけれども、面白いという以上のメリットも感じない。アンチエイリアスが利いているのはいいが、いい気になって標準フォントサイズ設定が小さすぎるような気がする。そして最大の問題が、Firefoxのようにかゆいところに手が届く異常なほどの数の拡張アドオンがなく、Firefoxでは普通にできていた操作ができなかったりすること。たいした操作ではなくとも、自然に実行できないとなるとストレスが溜まる。それでも使いたくなるような特長がsafariにはまだ見つかっていない。(これから見つかるかもしれない)

IEはなんといってもwebブラウザのデファクトスタンダードなので、Gyaoや一部のネットバンキングなど特殊な機能を持たせたページの表示にはどうしてもIEでないと対応できない場面がときどきある。Operaは動作は高速だし画像の縮小も含めたレンダリングもきれいだし、そしてOpera9になってからIE向けのJavascriptに対して互換性が向上したような感じがあり、これについてはW3Cなどの世界標準にこだわるFirefoxよりOperaのほうが安定感がある。そういう特長がそれぞれのブラウザにはあるので、Firefoxで対応しきれなくなったときには各種ブラウザを呼び出している。

Firefoxには"IE View"とか"Opera View"というアドオンがあって、これを使うと右クリックで「今見ているページをIE / Operaで開く」というショートカットが出てくる。これは大変便利で、日常使いはFirefoxべったりで使っていて、表示できないページやOperaで見たほうが品質や速度が向上できそうなページについてはOperaで見ている。これと同じ"Safari view"というアドオンもあるのだけれども、今のところMac OS X版しかないようだ。

今この記事はSafari 3.1で書いているけれども、Javascriptを使ったボタンの動作などもおかしく、まだFirefox以下の水準に留まっている。けれども、今まではブラウザとしてのsafariのシェアという以前にMacのシェア自体が足枷となっていたので、今後はsafariのシェアも伸びるかもしれない。期待しよう。

2001年の秋に初めてWindows XPを触って思ったのは、こんなにMacに似てしまったら、もはやMacへ移行するのを拒否する理由もないな、ということだった。実際にはMac OSはハードウェアにバンドルする形式でしか売られていないので、いくらIntelプロセッサを積んで中身がPCと同じようになったとしても、やっぱり特殊品になってしまって価格が割高になる。iPodは同容量のメモリを積んだシリコンオーディオより明らかに安いという特長があったけれども、Macにはそれがない。

しかも最近のMac OSはくだらないところで視覚効果が派手で、メニューが幕のように飛び出してきたり、アイコンの上でカーソルを動かしたらアイコン自体がグニョグニョと動き出して、非常に気持ちが悪かった。その手の視覚効果は当然オプション設定で抑止できるのだろうが、あれはちょっと馴染めない。モノクロMacintoshの頃の、アイコンをダブルクリックして開くときに、アイコンからウィンドウに向かって長方形のフレームが広がるアニメーションがあったり、逆にウィンドウを最小化するときにフレームが縮んでアイコンになるアニメーションがあって、あれは動作前と動作後の関連付けを自然に表現する美しさがあった。

ところが最近のGUIはそういう「無意識的に認識して自然な操作には必須の、気付きにくいが重要な情報の提示」については無頓着で、透明感があるとか動きがあるとか、ユーザーインターフェイスとしては役立たない部分で「センスの良さ」を誇示しようとしていて気に食わない。この点Vistaも同罪である。やるなら昔のnekoみたいにUIとは別のところで楽しませるような小道具のほうがいい。

safariには相変わらず日本では無意味なスペルチェッカーがデフォルトでONになっていて、要らんところに赤線を引きやがるので速攻でオフにした。ただ、メニューがWindows標準の構成になっており、しかるべきオプション設定をすぐに探し出せたところは評価したい。というかそれくらい普通だけれども。

というわけで、まだちょっと馴染めないsafariなのだけれども、今後Macの普及率が高まってしまうとそれを触る機会というのもゼロではなくなる可能性があるので、将来への投資としてsafariでMac環境を疑似体験してみるのも悪くはないのだろう。

メモリ消費量低減やマルチプロセッサ対応などでパフォーマンス向上が予告されているFirefox 3がリリースされる頃には、safariはJavascriptなどでIE互換を向上させて今よりは遅くなっているかもしれない。その頃になれば本格的な比較対象になると思われるので、楽しみに待ちたい。まずはFirefox拡張"Safari View for Windows"の登場を希望。

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おまけ。スクリーンショット集。クリックすると別ウィンドウで拡大表示します。

sarafiで安敦誌を見る。
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MS Pゴシックでスムージング。

Firefoxで安敦誌を見る。普段はこれ。
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基本的にビットマップフォント・ラヴなのでこれが快適。
一番好きだったビットマップフォントは東芝Lupoの24ドットフォント。

Operaで安敦誌を見る。見た目ではわからないが動作は非常に快適。
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オーソドックス。

次にIEでMSNを見る。メイリオ使いまくり。
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64bit版に対応したFlashプラグインはまだ提供されていない。Flash広告は静止画広告に自動的に差し替えられる。さすがMicrosoft直轄領。IEへの配慮が違う。

最後にsafariでMSNを見る。最近は「IEで見ないと祟りますよ」というページは出てこないで、どのブラウザでも受け入れるようだ。
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メイリオも難なくスムージング。どうやらメイリオの表示にはCleaTypeよりアンチエイリアシングによるスムージングのほうがいいみたい。というわけで、safari最初の適用分野はMSNの表示ということに決定。メイリオ表示するならsafari、MSN見るならsafari。
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by antonin | 2008-03-29 01:06 | Trackback | Comments(2)

隕鉄

隕石、とよくいうけれども、結構な割合で鉄を主成分とする「隕鉄」が降ってきているのだという話を聞いたのは高校生くらいのときか。

ビッグバンのときに生成した元素は水素がほとんどで、そこにヘリウムがいくらか入っていただけらしい。地球上には豊富な元素があり、中にはウランのような重元素も含まれているが、それはかつてあった、太陽誕生前に存在した恒星の中で起こった核融合が生成した物質であるらしい。先代の太陽は今の太陽よりかなり質量が大きかったために短い寿命で超新星爆発してしまい、その際にぶちまけられた重元素が地球にある重元素の由来なのだという。今の太陽は「三代目」だという話も聞いたことがある。

そして隕鉄。主成分が鉄であるということは、ある程度質量の大きい天体があって、衝突熱などで溶解した物質が、重力によって鉄などの重元素と珪素酸化物などの軽元素に分離したうちの、中心に近い部分を作っていた物質の破片である証拠となる。

参照:"Meteorites"

地球に飛来する隕石類の大多数は火星軌道と木星軌道の中間にある小惑星帯から供給されるものが多いらしい。また、この小惑星帯は木星の大きな引力による潮汐力で崩壊した惑星の破片という説もある。もしそうならば、その惑星の核の名残が隕鉄ということになる。

近年では、地球の大きさに対して大きすぎる月の由来として、天体衝突による破片が集まったものという「ジャイアント・インパクト説」が有力視されている。その衝突シミュレーション動画なども見たことがあるが、地球側(大きかったほうの天体)の破壊はともかく、月側(小さかったほうの天体)は原形を留めないほどに潰れて破壊されていた。当然、天体核に由来する破片も飛び散っただろう。もしかしたら、そのときの破片が巡り巡って今頃地球に再衝突した可能性もあるかもしれない。

もっとも、月生成時の衝突エネルギーであれば、鉄とはいえ溶解してしまっていただろうから、非常にゆっくりと冷却されたときに出るという「ウッドマン・シュテーテン模様」などは見られないはずだ。そういう意味では、もう少し小さい天体がマイルドに衝突した場合の破片と考えたほうがいいのかもしれない。

まぁそんなことがわかったからといって生活に何の役にも立たないのだけれども、そういうことを考えること自体が趣味なので、それはそれで仕方がない。
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by antonin | 2008-03-26 02:14 | Trackback | Comments(0)

高島野十郎という生き方

世界はきわめて面白く、そして生活はきわめて退屈である。

高島野十郎という画家の生き方に興味が湧く。

「野十郎の炎」 多田 茂治 著
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by antonin | 2008-03-25 08:06 | Trackback | Comments(0)

100人のマリオ

イエス・キリストには人間の両親があり、父はヨセフ、母はマリアといい伝えられている。ただ、イエスは神の子でもあるので、母マリアが処女受胎したということにもなっていて、ヨセフはイエスの養父に過ぎないということにもなっている。このあたり、エジプト王家の血筋を引く王子として育てられたことになっている預言者モーセの伝説にも似ているが、実の父が唯一神であるというところがイエスの伝説に独特のところになっている。ギリシャ神話の最高神ゼウスはよく人間の女性を孕ませていたので、そういう意味ではギリシャ神話的でもある。

ところでこのマリアとイエスの生きた時代を考古学的に検証すると、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスから二代皇帝ティベリウスの治世の頃、ということになっているらしい。この時代のエルサレム周辺地域はローマ帝国の強い影響下にあったけれども、ローマの自治を重んじる傾向から、アウグストゥスの治世下ではその統治能力をローマに認められたユダヤ王のヘロデがその地を統治していた。

その後100年ほどの期間でユダヤのローマ影響下での自治の構図は崩れてしまい、ユダヤ人は国家を失ってローマ帝国の属州に組み込まれてしまったのだけれども、強固に戒律を守り続けたユダヤ人と違って、ユダヤ人の奉ずる神への信仰という基礎は共有しながらも、もう少し柔軟に物事を考えたキリスト教徒は、最終的にローマ帝国を覆い尽くすことになる。

そういう背景を知って気になるのが、イエスの母の「マリア」という名前である。福音書の物語にはマグダラのマリアという女性も登場するので、マリアという女性名はかの地では珍しいものではなかったのだろう。このマリアという名前、より正確に書くなら"Maria"というラテン文字記述された女性名が、どのあたりに由来するのかというのが気になる。

イエスをラテン文字で書くと"Jesus"となるけれども、これもあのあたりに住んでいたユダヤ人には珍しくない名前で、本来アラム語やそれより古い言語に由来する名前なのだろう。それを新約聖書の記述言語である当時のギリシャ語で書くと"Ίησους"となり、それをさらにラテン語で音写すると"Jesus"となるのであって、ヘブライ文字で書けばおそらく"הושע"(「ヨシュア」)となるのだろうというようなことがWikipediaに書かれている

“Maria”という名前も似たような音写の果てに生じたものなのだろうけれども、”Jesus”と違って”Maria”という名前は、ローマ人の名前のシステムに馴染みやすい名前になっている。ローマ人の名前のシステムとは、男なら名前の語尾に”-ius”が付き、女なら語尾に”-ia”が付くというものである。しかもこの語尾より前の部分はしばしば男女で共有される。

初代皇帝アウグストゥスの名前は、今で言うローマ皇帝の座に就いてから自ら名乗りたいと申し出て、元老院議会で承認された呼称であり、当時のローマ人では珍しくなかったあとづけの名前なのだけれども、この人にはもともとオクタヴィアヌスという名前があった。塩野七生さんの「ローマ人の物語」に出てきた話によれば、”Octavius”というのは数字の8という意味の”oct-”と男性名を表す”-ius”を適当につなげたもので、日本語で言えば「八郎」みたいな名前であり、他にも「十郎」になる”Decius”など、いかにも子沢山な様子が目に浮かぶような名前があったらしい。

ただしローマ人は親の名前を受け継いだりするから、”Octavius”の子孫の男性も家系名として”Octavius”を名乗ることもあったし、「”Octavius”の息子」という意味の”Octavianus”を名乗ることも、ローマ人の名前のシステムからは普通に起ることだったらしい。

そして、”Octavius”家の娘なら”Octavia”という名前になることが多く、実際にアウグストゥス(オクタヴィアヌス)の姉の名前も”Octavia”であったというように伝わっている。ローマに帝政の道を開いたユリウス・カエサルのフルネームをラテン文字で書くと”Gaius Julius Caesar”になる。私はラテン語に詳しくないので良くわからないが、時代が古いラテン語には”G”と”C”の区別が存在していなかったり、同様に”J”と”I”や”U”と”V”の区別もついていない時代もあったようで、上記を”Caivs Ivlivs Caesar”と書くことも「あり」らしいのだけれども、そのあたりは気にしないで慣用的な表記に従うことにする。話が飛んだが、”Gaius Julius Caesar”は、ユリウス一族のカエサル家のガイウスさん、という意味になるらしい。そしてこの家の女性は、”Julia”(ユリア)であったりすることが一般的だったようである。

そして”Maria”という名前だけれども、この名前も語尾が”-ia”というようになっているので、ローマ式の女性名のシステムを守っている。そしてこれに対応する男性名は、”Marius”(マリウス)となる。そしてローマ史上最も有名なマリウスとなると、やはり共和制末期の英雄”Gaius Marius”となるだろう。この人にはユリウス・カエサルの伯母にあたる”Julia”(ユリア)という女性が嫁いでいるので、カエサルには親戚筋にあたる。

ところがこの有名なマリウスは、都市国家ローマの伝統的な血筋には当たらないらしい。当時のローマ貴族なら、カエサルのように個人名+種族名+家系名という3つの名前を組み合わせた正式名を持っていたのに対して、マリウスには種族名が伝わっていない。このあたり、Mariusという名前が純粋なラテン種族の名前ではなくて、ローマという国家に取り込まれた周辺種族に由来する名前である可能性も考えられる。

そして、ローマ帝国の辺境に住んでいた”Maria”に話が戻ってくる。彼女の母は”Anna”であったというが、”Maria”の父は”Marius”という名前を一部にしても持っていたのだろうか。あるいはローマ風の名前を娘につけただけで、彼らはローマ式の命名法を採用していなかったのだろうか。それとも、”Maria”や”Marius”という名前の由来になったアラム語かヘブライ語の名前があって、本来そうした名前で呼ばれていたのだろうか。

“Maria”についても”Jesus”同様の説明がWikipediaにあり、ラテン語で”Maria”となる名前は、ギリシャ語では”Μαρια”となり、ヘブライ語では”מרים ”(マリヤム)となるのだという。本来ヘブライ語名であった「マリヤム」がラテン語に音訳される際に、意味的には無関係だが音としては似ている、ラテン語名の「マリア」にあてがわれてしまったのかもしれない。こうなると、聖母マリアの父がマリウスであった可能性は非常に小さくなる。

話は変わるけれども、たとえばWikipediaあたりで古代ローマの人物に関する記述を呼んでいると、左側のカラムに他言語での説明が書かれたページへのリンクがある。「ガイウス・マリウス」のページから”Italiano”(イタリア語)というリンクをクリックすると、”Gaio Mario”というページに飛ぶ。これを見て、現代イタリア人が”Gaius Marius”のことを「ガイオ・マリオ」と呼んでいることがわかる。マリウスの政敵として有名なもう一人の英雄、”Lucius Cornelius Sulla”のせりふとして「ローマ人の物語」に採録されている言葉がWikipediaの「ルキウス・コルネリウス・スッラ」というページにも転記されているが、これを引用してみる。

「君たちにはわからないのかね。
 あの若者の中には100人のマリウスがいるということを」

マリウス派の台頭とマリウスの死のあとに、スッラはマリウスに影響を受けた民衆派勢力の大粛清を行い、元老院体制の機能回復を試みるのだけれども、当時まだ若かったユリウス・カエサルの処刑を見送るよう求める周囲の嘆願をしぶしぶ認めたスッラが発したせりふが上記のものであると伝えられている。しかし、当時の粛清の苛烈さから思えば、もし本当にスッラが「100人のマリウス」をカエサルに見ていたとしたら、確実に殺していただろう。もし上記のような発言があったとすれば、歴史ドラマとしては非常に面白くなるが、歴史解釈はより面倒になる。

“Gaius Julius Caesar”というラテン名は、イギリスなどの英語圏ではそのまま”Gaius Julius Caesar”と記述され、その代わりに「ガイアス・ジュリアス・シーザー」などと発音されている。これは、英語圏では”Julia”(ジュリア)という女性名はあるものの、”Julius”に相当する男性名がそれほど多く存在しないためと思われる。英語やドイツ語は一般に「ゲルマン語系」というようにくくられ、ラテン語に由来する単語を多量に含んでいるとはいえ、どちらかといえば古代ゲルマン語の影響が色濃く出ている。

一方、ローマ帝国発祥の地であるアペニン半島を領土とするイタリアや、帝政の早い時期にすっかりローマ化してしまったイベリア半島やその北に位置する土地を領土とするスペインやフランスあたりの言語は「ラテン語系」というようにくくられる。この範囲の諸言語では、人名にしてもローマ人の名前と1対1で対応するようなものが多く残っている。

ラテン語の女性名としての”Maria”に対応する名前は英語にもあって、それは”Mary”なのだけれども、たとえばイタリア語ではそのまま”Maria”として残っている。一方男性名の”Marius”に相当する名前は、英語圏ではあまり見かけないけれども、イタリアでは”Mario”として生き残っている。”Super Mario”が古代ローマに行ったならば、”Marius Superior”とでも名乗ればいいことになる(意味的にどうなるのかは知らないが)。

“Gauis Julius Caesar”にしても現代イタリア人の名前に置き換え可能な部分を多分に含んでいるらしく、イタリア語では”Gaio Giulio Cesare”となる。「ガイオ・ジュリオ・チェザーレ」とでも読めばいいだろうか。ちなみに”Lucius Cornelius Sulla”というラテン名は、英語ではそのままのスペルで「ルーシャス・コーネリアス・サラ」と読まれ、イタリアでは現代人の名前に変換して”Lucio Cornelio Silla”と呼ばれる。そして、モーツァルトのオペラに”Lucio Silla”という作品があるらしいということが検索をしているうちにわかった。いったいどんな作品なのだろうか。

そしてスッラの名ぜりふをイタリア語的に読むと、「君たちにはわからないのかね。あの若者の中には100人のマリオがいるということを」というようになり、日本人には少しにやけてしまうような響きに変わってしまう。「100人のマリオ」という言葉がなんとも気に入ったのでGoogleで検索にかけてみると、意外にも多数のページがヒットする。何事かと思っていくつかのページを見てみると、次のような動画が有名になったためらしい。

YouTube - 画像認識で全手動マリオ

なるほど、「100人のマリオ」はすでに映像化されていたのか。しかしこれを見ると、あの超人マリオを100人集めても「スーパー・ジュリオ」にはならないのだなぁ、と改めて思う。ユリウス・カエサルは「100人のマリウス」では決してなく、空前絶後にして唯一の「ユリウス・カエサル」としか呼べないのだと思い至る。
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by antonin | 2008-03-23 11:00 | Trackback | Comments(0)

空想と科学

以前勤めていた会社の食堂に、社員が持ち寄った本を並べた本棚があって、そこに「空想科学読本」が置いてあった。そこそこ有名で評判もいい本だったので、あるとき手にとって読んでみたが、そこに書かれていたのは非常に残念な内容だった。かなり以前に出版された本だし、世間には「と学会」の山本さんをはじめ、多くの批判言説があふれているので、いまさら私がどうこう言う価値はないのだけれども、「と学会」式のツッコミと私の「残念な感じ」はまた少し違うので、そのあたりをいまさらだけれど書いてみようと思う。

「空想科学読本」を食堂で読んだのはもう数年前のことになるけれども、その序文あたりで、どこかの大学の教授に読ませたら「夢がない」というような言葉をもらったと書かれていたように思う。私もこの意見と同じ感想を持った。検証内容に実に夢が無く、おしなべて非建設的なのだ。

ただまぁ、結局は娯楽番組を科学的に検証した内容の本なので、否定的な結論に落ち着くのもひとつの成果ではある。だけれども、この本に書かれていた内容は、「空想科学読本」というタイトルとは裏腹に、その矛盾指摘の根拠とされている理論が、科学理論的な制約ではなく、多分に工学的制約を用いている点もまた、非常に残念なのである。

例えば山本弘さんによるツッコミサイトを読んでも、空想科学読本の手法と同じ目線に降りて、その理論展開に誤りがあったり、見落としている科学理論があるから、むしろそちらに抵触するのではないか、というような論法で批判されている。でも私としては、科学論文でもない読み物なので、理論的な厳密性に突っ込むのはむしろ無粋だと思う。そうではなくて、空想科学読本には、「科学する」楽しさがないところに問題があるのだと思う。

科学の世界は、特に空想科学の世界は、空想科学読本が指摘するような「あれも無理、これも無理」というような窮屈な世界ではなく、「こうすればあれもできるし、こうすればこれもできるかもしれない」というような発想を受け入れる余地のある、非常に楽しい世界なのだ。ただ、現実の実験データはその信頼度の限界内で事実として受容するとか、従来の理論のうち、実験データを説明しきれない部分に限ってそれを「仮に」否定して理論を拡張するとか、科学には科学のお作法というものがある。

ニュートン力学は長い年月にわたり、多くの物理現象を高い精度で説明する美しい理論であったが、それでも観測技術の進歩により、水星の近日点移動などの一部現象に対しては、実験誤差の推論値を超えるほどの誤差が生じてしまい、理論の限界が指摘されるということが生じた。無論、多くの人はニュートンの運動方程式の正しさを知っていたが、その正しさを破壊しないように、なおかつその方程式を拡張する理論を追い求めていた。

それに対する答えの候補のひとつだったのが、アインシュタインの相対性理論だった。これは、ニュートンの力学より新しい理論であった電磁気学の方程式を認め、逆にニュートンがその理論のバックボーンに据えていたデカルト的な絶対座標という概念のほうを一旦放棄するという手順で、時間と空間自体のほうを相対的なものと考えて、方程式のほうを絶対普遍な基準としてしまうと、各種の実験データをうまく説明できるという仮説だった。この仮説から理論的に導かれるのが大きな天体による重力レンズ効果で光の起動が曲がるという現象で、この理論的な「予想」が実験的に観測されて実証されたことで、相対性理論はより強力な理論として認められるに至った。

現在では相対性理論は多くの実測データに裏付けられ、またディラック方程式のように量子論とも組み合わせられて、多くの実験条件の設定とデータの解析に不可欠かつ有効な理論として定着しているが、アインシュタインが論文を書いた時点では、すでにあった実験データをベースとしていたとはいえ、単なる仮説に過ぎなかった。そこにあったのは、目の前にある事象をまず認めることから始めて、既存の理論をうまく利用し、そして既存の理論の一部を意図的にぶち壊してみることで新しい理論を創造するという、非常にエキサイティングで、ある意味「とんでも」精神にあふれる活動だったように思う。

そして、「空想科学読本」にはそうしたエキサイティングな挑戦の精神が全く感じられないのである。目の前の事象をなんとか説明してやろうという挑戦の精神がまったく無く、既存の理論で目の前の事象を否定するという非建設的な作業に終始していて、そこが非常に残念だと思ったのである。ところが、一般読者の評判は「目からうろこ」というような感じで、おおむね好評なのである。しかし私が感じるところでは、空想科学読本の考察は「現時点での地球人類が持つ工学的限界」でもって無理だと結論しているに過ぎず、科学理論はそんな限界は示さないよ、などと考えてしまう。

SF作品の楽しいところは、既存の理論や最新の仮説をふんだんに利用しつつ、従来の理論や工学的あるいは技術的な限界の一部を積極的に無視することによって、現実的な限界を乗り越えて基本理論から推論される常識破りな結論を自由に導き出し、またその推論が成立する世界の中ではどのような事象が起こりうるかを想像をたくましくしてシミュレートしてしまうところにある。その表現は控えめな学術論文的なものを大きく超えて、臨場感あふれる舞台装置に反映する仮想現実感を作ってしまうところに、SF作品の醍醐味がある。

そしてゴジラやウルトラマンといった作品は、比較的厳密な科学的考証がされたハードSFではなく、SF的要素を持った娯楽作品なのだから、陳腐な工学的経験則を当てはめて「無理だ、ありえない」というのではなく、あえて作品中の現象を「観測事実」であると仮定し、そして現在知られている物理法則は基本的に認めて、なおかつ作品に登場するロボットや怪獣が現在の人類が持つ工業技術的限界にとらわれる必要は全くないのだから、そこは積極的に無視することで、いったいどのような方法によればそうしたものが可能なのかという仮説を色々と立てて検証してみることが、より建設的で健全な科学的態度だろうと思う。

空想科学読本では、例えばウルトラマンが両手を広げて超音速で飛行するとき、頭部で発生する衝撃波が腕に当たって腕が落ちるなどという考察をしているが、自身の発生する衝撃波が自身に再衝突すると破壊するという現象は、軽量化のために必要最小限の機械強度しか与えられない現実の航空機における材料的な制約を前提とした限界であり、これは「科学的限界」ではなく、あくまで「工学的限界」である。それも、出版時点より少し古い時点での限界に過ぎない。今頃米軍ではそんな限界をとっくに超えてしまっている可能性すらあるのだ。

科学的な限界は、物理法則が宇宙のほとんどの領域で遍く有効であるという哲学的な前提に立てば、たとえ人間の作る機械であっても、ウルトラマンや宇宙怪獣の体であっても従うべき法則と考えることになるが、例えばボーイング社が現在の技術で現実的なコストの範囲で作る航空機の技術的な制限を、宇宙のかなたからやってきた超人的生命体という仮定をされているウルトラマンの体に対して盲目的に適用して「無理だ」というのは、あまりにも杜撰で非建設的な検証と言わざるをえない。

ウルトラマンの体は、地球大気程度の流体が作る衝撃波がぶつかったとしても、腕がもげてしまわない程度に強度が高いと仮定し、あの重量でそれなりの強度を発現するための機構を、現在知られている物理学の範囲内で仮説を立てて論じるほうが、はるかに科学的で良い考察と言える。

地球上に存在する物質は基本的に全て原子核の周りを電子雲が取り巻く原子構造をとっており、原子間結合は電磁気力のみによっている。しかし、中性子星では物資は原子核にあるような核子を中心に構成されていると考えられており、その凝集力には電磁気力だけではなく「強い力」と呼ばれる核力も作用する。ウルトラマンは体表面の裏側にそうした核子物質からなる骨格をもっていると考えれば、原子からなる物質では到底実現できないような強度さえ実現可能性を持ってくる。もちろん、核子物質は原子物質より桁違いに密度が高いから、重くなり過ぎない骨格構造も仮定する必要がある。

または、ウルトラマンが超音速で飛行するときには空気を押しのけて飛行するので、必然的に衝撃波が発生するという想定自体が、常識にとらわれた誤った思い込みである可能性もある。ウルトラマンが飛び去ったあとに衝撃波の到着に伴う爆音が聞こえるような映像がないのであれば、ウルトラマンはたとえ超音速の対地速度で飛行しても、衝撃波を発生しないような仕組みを備えていると仮定してみることも有効だろう。

この場合に、具体的にいくつかの可能性を検証してみる。まず、現在人類が実現可能な超音速機は、ジェット推進またはロケット推進によって反作用を得て、機体で周囲の空気を切り裂くような飛び方しかできない。しかし、ウルトラマンの頭が直接周囲の空気に衝突するのではなく、周囲の空気を体の周囲に巻きつけるように動かすような、何らかの遠隔力をウルトラマンが発しているとすれば、ウルトラマンの頭部が大気に対して超音速で直接衝突するという現象を避けることができるから、衝撃波は発生しなくなる。となれば、ウルトラマンが飛び去った後に衝撃波の到着による爆音が聞かれないということも同時に説明可能となる。

飛行中のウルトラマンの周囲には、ジェット気流のように中心部ではウルトラマンの移動速度に近く、中心から周囲に遠ざかるにつれて徐々に遅くなるような層流を生じていると仮定してみる。すると、もしそうした層流がウルトラマンの飛行中に発生しているとしても、その流体速度分布が滑らかに変化しているとすれば、それは光学的には観測しにくくなるので、画面上では目に見えるような現象は観測されないはずであり、作品中の映像とも矛盾しなくなる。これがひとつの仮説である。

もうひとつの仮説としては、ウルトラマンの体は気流を通さないはずだ、という暗黙の仮定を疑ってみることも可能である。つまり、ウルトラマンの体には超音速の気流が衝突しているが、その大部分はウルトラマンの体の中をすり抜けている、ということも仮定することが出来る。なにしろ相手は宇宙人なのだ。地上の物質と同じ性質を持っているとの前提に縛られる必要はない。

少し比喩を使うと、ウルトラマンの体表面は微細なレベルではメッシュ状になっており、固体との衝突に対しては抗力を発生するが、空気のような流体に対しては抗力を発生せず、ウルトラマンの体内に侵入していくと仮定することにする。すると、超音速の気流がウルトラマンの体内を通過するときの減速が音速を超えなければ、単一面の衝撃波は発生しなくなる。なおかつ、気流とウルトラマンの衝突のエネルギーを、複雑な過程を通じて熱エネルギーのようなランダムなものに転換できるような構造をウルトラマンの体内が備えているとすれば、大気とウルトラマンの衝突によって発生するエネルギーは、爆音という形ではなくノイズのような拡散スペクトルの形で発生する可能性もある。

もしもそのようになっていれば、ウルトラマンが飛び去ったあとにはノイズ性の音にドップラーシフトを伴った「シューー」というような音が聞こえるはずである。しかし作品中ではそうした「観測事実」は得られていないから、この仮説は第一の仮説に比べると、やや現象の説明としては弱みをもっていることがわかる。もちろん、そのようなノイズ音が人間の可聴域である20kHz以下の領域ではなく超音波領域に分布しているようであれば、可聴域にノイズが観測されないとしても観測された現象には矛盾しないことになる。

こういうような感じに、目の前にある現象が理論に合わない場合には、現象のほうが間違っているはずだと騒ぐのではなく、目の前の現象が理論的に説明可能になるような仮説をいくつも提案し、その仮説が成立するならば同時に観測されると推論される現象、つまりは理論から帰結される「予想」が現象として観測可能かどうかという検証方法を適用することができる。こういう思考のほうが、空想科学読本の態度よりもはるかに建設的であるように思う。

そういう意味では、「と学会」のメンバーの一部が「トンデモ本」を批判する姿勢も、非建設的で目に余る場合がある。既存の科学的常識が絶対であって、その科学的常識の範疇から一歩も踏み出すことなく、「トンデモ本」が常識から逸脱している部分を微に入り細に入り執拗に批判しているだけで、読んでいて笑えるというよりも暗澹とした気分になってくるものがある。それよりも、「俺ならこんな仮説を立てるんだが」というような感じで、トンデモ本の著者とあえて同じ目線に立って遊んでみるほうが楽しそうである。

むしろ最先端の実験物理学が提供する観測データなどは、常識的に考えればありえないような不可思議なデータを多量に含んでいる。もちろんその中には実験の不備によって生じた適切でないデータも混ざってはいるが、複数グループによって追試が成功するような再現性のある信頼できるデータの中にも、やはり常識では説明しきれない不思議なものが残る。それを説明するためには、常識的発想や既存理論も積極的に疑ってみることも理論研究には必要とされる。これはまさにアインシュタインがニュートン力学を破壊せずに拡張した際の手法と同じであり、より建設的な科学的態度であるといえる。

もちろん、文字通りにウルトラマンやゴジラといった娯楽作品中の現象を実際に起きている現実と捉えるのは病的な解釈ではあるけれども、一見ありえないような現象でも、それを事実と捉えたうえでどこまで理論的に説明可能かを試してみるということは、科学的思考の訓練としては非常に有効なものとなる。しかも、無味乾燥な数値データについて検証するよりは、子供の頃に好んで見ていた娯楽作品のデータのほうが考えるのも楽しいし、そういった要素は訓練を楽しむためには重要な要素となる。これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かずなのである。

こうしたSF的思考をしてみる訓練は、なにも先端科学の理論的研究にだけ役立つというものではない。機械や電気やその他技術を使った一般的な工業製品の開発では、汎用的な理論は限定的にしか役に立たず、各論に適用できるような、こまごまとして雑多な理論を駆使していかなくてはならない。しかも、そうした理論は世界中の研究者がオープンな学会で発表しあいながら完成度を高めていくというものでは必ずしも無く、ある企業のある部署で、限られた人員とデータによって得られた、かなりの程度に不確かな理論を使う場面も多い。

そうした工業的な研究の場面でも、目の前に発生する不可思議な現象に対して、すでに知られている理論では説明しきれない場面というのはいくらでも発生する。そういう場合、まずは実験の不備を確かめてみるというのは健全な態度であるが、実験に不備がないと確かめられたならば、次は従来の理論を越える何かがそこに発生しており、手持ちの理論を拡張しなくてはならないという場面に直面する。ここで、ウルトラマンの衝撃波問題のときのような、頭をやわらかくして現象を説明するという訓練が有効に働くことになる。

たとえば、大型の貨物船を開発している場合を考えてみる。次世代の貨物船では、より高速化し、燃料消費は増やさず、なおかつ波の発生を抑えなくてはならないが、シミュレーションで設計した船体形状では、高速化と燃料消費は目標を達成するが、波の発生はどうしても大きくなってしまうという問題があるとしよう。

ここで、ウルトラマンの衝撃波問題で立てた第二仮説を応用してみることを考える。つまり、貨物船の船体が海水という流体を完全に押しのけるから波を発生してしまうのだと考え、海水が貨物船の船体を透過していき、その過程でエネルギーを分散し、大波ではなく小波や泡などの形で放出するという方式を考えてみる。

実は海水に対する衝突エネルギーを小波に転換するという手法はすでに存在していて、例えば漁船のような小型船舶の先頭部分にある段差は、船体が巻き上げた海水を横に飛ばしてしぶきにしてしまうことで、衝突波が大波ではなく泡や小波に分解されるようにしている。大型の貨物船では海水が巻き上がるような速度では航行できないからこうした手法は使えないが、喫水線を越えた海水を船体にいったん「飲み込む」ようにしてやり、その海水をジェットポンプで横方向に噴射してやれば、漁船のように大波のエネルギーを泡や小波にして海洋へ放出することが可能になる。

もちろんこれは単なる試論であって、こうした方法が積載量によって喫水線が大きく変化する貨物船で技術的に本当に実現可能なのかとか、コスト的にターゲット製品の予算に収まるのかとか、そういった現実論で検証する段階というものは必ず必要であり、そこでは空想科学読本にあるような批判的考察が有効となる。しかし、その段階で各論に落とし込んだ問題に否定的見解が出たとしても、そのレベルで再び解決策を模索し、小さな壁をひとつずつ乗り越えていくということもしないと、大きなブレークスルーを実現することは難しくなる。したがって、そこでも建設的な考察力というものが生きてくることになる。

楽観論だけでは失敗するが、悲観論だけでは大きな仕事はできない。両者のバランスが重要なのであり、そういう意味では空想科学読本に見られる「あれも無理、これも無理」というのは悲観的推論の例であり、科学技術の発展に必要な態度の一面は表していることになる。しかし、その限界を逆手にとって、否定的推論の前提となっているものをひとつひとつ潰していくことで、その限界を乗り越えていくような訓練も、同様に重要だということも忘れてはいけない。特に日本人は悲観的に考えがちな傾向が強いから、むしろ積極的に楽観的な考察をする訓練を積んだほうがいいように思う。繰り返すが、最終的には両者のバランスと使い分けが重要になる。

もしも若い人がSF的な作品を叩き台として科学的考察の訓練をするならば、悲観論よりは楽観論から始めて欲しいと思う。そういう意味において、空想科学読本はあまりにも夢がない。科学が夢を破壊していくよりは、科学が夢を現実に引き寄せてしまうような遊びかたのほうが、より楽しいじゃないかと思う。鉄腕アトムに刺激を受けてロボットを作ってしまうような技術者は、きっとそうした発想をして育ってきたのに違いない。開発現場の管理職ではなく教育者であるのならば、悲観的であるよりは楽観的である人のほうが、子供たちの目にはより魅力的に映るに違いない。
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by antonin | 2008-03-22 19:58 | Trackback | Comments(3)

RPGという娯楽

RPGとは"Role Playing Game"の略である、というのは、もはや説明も要らないような事柄だと思うのだけれども、たいていの人がRPGと聞いて思い浮かべるのは、DQとかFFとかそのあたりのゲーム、ということになるのではないかと思う。

私は10歳くらいから強度の中二病患者だったし、今もその後遺症に悩んでいるくらいなので、いわゆるガンダム世代なのにいわゆるガンプラはひとつも作ったことがなかったし、いわゆるファミコン世代なのにファミコンは買わずにキーボードの載ったマイコンを親にねだるような子供だったから、当然のようにRPGで遊びはしても、それがDQやFFであるというようなことは一度も無かった。

なのでDQやFFがどんなゲームなのかは伝聞でしか知らないのだけれども、およそのゲームシステムは私の知っているRPGと大差ないものだと思う。それは、ある主人公を操作し、最初にある程度のミッションが与えられていて、大まかな筋書きの中で経験値を上げながら敵を倒すなりなんなりしてミッションを達成する、というものになる。

ビデオゲームでいうところのRPGというのは大体こういう形になるのだろうけれども、もう少しその原点に近く、より根本的な姿をしているのがTTRPGだろうと思う。これも実際にプレーしたことはないので、学生時代に読んでいたゲーム雑誌なんかで誌上再現記事などによる伝聞でしか知らない。けれども、ゲームの元ネタとして世界観が与えられていて、そこにゲームマスターが適当なミッションやイベントを設定して、その中で生身の人間が役割を演じながら遊ぶという、文字通りのRole Playingが行われているという意味で、より本質的にRPGであると思う。

なんだか前置きが長くなったけれども、人間がこの手のRPGを「娯楽」として遊ぶことができるというのは、犬が芸を覚えるのが本質的に遊びであるというのに似て、社会的生物である人間の、かなり根幹的な部分に基づいているのではないかと思った、という話が今回の主題になる。なんだか似たような話しは昔からあって、全ての人間は人生という舞台の中で与えられた役を演じる俳優である、というような言葉も聞いたことがあるような気がする。

ともかく、人間というのは、ある役を与えられ、その役を演じきることが出来たときに、無上の喜びを抱く生き物なのではないかという気がしてきた。「自分探し」が流行していると言われて久しいけれども、結局のところこれは、「自分に合う『当たり役』探し」とでも言い換えることが出来るような気がする。エキストラの仕事ならたくさんあるが、結局それではエンドロールに名前を載せることすらできない。そこには喜びは無く、したがってより良い役を探すのは必定とも思える。

どんな役柄(Role)であっても、その役を演じる(Playing)ことで周囲から認められ、そのことで自身が成長し、新しいステップに達する喜びがあれば、人間はむしろそれを娯楽とさえ感じることができるようにできているのだと思う。そのような性質を持った人間であるのに、実社会の役割(Role)で活動(Playing)している実の人間が、喜びを失ってジョブチェンジを試みるというのは一体どのような状況なのだろうか。

ジョブチェンジを試みる人間に堪え性がないと嘆くのは簡単だけれども、そういう人間でもRPGの中で与えられた仮想的な役割を難なく演じ、与えられたミッションを次々にこなし、全てのミッションをクリアし、それでもなお飽き足らずにアイテムコンプリートやスピードクリアに挑戦したりしてしまうようなことさえ起こりうる。実社会のシステムが、人間の心を動かす仕組みとしての性能において、ビデオゲームよりも稚拙になってしまったところに問題があると考えたほうが、本気で問題に対策を立てる気があるとすれば、より合理的な事実解釈であるような気がする。

人間は本質的に、役割を上手に演じ、課題を解決し、経験を積んでより高度な課題に挑戦できるようになることを好む性質をもっていると考えられる。そうであるはずの人間が実社会の役割に背を向けているのだとすれば、経営者はゲームという良い手本を真似ることができるはずだし、ウサギ小屋に住むといわれた平社員がワーカホリックともモーレツ社員とも呼ばれた中毒的な仕事への献身を生んだ昭和日本のシステムという良い手本を真似ることができるはずだ。

ゲームの持つ、人間を好んで課題解決に向かわせようとする性質を参考にしようという言論は、過去にNB-Onlineかどこかで読んだような記憶がある。脳の快楽中枢に電極を埋め込まれたラットが、その電極に電気刺激を発生させるためのスイッチを狂ったように叩き続けるのに似て、優れた労働環境というのは、人間を労働に中毒的に熱中させる力をもっているように思う。

もちろん経験値アップを数値化して見せるのに給与を上げるというのは常套手段だが、職級をやたらと細かく区切って、その職級が一目で誰にでもわかるように帽子や制服に職位票を縫い付けるなど、やりようによっては給与によらずともそれを実現することはできる。かつて平社員が課長になったとたんに椅子にひじ掛けが付き、周囲の社員からの呼称が「課長」に変わるなどといった慣習は、多分にそうした「レベルアップ・ファンファーレ」効果を持っていたに違いない。

もちろん昭和の経済には、いろいろとその時代に固有の諸条件というものがあった。敗戦で日本は焼け野原になり、GHQによって財閥は解体され、スーパーインフレで貯蓄が破壊され、農地解放で地主が小型化した。そうした、「国民総レベル1」という特殊なスタート地点があり、さらにはベビーブームによる人口ボーナスが追加され、破壊されたインフラに資金を注入して資本効率を上昇させ、更には為替の変動相場制への移行などによるインフレーションなども伴って、給与の額面は放っておいても上昇を続けた。

ところが平成に入ってからは、そうした自然なインフレ条件が終息するとともに、共産圏の崩壊と資本経済圏への急激な組み込みに伴う労働対価の急激な下落や、共産主義がイデオロギー的に敗北したことによる、資本への抑圧が解けた結果としての新自由主義の台頭などで、給与の額面は減額せざるを得ない局面が続いた。

しかし、そうした条件下でも露骨な給与カットは行われず、叩きやすいところから叩き、生き残った部分が既得権益化するという、虫食い現象だけが進むことになった。公務員の福利厚生が手厚いというのも、民間企業の社員に対する福利厚生を強制する法律を制定した以上、法律遵守の優等生として公務員保護を手厚くして手本としていただけなのに、民間に法令を馬鹿正直に遵守する余力がなくなり、福利厚生が法の抜け穴からこぼれる砂のように瓦解していったのに対し、税金に保証されているためにこぼれ落ちることの無かった公務員保護だけが、結果的に浮き上がったような格好になってしまった。団塊ジュニアによる団塊叩きなども似たような構図になっている。

そのような状態でも、多数の自殺者を出しながらではあるけれども、企業はなんとか労働者をその影響下で雇用し続けている。けれども、雇用されるものの鬱憤は蓄積し続け、世間の気分は非常に悪化している。これに金銭で報いても、もはや回復可能な段階は遠くなってしまったようにも思う。ひとたび矛盾に気付いてしまった人間は、わずかな褒賞では満足しなくなる。こうなると人間は、相手に報復したと思えるような「賠償金」を手にするまでは満足できないような心理になるものだし、一般的な日本人の多くはすでにそういう心理になってしまっているように見える。

もし企業が本気で労働コストを削減しようとしており、なおかつ刹那的ではなく永続的な企業活動を続けようと本気で考えているならば、被雇用者に対して、金銭的価値ではない、心理的報酬を効果的に与える方法を本格的に研究する必要がある。本当に貧しい生活を知っている人間であれば、わずかな金銭にも貪欲になれるだろうが、日本人は不幸にもそこまで貧しく育っていない。金銭的なインセンティブには、おのずと限界がある。その限界に達する前に、企業自体が存続していけないほどのコストを必要とするだろう。

それならば、雇用者は少々の知恵を絞り、被雇用者が金銭的な契約の中で形だけ会社に隷属する関係ではなく、雇用者というゲームマスターが提供する、企業あるいは市場というゲームフィールドの中で、被雇用者が彼らに与えられた役割を嬉々として演じる、ロールプレイングゲームを幻出させることを工夫しなければならない。

これを字面だけ見れば、雇用者が被雇用者を騙して搾取するという構図に変わりがないように見えるが、もしこのシステムが理想的に働けば、被雇用者は仕事を遂行して自分を高めながら企業に利益をもたらすことに、中毒的な喜びを見出すことになる。これはかつての日本企業の姿に他ならない。

もちろん、人間の快楽中枢を刺激する各種の「依存症」が有害な面を持つのと同様、「会社依存症」もまた、家庭より会社を優先することによる悲劇や、社会利益より会社の利益を優先することによる悲劇などを生み出してきたことから、節度を持って使うべき劇薬に属するものであることは確かだろう。しかし、労働による苦悩から人間が死を選んでいるというような事態にあっては、また、人に仕事をさせないという余裕がないのであれば、仕事によって快楽という報酬が得られるような方法は、この場面では有効な処方であるように思える。

雇用する側にとっては、金銭的報酬は企業生命に関わるコストとなるが、精神的報酬なら低コスト、うまくやればタダみたいなものである。その一方で、被雇用者にとっては、いくら現金を積まれたところで買えないのが幸福であり、幸福とは即ち脳内にある快楽中枢への安定した刺激に他ならない。ここで両者の利害は一致するはずだが、日本の現状ではそういう構造を持っている企業は少ない。

トヨタという、半期で1兆円にも上る営業利益を上げる企業があるが、その社員が特段裕福であるという話は聞かないし、それでもトヨタの社員から特段の不平不満は聞こえてこない。もちろん、季節労働や出入り業者に対する「乾いた雑巾を絞る」エグさは聞こえてくるものの、それはもっぱら外野からの声でしかない。そこには、ストップウォッチで工員の一挙手一投足を数値化して無駄を省く「トヨタ生産システム」が、陰に働いているように思える。

業務効率化のための小集団活動というのは、現場職員の自主性に任せるという原則を素朴に捉えて、目標設定から評価まで勝手にやらせて、最終発表の上手だったチームに飲み代程度の金一封を与えるという「聞き伝え小集団活動」をやられてしまうと、現場としては余計な仕事を増やされるばかりか、通常業務に余計な「ニセカイゼン」が仕込まれて、却って仕事がしにくくなったりする。ここでもし本当に正しく改善活動が行われた場合には、ストップウォッチを持った監視役が自分たちの作業タイムを計測するのでさえ、その数値を見続けているうちに、ニンテンドーDSで流行したトレーニングゲームや紅白対抗運動会のような、自然な競争意識が刺激される楽しさが出てくるようになるものだ。

トヨタはこのあたりを実はうまく運用しているのではないかと考えている。実際にトヨタの工場では、技能を積んだ熟練工が他工場へ指導役として派遣されたり、最終的には指導役の指導役として教官職になったりする仕組みが存在するらしい。ワーカーがマイスターになり、マイスターがグランドマイスターになる、というのも非常にRPG的である。

もしも、私の知っているRPGの要素が社員のモチベーションアップにも有効であるとすれば、またそれに相当するものを「日本的株式会社」が持っていたとすれば、次のような特徴があるだろう。

・成果を上げなくてはレベルアップしないが、大きな成果を上げる手もあれば、地道に小さな成果を積み上げていく方法もある。

・どんなに細かいレベルアップも、数値などのわかりやすい指標で明示される。

・レベルアップに早い遅いはあるが、一度アップしたレベルは大きくレベルダウンしない。

・低レベルのうちは行動の選択肢が非常に限られるが、レベルアップするに従って選択の自由が拡大する。

・プレイヤーのレベルは内外に明示され、レベルアップは本業とは別に副次的なこまごまとしたメリットをもたらす。

・ミッションを外れそうな行為には警告が発せられ、それでも違反を続けると「ゲームオーバー」となり、経験値は一部を除き破棄される。

こんなあたりだろうか。職務の継続的遂行における、こうした「娯楽性」の根源をカットした末に社員の不満があるとするならば、企業を傾けてしまうような社員の腐敗を防ぐような配慮はしたうえで、上記のようなRPG的要素を切り捨てすぎていないかを再点検する価値は高いように思う。人間は結局のところ幸せで充実した日常を過ごしたいだけであって、年収は一定線を越えればあとは見栄にしか寄与しない。

もちろん、見栄の強い人間が私財蓄積に奔走するのは勝手だが、そういう見栄は必ず他人の嫉妬を買うというトレードオフも覚悟する必要がある。派遣業で別荘にベントレーやマイバッハやフェラーリを並べていたベンチャー上がりの社長も、今では社を追われてしまった。これはある意味人間社会では必定なのだろうと思う。

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とまぁ、ここまで勢いで書いてしまって、誰に向かって書いているのかわからなくなった。お前はプレジデントの記者か。まぁいい。

ゲームに学ぶモチベーションの高め方の記事がどこかにあったと思い、検索で探していたら、目的のページは発見できなかったが、ついでに面白いものを見つけた。

漫画で学ぶ 派遣会社搾取問題 再チャレンジ支援税制 就職氷河期問題 派遣社員問題 フリーター問題

あまりに身も蓋もないような内容ではあるのだけれども、売れた漫画のコマを借りると不思議に笑えてしまうのが笑えた。

ただ、二重の笑いのうち、外側の笑いはともかく、内側の笑いが怒りではなく笑いとできたのが、自分は就職氷河期と言ってもまだその序盤で、大学院も出ていない理工系学生であっても学校推薦に身を任せてさえいれば、希望は通らなくとも一部上場企業の正社員程度にはありつけたという部分があったからかもしれない。まぁ、その後の軌道修正には10年掛かったし、その過程では三途の川のほとりまでは行ってしまったわけだけれども。

よくうつ病から回復した人が、「うつ病になって良かった」というようなことをマスメディアで告白しているのだけれども、あれはうつ病患者の気持ちがわかるようになったという程度には同意できるが、「ガンになって良かった」とか「刑務所に入れられてみて良かった」とか「戦争で戦友や家族を失って命のありがたみがわかった」というのに似て、ならないで済むならそれに越したことはないが、なってしまった以上は自分を納得させる物語が必要、という程度のものでしかないように思う。うつ病に罹患した経験のない者が、ああ良かったね、と思うのは、おそらく間違いだろう。

まぁこれと同じような文章を誰かが書いて、そしてそれを誰かが読んで、数十年後の社会が幾分マシになれば、我々も少しは浮かぶ瀬もあるというものだ。報酬はその程度でいい。多くは望んでいない。
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by antonin | 2008-03-16 03:04 | Trackback | Comments(7)

昔々、あるところに

昔々、あるところに、ウサギとカメがおりました。

ウサギは足の速いのが自慢で、足ののろいカメにこう言いました。
「もしもしカメよ、カメさんよ、どうしてお前さんはそんなに歩くのが遅いのか」
するとカメはこう答えました。
「何をおっしゃるウサギさん、それならあちらの山のてっぺんまで、私と駆け比べをしてみようじゃありませんか」
するとウサギは
「何を馬鹿なことを言うか、そんなものは、おれが勝つに決まっているじゃないか」
「まぁそうは言っても、勝負事というのは、やってみないとわかりませんよ」
「そうまでいうなら仕方がない、それなら競争だ」
といって、一目散に山のほうへ駆けていきました。

ウサギも意地がありますから、カメ相手というのも忘れて、あっという間に山のてっぺんへたどり着いてしまいました。
それからしばらく待っていましたが、カメは一向にやってきません。
やがて日も傾き、風も冷たくなってきました。
たまらずウサギは山を降りて里へ向かいました。

ウサギが山を降りていくと、途中の沼のへりで、なんとさっきのカメが寝ているではありませんか。
「おいおいカメさんよ、あんた自分から駆け比べだなんぞと言っておいて、途中で居眠りしているとは何事だ」
「いやいや、これは失礼、なんとも眠くなったもんでね」
「とにかくおれは山のてっぺんまで着いたのだから、この勝負はおれの勝ちだぞ」
「いやいや、さすがにウサギさんの足は速い。これは参った」
「それじゃあ勝負は付いた、里へ戻るぞ」
「いやいや、もう寒くなってきたからな、私はここで春まで寝ることにしますよ」
「なんだってカメさんよ、おれぁとんだ馬鹿を見たよ、参ったね」
「失礼失礼、それじゃまた来年」
「また来年」

ウサギは里へ走って帰りましたとさ。
めでたし、めでたし。

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子供が寝床でうるさいので、適当に昔話を聞かせてやることがあるが、私個人の性格的な問題もあって素直な昔話を聞かせるということも出来ず、こういう変な話を捏造して聞かせている。

「昔々、あるところに…」という枕のあとに、勢いで「お兄さんとお姉さんが住んでいました」と言ってしまい、引っ込みが付かずに、お兄さんが光る竹から小さなおばあさんを見つけて拾ってきて、そのおばあさんが大変知恵があっていろんな人から譲って欲しいといわれる話だとかを捏造したこともあった。

コドモたちは適当に聞いていて、特に正統な昔話と区別無く面白がって聞いているが、将来的にどのような影響が出るかについては未検証である。まぁたいした影響はないだろう。

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今日の異口同音:
洗浄の狼」(538件)
洗浄の絆」(1040件)

・・・意外と多いな。

煽情の狼」(5件)
扇状の狼」(1件)

こっちのほうが少ないのか。
なつかしいな、「扇状地」という単語が。
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by antonin | 2008-03-11 23:39 | Trackback | Comments(10)

自由意志と決定論

以下はメモ書きです。

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『自由意志と決定論は両立しうるか?』

「決定論」とは:
未来は過去の状態から一意に定まる

言い換えると:
「宇宙の法則」と「現在の宇宙の状態」から「未来の宇宙の状態」が一意に決定可能

言い換えると:
「未来の宇宙の状態」は同時に複数を取りえない

言い換えると:
「絶対時間tにおける宇宙の状態」は、「宇宙の法則」と「宇宙の初期状態」と「独立変数t」により一意に定まる関数で表される

言い換えると:
Ut = f(U0, t) と表される。ここでUtは時刻tにおける宇宙の状態(全宇宙の状態を一意に記述できる情報)、tはt>0を満たす宇宙の絶対時間、U0は絶対時間t = 0における宇宙の状態、f()は初期状態と時刻から一意に定まる関数

言い換えると:
あるU0 = Cを共有し、一連の時刻tに依存する関数f(U0, t)を「ある特定の宇宙の歴史」とすると、U0は定数CなのでUt = fc(t)と表される

要約すると:
私の住む宇宙が決定論的であるとは、ある時刻における私たちの宇宙の全状態をパラメータtによってfc(t)と一意に記述できるということ


「自由意志」とは:
意思が自由であること

「自由」とは:
Aの状態がBの状態に全く影響を及ぼされないとき、「AはBから自由である」とする

「意思」とは:
判断の主体?
意識?
ではなく
現状を認識し、決定を下すもの

言い換えると:
外部の情報を読み取り、内部に持つ記憶に照らし合わせ、一定の法則にしたがって決断を下すシステム

言い換えると:
ある時刻tにおいて外部状態Etと内部状態Itから決断Dt+1 = f(Et, It)を求める関数


「自由意志」とは:
AがBの影響を受けずに決定を下すこと。

Aとは:
人間の意思

「人間の意思」とは:
人間の内部状態Itと関数fの組

Bとは:
神?
他の人間の意思?
「宇宙の法則」?

A=「コンピュータ」、B=「何か」とおくと、
「自由意志」とは:
「コンピュータ」の出力が「何か」の影響を受けない。

一般的なコンピュータの模式図:
b0004933_22524978.gif


コンピュータの意思は自由か:
入力と記憶が一意に定まれば、出力は一意に定まる
→「コンピュータ(の演算回路)」は「(入力と記憶に対して)自由ではない」

コンピュータの意思は自由か:
出力は入力の影響を受けるが、一意に定まらない
→「コンピュータ(の演算回路と記憶)」は「(入力に対して)自由ではない」
だが
→コンピュータの出力は入力によって一意に定まらない

「自由」とは:
自らをもって由(よし)とする

言い換えると:
内部状態に基づいて出力を決定する

言い換えると:
内部状態「のみ」に基づいて出力を決定する?
外部入力と内部入力の双方にもとづいて出力を決定する?

「自由意志」とは:
外部の影響を受けずに決定する?

言い換えると:
状況を無視して決定すること?

ではなく

「自由意志」とは:
外部の影響だけでは決定しないこと

言い換えると:
「意思」の主体の内部状態(記憶)によって決定(出力)が影響を受けること

言い換えると:
決定が外部入力の影響は受けても、同時に内部状態の影響も受けるため、外部入力によって決定が一意に定まらないこと

言い換えると:
内部状態(記憶)を持つコンピュータは自由意志を持つ

限定すると:
押しボタン式のオン・オフ スイッチは、同じ「押す」という入力に対し、内部状態が「オン」であれば「オフ」を決定し、内部状態が「オフ」であれば「オン」を決定できるという意味において、最も原始的な自由意志を持つ

「自由」とは(再定義):
Bの状態が一意に定まってもAの状態が一意に定まらないとき、「AはBから自由である」とする

コンピュータを除く外部状態を含めた模式図:
b0004933_23382031.gif


記憶とは:
内部にあり、出力により書き換え可能な情報
かつ
その一部を入力として利用できる

環境とは:
外部にあり、出力により書き換え可能な情報
かつ
その一部を入力として利用できる

記憶と環境の本質的な差とは:
演算と一体であるかどうか

自己とは:
演算と記憶が一体となったもの

他者とは:
演算と記憶が一体となったもの
かつ
自己ではないもの

環境とは:
他者の総体

言い換えると:
環境とは他者の演算と記憶の総体

「自由意志を持つ」とは:
自己の意思が他者の意思から自由である

言い換えると:
他者の出力によって自己の出力を一意に定めることができない

言い換えると:
自己の出力によってのみ、自己の記憶を書き換えることができる

言い換えると:
記憶が外部から隠蔽されている


「決定論」とは:
「宇宙の法則」と「現在の宇宙の状態」から「未来の宇宙の状態」が一意に決定可能

言い換えると:
私の住む宇宙が決定論的であるとは、ある時刻における私たちの宇宙の全状態をパラメータtによってfc(t)と一意に記述できるということ

言い換えると:
絶対時間tにおける世界の状態UtがUt = (Et, It) = fc(t)と記述できる

言い換えると:
絶対時間tにおける自己の出力d(Et-1, It-1) = d(fc(t-1))と記述できる

言い換えると:
自己の意思は絶対時間tによって一意に定まる

言い換えると:
絶対時間tから自由な意思は存在しない

ただし

絶対時間tにおける自己の出力d(Et-1, It-1)は記憶It-1を引数に持つ関数であるので、外部状態Et-1から一意に定まる関数d(Et-1)として表すことはできない

言い換えると:
宇宙内部の環境に存在する他者の意思から自由な自己の意思は存在しうる

したがって

決定論的宇宙では、絶対時間tから自由な意思は存在しえないが、決定論的宇宙内部の環境条件から自由な局所的自由意志は存在しうる


決定論的ではない宇宙では?

決定論的ではない宇宙とは:
宇宙の状態は、過去の宇宙の状態によって一意に定めることができない

言い換えると:
宇宙の状態が一意に定まるとすれば、過去の宇宙の状態と宇宙の外部から与えられる入力によって宇宙の状態が一意に定まる

宇宙の外部からの入力とは:
量子の統計的性質?
神はさいころを振り給う?
→わからない

決定論的でない宇宙とは:
宇宙の状態は過去の宇宙の状態と、宇宙の外部からの入力により一意に定まる

決定論的ではない宇宙での自由意志とは:
宇宙の内部にある他者に対する自由意志は存在しうる
宇宙の外部からの入力に対する自由意志は?

宇宙の外部からの入力に対する自由意志とは:
自己の意思が宇宙の外部からの入力から自由である

言い換えると:
宇宙の外部からの入力によって自己の出力を一意に定めることができない

言い換えると:
自己の出力によってのみ、自己の記憶を書き換えることができる

言い換えると:
記憶が宇宙の外部からの入力から隠蔽されている

しかし
自己の記憶は自己の出力と宇宙の外部の入力によって書き換えられる

言い換えると:
宇宙の外部からの入力によって自己の記憶と外部状態が一意に定まる場合は、宇宙の外部からの入力に対して自由な意思は存在しえない

言い換えると:
自己の出力が自己の記憶と外部状態に影響する限りにおいては、宇宙の外部からの入力に対して自由な意思は存在しうる


絶対時間tからの自由意志は:
宇宙の外部からの入力が絶対時間tによって一意に定まるのであれば、絶対時間tから自由な意思は存在しえないが、それ以外から自由な意思は存在しうる

宇宙の外部からの入力が絶対時間によって一意に定まらないのであれば、絶対時間tも含めた全てから自由な意思が存在しうる


結論:
宇宙が決定論的であろうとなかろうと、自己の中に隠蔽された内部状態に影響を受けて出力する関数は、自由意志を持ちうる

言い換えると:
宇宙が決定論的であるとしても、自己を含めた宇宙の状態を一意に定めるのは絶対時間tというパラメータのみであり、宇宙内部での自己と他者の関係における自己決定性では「自由意思」の存在可能性に関して違いはない

限定すると:
運命に身を委ねて迷わないのも、自己判断を信じて思考するのも、信仰という内部状態と目の前の外部状況から出力を決断するという意味において、どちらも等しく自由意志である

別の限定をすると:
アポロンとアテナがどのように人間に干渉しようとも、ヘクトルとアキレウスの意思には一定の自由が残されている。
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by antonin | 2008-03-05 00:36 | Trackback | Comments(0)

エサを与えないでください

タイトルに意味はありません。

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「笑いは副作用のない薬です」などと、CMが言っている。それを聞いて、いやいや、笑いにだって探せば副作用があるはずだ、笑いすぎてオナラが出てしまったら、それは副作用と認定可能なのではないか、などと考え出してしまうのは、アマノジャクな人間のいつものクセである。こういうのは、決して「批判的精神」とか「懐疑的態度」とは呼ばない。アマノジャクで十分だ。

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"gachupin"という単語が存在することを最近知って衝撃を受ける。征服民族の末裔だったのか、ガチャピン。

被征服民族であり、毛むくじゃらであったことから差別的扱いを受け続けてきたムックの祖先たち。末裔がどのようなスポーツも軽くこなしてしまうことからも明らかなとおりの、驚異的身体能力に恃んで異民族を蹂躙したガチャピンの祖先たち。そんな陰惨な歴史を持つ彼らが、手に手を携えてラテンアメリカから自由の国アメリカに移住し、かつて蔑みの意味を伴った「ガチュピン」を「ガチャピン」と英語読みにして愉快な愛称に変えてしまった。そんな彼らが極東の島国で子供たちを魅了し続ける。

そういったストーリーが無駄に想像された。無駄すぎる。

--

無駄すぎる。ムダスギル。므다수길。こう書いてみると、なんだか朝鮮語みたいだ。

関係ないが、朝鮮語ではア(아)とイ(이)がくっついてエ(애)という音になる。なので、二重母音のアとイも自動的にくっついてしまって、エの音になってしまう。なので、現代("Hyundai")という単語も、朝鮮語ではヒョンデ(혁대)になるらしい。

日本語も似たようなところはあって、エーとかオーとかいう長母音や、ユーとかヨーといった、朝鮮語で言う半母音の長母音に対して、「えい」とか「あう」とか「いう」とか「えう」という二重母音表記を使ってきた。だから「てふてふ」はチョーチョーと読む。この表記のせいで日本人はA(エイ)とかJ(ジェイ)といった二重母音を発音する習慣が無く、エーとかジェーと発音してきた。O(オウ)をオーと読むことが問題となるということは、日本人には非常に理解しづらいものがある。

実は英語やドイツ語にだって似たようなところはあって、euという表記を英語ではユーと読むことが多いし、ドイツではほぼオイと読む。EU統一通貨のEuroも、ドイツじゃ「オイロ」らしい。ヨーロッパ人はラテン文字を共有しつつも、各言語で適当に読みたいように読んできた歴史が長いためか、このあたりの違いには非常に鷹揚であるように見える。日本でも金大中をキンダイチュウと読んでいた時代のほうが自然だったように思える。

東京あたりでは「あい」や「おい」と書いてエーと読む習慣があるのかないのか、「大きい」という意味の単語である「でかい」をデケーと発音するし、「凄い」をスゲー、「強い」をツエーと言ってみたりする。「弱い」はヨエーというが、WAIの-AIが-E~に変化したのだとすれば、ワ行のWE~に相当するはずなので、ヨヱーとするのが正しいのかもしれない。「お前、超よゑーよ」

無駄すぎる。考察として無駄すぎる。

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今日の異口同音:「郵政からの物体X」(170件)

郵便局が民営化してしまって、謎のゆうパックが届いたときにこのネタが使えなくなってしまったことに、いまさら気付いた。どうだっていいのだけれども。
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by antonin | 2008-03-03 00:43 | Trackback | Comments(2)


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